絆



——あそこがアズカバン・・・

 ファイアボルトにまたがるハリーの目に孤島が映った。近づくにつれ、辺りは寒くなり、胸が押し潰されるようだった。しかし、ハリーの耳にあの声は響かなかった。父と母の最後の言葉は・・・。

 その父と母をヴォルデモートに売ったとされているシリウス・ブラックは、この冷たい孤島に12年間もいた。

 真実をハリーは知っている。シリウスは父の大親友で、ハリーの名付け親、つまり後見人であるということを。

 彼は1年半前に脱獄し、ハリーに真実を伝えた。今はお互いにとって——心だけだが——2つ目の家族なのだ。

 シリウスは誰にも見つからないところに、共に逃げたヒッポグリフのバックビークと身を潜めているはずだった。事態が急変していることを知ったのは、今朝、マルフォイが日刊予言者新聞の切れ端を振りかざしながら、いつものようにクラッブとゴイルを引き連れニヤニヤ笑ってハリーのところにやってきたときだ。

 

 

 「やあ、ポッター君」

 「何だよマルフォイ。朝っぱらから顔見せるなよ。ご飯が不味くなるじゃないか」ロンがイライラしたように答えた。

 「僕が用があるのはポッター君なんだけどな、ウィ—ズリー君」

 マルフォイが気取って言うのが余計気に入らないらしく、ロンの頬がピンクがかった。

 「僕に用があるなんて珍しいな」

 ハリーも気に入らないといった声で返した。

 「その様子を見ると、まだ何も知らないみたいだな。新聞は読んだほうがいいぞ。君の新しいパパが大きく載っているからな」と言って、ルシウス・マルフォイが送ってきたばかりと見られる日刊予言者新聞の大きな切れ端をちらつかせた。

 ハリーはビクッとした。三人の目に一番に入ってきた文字は『シリウス・ブラックが・・・』

 「ハリー」ロンが緊張しながらハリーに声を掛ける。ハーマイオニーも顔が強張っている。

 「マルフォイ、その紙切れを見せてくれないか。頼むよ」

 ハリーがマルフォイに頼み事をするなんて・・・

 「無理やりひったくればいいじゃないか」

 ロンの言葉はハリーには届いていなかった。

 ——シリウスが・・・いや、そんなはずはない。彼が捕まるなんてこと・・・

 「頼むよ、マルフォイ。見せてくれ」

 「しょうがないなぁ。それじゃ、3回回って『ワン』とでも言ってもらおうか。土下座でもいいぞ。僕へのこれまでの無礼を詫びてな」

 マルフォイのいやらしいニヤニヤ顔が、いっそう酷くなった。ハリーは唇を噛み、ロンの顔はどんどん髪の毛色に染まっていく。ハリーは決心し、土下座しようとしたが、ハーマイオニ—のほうが速かった。

 「エクスペリアームズ! 武器よ去れ」

 すると、新聞の切れ端はハーマイオニ—の手に収まった。武器以外にもこの魔法は通用するのだ。ハーマイオニーは少し驚いている。

 「卑怯だぞ!」マルフォイは怒鳴ったが、ハーマイオニーのもう片方の手の中の杖は、しっかりとマルフォイに向けられている。

 「あなたがこれまでやってきたことのほうがずっと卑怯よ!」

 マルフォイは、攻撃される前に早足で逃げていった。

 「ハーマイオニ—すごい!」ロンが感心して言った。

 「早く記事を・・・」ハリーが促すと、記事はたちまち三人に囲まれた。

 

 『1年半前、アズカバンから脱獄したシリウス・ブラックを捕まえたと、昨夜魔法省が発表した。・・・』

 

 「なんですって!」ハーマイオニーが叫んだ。

 「続きを・・・」ハリーは再び促した。

 

 『マグルの街中で場所の都合が悪かったため、本日夕方に、アズカバン内で吸魂鬼の口づけが行われる。』

 

 「ハリー、どうするの?」

 ロンとハーマイオニーの声が重なった。が、その声はハリーには届いていなかった。

 ——これは・・・本当のことなのか?悪い夢だ。シリウスが・・・彼が捕まるなんて、そんな事あるわけない。

 しかし、記事は真実だった。ハリーは何も言わずに、ダンブルドアの元へと走っていった。その姿を、ロンとハーマイオニーも黙って見つめていた。

 

 

