深泥ヶ池・幽霊事件
その深夜……。
京都の洛北、深泥ヶ池のほとりに、はじめてそばの屋台が
出た。商売には不向きな寂しい場所なのに、近くに住む学生
たちが、物珍しげに集まってきた。
まさか、これほど繁盛するとは思わなかった。麺もスープ
も売り切れた。二人前を残しておいたのは、自分たちの夜食
にするつもりなのだ。
「悪いねえ、学生さん。今夜が初日だったもんでね。明日は
もっと数を用意しとくから」
客を断る始末だった。
残念がる学生たちの声が遠ざかると、瘠せた三十半ばの男
が、真新しい前かけをほどきながら、
「なんとまあ、こんなに受けるとはなあ。予想以上で面食ら
ったぜ、へッヘッ」
嬉しそうに、四十がらみの相棒を振り返った。どことなく
面差しが似ている。どうやら本当の兄弟らしい。
兄貴は、うんざり顔だった。
「なに言ってやがる」
と、はずした前かけを屋台に叩きつけた。したこともない
洗い物を手伝わされていたのだ。
「なあ、面白いもんだろ、張り合いがあって。兄貴もどうだ
い、映画作りなんて金を食うばっかりじゃねえか。いいかげ
んに目を覚ましてさ、俺と一緒に店をやらねえか」
肩を並べて、弟も岸辺に立った。
そば職人としての、弟の腕は一流だった。ことに、この七
年は、本場の信州から北陸、東北地方にかけて修行を重ね、
腕に磨きをかけてきている。
「明日の晩は、そうだな——」
弟は、仕入れの数量を素早く計算した。
「この天気なら、もっと稼げるぜ。うん、倍にはなる」
「ばかやろう。わざわざ客を集めてどうするんだ。おまえ、
ここで本格的にそば屋を開業するつもりか」
「あ、いや……。そんなこたあねえよ」
白い月が、深泥ヶ池のさざ波に砕け散っている。静かな夜
だった。
池の向こう岸は道路だが、車はとうに絶えた。
「ちっ。よりによって、なんであんなところに建てやがった
んだ」
兄貴が、吐き捨てるように言った。
二人の男が、悪態をつき、恨めしそうに眺めているのは、
水際に建てられた、こじんまりした別荘だった。深い葦と萱
の中に柱を立て、その別荘は、釣殿みたいに優雅に建ってい
た。
装飾のない青白い壁に、水面で砕けた月あかりが、ユラユ
ラと幻想的に踊っている。
どうみても、生活の場ではない。どうやら画家がアトリエ
として使用しているようだ。
池に面して、採光のための大きな窓が開いている。内部が
窺えた。若い男が一人、画架に向かって一心不乱に絵筆を動
かしている。
「なあ、おい。他には誰もいないようだぜ。いっそ——」
持ち前の短気を起こして、弟がささやいた。凶悪な口調だ
った。
「だめだ。荒っぽい仕事はごめんだ」
「なにも血を流そうと言ってるわけじゃねえよ。ちょっと脅
かして、床下を掘る間だけ、おとなしくしていてもらえばい
いんだ」
「だめだと言ったろう。後に尾を引くようなやり方じゃ、こ
のさき何年も枕を高くして寝られやしない。……なあに、七
年も待ったんだ。あと数日を焦ることはない。俺も頑張って
どんぶりを洗うさ」
おのれに言い聞かせるような口調だった。
——数日前のことである。兄弟は実に久しぶりに、京都に
舞い戻った。
京都駅で落ち合っても、再会の感動などはない。情愛どこ
ろか、疑惑のまなざしで、お互いの表情を窺ったものだっ
た。
「とにかく、現地に行ってみるか。作業は夜になる。今のう
ちに下見しておこう」
「お、おう」
観光客を装って、タクシーで深泥ヶ池に行った。運転手に
聞かれては具合が悪い。車内で二人は、一言も口をきかなか
った。それぞれ胸の内で、分配した金の使いみちを考え、楽
しんでいた。
ところが……。
記憶のままの深泥ヶ池のほとりに立って、
「うわあっ」
危うく卒倒するところだった。
岸辺の肝心の場所に、なんと、別荘が建っているではない
か。
逆上した弟は、兄貴の胸ぐらをつかんだ。
「ここは宅地開発されねえ、心配いらねえと言ったろう。だ
からこそ俺はじっと辛抱して、今日を楽しみにしてきたん
だ。それなのに何だ、あの別荘は。話が違うじゃねえか」
「待て。とにかく手を放せ」
混乱から立ち直るのは、さすがに兄貴のほうが早かった。
即座に考えた作戦を、弟に説明する。
「いいか。ここは有名な深泥ヶ池、それがミソだ」
