「モーツァルト」〜ショート・ショート〜



 譜面の最後のページは、まだ白紙だった。ペンを握る力す
ら、もう残っていないのだ。
 だが、死に瀕した彼の頭の中には、すでに荘厳な宗教曲が
鳴り響いていた。
「もう一息だ。数時間あれば、この曲は完成する。……お
お、神様、お願いです。一晩だけ猶予を下さい」
 ウォルフガングは、窓際の粗末なベッドに横たわり、自作
レクイエムの最後の一枚を弱々しく振りかざして、涙ながら
に訴えた。
 宵から襲ってきた季節はずれの嵐が、窓を烈しく叩いてい
る。ウォルフガングの哀願は、風と雨の音に、むなしくかき
消された。
 ——死臭ただようベッドの横に、三角の覆面をしたマント
の男が二人立っていた。二人ともびしょ濡れで、目ばかりら
んらんと光っている。
 枕元には、かつて神童と称された音楽家の、直筆の楽譜が
散らばっていた。


 そして、その朝、ウォルフガングは死んだ——。


 一夜にして嵐は過ぎた。
「すると、このレクイエムの注文主は、わからず終いか」
 遺作となった楽譜の束を手にして、男爵が言った。
「そうなんです。ただね、今朝、死ぬ間際に、モーツァルト
先生は言ってました。その曲は冥界からの依頼で、お使いの
男が二人、催促に来たんですって。この世のものと思えない
声で、おまえ自身の鎮魂曲なんだから、今すぐ仕上げるよう
にって——。二人とも、頭巾のような黒い覆面をかぶってい
たらしいです」
 実は、高熱にうなされたモーツァルト先生の幻覚に決まっ
てるんですけどね——と、死を看取った最後の弟子は、興味
なさそうな口調でつけ加えた。
「本当のところは、フリーメイスンが結社の儀式用に作曲を
頼んでたんだという噂です。二人組の覆面男というのも、そ
この使い走りですよ、きっと」
「いや、君」
 男爵は怖い顔で、厳しく遮った。
「それを言ってはいかん。たとえ、そうであったとしても
だ、いつの時でも真実がベストとは限らんぞ。ウォルフガン
グ・アマデウス・モーツァルトといえば、わがオーストリア
の誇りだ。ここはやはり、最初に君が言った通りの説にして
おこうじゃないか。いいね。——死期の近づいたモーツァル
トに、壮大なレクイエムの督促という形で、あの嵐の中を、
あの世から無言の迎えが来たのだ。……ううむ。偉大なるモ
ーツァルトの終末を飾るにふさわしい、いかにも神秘的な逸
話だ。やはり天才というものはどこか違う。このエピソード
は、楽聖モーツァルトの名とともに、後世に残るに違いない」
 音楽好きの男爵は、感動にふるえた声で言い、満足そうに
頷いた。弟子の呆れ顔には、気づきもしなかった。


「やっと覆面が乾いた。やれやれ、ひどい嵐だった」
 髭面の男が、相棒に言った。
「それにしても、あの音楽家の部屋には、金目のものがなか
ったなあ」
「うん、哀れなほどだった。あれなら俺たちのほうが、まだ
ましというもんだ。モーツァルトといえば、ウィーンで一番
有名な作曲家だろ? 莫大な現金があると思ったんだがな
あ……。この次は、銀行家の邸に忍び込むとするか」
                  (終)