偏差値の廃止について
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 文部省が、業者テストを公教育から追放せよという通達を出すやいなや、鶴の一声よろしく、予定していたテストを早速取り止めた気のはやい学校が、僕たちの周囲でも続出している。まるで、戦時中、軍国主義者として君臨していた連中が、戦争に負けた途端に、いかにもものの分かった民主主義者の仮面を被って居座り、取り巻き連は、その無節操さを非難することなく、相変わらず平身低頭し寵愛を得ようと汲々した様の再現を見る思いがする。確かに歴史は繰り返すものらしい。

 それが役職に就いた教師・・校長や、教頭といった手合だけなら、未だ茶番だといって笑って済ますこともできよう。彼らは、もともと、教育者というよりは、管理者であり、
彼らの精神構造は、飼い主と一体になることを自らの存在理由と考える番犬にも似ている。だから、彼らが、ご主人たる文部省の命令を実行するのに躊躇したり、ましてや反対したりすることなどあり得ないからである。しかし、実際に子供たちに接しているはずの現場の教師までも、何ら精神的な危機感に襲われず、平然とこうした成り行きを受入れようとしているとすれば、笑うどころか、うすら寒さを通り越して、ほとんど、恐怖すら感じてしまうと言ったら大袈裟に聞こえるだろうか。

 というのは、偏差値が、従来の教育の根幹をなしていたのはまぎれもない事実であり、それを廃止してしまうことは、従来の教育そのものを全面的に否定することになるからである。それは、教師にとっては、文部省から、「君達が今やっている教育は間違っている。」とばかり、教育者失格の宣告を受けたようなものである。しかも、それに代わる何らかの具体的方針が、表面上示されているわけでもないのだ。十分な理由がなくて非難されれば、誰でも怒るのが当然である。にもかかわらず、誰も怒っているようには見えないし、そうかといって、非難に対して反省している様子もない。彼らは、日頃、偏差値は、子供たちを指導するための「必要悪」だと言い張り、業者テストに加担し、自らの手を汚すのは、子供たちのことを思えばこそであると弁解してしてきた。しかし、たかだか、一通の通達くらいで無くなってしまうくらいなら、「必要悪」でも何でもなかったことになる。つまり、彼らは、何の信念もなく、偏差値で子供たちをどやしつけてきたに過ぎないということになってしまう。いずれにせよ、教育が子供たちのためのものであり、教師たちの目が子供たちの方を向いていれば、文部省の意向はどうあれ、十分に検討することなくこんな「掌を返す」ような事態が唐突に受け入れられたはずはない。


 その結果、子供たちや、父兄は、何だか訳が分からないまま、不安に駆り立てられ恐慌状態に陥っている。業者テストは、経費の増加を理由に値上げされ、父兄は、試験会場を確保するために身銭を切り、果ては、偏差値をより精度の高いものにしようと参加者を、業者に代わって勧誘するというようなバカバカしい事態すら起こっている。しかし、不安を解消するような満足な説明が何らなされていないていない以上、そうした愚かしさを笑ってすますことはできない。教育界全体は、もはや、人を指導するどころか、説得しようとする意欲まで失ってしまったらしいのである。

 もっとも、こうした状況の中で、特に、三年生を受け持った現場の教師たちが、子供たちを、無事、高校へ送り込むための判断材料をどこに求めたらよいのか途方に暮れ、右往左往していることは事実である。彼らは、何とかして、偏差値に代わる別の物差しを手に入れようと躍起になり、そのための手段として、業者を介しない「統一テスト」の実施を
実現しようと、文部省に「懇願」しているし、父兄も、それどころか子供たちも、そうし
た動きに加担しようとしている。しかし、受験生であったり、受験生の担任であってみれば、取り合えず今まで通りのやり方でこの場を乗り切ろうとするのは当然であって、それが十分な配慮のもとになされていると考えることはできない。つまり、こうした行動は単なる「緊急非難」のようなものと考えればよいのであって、教師たちは、文部省のやり方に怒っているわけではないし、反抗しているわけでもないことは言うまでもあるまい。

 実際、個々の教師は、今、文部省の通達をどのように判断し、今後、文部省の通達とどのように関わっていこうと考えているのだろう。それを知るためには、彼らが偏差値を、どのように考えているかが問われねばならない。しかし、新聞などを眺める限り、そうした問題提起が、教師たちの間で十分なされているようには思われない。それどころか、相変わらず、偏差値に恋々としている様子から判断すると、恐らく、彼らは、「子供たちを成績に基づいて管理しようとするのが教育である」という信念を変えようとはしていないし、業者テストの廃止は、そのための便利な手段を取り上げられたくらいにしか思っていないと考えても誤りあるまい。「まあ、何とかなるだろう。仮に、進路指導に失敗があっても、責任を取らなければならないのは、我々ではない、文部省なのだ。」こんなふうに考えて、居直ってしまっているのが実情に近いのではないだろうか。とすれば、単なる「ことなかれ主義」で、初めから、責任を回避しようとしている以上、精神的な危機感など感じるはずもないし、もちろん、問題を解決できるはずもないことは明らかだ。

