『アド・バード』(椎名誠/集英社文庫)の書評
  ——シーナ氏のSF的想像力はどこからくるのか?

 

 『武装島田倉庫』(新潮文庫)を読んだあとで、いてもたってもいられなくなり、その源流にさかぼる作業を開始した。シーナさんの最初の「SF」長編『アド・バード』へと。これは文庫本で600頁近くもある。まさしく長編なのだが、読む出してしばらくして波に乗ってからは、ほぼ一気に読み終わることができた。

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 まず設定と筋を要約しよう。

 この作品は、一種の<最終戦争もの>であり、その戦争による世界崩壊(カタストロフィー)の後の世界を舞台にしている。そうした設定は、SF作品を少し見渡せば、どこにでもころがっている。しかし、その「未来(?)世界」の造形の仕方において、作家の想像力が試される。

 では『アド・バード』の描く世界はどのようなものなのか。もちろん物語は、その崩壊の過程が終わったあとから、進行しているので、その世界生成の過程そのものが明示的に語られているわけではない。しかし物語内部において、その崩壊(生成)の原因と過程は、断片的に語られ、徐々に明らかになっている。まずはそれを僕なりに要約してみたい。

 『アド・バード』の世界は、「ターターさん」という天才科学者のような存在と「オットマン」という巨大企業、この二大陣営による<広告戦争>後の世界である。

 ではなぜ<広告戦争>が世界崩壊をもたらす<最終戦争>になりえたのかといえば、<広告戦争>に人間も含めて生物を動員することによってである。生物は、医学的手術や遺伝子操作のようなものを行われたりして、それぞれに特殊化した「意志」と「目的」をもたされるようになる。

 最初のうち両陣営は、生物たちの姿かたち——例えば樹が広告の役目をするような形態に変形されたり、魚が集団で「文字」を作り海に広告メッセージを産み出すなどなど——を利用することや、猿や鳥(これが「アド・バード」)に広告メッセージを「言葉」で語ることができるように改造することで、文字どうり<広告>戦争を直接的に遂行させるために生物たちを動員する。

 この動員が進むと、両陣営は相手の広告媒体=生物そのものを殲滅するような生物動員をはじめるようになる。特に印象深いのは「ヒゾムシ」だの「ワナナキ」なぞといった細菌や虫のたぐいや、「赤舌」という危険な動物、「地ばしり」という平たくて巨大な動物(?)などの生物であり、これらが直接に互いの陣営の生物を殲滅するだけでなく、結局は人間をも襲い、環境を変化させ、人間自身がひっそりとしか生きられないような荒廃した世界を作り出すことになるのである。

 ひとことでいえば、<広告戦争>が自己目的化して、商品の買い手である人間とその文明を崩壊に至らせてしまった後の世界、ということになる。

 そこで物語の筋をやっと語れるところにきたのであるが、それを詳しく語るのはやめにしたい。要するに、この荒廃した世界に生まれた「マサル」と「菊丸」という兄弟が、行方不明の父を探して冒険する物語というものである。

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 この著作が書かれた事情は、この本の目黒考二氏による「解説」に詳しい。初出の連載は『すばる』において1987年から89にかけて行われたが、この『アド・バード』には、ずっと以前に書かれた短編「アドバタイジング・バード」という「原型」がある。それは1972年に目黒氏の個人誌「SF通信」別冊「星盗人」に書かれたものである。

 「それは、広告に汚染された未来都市を舞台に、主人公がその都市から脱出するまでを軽快に描いた短編であり、その15年後に小説誌『すばる』に書いた本書『アド・バード』を読むと、短編「アドバタイジング・バード」はまったく姿を変え、別作品にしあがっているが、まさしく原型的作品だった。当時、椎名誠はデパート関係の業界誌の編集長で、その業界誌に時折、近未来の流通業界をネタにしたSF短編小説を書いていて、その「アドバタイジング・バード」もそういう一連の作品だったと思う。」

 なぜ上で物語内では断片的にしか語られない<広告戦争>のプロセスを(推論も交えて)書いたのかというと、そこに椎名さんが(1972年)当時職業上接していた広告業界という「現実」の世界と、未来に設定された「虚構」の世界とをつなぐものがあるからである。「現実」と「虚構」をつなぐ<秘密>があるなどというと大げさなのだが、少なくとも、現実の広告業界に対するなにがしかの椎名さんの批判的な精神的態度が見て取れないだろうか。広告業界にありながら(現実)、想像力と創作を通じて(虚構)いわばいかに精神的変調を来さないようににバランスをとるか、というような格闘(遊び?)が見て取れるのではないか。

 というのも、物語の一つの中心舞台である「マザーK市」は、光り輝く広告——生物だけでなく機械や光学装置による広告——にあふれた文明都市である。そこは巨大なビルと商品やサービスにあふれている。しかし生きている人間は主人公以外にひとりもいないのである。(人間も「アド・バード」やアンドロイドに脳移植されるなどして<広告戦争>に動員されてしまっているのだ!)

 まさしく「広告に汚染されて」、<広告戦争>が自己目的した後に残るのは、それらを享受する人間以外のものばかり。この異様な「文明」=「廃墟」の都市(世界)が象徴するもの、それは椎名氏の深く関わっている(いた)「現実」のアドバータイジング戦争であり、その戯画化ではないのか。そうした戦慄すべき感覚さえも与える世界なのである。

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 目黒氏は、この作品はブライアン・オールディスの『地球の長い午後』を下敷きにしていると書いている。それへのオマージュであるとも指摘している。

 私はその『地球の長い午後』を読んでいないので、それについて何ともいうことができない。が、最後にいくつか、この『アド・バード』で登場するSF的形象に関係する作品を指摘しておきたい。

 準主人公のアンドロイド「キンジョー」(彼は非常にユーモラスで、物語上重要な「人物」)に、私はリドリー・スコット監督の『エイリアン』(79年:ディック原作)で登場する人間そっくりのアンドロイドの残響を見て取った。同じ監督・原作の『ブレード・ランナー』(82年)をも想起した。

 むしろ後者の映画とその原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(68年)のほうが重要だろう。<世界戦争>後の放射能灰により、生態系が破壊され、人口が減り、オリジナルの生命は貴重になって、生命操作で人工生物が作られる世界。そして遺伝子工学の産物である人間そっくりのレプリカント(アンドロイド)。更に、広告にあふれる「未来都市」の形象。

 このような指摘をしたからといってどうということもないのだが....。ただ『ブレード・ランナー』を頭の片隅に意識しながら読んでいた私は、最後に父探しをする主人公たち自身が「人間」ではなかった、というオチを期待していたのだが......。

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