解き放たれた想い

 

 

 

パソコンの周りは、きちんと整理されていた。

あふれていたデータも片付けられて、誰が見てもわかるようになって

いた。

電源が入りっぱなしのパソコン。ディスプレイの下に貼られていた「切

らないで。1日1回はメールチェックして」というメモは、確かに哀

の文字だった。

 

「これを…これを、どうしろって言うんだ、灰原…」

パソコンの前に立つコナンの声は、怒りで震えていた。

「新一…哀くんは何をしようとしとるんじゃろ…」

おろおろとうろたえる阿笠博士の声が、それに重なる。

哀がいなくなっていることに、博士が気づいたのはだいぶ遅くなって

からのことだった。

留守番を頼んでいたコナンに連絡をとると、彼女は散歩から戻ってき

ていたという。

コナンが帰った後、また出かけたのかなと博士が何の気なしに地下室

を覗くと…その中の様子が一変していたのだった。

そして、机に置かれていた手紙。今まで世話になった礼と、パソコン

のデータについての記載のみが書かれていた。

博士の連絡で、駆けつけてきたコナンは、手紙をぎゅっと握りつぶし

た。

「新一…」

「あいつ…あいつ、組織に戻るつもりだ…」

「なんだって?!どういうことじゃ」

驚愕する博士に、コナンは苦々しい口調で言う。

「前、あいつ言ってたんだよ…APTX4869の開発は終わってな

いって。あいつの力は組織にとって、まだ利用価値があるって…」

「そんな…じゃあ、哀くんは…」

「…ああ。あいつ、組織に戻って研究続けるんだろうよ。人殺しの薬

を、な…」

自嘲めいた笑いを見せるコナンに、博士は言葉を失っていたが、突然

我に返ったように叫んだ。

「何を言っておるんじゃ、新一!哀くんが、そんなことするわけない

じゃろう!」

「…博士こそ、何言ってんだよ。あいつは組織の人間だぜ?俺たちを、

裏切るなんてたやすいことだよ…」

「新一…」

その時、博士はふいに気づいた。コナンの体が、小刻みに震えている

ことを。

それは、怒りというよりむしろ…。

博士はコナンの肩を両手でしっかりとつかみ、激しく揺さぶった。

「しっかりしろ、新一!それは、お前の本心じゃないだろう!」

コナンは黙ったまま揺さぶられていたが、ふいに、カクンとひざを折

った。

「新一…」

「博士…博士、俺、いいのか…」

「新一?」

コナンは、ぎゅっと両手のこぶしを握り締める。

「俺…あいつのこと…追いかけていいのか…?」

博士ははっと息を呑む。コナンは、もちろん博士と同じ結論に達して

いたのだ。

哀が、解毒剤を完成させるために組織に戻ろうとしていることを…。

「もちろんじゃ、新一!哀くんを…あの子を救えるのは、お前だけじ

ゃ!」

その言葉にコナンは立ち上がると、迷いを振り切るかのように強く前

を見据える。

「まず、あいつが組織と接触しそうなところを調べなければ…博士、

手伝ってくれ!」

 

 

「しほ!こっちだってば!」

「まってよ、おねえちゃん!」

緑の中の、新しいおうち。お姉ちゃんと私。

「しほ、ほら、どんぐりがおちてるよ!」

お姉ちゃんが、地面を指差して笑う。

幸せな、幸せな、泣きたいくらい幸せな…

 

