存在理由

 

 

 

…だめだ。

哀は、両目の間を指で押さえると、目を閉じた。

彼女の前のディスプレイには、“ERROR”と書かれた赤い文字が

点滅している。

…やはり、最後の化学式の組成がうまくいかない。

パソコンの周りには、プリンターから吐き出された膨大な数のデー

タと、様々な薬品のビンが並んでいる。

阿笠邸の地下室。それが、哀に与えられた仮の研究所である。彼女

はここで、APTX4869の解毒剤を作りだそうとしていた。

目をゆっくり開いても、文字は変わらない。

哀は、ふうっとため息をついた。

…早く、解毒剤を作り出さなければ。

その、使命感とも言うべき思いは、日に日に強くなっていくばかり

だった。

「…哀くん」

恐る恐るという感じでかけられた声に、哀は振り向いた。

ドアの隙間から、阿笠博士がそっと顔を覗かせている。

「どうしたの?」

「そのう…哀くん、無理はイカンよ無理は」

心配そうな博士の声。正直な話、退院してから学校にも行かず地下

室にこもる哀に、ずっと心を痛めていたのだ。

そんな博士の気持ちを、哀は理解する。彼女の顔に、ようやく笑み

が浮かんだ。

「…そうね。散歩でもしてくる」

 

哀は、あても無く米花町をさ迷い歩いた。頭の中は、研究のことで

一杯だったが。

解毒剤の研究は、完成まであと一歩のところまで来ていた。ただ、

解毒剤の持続時間を半永久的にする、最後の化学式…それの組成が

どうしてもわからない。

…ひとつ、方法がないわけじゃない。でも、それは…。

その時、哀の瞳は一人の女子高生をとらえた。

長い髪、優しげな笑み。工藤新一の幼なじみ、毛利蘭。

ほぼ同時に蘭も、前方から近づいてくる小学生に気づいた。

帽子をかぶり、めがねをかけているけど、あれは確か…。

「哀ちゃん?灰原、哀ちゃんね?わぁ、もう大丈夫なの?」

親しげに声をかけると、蘭は哀に向かってにっこり笑う。

「…おかげさまで」

哀は、うつむいたままだ。

「あら?元気ないわねえ…ようし、それじゃお姉さんが、退院祝い

に何かおごってあげるわ♪」

「え?あ、ちょっと…!」

パワフルな蘭に引っ張られ、哀はあれよあれよという間にドーナツ

屋へと連れてこられていた。

カウンターに、二人並んでドーナツをほうばる。

「ん〜おいしい!」

心底嬉しそうな蘭に、哀の表情も和らぐ。しかし、それは蘭の次の

言葉で掻き消えた。

「新一とも、よく来たんだ〜あいつ、男なのに甘いもの好きなんだ

よね〜」

…そう。工藤君と…。

ドーナツを前に、時間を忘れて笑いあう二人が、見えるような気が

した。

 

私が、あんな薬さえ作らなければ。

今も2人は、ここでこうやって幸せな時間を過ごしていたことだろ

う。

私が、狂わせてしまったんだ。彼の運命も、何もかも…。

 

「ちょっと、哀ちゃん?大丈夫?具合悪い?」

「え…あ、平気…です」

蘭は、ほっとしたようにうなずく。そんな彼女を見て、哀は思い切

って聞いてみた。

「あの…工藤…さんのこと、待っておられるんですよね?」

「え、あら、やーだ、コナン君ね?もう、おしゃべりなんだから」

うっすらと頬を赤く染めて、まんざらでもなさそうに笑う蘭。

「約束っていうか…あいつ、待っててくれって言ってくれたんだよ

ね…。だから、私は待つんだ…いつか、また…あそこに連れて行っ

てくれる日を」

夢見るようにつぶやく蘭の姿を、哀は悲しげに見つめていた。

 

…そう。APTX4869で、工藤君が死なずに済んだのは、きっ

と彼女のおかげだ。

工藤君は、彼女を守るために生まれてきたのだ。それが、彼の存在

理由。

そのため、あの強い毒薬も彼の『想い』にはかなわず、幼児化する

のが精一杯だった…。

彼の、『想い』を邪魔しているのは私。

それなのに、私は…私の存在理由を彼に求めてしまっていた。

めぐり合えたのは、必然だったと。

ひと1人…いや、彼に多くの人の運命を変えた私に、そんな資格あ

るはず無いのに。

 

自分にとって、最後の手段である決断を下す時が来たことを、哀は

感じていた。

彼に…工藤新一に、運命を取り戻させる。

…私の運命に、変えてでも。

 

「…どうしたの?」

蘭と別れ、阿笠邸に戻ってきた哀が見たのは、ソファに座って雑誌

を読むコナンの姿だった。

「…そりゃあ、こっちのセリフだ」

雑誌から顔も上げず、コナンは答える。

「退院してるはずなのに学校に来ない、おかしいって騒ぎ立てるあ

いつらの代わりに、様子を見に来たんだよ」

不機嫌そうに言うコナンに、哀は無言でコーヒーをいれる。

「博士は?」

「買い物。…お前がお腹すかして帰って来るだろうから、ってな」

「そう…」

哀は、コナンに背を向けたままでつぶやく。そんな彼女の後ろ姿を、

コナンはちらりと見た。

彼女の愁いを帯びた微笑。…小学1年生が見せる顔じゃねーな、と

思う。

「…あんまり、心配かけるなよな。あいつらにも、博士にも…」

そこでコナンは口ごもったが、思い切ったかのように言う。

「俺にも、だ」

コナンの意外な言葉に、哀は思わず振り返る。2人の視線がまとも

にぶつかる。

言葉に出来ない想い。

形にならない気持ち。

先に目をそらしたのは、コナンだった。

「…じゃ、俺帰るわ。博士の料理、食わされても困るし」

コナンは立ち上がると、哀の後ろをすり抜けて出て行った。

彼の気配が玄関から消えると、哀はすとん、とソファに腰を落とし

た。

…心配。その響きが嬉しい。

もう…十分だ。思い残すことは無い…。

 

博士が帰宅したときには、すでに哀の姿は無かった。

 

END


 

結構、いやなとこで終わってますよね。

今回のは、哀ちゃんが蘭のことを気にするという話。

銀色夏生さんの詩に、「彼の彼女ということは、みんなが知ってる彼

のみんなが知ってる彼女ということ」という文があるのですが。

哀ちゃんにとって、蘭は「コナンの隣を許された人」だと思ってそ

うだし、コナンにとって大事な人なら身を引くべきだと…自分にそ

んな資格は無いと考えそうなので。

 

 

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