●『水域』(椎名誠/講談社文庫)の書評
—— 名前をつけてやる(あるいはシーナ氏のSF的想像力はどこからくるのか?その2)

 

 奇妙で、愛らしくもあり、恐ろしくも、なつかしい「名前」たち。——そうした爆発的に増殖する「名前」たちによって埋め尽くされたシーナ・ワールド・SF三部作、その二番目である。

 主人公ハルが水上漂流生活で出会うさまざまな生命の描写と、「水域」そのものの多様な姿の描写がすばらしい。それらには、ほとんど全てといっていいほど、シーナさん独自の奇妙キテレツな「名前」がつけられている。もちろん物語中の現場で主人公によって名付けられているのではない。その世界に最初から自然にそうした「名前」をもったものとして、「あたりまえ」のように、それらは生き生きと活躍している。

 そこで問うてみたい。① 私たちの知っている「現実」の存在からとられた、「現実」に存在する「名前」を使わないことで、どのような効果が生まれているのだろうか? ② 増殖し続ける見知らぬ「名前」を前にして、読者は「イメージ」の喚起不能状態になぜおちいらないのだろうか(見知った「名前」なら、直接かつ容易に「イメージ」可能でしょ)?

 ひとつ手掛かりに、解説(「起源と終末の間で」)の沼野さんの言葉を引用してみよう。

 <<読者がこの不思議な「シーナ・ワールド」でまず心惹かれるのは、何よりもまず変な「名前たち」である。椎名誠はその名前の一つ一つに関して、親切な説明はめったにしない。次から次へと、これでもかこれでもかと、惜しげもなく名前を繰り出すだけだ。それは世界の背景が説明されないこととパラレルだとも言えるだろう。しかし、驚くべきことに、名前の一つ一つが妙な存在感を持って自立し、不気味に蠢き誘惑し始めるのだ。その誘惑に乗せられたとき、読者はもう「シーナ・ワールド」の虜になっている。>>

 <<読者がここで目撃するのは、現実離れしたようでいて、不思議な生命力を持った言葉たちが独自の生を生き始める瞬間である。こういった「変な言葉」(※引用者注:擬音語も含めた数々の造語された「名前」のこと)は、世界を説明しているわけではない。むしろ、世界を作りだしているのだ。>>

 要するに、「シーナ・ワールド」の秘密は「名前」にある。「名前」がシーナさん独自のSF的虚構「世界」を作り出す鍵である、ということになる。逆にいえば、見知った「現実」に存在するものの「名前」による世界描写によってでは、「現実」或いは「現実」的な作品(?)との差異(目新しさ)を作り出すことができない(難しい)ということだろう。以上が①の問いに関する一応の答え。

 では②の問い。読めば体験的に分かるように、実際には、奇妙キテレツな「名前」たちによって非常に豊かな「イメージ」を喚起させられる。本当に何か生き生きと感じられる。なぜなんだろう。
 突然話がとぶが、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の魅力の一つは、あの独特の虫たちの世界だと思う。「現実」の私たちが見知っている虫たちとは違う新奇な虫たちの世界。そのおもしろさと同質のものが「シーナ・ワールド」にもあるのかな、とも思う。

 しかし、すでに「イメージ」化されたアニメーションと、読者自身が「イメージ」を作り出すように誘発する言語作品とは、基本的に原理が異なるとも言える。(ここでの問題はあくまで「言語」の問題であるので、脱線する誘惑を避けよう。)

 そこでもういちどシーナさんの作り出す「名前」自身を注意深く観ると(解説の沼野さんが分類してくれてるのである!)、どの「名前」も、生物であれば、魚なのか、植物なのか、はたまた虫なのか、またその他のものであれば、船なのか、水流なのかが読者にわかるようになっているのである。したがって読者にとってまったく「イメージ」不可能なものは基本的に存在しない。大体の輪郭(虫なら虫という類)が提示された上で、その範囲で自由に想像力をはばたかせることができるような「スクリーン」として、「名前」たちは機能している。私たちは、基本的にシーナさんの描写を追い、その枠内にありながらも、自分の想像力をはたらかせて勝手に「イメージ」をプロジェクトできる。ここにシーナさんのSF世界の楽しさがあるのかなーと思う。

                                           (000804)


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