ドモ日記10月

02/10/28

 さてさて、前回の更新から1週間経った訳ですが、このホームページでは速いほうです。書くことが無いってのも理由ですが、それは今までみたいに無理やり出せばいい事なんでw。ただ単に面倒っちいだけです。忙しいってんなら、いい理由なんですが・・・。
 で、今回はこのホームページの目標を提起したいと思います。(面倒と言ったばかりですが・・・。)
 ええとお、目標はホームページの拡大ですw(無理だ)。
 つまり、ここのアドレスで学んだ事を活かして、別のサーバーの場所をただで借りて運営していく。そのサイトは検索エンジンにのっけて、不特定多数の人間がいつでも来れるようにします。何故、このサイトでやらなかったのかと言うと、掲示板運営とかが面倒で、投げ出したくなったときに投げ出せないから。つまり、ここのアドレスは私個人がプロバイダーから借りてる訳で、荒れて逃げ出したくても、プロバイダー変えなあかんから面倒なんですわ。
 変えるにしてもコンテンツはどうしようかとも思う。まあ、まだ時間はたっぷり有る訳だから、ゆうっくり考えて行きたいと思う。それが、次の課題w

02/10/22

 「日曜日は少しだけ涙をこらえて、彼女のために野ばらの蜜を集めるよ」
 佐野元春『スウィート16』の一節である。共感する人が多いのかどうか知らないが、僕には強烈な印象を与えた。?な人は全体聞かないと分からないかも知れないので、聞きなさい。言葉ではとても説明できないけれども、確かに存在する切ない感情が溢れ出しそうな一節だ。
 こういう感情について書きたかったんだけれども、やっぱり文章で書き表す実力が僕には無い。なんと言うべきだろうか。例えて言うなら、時間はあまりあまってて暇なのに、目の前のやるべき宿題に手が伸びない気持ち。w・・・かなぁ
 恋愛って言うのは頭で分かっているのは勿論、気持ちで分かっていても納得できない部分があります。よねぇ。ハハ・・・。そういう納得できない「蜜を集める」行為が、自分自身の本質的な問題にぶつかって、気持ちでは肯定的に理解してはいても、実行には移せない。気持ちでは肯定的なために苦しさを感じる。・・・ちょっと抽象的すぎるかな・・・(いつもそうだけど・・・)。具体的に書くと、多分、鳥肌がたつ。w
 ま、いいや。こういう気持ちは考えないに限るってのが、生きる秘訣とも言えるしなぁ。

02/10/14

 今日は奥多摩の鍾乳洞へ行った。東京って所はあまりに雑多な所だと常々思っていたが、奥多摩の如き人間の手の届かぬ自然までをも包括していたとは、なかなかに侮れない。奥多摩街道も尽き、さらに進むと、癒しの限度を超えた鬱陶しいまでの大自然が存在する。都会から離れ、いきなりここまで来ると、あまりの頼りなさに不安が押し寄せてくる。
 奥多摩には意外にも数多くの鍾乳洞があった。まぁこれは地質学的な問題なので、そこかしこに洞窟があっても別に異常なことはない。ただ、それ以上に観光的な鍾乳洞が殆ど無い事が意外だった。日原鍾乳洞が最も入り易いと言うので向かったが、途中間違えて別の鍾乳洞に辿り着いた。そこは民家の裏にある40m程度の鍾乳洞であったが、一応観覧料は取るものの管理の殆どなされていない、見るからに入り難い鍾乳洞だった。こういったものはこの地域に多いらしく、普段は誰も入れない様にしている所や、観光客自ら懐中電灯で探索するものまであるらしい。
 僕らの行った日原鍾乳洞は結構有名らしく、駐車場にも車が沢山停まっていた。受付や洞内照明等の設備もなかなかのものだった。しかも範囲は広い。前後左右の広さだけではなく、上下にもかなりの落差がある。かといって洞内の通路そのものは結構狭く、鍾乳洞探索の醍醐味は味わう事ができた。どうしても山口の秋芳洞と比べてしまうのだが、あれほどの雄大さはなくとも、逆にここには人間臭い味と独特の素朴さがあり、楽しむ事が出来た。
 例えば歴史の長さ。平安時代の頃に発見されたらしい。それ故に人為的な傷も多く、あちこちに鍾乳石や石筍を盗掘された跡が残っている。腹立たしくもあるが、盗掘者達が一生懸命に鍾乳石を切り取っている姿を想像すると、何だか微笑ましくもある。その切り跡がまた、石灰の作用により滑らかな表面を形成している。そこに、自然と膨大な時間の作用の偉大さを感じてしまう。そして、その素朴さ。いかにも洞窟といった感じの飾り気のなさには好感が持てる。本当に誰かの隠れ家、といっても可笑しくはない。w
 洞内には水琴窟もあった。水のよく落ちてくる鍾乳洞であったが、その分、水琴窟の演奏も頻繁に起こる。ある時などは、本当にリズムを持っている様に思えて驚いたりもした。以前どこかのお寺で聞いた時はそれ程感銘も受けなかったのだが、けな気に音を立てているここの水琴窟には、切なさを感じた。
 山中に張り巡らされた鍾乳洞は、あくまで自然の力であるが故に、人間の予想すら越えて巨大化を今なお繰り返している。東京にも、そういった場所があることを知る事は、都会に暮らす僕らにとっていくらかの慰めにはなるはずである。