今のハリーには、シリウス・ブラックを何とか救い出すことしか頭になかった。

 ——彼は僕の、新しい父さんなんだから。

 ——それにしても、彼は何故見つかったのだろう。アズカバンの地獄を経験したことのある彼は、そう易々と捕まることはないはずだ。シリウスに、何があったのか・・・

 ハリーの頭の中では、いろいろな思いが交じり合っていた。

 ——もうすぐ陽が暮れ始める。手遅れになる前に、助け出さなくちゃ。

 ハリーは必死になって目を凝らした。吸魂鬼の姿でさえも探さなくては。吸魂鬼がいるところに、シリウスもいるはずだ。どんなに冷たくても、どんなに胸苦しくても、彼を失う絶望に比べたら容易いものだ。

それに、ダンブルドアの好意を裏切るわけにもいかない。ダンブルドアはきっと、ハリーが再び罪なき命を救うと確信して、ここへくる許可を出してくれたに違いない。彼が最も嫌う吸魂鬼の城に、大切な生徒を送りたくはなかったろう・・・。

 ハリーは一気にアズカバンに近づいた。

 ——眩暈がする。息苦しい。シリウス・・・何処にいるの?父さん・・・シリウスは何処?

 「エクスペクトパトローナム! 守護霊よ来たれ」ハリーはしっかりと杖を握り締め、唱えた。

 ——きっと父さんが、プロングズがシリウスのところに連れて行ってくれる。

 杖の先から、白い牡鹿が現れた。はっきりとした形がある。牡鹿はファイアボルトの前に出て、ハリーを導くようにゆっくりと降下していく。

 ゆっくり、ゆっくりと・・・なんと優雅なことだろう。

 ——これが僕の父さん・・・

 「プロングズ、急いで!」

 夕日は誰にも止めることの出来ない速さで、ゆっくりと沈んでいく。もう処刑は始まってしまっているかもしれない。

 ——ダメだ。僕がいくまで、頑張って、シリウス!

 ふと目を開けると、プロングズの姿が見えない。・・・下にいる。シリウスを見つけたのだ。

 ハリーも急いで急降下した。

 柱に縛り付けられたシリウス。彼の目の前の吸魂鬼は、たった今フードを取った。

 前にも一度、見たことがある。本来額があるはずのところにある、形のない口を。

 「ハリー、急げ!」自分に渇を入れる。

 「プロングズ、シリウスを助けて!」

 そうハリーが叫ぶと、牡鹿の形をした守護霊はスピードをあげ、今まさに口づけされようとしているシリウスの視界に入った。

 シリウスの、恐怖で全身が凍りつき、ハリーに再び悲しみを与えてしまう無念と、自分が犯してしまった罪の謝罪を心で渦巻かせながら、うっすらと開いている瞳に白い影が映る。

