雑踏の中、その瞬間...

 

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 2003年9月12日

雑踏の中、その瞬間、平和はなかった

 

 「東京の人は冷たい」なんて聞くと、優しさや思いやりを持ち合わせている東京の方、切なくなりませんか?私は今でも、東京の方だからという理由だけで心が「冷たい」人とは思えません。けれどもあの日、朝の満員電車から降りて、新宿駅の階段方向へはけていく人々の群れの中に、平和はありませんでした。少なくとも、あの紺のスーツを着た長い黒髪の女性の周りには。

 

 私はその日、朝早くに家を出て、友人の一人と共に東京へ出ていました。私たちが乗った時には座ることのできた箱の空間が、目覚めた頃には目の前にネクタイが並んでいて奥のほうに目をやると本を持った手や、遠い向かいに座る人の眠った頭が揺れていて、私たちの周りには見ず知らずの人の足が、所狭しと床をうめていたのです。東京の平日の朝に、遊びに行くような格好で眠っていたのは私たちの他に何人いたでしょうか。私は似たような装いの人を見つけようとして窮屈に視線を右から左へ移すと、隣に一人見つけただけですぐに探すのを放棄しました。それから新宿駅までまだ時間があることを確認すると、身動きがほとんど取れない電車に揺られるのを感じながら、朝逃した睡眠をとるためにまたまぶたを落としたのです。

 どのくらい夢の中にいたのでしょうか、不思議なもので、次に目が覚めたときにはちょうど新宿駅停車に向けて電車が速度を落としたときでした。私は少し慌てながら隣の友人を起こすと、私たちの代わりに席を手に入れようと行く手を阻むお腹や腰をかき分け、ホームに降り立ちました。振り返ると友人がいません。見渡せどスーツ姿の人の群れが、私を邪魔そうにさえせず一定の速度で流れていきます。人の声はしません。靴がコンクリートの上を歩く音が幾重にも重なり合ってざわついているだけです。360度体を回して、5mくらい先できょろきょろとしていた友人と視線が交わり、駆け寄ろうとしたのですが、大きな背中が私の視界を明るい黒に染めたのです。その瞬間でした。

 「はぁ〜!?」

 私の左耳にかすかに届いた若い女性の声でした。振り返ると、黄色と茶色が入り混じった髪の色をした、かわいらしく服を着こなした女性が、せっかくのお化粧も台無しになるようなしかめっ面で右下の方を見つめていました。私たち以外にも遊びに行くらしき格好をした人が乗り合わせていたのです。そう感じると同時に、彼女の視線の先に何があるのか、私はたどってみましたが、隙間なく流れる人々の鞄やら腰やら手やらが見えるだけです。落とし始めた私の目には、視線とは逆方向にピンクの薄い上着と明るい茶髪の頭が消えていくのが映っていましたが、その若い女性よりも、彼女が残した視線の先にあるものに気をとられ、私の足はもどかしくも流れに逆らい一歩、二歩と踏み出したのです。「何だろう?」と思う以外、何の感情もありませんでした。心配でもないし、緊張もしていません。ただ、足が向いたのです。

 しゃがみこんだ人間らしき姿が明るさを取り戻し始めた足元の先に浮かび、靴のざわめきが私の耳から消えるまで、電車を降りてから、1分あったかなかったかの出来事です。血の気が引くのを感じながらも、見る見る薄くなる人の群れの流れに逆らいながらしゃがみ込んだ人間らしき姿が、紺のスーツを着た腰まで届きそうな黒髪の女性であるとわかったときには、群れが立てた音はおとなしくなっていきました。わずかな影が私の前後を行き過ぎて行くのを感じて、私の心には「声をかけたら余計なお世話かな?迷惑かな?」という思いがよぎりました。けれども次の瞬間、ほんの一瞬少し顔を上げた口元に押し当てられたハンカチの隅が見えて、私は彼女の顔を覗き込みながら「大丈夫ですか!?」と声を上げていました。振り払われようと知ったことではありません。すると女性は真っ青な顔をこちらに向け、ハンカチを外した口から「駅員さんを呼んでください」と細い声を出したのです。私は立ち上がり、無意識に人がはけた跡を見渡しました。しかし駅員らしき人はいませんでした。すぐに振り返ると階段に吸い上げられる黒い塊が目に入り、その中に桃色の影が浮かんでいました。一滴も落ちてはこないし、誰の言葉も聞こえません。私には人の顔が見えませんでした。絶望と悲しみと切なさがちょっとずつ混ざり合うのを胸に感じましたが、目の前に現れた友人の顔と声が、私たちがすべきことを思い出させたのです。

