★ふったのにっき★
(2001年3月)

★主要な更新履歴もかねます。読んだ本とかいろいろ書いてます。★

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★03月26日(月)★

 出発前に最低限やっておくべきことをかたづけて、荷物の準備をし、さぁぁーあとは朝早くおきて出発だ。

 ということで、明日から4月6日の帰国まで、管理人ふったとみちのすけは留守にします!


★03月25日(日)★

 友人夫妻の結婚式2次会に出席。大学時代の友人を中心に旧交をあたためる。
 次はぼくらなので、どのようなパンフレットにしようか、会の雰囲気をどうつくろうか色々と考えながらも、限られた時間でいろんな人と話をしようと努めた。ぼくにはめずらしく、はじめての方たち(新婦の職場の同僚)のところへものりこんで?お話しに行った。これはちょっと別のネタもあったからなのだが。(OKDせんせー、みてるー?)


★03月23日(金)★

●「ドイツ週間」ということで、エッカーマン(Eckermann,J.P.)の『ゲーテとの対話(上)』(山下肇訳/岩波文庫/1968)を数日前から読んでいる。偉大なる知識人・文化人であり芸術家であるゲーテ(Goethe)が、繰り返し繰り返し自戒や自省をもこめて述べている見解——<人は何事を成すにしても自分自身の才能や可能性の中心部分を見抜いてそれに力を集中せねばならない>という見解——に対して、いろいろと考え込んでしまう。(※もちろんこの見解は、非常に豊かなこの本とゲーテの思想の一部に過ぎない。)
 なぜ考え込むかというと、「集中」して自らをひとつのことに特殊化していくことが僕には苦手で、その能力が欠けているのではないかと思っているからである。そうだとするとこれは研究者になるという点では決定的な弱点である。何をいまさらのことなのだが、こうした単純な(ただし信頼できる人物による)「人生の教訓」には、有無を言わせぬ力がある。
 とにかくこの本はドイツにもっていこう。あとはガイドブックをのぞいて、ドイツ語の本だけにしよう。これは某先生のドイツ留学(遊学?)時の経験に学んでのこと。


★03月21日(水)★

 来年の仕事がやっと決まり、経済的見通しがついた(だいたい本年度なみ)。ほっとした。新学期の準備を一定程度しておいて、こころおきなくドイツに旅立ちましょーー、ほっほっほっほ。

☆「ふった映画日記2001年」まとめて更新!


★03月20日(火)★

 まんがデイ。浦沢直樹の『YAWARA!』(全29巻)を最後まで読み切り、『HAPPY!』(全23巻)も10冊ほどイッキ。
 浦沢氏本人は、「ぴあ」のインタビューで、この女性スポーツ(大)ヒット作品の系列を、『マスター・キートン』、『パイナップル・アーミー』などのハード系?と比較して、いわば読者迎合型で作家的実存のうすい系列と自己評価している。そしてり両系列を総合したものとして——つまり一種のトータルな作家的開花の実現として、連載中の『MONSTER』と『20世紀少年』を位置づけている。彼はいま充実と満足の時を迎えている。
 ただ、実際コアなファンのところでもそのような評価なのかも知れないが、私は前者女性スポーツ系作品をそれほど評価を低めるべきものとは思わない。とくに『HAPPY!』は、『YAWARA!』的牧歌性やワンパターンに比べて、ハードな部分や社会性のひろがりもかなりあり、読ませる。浦沢氏特有の泣きどころもせつなさもアクションもうんちくも、もりだくさん。


★03月16日(金)★

 今日は朝から精華の成績会議。昼から非常勤講師の懇親会。夕方から二村英仁のコンサート、というスケジュールでいそがしくも楽しい一日だった。

 懇親会——「梅竜会」というあちらさん系?の名前をもつ——では、新都ホテルでランチ・バイキングをいただきつつ、いろいろな話をして、1年間の労をねぎらい、残るメンバーは来年の雇用に不安を残しつつ(おれだけ?)も、新しい場所に去っていくみなさんを送り出した。昼の会で、夜的もりあがりに欠けるかもなーとかと予想していたが、硬軟おりまぜて、愚痴も含みつつ、とても楽しいおはなしに花咲く会であった。よかったよかった。

 二村英仁のコンサート(京都コンサート・ホール)は多彩(多才)な内容で非常に充実していた。B席3000円——ステージに向かって左側の3階席——に充分おつりがくる。ちょうど、氏のバイオリンに対して垂直近くから見えるところで、若干遠くはあるが、指の動きから弓の動きまでよく見えた。アンコールの「バラへの3つの願い」(ファン・ツィ/西村朗)では涙がぽろぽろ出た。ピアノとのコンビネーションとか課題もあったように思うが、速い曲のスリリングでリズミカルなたのしさ——これぞヴァイオリンのおおきな魅力のひとつだ——とか、いろいろと堪能させていただいた。

