楽聖ベートーベンが少年時代に親元を離れ単身、音楽の都ウィーンへと渡り、当時、都にその名を轟かせていたアマデウス・モーツァルトに弟子入りしたことは有名な話である。この二人の天才の出会いは後生の人々にとって大いに世俗的な関心を呼ぶことになるが、しかし、二人の間にドラマチックな出来事は少なくむしろ淡々とした師弟関係に終始している。音楽的な反目があったようだが、モーツァルトはベートーベンにさほど関心を抱かなかったと言われている。唯一、他の弟子に対してベートーベンのことを、この男は全世界の注目を浴びるだろう、と言ったとされている。
ある夜。ウィーンにて。
出会いがいつだったかは正確にはわからない。ここは晩であったということにしよう。劇的な効果としては雷鳴、そして大風。雨がたたきつける石畳の道を馬車が走っていく。雨よけのコートを着た男は身をかがめながら馬に鞭を入れる。
馬車が集合住宅の前で止まる。馬車の中から一人の男が出てくる。左手に何か厚みのあるものを抱え、身をかがめて小走りで建物の中に駆け込んでいく。
この当時、平均的な収入を持つ集合住宅の二階にアマデウスは妻とともに住んでいた。アマデウスのいる部屋に向かい階段を上っていく男が少年時代のベートーベンである。
タ・タ・タ・ターン
特徴のある一定のリズム。アマデウス・モーツァルトの部屋のドアをノックする音。後に運命の動機と呼ばれる有名なリズムがもう芽生えていたということだろうか。
蝋燭一本の放つ光を手がかりに楽譜にペンを走らせていた。目の下にはくまができていて、陰影のせいか頬がこけて見え、まるで朝までに確実に死体の仲間入りをしそうな風体である。彼にとって、ドアをノックする音はまるで死を宣告にきた死神の代理人。外は風雨が荒れ狂い建物にぶつかって不気味なうなり声の合奏を奏でている。この状況に、このリズム、ドアの外に経っている人間が花束を持ったにこやかな紳士とはとても思えない。喪服のような黒い服装をしていればぴったりだし、さらに大きな鎌を肩にかけていたらものすごくぴったりだ。木製のドアからは相変わらず脅迫的な調子でタ・タ・タ・ターンというリズムが根気よく続く。そのリズムに音を当てはめて見よ、天才君。ハ短調でやってみたまえ。
アマデウスは死相を浮かべて立ち上がる。とりつかれた人間にはとりつかれた者のみのセオリーがあるようだ。危険と知りつつドアに向かうアマデウス。踏み出す一歩一歩が、死に近づいているのだから、その夜、世界で誰よりも一番重たい一歩を歩んでいたに違いない。右手がドアのノブを回す。ドアの向こうにある者を直視する勇気がなかったのか、徐々に開いていくドアの後ろに隠れるようにしている。
ぎぃぃぃぃぃぃぃ。
大多数の人間の生理が喜ばないであろう音を立てながら少しずつ開くドア。
そして、ドアの向こうの者はアマデウスの存在に気づいているのか、部屋の中へと足を踏み入れる。アマデウスは恐怖に引きつった表情でドアの下からそっと自分の足を伸ばす。伸ばした足は部屋に入ってきた足に引っかかり、停まった足の反動で侵入者の胴体は床に向かって勢いよく倒れ込む。
ドターン。
おそらく階下の住人にも一人分の体重を壁一枚隔てて、充分に感覚できる音量と音質だったろう。部屋の床に両手足を伸びきった姿勢で男が倒れている。とっさに手を使うというのができなくて、つまり反射神経の反応がなくて、そのまま顔は床に勢い良く直撃した。しばらく床に密着して、もしかしたら床の一部になってしまったんだろうかと心配し始めた頃、ようやく動き始める。ピンで刺された蜘蛛のように手足だけひくひく動いていたが、やがて重心を移し関節を使って手足を折り畳みながら立った。
このとき二人の天才は対面した。起きあがってきた者は鼻の穴から血を垂らしていた。倒れた拍子に彼の手から放たればらまかれた楽譜が無秩序に折り重なっている。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ。」
けたたましい下品な笑い声。平均的な男性より1オクターブ高い笑い声。神経質な人間には耐えられない音量、音質であるだろう。アマデウス・モーツァルトの笑い声は、その優雅な音楽からは想像できないほど、下品だったのである。実は彼の笑い声は当時、彼を寵愛していたオーストリア皇帝もあれだけは勘弁してくれ、と言っていたほどである。
