ドモ日記11月

02/11/30

 外国語の勉強をやっていると、時々面白い単語に出くわすことがある。そこから日本との文化の違いなんかに思いを馳せて、妄想を膨らませるのが楽しいのだが、先日は、また違った意味で面白い単語を見付けてしまった。
 それは、韓国語の「ペナン ヨヘン」というもの。「ヨヘン」は旅行。「ペナン」は背嚢。つまり、リュックサックのこと。直訳は背嚢旅行であるが、意訳は貧乏旅行。
 むむう、これはバックパッキングのことを言っているのではないだろうか。最近あんまり馴染みがない言葉だから詳しく調べた事が無いのだが、バックパッキングとは、でっかい背嚢を背負って、基本的に歩いて旅して回ることを言う。のだと思う。そしてテントで野宿したり、道端で自炊したりするが故に金がかからない。その姿は確かに貧乏だ。なるほどね。
 その単語のどこが面白いのかというと、僕もバックパッカーだったからなのだ。物凄く懐かしかった。という訳で、ノスタルジックな思いに浸って語ってみたいと思う。

バックパッカー

 例によって遊び放題の大学生だった僕は、その生活の大半をサークル活動に捧げていた。サークル名と活動の関係を説明するのは面倒だが(かけはなれてる)、要するにバックパッキングをするサークルだった。
 バックパッキングの定義は知らない。当時の僕はバックパッキングなんて名前知らなかった。ただ単に、テントやら火器やら寝袋やらを入れる大きな背嚢を背負って、登山したり平坦な道路をひたすら歩いたりする伝統の為に活動していた。今考えて、バックパッキングの一種だったんじゃないかなと思う程度だ。
 僕らの活動について詳しく話したい。大学当時、同じ大学内で他にも登山系サークルは存在した。その中で僕らのサークルには一線を画すところがあった。それは、その装備の古さだった。
 最近の登山家が背負っている背嚢は、縦長のカラフルな奴が主流だが、僕らの背負っていたのは横長の一律茶色。キスリングという名前で、昔の登山家の写真にたまに出てくる。それ自体が十分重たくて、雨が降ると水を吸い、重さが倍化するという逸品。最も大きな特徴は、その迫力。これを背負うと、遠くからでもよく目立ち、物凄く恥ずかしい。煤だらけの大鍋をその上にくくり付けると、もはや常人ではなくなってしまう。そのあまりのアピール度の為に、旅先では、おじさん達が懐かしがって話し掛けてきたり、地方新聞に取り上げられたりと話題には事欠かなかった。
 テントも古い。ドーム型テントが流行る中、僕のサークルは三角テントだった。かつ、布製。スナフキンがたまに張ってる。やっぱり水を吸うので、雨の日の重さは殺人級になる。ていうか、中で寝れない。だから、フライシートという上っ張りも持っていくことになり結局重い。
 火器も古い。寝袋も古い。登山靴も古い(安いだけか)。ていうか、一番古かったのは使っている人間そのものだったんじゃなかったのかなと、今更ながら思う。
 ただ、それが悪いと言っている訳ではない。むしろ、良かった。マゾではない。
 日本で背嚢旅行が流行ったのは70年代頃だと聞く。その頃は猫も杓子も、という感じで行われていたらしい。僕のサークルは大体のところ、それをそのまま踏襲していた(勿論当時の厳しさは比べ物にならないと思う)。それは奇跡的な伝統の残り方であって、他の大学の同系統では背嚢さえ知らないというサークルもあった。変化は勿論重要なものだ。しかし、それだけでは納得したくない気持ちもある。なんと言うか、僕は、そういった古い装備や古い活動が、愛しくてたまらないのである。
 思うに僕は、泥臭いことが本能的に好きなんだと思う。他人が格好良いと思う事に疑問を持ち、それと同じ真似なんかしたくなく、他人が格好悪いと思う事をやってみたいと思ったりする。堂々と馬鹿をやることの、何と誇らしい事か。
 そんなことを考えていると、当時、何でこんなことやってんだろうと真剣に悩み、議論しあっていた仲間達の顔が目に浮かぶ。君達はとても真面目で、立派だった。でも、絶対に、今時の若者じゃあなかったと思うよ。僕を含めて。

