わたしの会社の近くに首都高がある。その下に小さな川が流れ、橋がかかっているのだが、そこに浮浪者がたむろって寝っころがっている。冬はダンボールでまわりを囲い、風を避けながら。
わたしの神経が病み始めたとき、今までまったく気にならなかった彼らのことが妙に目に付くようになってきた。彼らは何を考えているのかわからない目をして、ぼんやりと道ゆく人を眺めている。手足は垢なのだろうか、真っ黒になっている。伸ばした髪や髭が変な風に捩れて、固まっている。ときにはゆらゆら流れるようにどこかに向かって歩いていることもある。
いつかわたしもああなるかもしれない。
そう思い始めたのが、神経が壊れ始めた頃だった。
それ以来、目を背けることができない。横を通りすぎるとき、背筋が緊張する。息を吸い込み、そして早足で進んで行く。そのまま通りすぎることができると、ようやく一息つける。助かった。今日も立ち止まらずに済んだ。
知っている。わたしは心の奥底で彼らを羨んでいるのだ。
そのことをある人に言ったら、その人は、
「俺だっておんなじだよ。ああなる可能性はすべての人にあるんだからね」
と言われた。
彼らは自分ですべてを捨てたのだろうか。それともやむを得ない理由があって道で暮らす生活を始めたのか。それよりも、彼らはなんのために生きているのだろうか。死ぬことすら忘れてしまったのだろうか。
彼らを見ていると、一日一日どうでもいいことで悩みながら生きている自分が情けなくなる。すべてを捨てる勇気もなく、悶えながら、薬を飲みながら、かろうじて平静を保とうとしている自分が、自分に対して間違っている気がする。
こんなことを考えるのはわたしだけなのだろうか。
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