「そりゃ七年前にも聞いた。それがどうした」
「おまえ、噂を聞いたことはないか。ここはな、夏には幽霊
が出ると評判の場所なんだよ」
「夏だと? ふん、そんなに待てるか。まだ五月だ」
「なあに、気の早い幽霊だっていようじゃないか。ふふ、さ
っそく明日から出てもらおう」
兄貴が含み笑いした。
二人は別れて、それぞれ準備に奔走した。弟は指示に従っ
て、そばの屋台一式を借り、兄貴は小型の映写機とバッテリ
ーを調達してきた。さらに、髪の長い女性モデルを雇い、白
い着物を着せてフィルムにおさめた。これだけのことを、二
日でしてのけている。
計画はこうだった。客が引いたら、屋台に隠した映写機で
幽霊の姿を映す。若い画家が怯えて逃げ出すのを待とうとい
うのだ。いかにも映画屋らしい、ロマンチックな発想だった。
「——だけどよ、あんな葦にちゃんと映るのか」
「あれだけ密生してりゃ、立派なスクリーンになる。立体感
があって、リアルだぜ。もしだめなら、ほれ、あの立札だ」
「魚釣り禁止のか」
水の中に「魚釣り・昆虫採集禁止」の大きな立札が立って
いる。
「そうだ。あの板に映す。まあ、専門家にまかせとけ」
「よし。人目もなくなったことだし、今から試してみようじ
ゃねえか。……おい、兄貴よ。奴がいねえ。見えなくなった
ぞ」
ふと目を離した隙に、窓から画家の姿が消えた。
「ちくしょう。トイレにでも行ったか。あいつが一晩だけで
も外泊してくれりゃ、こんな苦労はいらねえのによ。——う
わっ」
弟は腰を抜かした。
「あんた、い、いつの間に……」
「あのう、そばを下さい。天ぷらをのせて」
ひ弱そうな画家が、屋台の腰かけに座っていた。
兄弟は顔を見合わせた。驚いた。葦に気をとられていたせ
いだ。
動揺した兄貴は、断ろうとした。
「悪いが、今夜は売り切れ——」
「いや、あるよ。ちょうど一食分残ってるんだ。あんた、運
がよかったよ」
弟が、とっさに言った。
夜食分を出すことにした。そばを茹でながら、弟がしきり
に目配せする。殺気があった。
(今ならやれるぜ。誰も見ていねえ。やろう)
しかし、兄貴は、うんと言わない。
熱いそばができた。若者は、天ぷらを箸で沈めて、実にう
まそうに食べた。
「兄さん。あそこの人だね。絵描きさんかい」
「はい」
「一晩中、描いてるんだねえ。ここから見えるんだよ。ほ
ら」
「ああ、そうですね」
「いつからあそこに? 一人暮らしかい」
「一人です。もう二年になります。……体が冷えてたから、
おいしかった。ごちそうさま」
最後の一滴まですすった若者は、分厚い茶色の財布を出
し、勘定を払って帰って行った。もの静かな客だった。
「なあ。財布を見たかよ、兄貴。あいつ、えらい金持ちだ
ぜ。どうせなら、ついでに——」
「欲を出すな。命とりになる。ここが正念場だぞ」
話は、七年前にさかのぼる……。
「どうするんだよ、兄貴。こんなもの持って、逃げられやし
ねえ」
目を血走らせた弟が、後部座席を顎で示して言った。
車の中には、六千万円を詰め込んだ鞄が転がっている。北
山通りの大型スーパーに侵入し、首尾よく盗んで来たのだ。
週末の売上金だから額も大きい。
ところが、さあ逃げようという時に、警備システムに引っ
かかった。緊急配備が敷かれ、今頃、主要道路はすでに封鎖
されているに決まっている。
「びくびくするな。俺の計画した仕事だぜ。あらゆる事態は
検討ずみだ」
シナリオは、すべて兄貴が書いた。
当時、弟は、東京の場末のそば屋でくすぶっていた。朝か
ら晩まで粉にまみれて、ぶつぶつ不満ばかり呟いていたもの
だ。
兄貴は、ちっぽけなビデオ制作会社で、陳腐なAVを専門
に撮っていた。女優のヌードも見飽きた。
(こんな生ぐさい仕事、いつまでやってりゃいいんだ。も
う、うんざりだ)
兄弟そろって、惨めで、悶々としていたのだ。
二人は東京から、たびたび下見に来て、京都のこの辺の地
理は、頭に叩き込んでいる。
兄貴は、レンタカーを深泥ヶ池のほとりに停めた。水辺に
近い、葦の根を掘って鞄を埋めた。札束を水浸しにしてはな
らない。防水には気をつけた。汚れた黒い服も脱いで埋め、
用意のスーツに着替える。
「こんなところに埋めて、だいじょうぶだろうな」
慣れぬネクタイを締めながら、弟は不安を隠さなかった。