02/10/13

怒るということ

 韓国語の慣用句に「ホァルル ネダ」と「ホァガ ナダ」というものがある。それぞれ直訳すると「火を出す」、「火が出る」と訳せ、どちらも「怒る」という意味になるが、前者は「腹を立てる」、後者は「腹が立つ、むかつく」というニュアンスを持つ。どちらも現象的に大差無く、取り立てて区別する必要は無いように思うのだが、今日は区別したい気分だ。他動詞、自動詞とかいう文法的な区別は置いといて、俺的に解釈すると、それぞれ自発的、自動的なニュアンスで、「火を出す」方は周りから見える怒り方、「火が出る」方は周りから見えなくとも怒っているような怒り方、とする。他人様の母国語を、僕みたいな生兵法が語るのはおこがましい気もするが、この文は言語に対する論文ではない。ただ、「火が出る」という現象について語りたかっただけなのである。だから許して
 日本語にも「オコる」とか「イカる」とか「叱る」とか「憤る」とか、似てはいるものの違う言葉がある。僕らは何気なく使い分けているものの、よおく考えて見ると全く違う言葉のように思える。例えば「オコる」「叱る」は、その対象のためを思ってなされる場合が多い。本当は怒りが湧いていなくとも、外見的にはそう見せたりしている。対して「イカる」や「憤る」は、どう見たって根っから怒っている。本人すら抑えることの出来ない怒りが体中にほとばしり、外部に噴出されようとしている。時には対象さえ目の前に居ないかも知れない。というくらい言葉の意味は違っている。(勿論例外はある)
 「憤る」は、ちょっと格好いい言葉なので、「イカる」を使って論じたい。
 人が「イカる」のは何故だろうか。
 それを考えるには状況を考えるべきだろう。大きく分けて2通り考えられる。
 一つ目は、自分や友人を馬鹿にされた時、自分の望まぬことを他人が行った時で、これらは自分が信じていた自分自身や友人の価値、当然行われるべきものと信じていた物事を否定されている状況と言える。つまり、信頼と言う主観的なものに対する否定を受けた時。
 二つ目は、社会の中で理不尽な目に遭った時、またはそういうものを目撃した時で、これらは理論的にも間違っている行為がなされているという状況と言える。つまり、道理という客観的な物事に対する否定を受けた時。
 勿論、人の友人を馬鹿にする行為が道理に反するとも言えるし、個人それぞれの社会認識が主観的なものに過ぎないとも言えるが、そういった例外は言外に置く。状況を微細に至るまで描写しなければ、その本質は掴めないんだけども、文字数の無駄だ。
 さて、先に述べた2つの状況は似通ってはいるものの、区別すべきものである。主観と客観に対する善し悪しは付け難いが、そこから出て来る怒りには善し悪しを付けることができる。道理への否定に対する怒りは、おおいに怒るべきだと思うが、信頼への否定に対する怒りは、恥ずべきものだと思う。
 何故か。怒りが外部に噴出した場合の事を考えて見るといい。真に客観的な道理に賭けての怒りであるならば、その理によって共感を得る場合もある。真に主観的な信頼を訴えて怒るならば、共感を得ることは出来ない。少しの同情は受け得るかも知れない。つまり、客観の怒りは自他共に益を得る可能性があるが、主観の怒りは自他共に益無く、己をおとしめるばかりである、ということである。
 だからこそ、そんな怒りは主観的なものと恥じて、「火が出」ないように気を付けて生きていきたいと思った、ブルーな日の僕は、こんな主観的な文を書いたって訳。ちゃんちゃん  ・・・ああ、訳分からん

02/10/10

俺文学のページに、文章を読んだり書いたりすることに関する自分なりの考えを書いて行く事にした。何故かと言うと、ネタがないから。あと、そういうことを考えて行くのも悪くはないと思ったからである。
自分なりの考えを煮詰めて行ったとしても、その行為自体に意味は無い。考えをまとめる役には立つとしても、新しい発見につながる事は決して無いであろう。新しい発見をしたいならば、他の偉い人の論文を読んだり知己の者と対話をするなどして勉強をするべきだ。ひとりよがりな考え方に陥る程、情けないことは無い。昔、学校で習った孔子さんが言っていた。
だったら何故にひとりよがりに考察を書いて行くのか。勉強をするのがめんどいから。・・・。文章を引用するなんて、著作権がめんどいから。・・・・・・。
極めて消極的な形でスタートすることになってしまうが、自分であれこれ調べるきっかけにはなると思う。他の似たようなページを探すことにもなるだろう。だから、100%悪いわけではないと言い訳したい。何もしないよりは、する方がマシな訳だから。

