風のない場所で 04/8/10
 朝の光にまどろむ静寂を破らぬように、家のドアはゆっくりと開き、卒業バッジを付けた学生服のまま、青年は静かに家を出た。
 しばらく歩いてから路上に設置されたマンホールの蓋を開け、懐中電灯を点け躊躇もせずに降りて行く。地下の内壁は多少古びた印象を与える金属製であり、配置された下水や上水の太いパイプや、滑らかにうねる黒い電線、全てが青年には目に慣れて懐かしかった。地下の細い通路に降り立ち、昔、通いなれた道を行く。
 のんびりと歩く青年は、州のBブロック管理センターの作業員以外は、立ち入りを禁じられている重厚なつくりのドアに辿り着いた。一応ノックをしてから返事を待たずに開けると、事務机に座った守衛が振り向いた。がっしりとした体格の守衛はモニタを義手で指さしながら親しげに右手を差し伸べた。
「さっきからチェックしてたがなぁ。最初は誰なのか分からなかったぞ。立派になったなぁ。」
 握手を交わしながらも守衛はしげしげと青年の姿を眺める。そして青年の目を見上げると、言葉に詰まったように四角い顎をさすった。
「噂は聞いたよ。志願したってなぁ。」
 青年は微笑みを浮かべながらコクリと頷いた。守衛と目が合い、今度は青年が目を伏せる。
「何と言えばいいのか、正直分からないんです。お別れになるわけなんですが…」
 守衛は無骨とも言える機械の腕で青年の背中を優しく叩いた。
「お前が思い悩むことはないんだよ。立派な仕事じゃあないか。本当に大したもんだよ。」
 そこまで言って守衛は言葉を切り、目を伏せる。
「お前の爺さんに会いに来たんだろ。今日も早くから来てるぜ。孫が大学を卒業して帰った時くらい、家でゆっくりしてればいいのになぁ。」
 向かいのドアのロックを外し、守衛は深々と椅子に腰かけた。

 青年はドアをくぐり、暗い通路に入った。剥き出しの機械が通路を形成し、重苦しい機械音が遠くから響き渡って来ている。青年は右手で機械の表面を撫でながら歩いた。いくつかの通路を抜け、照射パネル整備室と記されたドアに入ると、薄暗がりの中に整備服を着た老人の姿を見つけた。
 老人は椅子にゆったりと腰かけて計器類を眺めていた。青年はこっそりと老人の後ろに回った。
「爺ちゃん。」
 不意を突かれたように慌てながら老人は振り返り、青年の姿を認めて明るい声を上げる。
「何だ、来たのか。声をかけてくれれば一緒に来たのになぁ」
「昨日は皆が集まっていたから、うまく話せなかったんだ。それで皆が起きないうちに、ここで話したいと思って…」
 青年は少しだけ、はにかんだ。老人は孫の姿を眩しそうに見つめながら、同じように照れて頭をかいた。
「四年振りに帰って来て立派になったと思っていたら、しかしまぁ、お前は何も変わっとらんよ。」
「爺ちゃんもだよ。僕の小さい時からずっと、外壁の中に居る。退職してからも、ここに通うのは止めてないじゃないか。」
 老人はからからと笑う。
「それを言うなら、お前もまた外壁に帰って来たじゃないか。」
 青年はニコリと頷いてから部屋の中を見渡した。
 二人はしばし沈黙した。何を考えているのかは互いに分かっている。老人が切り出した。
 「火星行きはワシのせいかのぅ。」
「半分はそうかも。でも全然違う。全て僕の決めたことだよ。」
 青年は床を見つめながら呟いた。
「僕は小さい時から爺ちゃんの姿を見てきた。爺ちゃんの仕事は世界を作る仕事だ。僕は爺ちゃんみたいになりたくて、今まで勉強して来たんだ。そして火星行きに選ばれた。今は誇りと期待を感じてるんだ。」
 老人は座ったまま手を伸ばしたが、青年には届かなかった。
 青年の目はゆらゆらとさ迷いだした。老人はひとつ溜め息をついてから声をかける。
「わしも一緒じゃったよ。今でさえ自分の行動が正しかったのか、迷う時がある。」
 青年は、はっとして老人を見た。
「今も?」