 もちろん、こう言ったからといって、僕は偏差値教育を弁護したいと思っているわけではない。それどころか、偏差値教育の弊害は、現場で子供を教えている以上、嫌でも思い知らされてきた。偏差値教育が子供たちの世界を信じがたいまでに荒廃させてきたことは言うまでもない。それどころか、恐らく、偏差値的な考え方は、教育以外の世界にも浸透し、「偏差値社会」を作り上げ、日本人全体をすっかり蝕み、どうしようもなく駄目にしてしまっているという説にも全面的に同意してもよいと考えているくらいである。にもかかわらず、僕は、文部省の決定を素直に喜び、拍手喝采する気分にはなれそうにない。しかし、それは、教師たちとは、全く別の理由からである。

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 果たして、業者テストをやめれば、偏差値教育が姿を消してしまうほど、偏差値教育は根の浅いものだったのだろうか。そんなことで偏差値教育がなくなると考えたとすれば、それは余りに楽観的に過ぎるのではないだろうか。
 週刊誌は、相変わらず、競って大学合格者名を、差別的な形式で発表しあっているし、どこそこの高校から東大に何人合格したかということが、大新聞の社会面で堂々と取り扱われ、受験生やその父兄だけではなく、受験には直接関係のない多くの人々もそうした記事に強い関心を持っているのが現状である。こうした状況が変わらない限り、業者テストは廃止されても、それに代わる別の偏差値・・・子供たちを序列化する手段・・・は新たに生み出されずにはいないだろう。

 本当の改革が行われるのは、偏差値教育の弊害に誰もが耐えられなくなったとき以外にはない。子供たちが業者テストをボイコットし、教師が子供たちを序列的に評価することを拒絶したとき、偏差値教育は終焉するのである。しかし、現実はまさにその逆の様相を呈していた。テスト業者は我が世の春を謳歌し、教師たちも、テスト業者の社員かと思われるほど、偏差値万能主義に肩入れしていた真っ直中で、突然、偏差値の廃止が宣言されたのである。しかし、文部省の通達にもかかわらず、教師も父兄も偏差値が本当に廃止されたと思っていないし、子供たちの多くも、偏差値から解放されたとは考えていない。一旦、出来上がってしまった現実は、たかだか一つの通達で解体してしまうほどチャチなものではない。ましてや「憎まれっ子、世にはばかる」の例え通り、好ましくない現実の生命力は強靱なのである。


 実際、問題は、業者テストではなくて、人間を序列化しようとする意識そのものにある。言い換えれば、人間を序列化して管理しようとする意志と、それを安易に受け入れてしまう精神的風土が無くならない限り、偏差値教育はなくなるはずもないのだ。

偏差値教育が作り上げた学歴社会によって恩恵を受けている人々は多い。彼らは、学歴社会が崩壊することを望まないだろうし、文部省も、そうした現実に手を触れようと考えているわけではないことは注目に値する。とすれば、偏差値教育は、形を変え、むしろより陰湿な形で実行されることになることは疑いない。中途半端な改革案は、例え、それが善意から出たものであろうと、事態を一層、悪化させずにはいないのである。そして、恐らく文部省の有能な役人も、そんなことは十分に理解しているはずである。とすれば、通達の背後には、何か別の目的がなければならない。
 
 上からの改革が、人々のためになされたことはない。それは、常に上の者が自らの勢力を温存するためのものであったことは歴史の示す通りである
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 文部省は、なぜ、今になってこんな通達を出したのだろうか。偏差値教育の弊害は、既に識者によって、以前から十分に指摘されていたにもかかわらず、文部省は、そうした弊害を排除するために何ら有効な手を打とうとはしなかったし、それどころか、事態を黙認することで、偏差値による完璧なピラミッド型の学歴社会の建設を押し進めてきた当事者ですらあったのだ。現場の教師は、テスト業者のために問題を作成し、子供たちを強制的に参加させ、採点し、謝礼を受け取るというような公務員服務規定に公然と違反するような行動をとっても、有能であるとか、教育熱心だとという理由で賞賛されることはあっても処罰されることはなかったのである。

 では、文部省は、自らの誤りに気付いたのだろうか。通達は、業者テストの廃止の理由を、偏差値万能主義の行き過ぎを是正するためであると説明している。しかし、行き過ぎなら、自粛すればよいので、徹底的に排除する必要がないことは言うまでもあるまい。こう考えれば、文部省の真意が全く別のところにあることは明らかであろう。
 