02/11/19

 日付が重複してしまいましたが、先日の日記は深夜まわってたので・・・ブツブツ
 今日は、このホームページにとって一大イベントが起こりました。何と!!検索エンジンに登録したのです!!ホームページ開設一年半以上たって後の、この快挙!!僕だけ拍手・・・パチパチ
 載せたのは、このサイトのサーバーをお借りしている@NIFTY株式会社のホームページ内、@ホームページのサイトにある、みてみてホームページという検索エンジン。これだけの作業にドキがむねむねしたってやんでぇバーローちきしょおいってなもんで、誠に馬鹿らしい話で御座います。
 このホームページも、とうとう世界に向けて出発か。いいのか、こんなんで。様々な葛藤を胸に秘め、その不安げな船出を体験した今日の僕でした。

02/11/19

 新しいレイアウトとなった遊文堂ですが、こうやって、しげしげ眺めていると、薄ら寒い感じがしてくるのは僕だけでしょうか。っていうか、僕だけしか眺めてないのでしょうか。ハイハイ、そうやね。
 しかしながら、自分のサイトだからっていう訳でなく、客観的に見ても何か気味が悪く見える。何やら異様にせまっ苦しい感じがする。変更以前のほうが何か広々としてたような気がする。勿論、実際、横幅も縦幅もコンパクトにしたし、周りをグレーで染めてみたりはした。色合い的にも・・・っていうか色が無いじゃん。ココ。・・・それはともかくとして、原因はそれだけではないような気がする。
 実際に他にもこんな色合いのサイトはある。真っ黒だってある。サイズは標準サイズだ。それでいて、なおかつこのサイトがせまっ苦しく感じるのは、多分閉鎖された空間であるからだろう。一見して、自分のサイト内にしかリンクを貼っていない。実感として外には目を向けず、内へ内へと引きずり込んで行く形になっている。あまつさえ、掲示板は管理人の名前で終わっている。涙
 レイアウト変更の動機は、ただ単に見やすく、管理しやすくしたいっていうだけだったのに、こんな作者の妙な深層心理を垣間見させるようなつくりになってしまうとは、大ショック。
 このホームページは、IBM社のホームページビルダーVer6を使用させてもらって(html直打ちなんて僕にはできない)作ってるが、それでもたどたどしく、悶絶ものの苦労を重ねて完成したものである。だから、デザインにまでは気を使う余裕がなかった。実際、タイトル部分の水平線が右側でくっつきそうでくっつかないという未知の問題にぶつかり、リアルタイムで悩んでいるところである。まさに、生兵法は怪我の元を地で行く惨状だ。
 言い訳はここまでにしておこう。ホホホ
 まあ、レイアウトはこのままで続投していくことにして(めんどい)、ここで偶発的に作られた、閉鎖的空間という命題に対して語って行きたいと思う。
 語って行きたいのは山々だが、今日は眠たいので、また今度ということで・・・バイビッ

02/11/18

 ホームページのレイアウトを考えるあまり、肝心の中身が疎かになっている今日この頃。自己満足の世界だから、まぁいいんだけど・・・。でも実際、日記なんてまともに続いた事なんてないんだから仕方が無いといえば仕方が無い。
 こんなんでホームページ続けていけるんだろうか、不安。

02/11/17

 念願のホームページレイアウト変更を果たしました。すげぇ時間かかって、今、吐きそうです。それでもまだ未完成だったりする・・・。
 しかしまあ、少しは分かり易いカタチにはなったのではないでしょうか。後は、それぞれのリンクを細分化して、痒いとこに手が届くようするだけですばい。
 ホームページの研究を進めるに連れ、人様に見せるようするためには、見る人の立場に立って作らなければならないということが身にしみて分かってきました。情報をいかに分かり易く、ページの行き来をいかに便利にするか、気を使っている人は気を使っているものです。
 決して自分勝手なホームページにしてはならないと決心した、自分勝手な内容を書いてる僕でした。

02/11/14

 パソコンを見ていて、自分のパソコンが一番頑張っていると思うのは、デフラグする時だ。データを並び替えている詳細画面を見ていると、つい、「お、優秀、優秀」とか言ってしまう僕がいる。データを整理しているのを見ていると、何か非常に気持ちがいい。滅多にやらないから何時間もかかるのに、じぃっと眺めていたりする。しかも、恐ろしい事に、飽きない・・・。
 そういった、パソコンの状況をチェックしている僕の周り。雑誌の間に脱ぎ捨てた靴下が挟まっている。その上に仰々しく置かれたポテトチップスの空き袋。俺の部屋、誰かデフラグしてくれえ。