アマデウスは先天的にモラルが欠乏していたようだ。先天的に、というのは彼は厳格なモラリストの父から、アマデウスもそうなるように教育されてきたにも関わらず、ということ。もし、部屋に入ってくる者が神、と分かっていても、彼は足を伸ばして神を転がして笑ったことだろう。先天的アナーキストともいうべき資質を持った人間らしい。
鼻血を出して立っているベートーベン。鼻血という余計な装飾を抜きにしても、彼は折り紙付きのブ男だった。皮膚は少年らしい光を良く反射する肌ではあったし、赤みを帯びた頬は本来であれば人々に初々しい印象を与えるはずのものなのに。顔つきがブルドック、動物にたとえるなら。激怒するベーブルース、野球選手にたとえるなら。ニクソンがフルシチョフに孕ませた子供、政治家にたとえるなら。顔に関する負の要素を並べれば大抵の要素はヒットしそうな顔。一方のアマデウスは優雅な顔立ちをした美男子だったし、彼も自分の容姿には自信を持っていたから、こういうブ男に対しては一切の他の条件を排除して先天的、本能的に優越感を感じることができるのだね。
生まれてこの方、一回も笑ったことがないような不機嫌そうな顔をしている。口がへの字に曲がり頑固を頑丈に重ね塗りしたような顔立ち。天の高みから見下ろすような気分で、この若者に対する野次馬的な興味がアマデウスを支配しはじめる。
ベートーベンはアマデウスを無愛想な顔で一瞥すると、腰をかがめて部屋に散らばった楽譜をかき集め始めた。アマデウスは何事もなかったように平静な様子で、部屋のランプに灯をともし、それまで楽譜を書いていた机の蝋燭をふっと息で消し椅子に座った。そして、ちょっと皮肉っぽい目をしながら言った。
「ねえ、君。何しに来たの。まさか僕の部屋で自分の体でも音楽を奏でることができることを見せに来たんじゃないよね。」
自分の叩いた軽口に例の高音の笑い声。生野菜にはドレッシング、焼き芋にはバター、欠かすことにはできない効果の添え物。
かき集めた楽譜をアマデウスに手渡し、パン粉を喉にまぶしたようなかすれ声で一言だけ「これを」と言った。
不機嫌そうな顔をした少年から放たれた言葉は、意外にも少年らしい少し高めの声だった。それは放たれる言葉一つ一つに濁点を付けたくなるような低音ではなかった。
生気で顔をつやつやにしてアマデウスは無言で楽譜を受け取った。そして、楽譜をぱらぱら捲り始めた。楽譜を顔の前に掲げて顔の表情を隠すアマデウス。ときどき楽譜を少し下げて、楽譜を持ってきた若者の表情を窺う。若者の顔は下を向いている。しきりに右手の甲で鼻をこすっていて、甲が赤黒くなっている。
「君。洗面台で顔を洗ってきたまえ。洗面台は出て右。そっち。そう、そっち。で、君、名前はなんていうんだい?」
じゃぶじゃぶじゃぶ。ぶぅーーーーっ。じゃぶじゃぶじゃぶ。
水の音、鼻をかむ音。水と人間の生理とが洗面台の上で溶け合って生々しい和音。
さて、楽譜を見るアマデウス、頭の中で音を再生する。最初の一頁を再生して、バンと音を立てて楽譜を閉じる。駄目だな、こりゃ。今まで自分に楽譜を持ち込んできたどの者よりも優れているわけでもなく、また劣っているわけでもなかった。ていうくらいだから天才の黎明期も凡人とあまり変わらない、ということらしい。どうやって作曲家への道を断念させた方がいいかな、人生相談を生業にしている人風に頭の中の引き出しを開け閉めして算段を始める。お節介かもしれないが前途のある若者のためだよ。
命の洗面台から帰ってきたベートーベンは光っていた。いや、水が滴っているから光っていたのも事実だが、表情も光っていたし、顔を洗うのと同時に顔にこびりついていた負の要素も洗い流してしまったみたいに。まるで別人だった。可愛い、っていう言葉がこれほど似合う男だとは思わなかった。くしゃくしゃの巻き毛も不潔な印象を与えることなく、むしろちょっとパンクっぽい危うさが加わって妖しくなるし、母性本能をくすぐって女性達はうふーんと鼻から大量の息を吐きながら身をよじる始めるかもしれない。
「僕の名はルードヴィッヒ・ベートーベンと言います。ボンから来ました。どうしょうか? 先生。」
