ふったのへろへろ書評(短評)



●『自分の頭で考える倫理——カント・ヘーゲル・ニーチェ
  
笹澤豊/ちくま新書 (00)

 
少なくとも日本において、哲学者、否、正確には哲学研究者は評判がわるい。いわく、「哲学者〜における〜について」なんていう論文なんて、読まれないし読んでも自分の問いに答えてくれない。そこでは筆者自身の思想さえも語っていない。いわく、現実社会で考えるべき問題へは目もくれず、視線はアカデミーの内部ばかり、等々という批判である。これはあたってなくはない。素朴かも知れないが、重要な問題提起でもあると私も思う。筆者の笹澤氏もそういうところから出発して、歴史上の哲学者の言葉も借りながら、自分のことばと体験で考え表現しようとしてはいる。しかし成功しているのか?

 上のような評判の悪さを一因にして、実は十年くらい前から、哲学界(そんなものがあればだが)は、次の二つの方向に力を割き始めていると私は思っている。ひとつは、この本もその系列に連なるわけだが、乱立する新書にさまざまな「わかりやすい」哲学入門・思想家入門の著作を出す方向。ふたつは、さまざまな社会問題に比較的直接かつ緊急に答えようとする、生命倫理や環境倫理、情報倫理などの「応用倫理学」といわれる方向である。

 これらのいわば「哲学マーケティング」は、おおざっぱにいって、玉石混淆の様相である。そんな言い方どんな領域にもあてるといえるのだが、ではこの本、玉か石か?
 石である。申し訳ないが石。「自分の頭で考える」というより、自分の(あえてアイロニカルに、なのだろうが、やはり卑近な)体験と実感でものをいい、3人の哲学者について評言を連ねているといわざるを得ない。同じ筆者の『小説倫理学講義』(講談社現代新書)にもそうした印象を受けた。

 ヘーゲル研究から出発しているその分野で優秀な人だけにおしいので、あえていわせてもらった。多分、「マーケティング」は、「迎合」になりやすいからじゃないのかなあ。(001111)


●『じぶん・この不思議な存在
 鷲田清一/講談社現代新書

 モード論でも有名な著者が、「臨床の哲学」——抽象論でなく、具体的な人間的現象、特に人間の身体現象に注目した哲学——という観点から、現代人の身体にあらわれている様々な(病理)現象を問題にしている。「身体現象」とかいうとむずかしそうだが、非常に具体的に書かれている。例えば、食べること、ファッション、皮膚感覚、他者との接触、等々記述されていることはとても身近なことである。ただ、それらを解明する言葉と論理が少しむずかしいかも知れない。(001003)


●『青年期の心——精神医学からみた若者
 福島章/講談社現代新書

 (僕は、高校で倫理の非常勤講師をしていますが、この本は、「りんり」という「教科通信」で紹介したものです。)

 高校の倫理の教科書では、たいてい第1章に<青年期心理学>を扱っていいます。高校生にとって、この青年期心理学をもう少し詳しく勉強したいならこれがとても参考になる本です。もちろん、大人にとってもとて も勉強になります。
 モラトリアム、アイデンティティ、青年期の愛と性、などなど、青年期の心模様の全体像がわかるようになっています。

具体的なケース(症例・事例)も多くのっていて、おもしろくてわかりやすくなっています。ただ、全体にすこしまじめというか、カタイ印象をもちま した。 (00/05/)


●『<じぶん>を愛するということ——私探しと自己愛
 香山リカ/講談社現代新書

 著者自身が、サブカルチャー人間として、また精神科医として同時代を生きながら、そうした自分自身を反省しつつ書いているところに誠実さを感じる。

 「アダルト・チルドレン」、「ストーカー」、「多重人格」、等々、病理現象をあらわす言葉が、マスコミを通じて流通しているが、この一種の流行の背後にある「私探し」の現象をうまく解明している。オウム、自己啓発セミナーに集まる人々の心、TOSHIや貴ノ花の「洗脳 事件」、アイドルの心理、等々同時代現象の批評も面白い。

 <流行現象としての「私探し」から少し距離をとること、このことは、いまある多様な要素を持った自分を、そのものとして受け入れ、肯定していけ ることと同じである。>——これこそ、僕なりにいいかえた、彼女のメッセージであると思う。(00/05/)


