旅立ちの時

 

 

 

荷造りの手を止めてふと窓を見ると、外は雨だった。

冬の終わりの雨はどこか暖かく、優しげな感じがする。

…恵みの雨。春がきて、いっせいに芽吹く草花。さえずる小鳥たち。

そして、春は別れの季節—。

…俺らしくもなく、感傷的だな。

気分を元に戻し、再び荷造りをしかけたとき、その姿に気づいた。

前かがみに傘をさし、でもその傘が何の役にも立たないような勢い

でこの屋敷を目指して走っている少年。

…あれは、滝か?それとも、来生か…

こんなことをしそうな2人を、思い浮かべる。

どちらにしろ、俺に用のある奴に違いない。俺は、立ち上がって部

屋の扉を開けた。

「まあ!井沢様!いったいなんですか、その格好は…」

…井沢?え、井沢!?

俺は慌てて階段を下りる。

見ると、玄関にはびしょぬれの井沢と、うちの家政婦であるおトキ

さんが立っていた。

「あ、若林さん!」

「井沢…どうしたんだ?」

サッカーの時以外はいたって温和で、急きも慌てもしない井沢が息

を切らしている。

「良かった…若林さん、まだおられたんですね。今日、学校休みだ

ったからてっきり…」

ほっとしたように笑う井沢。

…そんなことのために雨の中を、ずぶぬれになるほど必死になって。

「…まだ、行かないですよね…?」

何も言えずに、井沢を見る。揺れる瞳。

「はいはい、ストップ。積もる話は後にしてください、お2人とも」

おトキさんが俺たちの間に、割って入る。

「井沢様、とりあえずお風呂へどうぞ。坊ちゃまのお着替えを、お

貸ししますから」

「え、あの、俺…」

問答無用で連れ去られる、井沢。

…すまん、井沢。俺もおトキさんには逆らえないんだ…。

やがて、戻ってきたおトキさんは、俺にタオルを渡す。

「さ、坊ちゃんも」

「え、俺も?」

 

「ふう…」

若林さんちの風呂は、広い。風呂桶だけで、うちの風呂場の2倍…

いや、3倍ぐらいあるんじゃないかと思ってしまう。

手足をゆっくり伸ばして、くつろぐ。…いい気持ちだ。

大きな窓の外には、裏山へ続くらしい岩壁が見える。上のほうから、

細い小川が小さな滝を作っている。なんだか、温泉に来たみたいな

気分だ。

何度かお邪魔したことがあるこの家だが、さすがに風呂に入れても

らうのは初めてだ。

…いてもたってもいられなかった…

西ドイツへの、留学。その話は、突然だったけど。

俺は、なんとなく分かっていた。

岬が旅立ち、翼も旅立とうとしていた。奴らとともに、世界を目指

すべき人である若林さんがどうして日本にいるだろうか?

…見送りなど、照れくさがる人だから。黙って、行きかねない人だ

から。

だから、来てしまったのだ。言い残した言葉が、あるような気がし

て…。

「井沢、入るぞ」

「へ、あ、わっ!」

突然かけられた言葉に、俺はびっくりしてもぐってしまう。

ガラガラと、戸が開く音。ザバア、というかかり湯の音。

プハッと息を吐きに顔を出したとき、若林さんは俺の隣でくつろい

でいた。

「…何、遊んでんだ?」

「え、いや、その…はは」

照れて笑う俺に、若林さんも笑う。…初めてだ、この人のこんな表

情は。

「おトキさんがさ、『裸の付き合いが大事です』って、言うんだ」

「はあ…裸の付き合い、ですか…」

「笑っちゃうだろ?あの人、まじめに言うんだから」

くすくす笑う若林さん。案外、それはあたっているのではないかと

も思う。

普段からは想像もつかないほど、リラックスした顔つき。

「…どうしても、行くんですか」

思わず、そう聞いてしまったのも、無理はなかったんだ。

「…ああ」

若林さんも、素直に答えてくれた。

「日本で、もっといろんな事を学びたいとも思う。だけど、見上さ

んは言うんだ。何を勉強するにしても、早すぎるって事はないって」

この年にしては、少し大きい手のひらを若林さんは広げて見せる。

「…世界を知りたい。翼や、岬や、日向に初めて出会ったときみた

いに、どきどきしたいんだ。…この手が、どこまで通用するか、試

してみたいって、心から思う」

ぎゅっと、握り締められるこぶし。

「つかみたい、夢を」

そう、力強く言う横顔が遠い。

…いつまで、追いかけていられるのだろう。

翼や、岬とは違う俺。ただの、凡人に過ぎない俺。

若林さんが描く未来には、俺の姿は入っているんだろうか…?

「井沢」

「は、はい」

「南葛に、行けよ。翼とともに、サッカーを続けろ。きっと、お前

のためになる」

「…そうですね」

若林さんのすすめに、俺はうなずいた。

進む道は、遥かに違うかもしれない。だけど…。

だけど、この人と出会えたこの奇跡を、無駄にはしたくなかった。

 

…結局あれ以来、井沢には会えなかったな。

俺は、空港で手続きをする見上さんを待ちながら、ぼんやり考えて

いた。

昨日、それとなく滝と来生に電話を入れておいたところ、井沢はあ

の雨の日以来休んでいるらしい。…風邪を引いたのだろう、きっと。

出発ロビーには、見知った顔はいない。今日、出発だとは誰にも言

わなかったから。

「…源三、行こうか」

「はい」

スーツケースに、手をかけたそのときだった。

「…さん、若林…さん…!」

…え…井沢の…声?

振り向くと、出発ゲートの手すりの向こうで井沢が手を振っていた。

「井沢…」

ひょっとして、あいつ、見送りのために休んでいたのか…?

俺が、黙って出発しようとしていたことに気づいて…。

井沢は、大声で言った。

「言い忘れたことがあったんです!…俺…俺、あなたをずっと追い

かけますから!」

それを、言いに来たのか…?

…参った。お前って奴は…。

「ああ、待ってる。今度会うときは、全日本だ。いいな?」

誓ってやるよ、井沢。俺は、決して負けない。

いつか、お前と再会するときまで—。 

END


 

全然、小学生の会話じゃないです(-_-;)

若林くんにとって修哲3人トリオは、翼なんかと違った意味で大事

だったんだと思います。

とりあえず、井沢くんが好きなので書いてみました。

ちなみにおトキさんというのは、完全フィクションです。

もちろん、家政婦さんは居たでしょうが。

 

 

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