からん。重たい扉につけられた鐘が静かに鳴った。私は店内に足を踏み入れた。
 暗い照明が無限の広さを感じさせる空間。実際にはカウンターが5席ほどあるだけだ。カウンターの中には初老のバーテンがひとり。入ってきたわたしに目をくれようともしない。カウンターは煮しめたような風合いの木で出来ている。音楽も流れていない。時計もない。なにもかもが、20年前と同じだった。私が20年、歳を取っただけだ。
 そして、その男がいた。
 一番奥の席で大きな氷を浮かべた琥珀色の液体を見つめている人物。黒いスーツが光の陰に溶けている。グラスを持つ指だけが人形のように白い。
 男は伏せた目だけで私を確認すると、唇の端を皮肉に歪めて、言った。
「珍しい。過去から客がやってくるとは」
 恐ろしいことに、あのとき私より年上だったはずの男は、今、確実に私より若々しかった。吊り上がり気味の目も、華奢な体躯も、なにひとつ変わりがない。あのときと同じように、20代後半ぐらいに見える。
 かけられた声で呪縛を解かれた私は、男からひとつ離れたスツールにゆっくりと腰をかけた。
 男は私の方も見ずに言った。
「ずいぶん遠いところまで行ってきたんだな」
「……わかりますか?」
「ああ。潮の匂いがする」
 この男はやはりなにもかも知っている。あのときのように。
 バーテンはなにも言わないまま、私の前にグラスを置いた。私は手をつけなかった。
 私は手元のハンドバッグから、小さな手鏡を取り出した。そして自分の顔を映した。……そこにはやはり、40歳を過ぎた、くたびれた風情の女がいるだけだった。
「おまえがみたいものは、違うだろう」
 その瞬間、鏡の中の私は20年前の病にやつれた少女に戻った。私は食い入るように鏡に見入った。