 客のいりは7部程度という感じ。やはり?女性が目立ったが、その中でもおばちゃんの多さには少し思うところがある。おばちゃんを差別するつもりもないし、その中にいろいろな人がいるだろうこともわかる。しかし、みちのすけと話していたことだが、「氷川きよし」ファンとどれほど違うのかと、いぶかりたくもなってしまう。別に観客が下品だったとか、そういうことではないが、二村氏のもつ豊かな思想みたいなもの——ひとことでいえば「音楽と平和」ということになろうか——への感受性に対して、どの程度観客の質が答えられているのか、ふと問題にしたくなる。


★03月15日(木)★

○ビデオ:『新世紀エヴァンゲイリオン 第拾九話「男の戦い」 第弐拾話「心のかたち人のかたち」
      『新世紀エヴァンゲイリオン 第弐拾壱話「ネルフ、誕生」 第弐拾弐話「せめて、人間らしく」
      『菊豆<チェイトゥ>』(チャン・イーモウ監督/コン・リー主演/1990/中国)  を観る。 


★03月14日(水)★ エヴァの二重設定

 住環境の変化でかなりの音量でビデオ・スレテオを楽しめるようになったので、レコード(文字通りアナログのそれ)からビデオから、いろいろ引っぱり出してみたり聴いたりしている。今日は、

○『新世紀エヴァンゲリオン』の映画編の部分——第25話「Air」と第26話「まごころを、君に」を観た。
 多様であり得た生命の可能性を人類を襲撃する謎の存在「使徒」で表象し、人間もその生命の可能性のひとつ——それもできそこないの群体でうまれたものと設定し、できそこないの群体を完全唯一の単体に「救う」=福音(エヴァンゲル)するというのがこのSF世界のグランド・セオリーということになろうか......。単体になるための、全人類の魂の融合がクライマックスで描かれるのであるが、映像的ポテンシャルとしてはやはりここがすごいなあと思わせる。(映画版『イデオン』の最期と同じようにひとびとは歓喜に満ちて集っているようでもあり、勝手にそのような魂の「補完」が行われているようでもあるのだが。)
 適当な言い方だが、古今、宗教思想には、ここではない別のところへの魂の救済をうたったものは多い。また、プラトンから「第九」のシラーまで、イデアとか神のもとへの魂の「融合」的な思想をカタルものも多い。
 しかしひとは本当にそのような欲望をもっているのだろうか? 
 実はこのアニメ(映画)の「巧い」ところは、この疑問がすぐに「宗教的」(SF的?)なものから、「心理学・精神分析的」なものへと反転するところである。「魂の融合」とは、もっと現実に根ざした人間の他者とのコミュニケーション(不全)や承認欲望に根ざしているもの「宗教的」な表象だ、という答えをも用意されているからだ。
 しかし、ミヤダイ的にいうと、これは現実の複雑な人間関係をのりきるスキルのない「男の子」の欲望だということになるかも? うむー。


★03月10日(土)★ 宮台氏の処方箋と天皇制

○断続的に読んでいる、宮台真司氏の『援交から革命へ——多面的解説集』(ワニブックス/2000)が面白い。
 彼の立場は、自称しているように「リベラリスト」だし、その意味で右でも左でもない。がしかし、この日本の改革課題に対する処方箋に、むしろ天皇をもってくる必要があるかも知れないといっているところが、なかなか屈折していて更に興味深い。
 彼の述べる図式を示せば、近代成熟社会期に突入した日本に生じている「アノミー」(無規範状態と自意識探求の蔓延など)を解決していく処方箋に、
 ①「リベラリズム」的に、或いは英米仏連合国的に、試行錯誤しながらの自己決定能力と他者による承認や尊厳の獲得をつくりあげるプログラム=制度改革をなしていくのか、
 ②崇高なもの・聖なるもの・国家(的なもの)などの枢軸国的な国民のひとりひとりのアイデンティティ・自己尊厳感づくりのプログラムをつくるのか、
 と言う二つの路線があり得る。

 ここで誤解していけないのは、小林よしのり一派は、②のように見えるし、広い意味では明らかにそのカテゴリーなのだが、実は天皇をどうするかには、答えが出せていないし、そもそもぜんぜん「バカ」で話にならないと言っていること。そして単なる「情の論理」である、と。宮台氏がいうのは、小室直樹というごりごりの天皇主義者であり、優秀な社会学者であるらしいひとの処方箋が、実はこの日本では非常にリアリティーがあるということなのである。そのほうがもしかしたら、コスト安で、みんなが「シアワセ」かもしれないという、イロニーである。 

 ちなみに、「旧左翼」も「情の倫理」だともいっていて、あたっている面があるなと思う。非常に道徳的にふるまう——例えば、売春・援交問題など——ところとかである。僕なりに言えば、意外にパナーナリズムだったりすることもそうかな。この辺は、共著の『戦争論妄想論』(教育史料出版会/1999)所収の冒頭口述論文をも読んでいただくと判る。

 今日は、夕方からヘーゲル『美学講義』の研究会。


★03月09日(金)★ フレア・デビュー

 引っ越し作業で鬱屈した気分をはらしに、買い物にでた。OPAの店でかっこいいフレア・赤・柄・派手・ズボンを見つけたので、みちのすけの資金援助で購入した。ブーツカットはよくはいていたが、とうとうフレア・デビューだ。しかし、足のラインが太くなったなーと、鏡をみながら思った。やせな。 このズボンは、キメルときにはきます。5月のあのときか?!