ふん、先生ときたか。でも駄目なものは駄目なんだ。無言の罵声の中には、てかてかに輝いている生気のまばゆい少年への嫌悪感も含んでいるようだ。罵声を押し殺して、むしろわざとらしいくらいの優しさを込めて、
「ふーーん、ボンからね。で、ルードヴィッヒ、君のお母さんはどうしてるの。」
期待と不安の間を言ったり来たり感情のジェットコースターで目眩を起こしそうなところへアマデウスの的を外した回答。若者は戸惑い言葉に詰まっている。
「国の母さんはどうしているのかな。お母さんに苦労をかけてはいけないよ。これは音楽家とかそういう以前に神様から万人に課せられた責務と理解しているし、君もそういうもんだと理解してもらいたいんだ。僕が何を言いたいか分かるかい?」
可愛いベートーベン君はアマデウスの真意を測りかねて曖昧にうなずく。
「つまりね。音楽家っていうのは僕みたいに貴族のお抱えになるまでは貧乏だってことでね、楽な生活はできないんだ。それよりも堅実に生きていく方法はいくらでもある。経済的な後ろ盾がなければ音楽の勉強すらできない。お金はかかるけれども収入は保証されない。君は一向に世に認められない。君のような人間はごまんといるんだ。その中で努力して名声を得て、貴族の保護を得るためには時間もかかるしお金も沢山かかるんだ。君は親元を離れてきたんだろう? ね。親御さんはきっと心配だと思うよ。」
アマデウスの言葉を不安げな表情で聞いていたベートーベン君、出口を求めるマグマのように顔のあちこちに不機嫌がぷすぷすと吹き上げてくる。小刻みに体を震わせながら、注意していないとアマデウスの耳にたどり着く前に墜落してしまいそうな小さなかすれ声で言う。
「先生、それは音楽が金と時間のある貴族の遊びというように仰っているのですか? 僕はそういう考えに反対です。皆のものです。僕は....」
手を挙げてベートーベン君の加熱した言葉に火傷をしないように冷たくさえぎった。
「あ、そう。そうことだったら君、革命家になったらどう?」
少年らしい打算のない期待から失望へ、理想的な音楽の夢から現実への落下が見て取れる。アマデウスは哀れなベートーベン君に楽譜を返した。
非常に切り出しそうに、でも体内から絞り出すように
「あの。僕の音楽はどうだったんですか?」
少し意地の悪い間をコップに水を注ぎながら作る。ゆったりと椅子にもたれて水を飲みながら、
「そうね、君のね。良くできてるんじゃないかな。君と君の先生との合作なんだろう。隠したって駄目だよ。君みたいな訪問者は今までに数えれば切りがないほどあってね。そのどれもが綺麗な装飾を一杯つけているけど、この曲には魂がないんだ。」
アマデウスの最後の「魂」という言葉にベートーベン君は感電したようだ。目に異様な決意めいたものが浮かんできて、内気な印象の下に隠れている野性的な挑戦的な性格が透けて見えてきた。
なかなか諦めて踵を返して部屋を出ていかないので、アマデウスは少しじれてきたようだ。どうやったらすぐ出ていってくれるかな、その一点に考えは集中していた。人生相談役としては少し性急な性格かもしれない。
アマデウスは弟子入りを断念させる方法の最終兵器を、いつも懐の中に忍ばせている。それは甘ったるい幻想にふやけて切っている思考にとって、最も切れ味の鋭い危険な凶器かもしれない。音楽はスポーツのように点数によって実力の差を測ることができない。到底、正気の沙汰とは思えない思いこみで実力をはき違えた者は多く存在する。実力を測定するための伝統的な定規として、アマデウスが用意していたのはピアノの即興演奏。彼はそれで自分を測られてきたし、また他人もそれで測ってきた。全くの自由に弾かせるとということは、最も得意なものをしろ、と言っているようなものなので、実力測定方法としては不十分。むしろ制約の中でジタバタしながら自分を主張する、というのは抑制のきいたバランスの良い実力測定方法と言える。
目の前にしている少年にそれを要求するには、技術は明らかに未熟だし経験もない、しかし、しょうがないね。自分の理屈のために道義を外しているかもしれないし、思考停止気味の強引さがあるけれど、壁にぼあっと浮かんだ世間のしかめっ面を横目に、彼は既に決行した。