「そりゃそうさ。重大な決断じゃもの。片方は未来の為、犠牲にしたのは、心の中の大切な部分だったんじゃないかと思っている。」
  酷な表情のまま目をつむる青年は、やり場無く歩を進め、壁にもたれかかった。
「僕もそうだと思う。火星との交通に最適な接近周期は二年ごと、それでもシャトルは片道に三年かかる。火星の生活環境整備は二十年規模の事業だから、僕みたいな幹部の人間は、火星を離れることが許されない。だから、両親や友人達から離れて二度と帰ることは無い。」
 きっと後悔する。昨日の記念パーティーに集まってくれた友人達の顔が思い浮かぶ。今はやるべきことをやりたい。でも将来に必ず後悔することなら…。
 老人は静かに孫の姿を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。老人の義足が排気音を立てる。
「もうそろそろ時間だよ。どうだ、最後一緒にわしの故郷を見て行くか。何か変わるかも知れんぞ。」
 青年はつまらなさそうに頷いた。老人は背を向けて、もう一つのドアに歩いて行く。ドアの札はパネル直視観察室。
「今は日陰だが、やはり放射線は多いからな。大事な体なんだから長くは居れんぞ。」

 老人がドアのパネルに振れると、微光を発しながらドアが開いた。
 飾りの全く無い狭い部屋だが、床には大きな窓がある。透明な特殊金属で構成されていて、その向こう側はシャッターで塞がれている。
 二人は窓の上に並んで立ち、老人がモニタを注視しながらボード上で義手を滑らした。青年は窓の向こうを眺める。
 昆虫のように無音のまま、ゆっくりとシャッターが開いて行く。
 足下に広がりつつある風景は、漆黒と静寂と虚無。普段の生活からは意識できない現実に、青年は少しだけ眉をひそめる。窓の向こう側は宇宙空間。いくつもの星々が遮蔽無く光っていた。
 太陽光を反射して居住区域に取り込む為の、巨大な羽根状の照射パネルが真っ直ぐに虚空へと伸びている。
 宇宙空間に頼りなく浮かぶ超巨大円筒型植民衛星のエネルギー供給の大半を担う、3枚の照射パネルのうちのひとつである。
 集光角度から補修作業まで、全てが電子頭脳によって管理されているものの、人間の手が必要な際の為に、補佐的にこのような監視用の窓が開かれているのだ。
 窓から見える風景は、少しずつ一定方向へ流れていく。円筒型植民衛星が重力を生み出すために自転しているためである。もしこの窓がなかったならば、地上に落ちるのと同じスピードで、抵抗の無いまま宇宙空間を滑り落ちて行くであろう。足下に広がる風景に、青年はうそ寒さすら感じている。老人は時計を見つめながら、もうすぐだと目配せした。
 青年は虚ろな眼差しのまま、窓を眺めおろしていた。窓の端から、だんだんと強い光を放つ球体が現れてくる。老人は見慣れているものの、この瞬間いつも息を飲む。青年は溜め息をつくこともできず、ただ見下ろしている。
 現れた球体は鮮やかに青く、それでいて緑や黄色、様々な色合いに輝いている。それは地球と呼ばれる惑星だった。
 老人がうわごとのように話す。
「若い時、宇宙開発のために植民衛星を建築するという話が舞込んだ。それはもう、飛びついたさ。技術者としての腕を見込まれて、自分でその腕を試すという挑戦心に溢れていた。夢中で虚空に植民地を作った。居住空間に家族を作った。そして、気付いたときには、もう地球には帰れない体になっていた。」
 老人は義手で窓に移る地球を撫で回す。
「人類にとって新しい環境というのは、いつも残酷だ。この澄んだ宇宙にも膨大な量の紫外線が通っている。癌細胞をどんどん切除していって、残った体は大気圏突入にも耐えられないときた。帰ることは考えてなかったが、いざ帰れないときたら、故郷ってやつは…」
 青年はいたたまれずに窓から視線をそらす。