02/11/10

 ホームページをやってて良いこともたまにはある。それは文章打つとき辞書を牽く習慣がついたこと。この歳になっても知らなかったことや誤解してたことを頻繁に見つけてしまうものである。
 あと、変換に任せて漢字を使いすぎる癖を気にするようになったことも良いことである。。漢字は文章を分かり易くする上で便利なものであるが、使いすぎると逆に不自然で読みにくくなってしまう。句読点を巧く使うことで、バランス良くやって行きたいと思う。
 こういった良いことは、全て、人目を気にして文章を作るようになった為である。誰が見ているというサイトでもないが、それでもそれなりの緊張感ができるものである。
 ただ、ちょっと思うのだが、ホームページって他人に向けて情報を伝えるものであって、内輪の人間には見てもらいたくないものではないだろうか。汗

02/11/06

 このメインページが、自分でも吃驚するほど縦長になってしまったので、また別ページに分ける必要が出てきたと思う。そういうのも含めて、またホームページの構成を立て直す計画を立てている。いかに読みやすく、いかに更新が楽なホームページにするか。考えて行きたい。
 とある先輩の忠告で、他の有名なテキスト系サイトを研究する努力も始めた。こうやって探してみるとテキスト系サイト結構多いものである。なおかつ、面白い。
 僕がテキスト中心にしたのは、楽で元手もいらず、人にも見せないためであるが、今後はそういった人に見せれるようなテキストサイトにして行きたいと思っている。

02/11/03

 人間という生物の特殊性のうち最たるものは、言語を使用する事である。人間はあらゆる物に名前を付け、支配し、今日の文明を築いて来たのである。にもかかわらず人間の中には言語をうまく使用できない輩がいる。僕みたいに・・・。
 喋るのが下手というのは、なかなか厄介なものである。多少下手でモグモグ言ってるのは、可愛いもんであるが、本当に下手な人間は言い間違いで大きな誤解を受ける。1万年という年月の中、言い間違いで殺された人間が一体何人いることやら。恐ろしい話である。
 喋るという行為は、決して遺伝とか性格とかに因る物ではない。喋る行為は技術であるから、学習や訓練によって向上させる事ができる。学校の国語教育にも含まれている筈である。
 で、大人になっても子供にすら言い負かされる僕みたいな人間は、どうなのかっていう話であるが、そりゃもう学習を怠ってきたといえば、それまでの話である。でもそれまでじゃあ悔しいったらありゃしないので、ちょっと言いたい。っていうか申し開きをしたい。
 w・・・言い訳が思い浮かばない・・・。
 えつと、なんつったらいいのかなあ、あれですよ、あれ。ほら、あれ。
 人間話さなくとも、頭の中では何か考えているものである。そういったものを考えているそばから吐露できる人間は確かに存在する。吐露できない人間もいる。討論をするにおいて、どちらの意見が勝るのかは、外に表現された言語の価値によって評定されるべきものであるため、考えを、より述べ切れた者に分がある。つまり、言ったもん勝ちである。当然そうであるべきだ。にもかかわらず言語能力を習得する努力を怠る人間は怠惰と言われても仕方が無い。
 ただし、話せない、ではなく話さない事の効果も忘れてはならんと思う。意見を表現することは重要だが、逆を返せば、表現する為には意見が必要である。意見イコール考えだが、表現に走りすぎ、考えが疎かになる事は避けねばならない。また、考えと表現された言葉は似て非なるものであり、完全には一致しない。一致しない事を忘れ言葉にすれば、その言葉が自分の考えと思い込む事も、しばしばある。例えば、画家が自分の想像を絵に描こうとする際、納得できない絵を描き上げると、最初に素晴らしいと思っていた想像がそれ程良いものではなかったと諦めてしまうように。
 もっとも、僕なんかは普段から馬鹿な事ばっかり考えてる為に、話さないと言うより、恥ずかしくって話せないといえば、それだけなんですが・・・。
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