学習のヒント  英語
 英語くらい得意な生徒と苦手な生徒のはっきりしている科目はありません。英語を得意にしている生徒にとっては、もちろん、一寸したケアレスミスはあるかも知れませんが、満点に近い点を取ることは、少なくとも中学生に限って言えば極めて容易です。英語が得意な生徒は、決まって英語の好きな生徒です。これには例外がありません。つまり、英語くらい好き嫌いのはっきりしている科目はないということです。だから、英語のできない生徒は何とかして、英語を好きにならなければなりません。

 しかし、国際化を迎えた今日、それが将来いかに役に立つと言われたところで、嫌いなものが急に好きになれるわけでもないことも明らかです。しかも、いよいよ困って、家庭教師を頼んでも、嫌いである限り、どうにもなりません。基本事項は教えてもらっても、いざ試験になると、その基本事項をどう利用してよいかが分からないからです。

 言葉は、感覚的な要素を含んでおり、その感覚的な要素にうまく対応できないからだと思います。ここで、注意しなければならないことは、私たちは日本語をうまく使いこなすことができますが、そのためには文法という基本的な知識を必要としないように、英語では基礎力といったものが、他の科目ほど大切な役目を果していないということです。だから、以前、使用した教科書をいくら復習して基礎力をつけようとしても、それほど、効果が上がることはありません。それどころか、そんなことをやっている間に授業はどんどん先に進んでしまい、より分からなくなってしまうことにもなりかねません。それより、むしろ、予習することの方がはるかに大切です。学校や塾でやる前に、精一杯予習しておく。教科書の巻末の単語辞書を、初めは利用してもよいから、自分なりの訳文を作ってみる。間違ってもいいし、分からなくていいから、必ず自分なりの訳文を作ってみる。そして、不審に思った箇所には、線を引いておく。また、間違った発音でもよいから、何度も何度も、繰り返し声を出して読んでみる。さらに、問題集なんかやる暇があったら、その分、短文を繰り返しノートに書き写す。そうしたことを数カ月続ければ−−英語の成績を上げるのは極めて大変です−−以前、分からなかったところは、自然に分かるようになりますし、何よりも英語に対する感覚が研かれて、どんな未知の問題にも対応できるようになることは請け合いです。もちろん、分からない単語が出てきたら、必ず、辞書をひくことは絶対に必要です。英語が苦手だと思っている生徒は今直ぐ、これを実行して下さい。 参考書などに頼らず、前に使用した教科書など引っ張りだすことなく、とにかく自分の力で一歩を踏みだすことが何よりも大切です。

 なぜでしょう。英語を苦手にしている生徒は、新しい知識を得たいという欲求が少ない、いつも、受け身で、できるだけ楽をしたいという、いわゆる勉強嫌いの生徒が多いのです。覚えようと覚えまいと、叱られない程度に、最低限のことをすればよい、と思って生徒が多いのです。以上、述べたことは、自分から進んで、新しい知識を吸収しようという意欲を喚起するための手段なのです。そうした意欲さえ喚起できれば後は簡単です。

 また、英語を得意にしている生徒は、教科書だけに満足してはいけません。記憶力がよいうちに、テレビやラジオを大いに活用して、文の構造などは気にしないで、より多くの単語や言い回しを覚えて下さい。「こんな場合には、こう言えばよいのかな。」そんな気持ちで色々な表現を覚えれば、それだけでも、十分将来役立ちます。ものの名前をたくさん覚えるのもいいでしょうし、英検を受けるのも大いに結構、教科書が簡単すぎると思うくらいにならなければ、英語をマスターすることはできません。そう考えて、一歩でも二歩でも先に進んでいって欲しいと思います。

蛇足かも知れませんが
 電子辞書は実に便利です。しかし、便利だからといって、いいとは限りません。電子辞書の便利さは、学習のためには、寧ろ障害になります。電子辞書を使っている子供たちの多くは語彙が増加しない傾向がありますし、単語の意味を推理する能力も発達しないような気がします。辞書を引くときは、単語のスペルをとりあえず、頭に入れて辞書に向かいますし、辞書を引くのは中々面倒なので、取り合えず、辞書に当たる前に何とか、推理してみようと努力します。電子辞書はそうする必要がありません。アルファベットを打ち込むだけで容易に単語にたどり着くことができるので、安易に電子辞書に頼ってしまうのです。学習塾が、子供たちから、思考力を奪ったように、電子辞書は、やがて、子供たちから、単語を奪い取ってしまうでしょう。実は、ソロバンがコンピューターによって無価値に去れたように、パソコンはすでに不十分ながら、翻訳機能を備え始め、望むならば、かなり、正確な翻訳機械を作ることも夢ではないと言われています。つまり、語学の学習は、時代遅れになりつつあるというわけです。バベルの塔に象徴される人間の傲慢は、神の怒りにも打ち勝って、復活されようとしています。しかし、そうして作られる社会は、多様性を失った、機械のいう事を鵜呑みにする頭の空っぽな人々の天国でしかありません。