 あのときも私は同じようにこのバーへ辿りついたのだった。
 どうやって来たかはわからない。もともと病院から外へ出ることも稀だったのに、なぜこんな店を知っていたのか。とにかく、私はわからないまま店の扉を押した。
 暗い店にはふたりしかいなかった。
 ひとりはカウンターの中のバーテン。髪が半分ほど白くなっている。客が入ってきたというのに声ひとつかけようとせず、ひたすら氷を削っている。
 もうひとりは客だった。
 一番奥のカウンターに座っている、男だった。大きな氷を入れたグラスに満ちている、琥珀色の液体を舐めている。細い長身を黒のスーツで纏い、青白い横顔は端正な顔立ちで、どんな女の目でも引かずにはいられないように見えた。
「そんなところで突っ立っていないで、座りなさい」
 男は私を見もせずに、そう言った。
 私は自分が病院のときと同じ寝巻き姿であることに気付き恥ずかしく思ったが、着替えがあるわけでもない。あきらめて男のひとつ空けて隣のスツールに腰をかけた。
「ずいぶん遠くまで来たんだな」
 男は言った。
「そんなこと言われても、私、ここがどこだかわからないわ」
「知らないほうがいいこともあるさ」
 男は声もなく笑った。意外と話し易い人物なのかもしれない。
 私は身を乗り出し、
「ねえ、ここはどこなの? 私はどうしてここにいるのかしら」
「言っただろう、知らなくていいこともあるって。きみがここにいるのも必然があったからだ」
「だって私、病院から外に出るときはお医者様の許可がいるのよ」
「夢の中までお医者さんはこれないさ」
 なるほど。これは夢なのか。そう思うと急に納得できた。
「じゃあ、好き勝手しても構わないのね!」
「ああ、構わないよ。ここでならね」
 私はこういう場所に来たことがなかった。私は店内をくまなく見たり、バーテンの後ろに並んでいる様々な形の美しいグラスに見入ったり、色取り取りのお酒の容器を眺めたりしていた。
 なにかというと身が縮むほど苦しくなる咳もまったくでなかったので、すごく気分がよかった。
「なにか飲むか?」
 男は聞いた。
「飲みたい。でもわたし、お酒って全然わからないの。選んでもらえる?」
「じゃあ」
 男とバーテンは目を交わすと、透明な液体にライムが添えられているのが出てきた。
「これはなんていう名前のお酒?」
「ジンライムっていうんだよ。すっきりしているから、飲んでごらん」
 ひと口飲むと、なにか熱い液体が食道を伝って行くのがわかった。
「……あー、びっくりした。お酒ってこういうものなのね」
「ふふふ」
 男は私の子供のような反応に笑った。
「私ぐらいの歳の女の子は、しょっちゅうこういうところに来るのかしら」
「来るやつもいるし、来ないやつもいる」
「自分で決められるのね」
「そうだよ」
 私はグラスを両手で抱えるようにし、うつむいた。
「私は自分で決めることはできないの。親やお医者様のOKが出ない限り、病院の外にさえ行けないんだもの」
 男は琥珀色の液体を喉に流し込むと、言った。
「もし自由になれるとしたら、どうする?」
 私はきょとんとした顔をしていたに違いない。それほど信じられない問いだったのだ。
「私が? 自由に? まさか」
「おいおい、これは夢だぞ? なんでも好きにできるんだからな」
 そうだ、これは夢だったのだ。ならば叶うはずのない夢を語ることも許されるはずだ。
「自由になったら……私、生きてみたい」
「どういうことだ?」
「自分で働いて、自分でごはんを作って、自分で恋愛したいの」
「ふふふ、あたりまえのことだな」
 私はちょっとぷんとして言った。
「そう、あたりまえのことなの。今まで私はあたりまえのことができなかったから。だからすごい望みなんてないけれど、あたりまえに生きてみたい」
「欲のない女だな」
「十年も病院で生活していれば、誰でもこうなるわよ」
「そうともかぎらんぞ。前に会ったやつは、今まで自分を苦しめた人間を全員殺してやると言っていた。自分をこういうふうに産んだ両親を八ツ裂きにしてやるというやつもいた。
それに比べれば、おまえは本当に欲がないな」
「私、そういうふうに暗く考えるの嫌いなの。私のまわりの人々はできるかぎりのことをしてくれたわ。だけど、私のために時間を割いてくれるのがとても申し訳なく思っていたの。だからあたりまえのように生きられれば、それだけで十分。私も嬉しいし、みんなにも喜んでもらえると思う」
 男は私の顔をじっと見た。
「魔法をかけてやろうか?」
「まほう?」
「とびっきりの魔法だ。目が覚めるときみは病院の外に出られる。そして、きみのいう欲のない生活ができるんだ」
「お客様」
 低い、かすかな声はバーテンだった。彼は男を止めようとしているらしい。
 男は気にせず言った。
「まあ、いいじゃないか、たまには人助けも。どう転ぶかはきみしだいだがな。どうする?契約するか?」
 私は怖くなった。彼が悪魔に見えてきたのだ。
「契約って、死んだら命をあげるとか、そういうこと?」
 男はまた声もなく笑った。
「ぼくは正真正銘人間だ。そんな戯言みたいな契約はしないよ。そうだな……そのジンライムを全部飲んだら契約成立だ」
 私はまだグラスに半分以上残っている透明な液体をみた。初めての酒は喉を焼くかんじがした。
「……ゆっくり飲んでもいい?」
「構わないよ。夢の中だからね。朝はこないさ」
「じゃあ、がんばって飲んでみる! 待っててね!」
 私はグラスを傾けた。

「どうだ? そこに戻りたいだろう」
 私は自分の過ぎた20年を思った。惚れては捨てられ、だまされてはけなされ、幸せとは縁遠かった20年。
「俺には戻すことができる」
 たしかに男にはできるに違いない。絶対にあと数年で死んでしまうと医者に宣告されたのにもかかわらず、私は奇蹟的に生き長らえた。彼の魔法は本物だったのだ。
 もしも20年前に戻れたら、私はうまくやれるだろうか。幸せになれるだろうか。20年前の私が求めていた幸せとはなんだったのか。
「……生きること、です」
 私は呟いた。男は黙って聴いている。
「私はこの20年幸せではなかった。でも……あたりまえに生きることができた。それだけで、私は十分です。それに」
 鏡をもう一度覗きこんだ。
「こっちの顔の方が、私らしい」
 映っていたのは、やはり40を過ぎた疲れた女の微笑みだった。
「後悔はないんだな」
 男は念を押すようにもう一度だけ訊いた。私は深く頷いた。
「では」
 男は細い指でカウンターのグラスを示した。もう一度深く頷くと、私はグラスを手にし、唇を当てた。

 二日後、○○市の浜辺に、女の死体が上がった。

 

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