…やっぱり、夢…

哀は目を覚ますと、都合の良さに苦笑した。

寝返りを打つと、薄く埃の積もった室内がぼんやりと朝日に浮かぶ。

ここは、かつて哀が姉妹2人で世話になっていた家。

組織の一員として、2人とも別れて暮らすようになる前に、ほんの数

ヶ月だけ過ごしたところであった。…哀にとっては、唯一の優しい思

い出の場所。

組織に入ってからは、哀のたっての希望であの頃のまま、保存されて

いた。昔は時々そうじに来ていたが、今となってはどうして残されて

いるのか不思議なくらいであった。

…多分。多分、あいつらは私がここへ立ち入るのを待っている…。

哀は、そう確信していた。だからこそ、ここであいつらを待っている

のだ。

ポケットの中の小瓶には、試作品のAPTX4869の解毒剤が数錠

入っている。

…つかまる直前に薬を飲めば、何とかなるだろう…

あいつらに捕まり、組織に戻るふりをして、APTX4869の解毒

剤を完成させる。そのために必要なデータは、すべて組織の中にある。

完成させた後はそのデータを阿笠博士に送り、自分はデータ共々存在

を消してしまう。

うまくいくかは分からない、まさに命を賭けた方法を、哀は実行しよ

うとしていた。

哀は、体を起こしてほこりを払う。昨日、ここへ来てから軽く掃除は

したが、数年分の汚れはなかなか落ちそうにない。

「まさに、‘灰かぶり’ね…」

自分の姿がなんだかおかしくて、哀はくすくすと笑う。『灰原哀』とい

う名前とも、もう少しでお別れだが、本名と同じくらいいとおしく思

えてくる。

『灰原…』

そう呼んでくれた、彼。工藤新一…いや、江戸川コナン。

人生の最後にようやく出会った、頼もしい友人。そして、片思いの相

手。

…なんだか、普通の女の子みたいじゃない?

内緒の初恋も、クラスの人気者へのほのかな想いも、自分には関係の

ない話だと思っていた。

小学1年生をやり直して…それが経験できたのは、ラッキーだったか

な。

『灰原…』

ほら、彼の声が聞こえる。

想い出は、十分だ。

「灰原…」

…………?

「灰原っ!どこだっ!」

…え!?

幻聴じゃ、ない!

哀は腰掛けていたソファから慌てて立ち上がると、少しだけ開けてい

た窓から、下の道路を覗き見る。

転がっている、スケートボード。そして、全身で叫ぶ小さな体。

ばたんっ!

哀は思わず、窓を閉めてしまう。なぜ、彼がここに…?

しかし、戸惑っているひまはない。奴らが現れないうちに、彼を隠さ

なければ…

飛ぶように階段を下りると、哀は玄関から走り出た。

「灰原!」

「ばかっ、何してるのよ!早くこっちへ!」

哀は強引にコナンの腕を引っ張ると、家の中に引きずり込んだ。すば

やく周囲を見回し、人影がないのを確認して自分も引っ込む。

かちり、と鍵をかけて、哀はふうっと息を吐いた。

「何やってるのよ、あなたは…」

「…何やってるか、だと?」

コナンの低い声。その声に激しい怒気が含まれているのを感じ、哀は

ぴくっと体を震わせる。

締め切った家の玄関。その薄暗がりの中では、彼の表情が哀にはよく

見えない。

「お前こそ、何やってるんだ」

「何って…見ての通りよ。ここを突き止めたあなたなら、分かると思

うけど」

答えながら、哀はぎゅっと胸が締め付けられるような痛みを覚える。

「…冗談じゃねえぞ…」

「えっ…」

「冗談じゃねえ、って言ってんだよっ!!」

いきなりコナンは哀の腕をつかむと、ぐいっとひねり上げる。

痛いと言いそうになって、哀はコナンの怒りに燃えた目に息を飲む。

今まで、見たことないような彼の冷たい怒りの表情。

「いまさら、組織に戻ってどうしようっていうんだ!殺されるかもし

れないとこに、みすみす戻るバカがいるかよ!」

「……」

哀は答えない。

コナンは少し手を緩めると、心底辛そうに言う。

「何でだよ…そんなに、俺のことが信用できないのか?」

「なっ…」

「約束したろ?お前の研究資料は俺が取り戻すって」

黙って聞き入っている哀。…下唇を、きゅっと引き締める。

「…ええ、信用できないわね」

「なにっ…」

コナンは思わず、哀をにらみつける。彼女はうつむいていた顔を少し

上げ、いつもの苦笑めいた冷笑を浮かべた。

「アナタより、組織のことは知っているつもりよ?工藤新一ならとも

かく、アナタが江戸川コナンである限り、あいつらには勝てない…」

バシイッ

勢いよく、哀の頬が鳴る。見る見るうちに赤みを帯びる頬と…コナン

の右手。

「…勝手にしろ」

そう言い捨てて、コナンがドアを開けようとしたその時—。

表で、車の止まる音。2人の体がぴくんと硬直する。

くぐもったような、はっきりしない男の声。

…あいつらか?