 青年が見下ろす老人は、ひどく惨めな姿だった。青年が子供の頃憧れた祖父の面影など、どこにも見られない程に…。青年は呻き、掛ける言葉の無いことにとまどっている。植民衛星事業も一段落がつき、今や数百の植民衛星が地球の周りを巡っている時勢にも、こうやって太陽の裏側に来る時間を見計らい、故郷の地球を眺める老人がいる。植民衛星建造の功労者としての権利に、照射パネル管理を選ぶ老人が…。
 老人はフト青年を見上げ、そしてのろのろと立ち上がった。
「ワシが後悔しているように見えるかの。」
 青年はおそるおそる頷いて見せた。老人は首を振る。
「それは違う。栄職の末が、この哀れな管理人だとしても、それが自分で選んだものだとしても、ワシは後悔なぞしてはおらんのじゃよ。」
 老人は潤んだ目で青年を見つめた。しかし視線は出会うことなく宙をさまよっている。窓の内も外も沈黙に包まれていた。
 二人は窓の外を流れる奇妙な光に気付いた。澄んだ、見通しの効く空間を、ゆっくりと移動する物体。遠すぎてはっきりとは見えないものの、その巨大さから別の植民衛星だということがわかる。
 それは、けばけばしい電飾を纏った、観光用の植民衛星だった。注視してみると他にも様々な衛星が、地球を軸に恒転しているのが見て取れる。青年はそれを見下ろしながら、溜め息をつく。
 宇宙事業と銘打っている様々な建設活動、それらは人類の理想のために行われているものでは、決してない。経済発展のうまみという後押しがなければ、誰もそれに取りかかることはできない。この自分たちが住んでいる巨大植民衛星でさえ、人類の人口増加問題の解決という目的ではなく、宇宙事業に参加する人々の高級住宅地として設計されている。
 自分の参加する火星事業も、現地での資源供給が可能であるという理由がなければ、決して実現はしなかったであろう。そういった、経済の波に翻弄されて生きる自分の存在を、今虚しくさえ感じている。祖父も自分も、結局はそういった存在でしかない。
 突然、老人は窓に写る一つ一つの光を順に指さし始め、青年も目でそれを追った。
「ここにも、ここにも、わしらみたいな人間が居た。今も居る。確かにわしのやって来たことは、理想的というには少し違うような気がする。わしがやらんでも誰かがその穴を埋めただろうし、火星にはお前以外にも、何千人というエリートが参加するだろう。欠けたところで何の支障もない。」
 老人はまた地球を撫でる。
「その上にな、その目的と言ったら、大まかなところ金の話にしかならん。それで故郷を捨てたとしたら、本当にくだらん話かも知れん。わしの故郷には風が吹いた。大地の端っこから猛然とやってくる生きた風がな。ここには作られた空気の流れしかない。」
 視線が噛み合い老人は目を伏せる。
「何となくそれが辛いんじゃよ。」

 「風のことは分からないけど…。」青年は呟く。「ここは僕の生まれたとこだよ。互いに意味のない場所を大切なところだと言い合っているけど、同じことだと思う。爺ちゃんはここから地球を見つめて、僕は火星から地球の周りを流れる衛星の光を追うことになるんだと思う。」
 そして青年は意識せず窓の外を流れる光を指さした。
 一つ一つの光の中に、地球の大きな光の中に、多くの人の様々な営みが見える気がして、青年は自分の胸を押さえた。
 「皆同じなんだ。」
 自分の整理がつかぬ気持ちと祖父の悲しみ、それだけでなく、多くの悲しみが胸に染みこんできて逆に胸が温められる気がする。青年は暗い天井を振り仰ぐ。
 天井の向こう側には、祖父の作った世界で生活を営む人々が居る。それを見上げる自分はあまりにもちっぽけな存在で、窓の外から差し込む光が心地よかった。
 老人は再びボードを操作して窓を閉める。青年は立ち上がり、隠れる地球を一瞥し、微笑んだ。仕方がないという一言が出かけて口を塞ぎ、軽い足取りで部屋を出た。
 窓の外は遙かな虚空。いつまでも変わることはないだろう。
 (おしまい)
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