02/10/3

個人的な話になるが(このページは全部そうだ)、ホームページが大分、分かるようになって来た為か、更新が結構頻繁になって来た。ページの構成が整理された事と、これを作成しているホームページビルダーの使い方が効率的になったという点が大きく貢献している。日記感覚で更新出来るようになった。
という訳で、この変なホームページの当初の目的は達成されたと言える。勿論解らない事は、まだまだ沢山あるし、普通にある様な皆の来るページではない。書き込まれている事は変わってなくて、掲示板も二人の世界状態。内容も相変わらず無い。これは、技術うんぬんでは無く作成者の人格的無成長振りを表してるんだから仕方が無い。許して・・・
まあ、ここで今後の目標というものを立てなくてはならない。・・・えーと、また考えときます。
とりあえず、このホームページは僕の消息を知らせる為に存在するものとします。内輪だけしか知らないッスから。あと、微妙に人に見られてるっていう緊張感を持てるから、僕の文章能力向上に役立つとは思う。・・・実際、後からチェックしてみると直さなけりゃならんとこが馬鹿みたいに出てくる。・・・阿呆まるだしやんけ。
まあ、人様のお役に立てるようなコンテンツは、これから考えて行こうと思ってます。

ホームページ

というものを、真面目に考えてみようと思う。最初始めたときには深く考えるような事をしなかった。ただ単に好奇心だけが動機だった。でも、流石に一年以上続けていると、馬鹿な俺でも少しは考える。他の人が作ったホームページも見たりはする訳で、そういう観点から見ると、やっぱり少しは解るようになって来るものだ。
ホームページというものは、語源はともかく、世界に広がるインターネットの要素の一つだ。そういった大きなものに連なった物を個人が所有するという事は、非常に大きな意味を持っていると思う。つまり、これは個人が持つ、大変巨大な看板になり得ると言う事。もし、これがこの遊文堂みたいじゃなくて多くの人が訪れるサイトだったら発言力はきっと大きいはずだ。
また、個人のコミュニケーションの幅も非常に大きくなるだろう。話題の出会い系サイトもその一端だが、そうでなくても、実際多くの人がネット上で知り合いになって行く。この遊文堂は無理だが・・・。
だから、ネット化が進めば進むほどに社会の様相は変わって行くのではないかと思う。多くの人が世界規模で知り合い、発言する、人類史上かつて無かった事態に直面する事になる。
なんか、書いてて不安になって来た。ちびりそうや。
でもまあ、これだけは言える。ホームページやってて損は無い。・・・でも、管理費は痛いなぁ。

02/10/2

最近、ウルテマⅨアテンションをやっている。パソコンのゲームだ。もともと興味のあるものと言う訳ではなかったが、ウルテマオンライン(略称UO)をやってる関係で、興味が湧いてしまった。ミーハーな話だ。でもまあ、当然の成り行きとも言える。ウル.シリーズには独特の世界観があるし、そういう世界の中で暮らしてると、より詳しく知りたいと思うのが人、いや僕の常である。
で、実際やってみると、やっぱり同じ世界観の中でゲームをやっているという安心感がある。ドラクエ愛好者がシリーズを通してプレイする感覚に似ているのではないだろうか。ただし、システムは全くパソコンゲームといった感じである。マウスで視線を動かしてクリックで視線の方向へ前進するというもの。これはさすがに馴染みがない。が、新鮮でもある。このシステムはUO2に採用されるという噂がある。と、言う事は、そのUO2は僕のPCでは起動しないということである。悲しい。それ程にこのゲーム、高スペックを必要とする。実際、このウル9も僕のPC上ではかなり不安定である。4年は前の作品と思うのだが・・・。
だから低レベルの画像でプレイしている。それだと結構いい感じだ。何が面白いのかというと、その立体的な世界のダンジョンに入って、謎をじっくり解いていく感覚が非常にいい。ゲーム内で周囲を見回してみると、そこはいかにもダンジョンの中だっていう感じがする。敵が出てくるので、新しい部屋に入る時や角を曲がる時、用心の為に剣を抜いておいたりする。ちょっと現実では味わえないでしょう。それに謎解きというのは、非常に知的な作業である。開発者から与えられた挑戦を突破していく快感がある。
勿論、そういったシステムやストーリーに似たゲームはたくさんあるだろう。でも、馴染んだウルテマの世界観の中でやるというとこがミソなのである。だから、時間があまりあまってる人にはお勧めする。
僕は時間があまりないから、もうやめようかなって思ってるけど・・・。・・・オイ
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