●『約束された場所で——underground 2
 村上春樹/文藝春秋

 この本はすでに超メジャーな作家・村上春樹が取り組んだインタビュー 集です。インタビューされる側は、8人の比較的若い男女たち——ある 意味この日本で最も注目されているにもかかわらず、最もその内面が知 られていない人たちであるオウム真理教の元信者と現役信者たちです。

 ご存じの方も多いと思いますが、著者である(親しみを込めてこう呼ば せてもらえれば)春樹さんは、地下鉄サリン事件の二年後に、被害者と遺 族の証言インタビューを集めた『アンダーグラウンド』を出版しています。 本著はその続編=信者編ということになります。

(前著でもそうですが)この著書で、春樹さんは作家的で微細な視点から 、マスコミによる情報の渦に隠され、触れらずに「あちらがわ」におかれて しまった「具体的な事実」を本人の証言の中に探っていきます。「あちらが わ」にいる私たちと関係ない人としてではなく、あるいはブラック・ボックス に隠れた何だか分からない不気味な人たちとしてではなく、私たちの社 会が産み出し、我々自身の内部=「こちらがわ」にあるものとして問題をと らえるために、彼らが<何を(宗教的内面的に)求めてオウムに向かう(向 かった)のか>を一人一人の言葉に探るのです。

        *  *  *  *  *

 僕にとって最も印象深い点をいくつか書かせてもらえば、
①オウム的なるものの出現は何も突然変異的なことではなく、この日本社 会に基盤と根拠があること。
②私たちの生活と意識という「こちらがわ」にこそ、オウム的なものが、オウム(元)信者と共通にもとめているものがあるということ。
更に③「倫理」という教科(注:この紹介文は、私が非常勤でつとめている 京都精華女子高校の図書館のたより用のものの転用です)と、彼らの求 める「魂の問題」(対話者の河合隼雄のことば)とは、無縁どころか密接で あるということ、です。

 春樹さんはこう言います。「日本社会というメイン・システムからはずれた 人々(とくに若年層)を受け入れるための有効で正常なサブ・システム= 安全ネットが日本には存在しないという現実」があり、戦慄すべきことに他 の宗教団体も含めて「こういう人たちを受けとめるための有効なネットが、 麻原彰晃率いるオウム真理教団の他には、ほとんど見あたらなかった」と 。そしてこれは今も変わっていない、と。

 「魂の問題」という「現世ではまず手に入れることのできない純粋な価値 」を追求する場所=「約束された場所」はどこにあるのか、私たちは「終 わりなき日常」(宮台)を生きるしかないのか、こうした問題をこの書は突きつけます。(9908)


●『自由な新世紀・不自由なあなた
 宮台真司/メディア・ファクトリー

 「はじめに」によると、タイトルが意味するのは、①「自由な新世紀」=「近代成熟期という新しい社会段階」、②「不自由なあなた」=「近代過渡期に形成された古い実存形式(生き方の作法)」であり、①と②のあいだの齟齬であります。

 その齟齬の力学によって、日本においては様々な社会問題化した犯罪や病理的現象・ひとびとの「生きにくさ」=「不自由さ」が生まれると、宮台さんは社会学的に分析します。そして著者自身も含めた不自由な実存形式をもつひとびとに対して、<<妥当な自己像>>と<<この新しい自由な新世紀を「生き延びる」ために必要な実存的な智恵>>を提供してくれるとのことです。

         * * * * *

 まず宮台さんは、本書の半分を占める「第一章 世紀末相談」で、様々なタイプの問い——例えば「馬鹿男たちが叫ぶ真実の愛なんて存在するのか?」とか「終わりなき日常を生きることに意味はあるか?」といった問いに——に答えることを通じて、その<<自己像>>と<<実存的な智恵>>が提供します。

 その成否はいかに? 結論ととしては、結構読ませます。直接答えるくだりよりも、その前のうんちくが。ただし、直接の解答は、わりと妥当で、ある意味あたりまえの<<智恵>>を披瀝するに留まっています。このあたりまえさは恐らくそもそも相談内容に起因するのでしょう。相談者に自意識と自己分析が足りない感じ。こういっちゃなんですが、相談に漂う少し滑稽な感じやバカっぽさにヘキエキとなりました。(もちろん、私にいま悩みや不自由さがない、なんてことが言いたいのではありません。)

         * * * * *

 この本で重要なのは、雑誌掲載の文章を集めた後半です。後半は著者自身の宣伝を裏切って、<<智恵>>を提供するというよりはむしろ、従来の彼の著作のように、「実存」と「制度」の鋭い(と私は評価しますが、本人は啓蒙的と述べる)分析とかなり具体的な「制度」改革の提言とが行われます。