★03月06日(火)★ ひっこし!!

 みちのすけDiaryにあるように、みずもれ事故、オーディオ・ラックの破壊——以上サカイさんのお仕事でございます、それから、電話の接続不良とか、いろいろトラブルもあったが、基本的には無事に引っ越しができた! 必ずしも完璧とは言い難いが、サカイさんのおにいさんがたにはお世話になった——4階まで100個のおもーーーーい本段ボールなどを運んでくださったのだもの、感謝しています。


★03月05日(月)★ 精華の期末試験おわる


★03月04日(日)★ ひどい不動産屋でうんざり → どづめにしたった

 朝起きると、ポストに昨日正式契約をした不動産屋(「ハウス・ネットワーク」という京都の小規模チェーン)から伝言と書類が入っている。何だろう?と見ると、新しい書式の契約書と、新しく必要になった書類(印鑑証明から所得証明までいっぱい!)のメモ。やっと鍵をもらうところまでこぎつけたかと思ったら、契約やりなおしとのことで、みちのすけと怒りまくる。1月半ばに決めていたのに、彼らの怠慢で手続きをここまで遅らせておいて、更にやりなおしとはなんたること! 外回り中の担当者を店までよんで、「どづめ」にしたった。
 このチェーン、手数料を1カ月分もとっている。それだけの仕事をしていないのに腹が立つ。契約書類の書式が変わったのは、大家の都合でもあるが、それを確認しないで従来のやりかたでやったそうだ。「私のミスです」と連発しておったが、口ではなんぼでもいえるんじゃ。あほ。 


★03月01日(木)★ 学校文化・ストリート文化・生徒の文化

 精華の卒業式に出席したあと、卒業記念パーティーに行く。
 卒業式はわりと厳粛、というより静かで、無駄な装飾いっさいなしという雰囲気なのだが、京都三十三間堂ちかくのパークホテル大広間で催されたパーティーは、なかなか派手な歌舞音曲に彩られていて楽しかった。

 それをみていて気づいたことが何点かある。
 ひとつは生徒の「文化」のこと。
 とにかく今回は、ラップ、ダンス系のステージが花盛りで、その頂点に倖田さんのステージ——大写しで「TAKE BACK」の全プロモを映した後、本人の歌というネンのいれようだったのだ!——があるという感じになっていた。さすが彼女はプロになっていて、堂々たるものだった。生徒(同学年)にとっても、すでにあこがれの対象という雰囲気で、「謝恩」される教師たちなど頭から飛び越されているという感じ。そりゃ全国区なのだから当然だ。これは予想の範囲のこと。
 びっくらこいたのは、ある7〜8人のダンスチームの「すごさ」で、技術的には倖田的「プロ」のレベルまでいっているわけではないが、充分「プロ」的と思わせる衣装とたたづまいをもち、いままでにいつのまにやら研鑽してきたのだろう「努力」と「本気」さが感じられる。あー学校での姿はほんの一面だよな、といまさらながら感じる。
 ほかにいくつかのダンスやラップ・ユニット(激しめの外国の(笑)曲のカラオケ)があり、ピアノ演奏や歌曲系のうた発表がかすんでしまっていた。
 そういう何と言ったらいいのか、学芸会(学校文化)的でなく、「先端」的(トレンド的あるいはストリート的という意味)で、学校を越えて、直接「今」に接続している感じ。そういうものがあって、わりとおとなしめな学校だけに、おどろいてしまうのですね。何でしょうこの感じ。

 ふたつめは、校長のギターひきがたりの歌(泉谷しげるの「春夏秋冬」)を聴いて感じたことなのだが、まあもちあげるわけではないが、校長に理解があったのですねこの間の「ランチタイム・コンサート」の取り組みは、と気づいたのだ。学校の前庭に小さなステージを作ったのは、そういう校長の「趣味・文化」が反映しているのだろう。

 で、ここがむずかしい?ところなのだが、いまやバンド演奏は「学校文化」的になっているのかなという風に話が展開するのですね。「学校文化」的なものはダメ、「ストリート的・先端的」なものマル、といいたいのではない。そうではなくて、この線ひきは、一種生徒の意識(文化)にとって不可避なもので、「学校」的でないものにあこがれや価値を見出していくのが、生徒の論理だろうと思うからなのだ。「反抗」というほど御大層なものではないが、学校的なものは「かっこよく」ないと見えるのではないかしら。学校は「文化」を新しく産み出すところではないのかなあ。むかしからそうではないかもなー、とか考えてしまった。


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