「まあな。深泥ヶ池だからこそ安全なんだ」
兄貴は、ほくそ笑んだ。子供の頃から物知りの兄貴に、弟
は今でも反論できない。
兄貴の説明によれば、深泥ヶ池というのは、
「珍しい古代の水生植物が残ってるんだとさ。それで国の天
然記念物に指定されている」
のだそうな。昆虫や動植物の捕獲・採集はもちろん、魚釣
りさえ禁止されているのだそうだ。
「じゃあ、この池の周辺は、開発もされねえってことか」
「そうとも。だからよ、何年でも埋めておけるんだ」
そう言って兄貴は、頼もしげに胸を張ったものだった。
案の定、二人の車は、市内で検問にあっている。だが、背
広にネクタイという身なりの二人連れを疑う警官はいなかっ
た。
「いいか。あの金のことは忘れていろ。ほとぼりが冷めるま
でな。掘り出すのは七年後だ。何があっても手を出すなよ」
「おう。兄貴こそな。裏切るんじゃねえぞ」
互いに不信感をあらわにしながら、兄弟は京都駅で別れた
のだ……。
さて、幽霊作戦だが——。
二日目の夜に、さっそく効果があらわれた。宵の口から、
別荘の窓が暗いままだった。そばも売り切れ、客足が途絶え
た。遅い時間になっても、若い画家が戻って来た気配はなか
った。
「やつが逃げたらしい。よし、決行するぞ」
「おう」
ささやき合い、屋台のあかりを消した。
あたりに注意を払いながら、道具を持って、別荘に忍び寄
る。窓からそっと室内を窺った。やはり、人の気配はなかっ
た。埃っぽい、冷たい印象の部屋である。まるで生活臭が感
じられなかった。
(兄貴)
(よし)
目と目で頷き合う。
高床式の建物である。兄弟は靴を濡らして、床下にもぐり
込んだ。
記憶をもとに、場所の見当をつける。この七年間、一日も
思わない日はなかった埋蔵場所である。二人の胸の鼓動が高
まった。
泥はやわらかいが、葦の根が何重にも絡み合っている。掘
るのに予想外の時間がかかった。いつ画家が帰って来るかわ
かったものではない。手を休めるゆとりはなかった。
二人とも、手も顔も泥まみれで、どちらが兄でどちらが弟
かわからなくなった。
白々と夜が明けて、池の端の道路をトラックが走り始めた
頃に、
「あ、兄貴。あった、あったぞ」
ついに弟が歓声を上げた。
「見せてみろ。おい、よこせったら。——水は沁み込んでな
いか」
「なんともねえよ。埋めた時のまんまだ。ありがてえ。運が
向いてきやがったぜェ」
何度となく夢に出てきた、大金の入った鞄を取り戻したの
だ。二人は泥だらけの手で、狂ったように、くるんでおいた
ビニール袋と油紙を引きちぎった。
ところが……。
夢見ごこちで屋台まで戻って来た時、
「こらっ、こんなところで何をしてるんだ!」
「…………!」
泥で汚れた兄弟の顔から、サッと血の気が引いた。怯えた
表情の女と、それに警官が二人待ち受けていた。
すべては職務質問で明らかになってしまう。兄弟は、がっ
くりと崩れ落ちた。大事な鞄を、屋台の中に隠すひまもなか
った。
早朝、池に花束を捧げに来た中年女性に不審がられ、通報
されたのだ。
「命日? あんたの息子の?」
二年前の冬、ここにスケッチに来て、過って冷たい池に落
ちて亡くなったのだそうな。
(お、おい、まさか)
背すじが、ゾッとした。人相や特徴を、詳しく聞いてみ
た。予感は的中した。まさしく、あの若い画家だった。
「体が冷えてたから、おいしかった」
昨夜、そばを食べ終えた若者の、幸福そうな顔が甦った。
「そ、それは」
母親の手にある茶色の財布に、目が吸い寄せられた。あの
若者が、そば代を払った時の財布ではないか!
「あの子のものなんです。向こうの世界で、もしや困ってい
やしないか、と——」
命日のたびに、たっぷり膨らませて持って来てやるのだと
いう。
兄弟は、同じ恐怖に襲われていた。
「兄貴よ」
「お、おう」
二人の唇が、わなわなとふるえた。
「い、いいか。いいな」
励まし合って、恐る恐る振り返った。
「ひえっ!」
兄弟の体が、一瞬にして凍りついた。
別荘などは、どこにもなかった。夢中になって掘り散らし
た、泥と葦の根の痕跡だけが、水辺にあった。
密生した葦の陰で、絵筆を持った若者が、
「今夜もそばを下さいね」
と、ささやきかけているような気がした。
(終)