 文部省が重い腰を上げ、このような決断を尤もらしさを装いながらせざるを得なかったのは、偏差値教育の弊害に、今更、気付いたからではない。彼らは、弊害があることは十分に分かっていた。にもかかわらず、そうした傾向を、むしろ助長するように対処してきたのは、弊害にまさる利点があったからである。偏差値は子供たちを管理するためには、極めて便利な道具であったし、その結果、生み出された学歴社会は、管理する側の人間にとっては、極めてコントロールし易い社会であった。「分断して統治せよ」という支配の論理からすれば、好ましいのは個々人が、自分以外の人間を全て競争相手と見做し、団結しようという意識や、連帯しようとする意識を抑圧してしまうような社会である。偏差値による序列化は、それを、自由な能力主義の美名の下に、容易に実現したのである。

 偏差値は何よりも比較のための道具である。相手を出し抜かなければ、偏差値を高めることはできない。始終、繰り返されるテストによって、子供たちは疑心暗鬼に陥り、いがみ合い、他人と結び付こうという意欲を自ら放棄してしまった。こうなれば、子供たちを管理するのは容易であった。偏差値をはじき出し、叱咤激励すれば、それで十分だったのだ。だから、もし、状況に何の変化も無ければ、どんなに非難があろうと、文部省を動かすことは出来なかったに違いない。

 しかし、状況は一変した。子供の数が激減してしまったのである。つまり、強制的に子供たちに試験を受けさせ、遮二無二ふるい分けをすればこと足りる古きよき時代は、完全に終焉したのである。それは、学歴社会どころか、教育そのものを崩壊させてしまうような状況を生み出すかもしれない。文部省は、嫌でも、自分が破局の崖っ淵に立っていることを認めないわけにはいかなくなったのである。

 例えば、偏差値教育のランク付けは、子供たちに極めて人気の無い学校を相当数作り出してしまっている。今までは、そんな学校も、子供たちの数が多かったために、辛うじて体面を保てる程度には生徒を集めることが出来た。しかし、これからはそんなわけにはいかなくなる。受験者が皆無というような学校が現れないとも限らなくなってしまったのである。事実、現在ですら、そうした傾向は、定員不足という形で現れ始めている。二次募集しても、定員割れというような事態も頻繁に起こっている。もちろん、全ての学校の定員を生徒数に合わせて削減し、員数を合わせようとはするだろう。しかし、そうしたとしても、潰れる学校が数多く出ることは疑いない。なぜなら、そんな学校を卒業したとしても何ら役に立つわけでもなく、それどころか卒業したために社会的に差別されなばならないとすれば、どうしてそんな学校に入学し、卒業する必要があろう。現在、高校中退の圧倒的多数が、こんな学校に集中していることは、そうした予測が妥当なものであることを示している。こう言うと、あるいは、時代の要求に応えることのできない学校は、潰せばよいと思われるかもしれない。しかし、ことはそれほど簡単ではない。

 人気のある学校は、必ずしも社会にとって有用な学校ではないし、人気のない学校が社会にとって有用でないなどとはいえないのである。例えば、多くの有用な実業高は、今のまま放置すれば、やがて消滅してしまうことは目に見えている。技術大国どころの話ではない。そうなれば、現場に直接携わる労働者や技術者の質は、凄まじいまでに低下してしまうだろう。しかも、もうすでにその兆候は現れ始めている。偏差値教育によって愚かしい差別を押し進めたつけが回ってきているのである。

 また、学力の低下という問題もある。子供たちの学力は、明らかに低下の一途を辿っている。こう言うと、むしろできる連中とできない連中の二極分解が起こっているに過ぎないのだという反論があるかも知れない。得点を眺める限り、そうかも知れないし、それどころか、平均点が上昇しているということもありえないことではない。しかし、数字に現れた学力と、本当の学力は決して同じものではない。始終、同じような試験を繰り返し、反復練習をしていれば、分かっていなくても正答を得ることはできるのだ。漢字が書けることと、その漢字を用いて文を綴れることの間には大きなひらきがあるように、その漢字を用いて文を綴れることと、その漢字を用いて自分の考えを表現することには大きなひらきがある。テストによって判定しうるのは、せいぜいその漢字を用いて文を綴れることでしかない。しかし、そんなことは例文を覚えさえすれば、十分に可能なのである。本当の学力は、知的な好奇心、つまり探究することに喜びを感じるように自分を励起する能力以外のものではない。それが、今や、異常なまでに萎縮してしまっているのである。

 実を言うと、学力の二極分解などという現象は起こりえない。多くの愚かしい人々を生み出さずにいない社会は、優れた人々を決して生み出さない社会でもあるからだ。


 教育の将来を考えれば、最早、ふんぞりかえって、事態が好転するのを期待しているわけにはいかないことは明らかである。文部省は、偏差値に代わる別の手段・・・子供たちを管理するための新たな手段・・・・を模索しなければならなくなったのである。彼らは、今、何を考え、何をしようとしているのだろう。しかし、それを考える前に、僕たちは
、もう一度、偏差値が果たしていた役割と、その影響についてまとめておこう。