 「どうしたの?」友人は言いながら視線を私の後方に落とし、少し目を大きくしました。

 「駅員さん呼んでほしいんだって!具合悪いみたい!どこかにいなかった??」

 二人で駅員さんを探していると、制服を着た人がいました。

 「具合悪い人がいるんです!駅員さんを呼んでほしいって言ってるんですけど」

 私たちの後方に目をやると視線を遠くに向けたまま、

 「じゃあ、すぐに駅員を呼んで救急車呼びますよ。」と言って、落ち着いた、温かみのある表情を私たちに向けてくれました。その人は駅員さんではなく、警備員さんだったようです。おそらくこの手のことに慣れていたのでしょう。彼は少し見渡すと、すっと歩き出しました。電車を降りて歩くわずかに残った人々の合間から駅員を見つけ出し、しゃがみこんだ女性の方をさして何か言っています。電車発車を知らせるベルがホームに響き、会話は聞こえません。二人は何かを話しながら女性に近づくと駅員さんが腰を曲げて彼女の顔を覗き込みながら何か言っています。その様子を警備員さんと話した場所から見守って、役目を終えたと感じた私たちは階段を上り始めました。後ろの気配に引かれるように感じながら、その日の予定に帰っていったのです。

 その後、黒髪の彼女がどうなったかはわかりません。

 

 

 朝、仕事や学校、それぞれの予定で忙しいのは事実でしょう。人のことにかまっていられないという気持ちも生じます。しかし、人の命を見捨ててまで守るものにどれほどの価値があるのでしょうか。目の前で倒れた人の倒れた理由は何だか知れません。軽い貧血かもしれないし、重い脳梗塞かもしれません。その人は私たちの行動しだいで生かしも殺しもできるのかもしれないのです。もちろん、そのうちには駅員さんが気づいて対応してくれるでしょう。しかし、我々の心はそれでいいのでしょうか?

 想像してみてください...

 

 寝坊をしてとるものとりあえず、着替えを済ませて電車に滑りこむ。電車は駅を過ぎるごとに人を乗せていく。もう次の駅で待っている人はこの箱の中のどこに入るんだろうか。あれ?何だかめまいがしてきた。カーブに差し掛かり電車が揺れる。遠心力でこうむったのは周りからの圧迫。私も連鎖的に周囲に圧迫をかける。人に寄りかからないように…気をつけても無駄な抵抗。湿気に満ちた空気で何だか気持ち悪くなってきた。この人の多さのせいだろうが、誰のせいでもない。あぁ早く駅に着いてくれ。あと3駅…あと2駅…いつもよりこの電車遅いんじゃないだろうか??車内アナウンスがぼやけて聞こえる。血の気が引いてここに自分がいるのかもわからない。もう少しだけど波が…うっ!限界だ!!とりあえずいったん次の駅で降りよう!!早く、早く…電車が止まる。人の流れができる。ドアが開いた!! 降りる人の流れに乗って、車外に、外の空気、早く…!!出た!支えをなくしてひざを突く。いったいどうしちゃったんだろう。誰でもいい、どうしてくれてもいい、とにかく、とにかく、「助けてください」…足音にかき消されたのだろうか??いや、みんなには私が見えないのか??私は、ここにいる!!うっ…胃から何かこみ上げるのを感じる。でもお腹から出るものなんかない。誰でもいい。私に、気づいて…!!

 

 

 自分がもし急に具合が悪くなった時、助けを求めても振り返ってすらもらえず、耳元で人々の足音だけが響いていたら、どんな思いをすることでしょうか。心に残る傷は、周りの優しい気持ちがあれば負うことはなかったのかもしれません。

 あの日の出来事は新宿駅で起きました。しゃがみこんだ女性に足を止めることなく通り過ぎた人、または、助けを求める手を振り払った人もいました。

 ほんのちょっとのことです。その人に声をかけられなかったら、駅員さんに知らせるだけでもいいのです。誰もが、足早に歩く人々が急いでいることを承知しているんです。助けを委ねるのに何分かかるのでしょう。

 自分次第で、心は温かくも冷たくもなります。目の前の倒れた人の心も温かくも冷たくもできます。自分の生き方次第なのです。

 「自分だけが〜しても仕方がない」と最もそうな理由と一緒に生きましょうか。

 「誰かのために彼を見えなかったことにするしかない」ことにしましょうか。

 子どもに、「急いでいる時に倒れた人が見えたら顔や視線を向けてはいけないよ」と教えていくことにしましょうか。

……

 あなたの心は、あなたのものです。

  


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