ふぅっと大きな溜息を付いて、アマデウスは椅子から重々しく立ち上がった。部屋の奥の壁に寄り添っているピアノに向かった。ベートーベンはこのときピアノに向かうアマデウスの横顔にはっとした。軽薄な落ち着きのない態度とは何か違う、まさに横顔。何か侵さざる聖的な要素があるように感じた。アマデウスはしかしピアノの椅子には腰掛けず、ベートーベンの方を向きながら立ったまま相手を値踏みするような目つきで、右手を鍵盤にのばした。ハ長調でありながら、しかしそれは単純な旋律ではなくF#やA♭を含んだ微妙なニュアンスを含んだ、ともすればト長調や変ホ長調へ気移りする誘惑を織り交ぜた繊細な旋律だった。4拍子のアレグレットで4小説分。
「今、弾いた4小節のモチーフを好きに展開してみたまえ。さあ、先生、どうぞ。」
アマデウスはピアノ椅子を引いて、ベートーベンに腰掛けるように促した。
アマデウスが弾いた4小節は、そのままでは1コーラスにはならない。まずベートーベンはこのたった4小節を16小節に拡大して、1つの完結した塊にする必要がある。例えばたった今、アマデウスが奏でた4小節をAとすると、A、A’、B、Aというように。A’はAによく似た4小節、BはAとは趣の違う4小節、そしてAの反復という起承転結の1つの物語。そして、拡張された1つの塊を今度は変奏曲として、動機を踏襲しながら、そして聴く者を飽きさせないように展開しなくてはならない。アマデウスはいっぱしの音楽にするために二重の殻のついた卵を落とした訳だ。ベートーベンも子供とはいえ一角の音楽家だったから二重の殻を突き破る雛なんだって本能的に理解した。そして、決して自信が後押ししていた訳ではないのだけれども、ピアノに向けてゆっくりと歩いていった。
彼は弾いた。不思議にピアノの前の彼はアマデウスの存在に気圧されることなく弾いた。心臓の音を耳で知覚しながら、彼はアマデウスの旋律を16小節に拡大した。奇抜なところのない平均点レベルの演奏だったかもしれない。曲者の半音階は思うように処理できなかったかもしれない。しかし、この難事業をまずやり遂げたルードヴィッヒ・ベートーベンは次第に普段、自分に課している練習そのままの運指で弾き始める。即興というものは普段の練習している姿を露出させてしまう。手癖が丸出しになり裸にされてしまう。後に「悪魔の手を持つ男」と呼ばれるピアノ名手の芽は、このとき既に芽生え始めていたようだ。9度の音程を跨ぐ指、右手が16分連符で左手が3連音符というような複合リズム。アマデウスにとって、それはごつごつした未完の技術で、他人から注目を集めたいという心理が働いているのを察知していたころだろう。と同時に、自分と同じ先天的アナーキズムを、自分とは音楽的に向かう方向が決定的に違うということを嗅ぎ分けていたのではないか。
外の雷を模写したような変奏になってきた頃、アマデウスは立ち上がり、パンパンと手を叩き大声で演奏を制した。あくびをかみ殺しながら、うんざり、という顔で。
「もういい。それで十分。」
クライマックスを遮断された不機嫌さはなく、血を抜かれた上に体中の色素を抜かれたような顔をしてベートーベンはアマデウスの方を向いた。目や口がついているのにのっぺらぼうみたいだ、そうアマデウスは思った。吹き出しそうになるのをこらえながら、あか抜けない少年に親しみすら感じていた。
アマデウスは思いがけなくにっこり笑った。親しみやすいお人好しの笑顔で。
「国のお母さんや先生にこう伝えておくれ。ルードヴィッヒ・ベートーベンはアマデウス・モーツァルトに正式に認められた数少ない弟子の一人だってね。」
単刀直入にそれだけ言うと伸びをしながらあくびをした。
「僕はまだ仕事があるのでね、あさって、午後に来てくれるかな。」
「あの、何か持っていくものはありますか?」
「いや、手ぶらでいいよ。」
「じゃあ、今日はおいとまします。」
「うん、お休み。」
「お休みなさい。」
感動的な文句は何一つなく事務的に会話が進められていき、ベートーベンは部屋を後にした。
そして、アマデウスは椅子に座り再び、某貴族から依頼を受けていた楽譜にペンを走らせ始めた。ワインのボトルをラッパ飲みし、そしてぶつぶつ独り言を言いながら。
これは何も語っていない。
というのも最初から何かを語る目的で書いているものではないからね。