…分からないわ。

視線だけで会話を交わすと、表をうかがうコナンと哀。

何を話しているのか分からないが、男が2人いる様子だ。

ドアを薄く開けようとするコナンを、哀は手で止めた。

そして、その瞳にありったけの想いを込めて、コナンを見つめる。

(灰原…)

その表情に、身動きが取れなくなるコナン。

(…さよなら)

哀は笑みを…この上なく優しい笑みを浮かべて、彼に別れの言葉をつ

ぶやいた。

ポケットから、取り出す小瓶。

その瞬間、コナンは哀を力いっぱい抱きしめた。

「ちょっ…」

小声で抵抗する哀。薬が飲めなくて、身をよじろうとするがコナンの

腕に阻まれる。

「行くんじゃねえ!」

「…だけど、解毒剤が…」

「お前を失うくらいなら、このままコナンでかまわねえよ!」

「工藤…くん」

哀は、抵抗を止めて戸惑ったようにコナンを見つめる。

2人が見つめ合ったその時—

どんどんどん、と玄関のドアが叩かれた。哀を抱いた手に、力を入れ

るコナン。

「新一〜?いるのか?」

博士の呑気な声。コナンと哀はふうっと力を抜いたが、慌ててドアを

開けた。

「哀くん!心配したぞい!」

「博士、話は後だ。行くぞ、灰原」

「え、あ、ちょっと待ってくれ、新一!」

コナンは哀と博士の腕をつかむと、博士のビートルに乗り込む。

ビートルの後ろに止めてあった車から、小五郎が顔を出す。

「何やってんだ、お前は。博士が無理やりついて来いと言うから、何

かと思えば…」

「おっちゃん、先行くね〜…博士、早く!」

子供の声で小五郎に答えながら、コナンは博士に指示を出す。

「まかせておけ」

博士は、哀が無事だったことに喜びを隠せない様子だ。

走り出した車の中から、哀は後ろを振り返る。

思い出の家。もう、後しばらくはこないことだろう。

…計画は、これで失敗だ。そう思いながらも、自然と顔がほころぶ。

「痛かったか?」

「え…あ、大丈夫」

哀は、そっと片手を頬にあてる。忘れていた痛みがよみがえり、少し

ジンジンする。

「その…悪かったな、ひっぱたいちまって」

黙って首を振る哀。

「新一!!お前、哀くんに手を上げるとは、なんて事を!」

代わりに怒り出す博士。

「だからこれには訳が…」

「言語道断じゃ!嫁入り前の娘に、手を上げるなど…責任は、とるの

じゃろうな!?」

「はあ?待ってくれよ、博士〜」

2人の会話に、思わず吹き出す哀。

泣きたいくらいに幸せとは、今のことを言うのだろうか…。

 

その夜。哀が帰ってきたお祝いだと、3人でささやかな宴会をした後。

寝入ってしまった博士を部屋まで送ってきたコナンは、哀を誘った。

「その…良かったら、少し話をしねえか…?」

空には、薄明るい上弦の月。ぼうっと照らされた、ベランダ。

「あの…話って…」

月光に淡く彩られた哀の横顔に、見とれていたコナンはばつが悪そう

に照れ笑いする。

「…無理すんな」

「え?」

「お前、無理しすぎなんだよ…見ていて、こっちが辛くなる」

哀は、コナンを見つめる。彼は、何が言いたいのだろう…。

「つまり…その、今回のこともそうだ。何で、こんな無茶するんだよ。

かまわねえから…待っててやるから、無理せずに解毒剤作れよ…」

コナンは、そこで言葉を切り、切なそうに哀を見つめる。交差する、

2人のまなざし。

「俺の、為なんだろう?あんな風に、命まで賭けたのは…」

哀は、答える代わりに目を伏せる。

「うまく言えねえけど…俺…」

「…工藤くん」

「ん?」

「違うわ…私のためよ」

思いがけない哀の言葉に、コナンは彼女をいぶかしげに見る。

目を伏せたまま、哀は言う。

「早くあなたを元の姿に戻さなければ…そうでないと、私…」

…あなたに、惹かれ続ける心を押さえられなくなる…

「…なんだっていいさ。お前が、ここにいるのなら」

口ごもってしまった哀を、コナンはそっと腕の中へ抱え込む。

「うそじゃねえよ、あん時の言葉は。お前を失うなんて、考えたくも

ねえ…」

…いいの…?あなたを、好きなままで、ずっと…

哀の頬を、伝って流れ落ちる涙が光る。

月光は、静かに降り注ぐ…。

 

END


 

完結編…ってわけでもないのですが、一応これで2人の気持ちが通じ

ました。

これからの展開については、まあ気長に書こうかなと…。

まだ、コナンの気持ちは不安定ですからね。信用できません(笑)

しばらく続くと思います。

 

 

 

 

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