 「プロングズ・・・」細い声が、漏れる。

 牡鹿はたちまち辺りにいる吸魂機を追い払った。

 「な・・・」

 その光景を目にしたファッジは呆然としている。

 「何が起こったんだ!」

 怒鳴り声を上げて立ちすくむファッジの耳に、聞き覚えのある声が入ってきた。

 「シリウス!」

 ハリーは着地し、シリウスの元へ駆け寄った。

 シリウスは朦朧とする意識の中で、やっとの思いで声を出した。

 「ハリー・・・?」

 「そうだよ、シリウス。助けに来たんだ!」そう言って、ハリーはシリウスと柱をつなげている縄を解いた。シリウスはその場に倒れこんだ。

 「あれは・・・プロングズだね。君の守護霊かい?」

 ハリーは深く頷いた。そこに、とてつもない大きな声が飛んできた。

 「ハリー・ポッター!」ファッジだ。早足で近づいてくる。

 ハリーはシリウスの前に立ちふさがった。

 「大臣、お久しぶりです」ハリーは堂々と挨拶した。

 「君は・・・君は自分が何をやっているかわからないのかね!」

 信じられないといった表情で、声で、ハリーを問い詰める。

 「僕は、間違ったことはしていません」

 「こいつは君の命を狙っているんだ。君のご両親を『あの人』に売ったんだ。知っているだろう。さあ、早くホグわーツに戻るんだ。送らせよう」

 ファッジは無理やりハリーを引っ張った。が、ハリーは全力で踏ん張っている。

 「嫌だ!」

 「ダンブルドアがお悲しみになる。退学処分ものだぞ」

 「そのダンブルドアが、ここにくる許可を与えてくださったんです!」

 その言葉に、ファッジは顎を外しそうになった。

 「そんなでたらめを・・・。私は、君は素直ないい子だと思っていた。ここは危ない。そんな見え見えのウソをついていないで戻るんだ!」

 有無を言わさないような口調だった。が、このときのハリーに『負け』はなかった。相手が魔法省の大臣であっても、僕は間違ったことはしていない。負けてたまるか。

 「あれからまだ半年も経っていない。君は吸魂鬼の恐ろしさを忘れてはいないだろう。君が自分からここに飛び込んできたのだから、私は責任は取れない。あれほど吸魂鬼を嫌っておられるダンブルドアが、自分の生徒に許可を与えるなどありえないことだ。ダンブルドアを悲しませてはいけない。あの方は、君のために、これまでどれほどやってきたことか・・・」

 「ダンブルドアは、生徒に正しい道を進ませようとしていらっしゃいます。僕にだって同じことです。僕にこれ以上孤独を与えないようにと、僕に出来ることを教えてくれただけなんです!」

 「君に出来ること?それは、ここを立ち去ることだ」

 「違う!僕は・・・僕はもう家族を失うのは嫌なんだ!」

 シリウスが、かすかに反応した。ファッジの頬がピクリと動く。

 「家族・・・だと?君はあの殺人鬼と家族だというのかね?」

 「はい。僕の二番目の父さんです」

 「何を言うかと思ったら・・・。あれから半年たったが、君はまだ混乱しているようだ」

 「彼は僕の名付け親です。僕の後見人です。僕の父さんなんです!」

 「本当の父親を殺したやつを父と呼ぶなんて・・・」

 「だから違うっていってるだろ!」

 思わず叫んでしまった。しかし今のハリーに、相手が魔法省の大臣だろうと、凶悪な殺人鬼だろうと関係ない。目の前にいるのは、真実を知らない愚か者だ。

 「僕の父さんだって、シリウスの死を望みはしない!」

 ハリーはプロングズのほうを振り向いた。忠実に、ハリーのほうを見つめている守護霊を・・・。

 しかしファッジは、態度を変えない。

 「ジェームスやリリーはやつに殺されたんだ」

 「父さん・・・」ハリーは父に向かって声を掛けた。

 すると、牡鹿はゆっくりと、三人の元へと近づいてくる。ファッジは少し後ずさった。

 「僕の守護霊は、僕の父さんだ。大臣も今見たでしょう?父さんは、シリウスを救ったんだ」

 「寝ぼけたことを。君の魔法力がここまであったとは褒めておこう。しかし、あれはただの牡鹿だ。ジェームスだという証拠などない。そうだろう?」

 「父さんは牡鹿だった。動物もどきだったんだ。父さんはいつも、牡鹿になってた」

 「しかし動物もどきは法律で・・・」

 「父さんは優秀だったみたいだからね」

 プロングズがシリウスに近寄った。ハリーの中で、何かが弾け飛んだ。幸福で満ち足りていた。

 ——父さんはシリウスを憎んだりなんてしていない!

 ハリーの中にほんの僅かに残っていた疑いはもうなかった。

手を掲げると、ファイアボルトは自然に手の中に収まり、プロングズはシリウスを背に乗せていた。触れることが出来るのか?ハリーの幸福感が、形になるほどに膨れ上がった証拠だ。完璧な守護霊だった。

「さようなら大臣」

ハリーが飛び立つと、プロングズとシリウスも後についた。

大臣はただただ呆然としている。

あと少しで大臣の姿が見えなくなるというところで、もう一つの人影が現れた。

——きっとダンブルドアだ。

その後の二人のやりとりは少し予想がつく。ダンブルドアは、いつでもハリーのためにいろんなことをしてくれる。ただの自惚れかも知れない。しかし、今のハリーは心から確信している。ダンブルドアは、大臣を納得させるために来たのだ。

その後どうなるかはわからないが(ファッジは意外と頑固だから)・・・。

——どこかの森に降りよう。そして、シリウスを休ませなくちゃ。

彼の疑いが晴れる日が、もう目の前に来ているとハリーは思った。

——もう誰にも、シリウスを傷つけさせはしない・・・

——世界中が敵にまわったっていい。僕には父さんがついてる。新しい家族だっている。怖いものなんて、もう何もないんだ。