 分析される事象を列挙すれば、不条理な暴力に訴える少年たちと家庭・学校環境、ひとを刺そうとスタンバっている若者とストリート文化、買売春や性の自己決定をめぐる諸問題、脳死問題と死の自己決定の問題、「戦争論」問題、盗聴法、天皇制問題、などなど広範です。率直にとても勉強になりました。線も引いて、いくつか付箋も貼ったりしました。キーワードは「自己決定(権)」と「承認」だと思います。が、それについてはまた稿をあらためて論じてみたいと思います。 (000808)


●「
 椎名誠/『鉄塔のひと その他の短編』新潮文庫 所収

  いつも見知っている父が、ある日外見も行動も変わらないにも関わらず、何か別のものにすり替わり、立ち現れる怖さを描いたディックの短編があった。(「父に似たもの The Father-thing」大森訳『時間飛行士へのささやかな贈物』所収。他の翻訳もある。)

 シーナさんのこの短編はその逆になっている。
 もしある朝<見知らぬ女>が家に居てまるであなたの「妻」のようにふるまいだしたらどうだろうか。あなたはその困惑を隠さずに率直に「あなたは誰ですか?」とたずねるだろうか。
それともいぶかしくおもいながらも「なぜだろう?」と頭に?ハテナを充満させながらついつい調子をあわせてしまうだろうか。

 後者であれば、あなたは立派にシーナさん的登場人物になる資格をもつだろう。

 思わずその<見知らぬ女>を拒絶にできずに逡巡してしまった作家らしい主人公は、あろうことか、自分がおかしいのだろうかとさえ考え出してしまう。夕方まであれやこれや考えたり、精神科に相談しにいったりした末に、ラストで二段構えのカタストロフィーが生ずる。

 一段目だけであれば、<あなたは「妻」の姿を本当に見ていますか?>と問いかける教訓ものに終わるが、二段目があることで....、おっとこれ以上は作品を実際に読んで楽しんでください。 (000813)


●『武装島田倉庫
 椎名誠/新潮文庫

 これは純然たる「SF」である! 純粋(?)「小説」でも、自伝的「小 説」でもない。「岳」もの、「探検隊」もの、「旅」もの、「映画」ものでも ない。正統派ホンカク「SF」なんだなあ。バラードP.K.ディックハインライン(古いっすか?)にもまけない異常世界をつくりだしている 。この短編連作集はおもしい!

 僕は、みちのすけや他の熱心なシーナ読者に比べると、まったく 不熱心で浮気な一シーナ読者に過ぎない。その僕のなかに、なんと なく、彼の膨大な作品群に対する二分法が存在している。<虚構> のシーナ・ワールドと、<現実>(から材料をとり、そこに根ざした)シ ーナ・ワールドである。この二分法は、あまりに素朴であり、誰もがい うことかもしれない。けれどおもしろいことに、椎名さん自身がある短編小説集の「あとがき」でいっているのだが、フィィクショナルな「小説 」にこそ自分があからさまに出ている気がして、自らの自意識が刺激 される、らしい。僕は、こうした意味でも<虚構のシーナ・ワールド> をかうし、実際そちらのほうを好んで読んでしまう。

 この本の物語が舞台にしているのは、ある最終戦争後の世界にお けるある国の国境地帯とおぼしき地域——それも(シーナ的固有名詞がふんだんにちりばめられた)山脈や川、湾、海岸、そしてその周 辺にいくつかの廃墟の街が存在するかなり広い一地域である。この世界はいたるところ廃墟である。秩序は失われ、略奪が横行する混沌とした世界である。

 人間世界だけが荒廃しているのではない。この 世界で最も印象的なのは、数メートルあるいは数十メートルもの油泥の層が表面をのったりと覆い、異常進化した奇怪な魚類が人間を襲 う「湾」と「海」である。この油は最後にはこの地帯を飲み尽くすことに なるのであるが、それは想像を絶する仕方で「行われる」。(この秘密は実際に本で確かめていただきたい。)こうした世界で生きる人間達の商売・戦い・冒険のエピソードが描かれている。

 なぜ椎名さんは自らの虚構世界に自分をみてしまうのだろう? 直接自分が描かれていないにも関わらず。夢の世界なのか、自分の欲望がでているのか。このテーマはもう少し彼の本を読んで考えよう。(000720)    


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