「トキとヒイラギ」 右葉ごと 98/04/26 22:02

「うわっ」
ヒイラギは声を上げた。右腕から血が出ている。ぬるりとした、血。あったったのだ。
火のような熱さが襲ってくる。
「ばか、急げ」
トキは、軽蔑したように、ちらっとヒイラギをみつめると、そのまま後ろを振り向きも
せずに、走り出した。
 いつもこうだ。
  ヒイラギは、右腕の痛みも忘れて、ため息をついた。
トキの後ろ姿をにらみつける。にらみつけた視線の糸をたぐるように、ひたすらトキの
後をついていく。
 
 やがて、下水の入り口にたどり着いた。この中に入ってしまえば、こっちのものだ。
追っ手は下水の通路を知らない。入ったら、迷子になって、出てこれないことを知って
いるから、うかつに追ってはこないだろう。
 トキが下水の檻の鍵を焼き切る。二人は下水の暗闇の中に入り込んだ。
  ヒイラギは、下水に入ると、歩きながら暗視ゴーグルをつけた。トキに遅れること
は、断じて許されない。
 一応、下水の道順は頭にたたきこんであった。だから多分、はぐれても帰ることはで
きるだろう。ただ、はぐれた時、またトキの、あのまなざしを受けることになるかと思
うと、ヒイラギはなんとしても、我慢がならなかった。
 ちらりと頭を掠める、軽蔑のまなざし。
なんとしても、トキに遅れてはならない。トキの背中を凝視する。トキの背中を憎んで
さえいるのかもしれない。
 どのくらい歩き続けたのだろうか。追っ手の姿は、もうとっくに無かった。けれどト
キの歩調は緩まることがない。あと、どれだけ歩けばいいのだろう。 
 暗闇の中、ただ、ただトキの後ろ姿だけが、ぼんやりと浮かんでいた。

  「このぼけ。」
 目を開いた時の第一声はこれだった。 
 ヒイラギは、一瞬、どこにいるかわからなかった。臭い。猛烈に臭い。ほんのりと、
明るい。その明るさの方に目を向けた。明かりの正体は、トキの持つライトキューブ
だ。最小モードになっているから、ほんとにトキと、自分の輪郭くらいしか掴めない。
そこまでの状況判断をくだしてから、ヒイラギはハッと気づいた。そういえば、自分
は。歩いていたはず。このニオイは、下水。
 がばっと体を起こす。暗闇に浮かぶトキの目と、目があった。
「このたこ。」
トキがぼそっと言った。ヒイラギはカッとなった。暗闇で色がわからないのが幸いだ。
「どのくらい・・・・・?」
落ちていたのか。
「さっき倒れたばかりだ。あほう。手ぇ出せ。」
出したくはなかったが、ぐずぐずしてまた馬鹿にされたくはなかった。ヒイラギは、
そっと右手を差し出した。テキパキとトキが手当を済ませていく。トキに捕まれている
右腕は、火のように熱い。
「まぬけが。倒れるなら、もっと早く言えばいいんだ。」
しかし、それに対して、ヒイラギは何も答えなかった。答えられなかった。口を開け
ば、涙が出そうだった。腕の熱さが両の眼にまで、うつってしまった。
 手当がすんで、トキの手がヒイラギの右手から離れた。そのままトキは腰を上げる。

「ちょっと待ってろ、クソッタレ。」
トキは、ヒイラギにライトキューブを手渡した。光が近づいてくる瞬間、ヒイラギは顔
を背けた。今の自分の顔を見られたくはなかった。そのまま、トキは歩いていく。多分
追っ手の存在と、現在位置の確認に行くのだろう。
 このまま、1人で行ってしまってもいいのに。行ってしまえばいいのに。ヒイラギは
強く思った。どうせ足手まといで疎ましく思われているのなら、切り捨てられた方がま
しだ。
 ヒイラギの能力はそんなに低くないはずだ。なのに、なぜトキと比べると、こんなに
もダメなのか。まあ、誰と組んでも、トキと肩を並べられる者はいないだろうが。  
 もう、どうでもいい。あんなに人のことを軽蔑して、見下しているヤツなんか。1人
で行動すればいい。なぜ、相棒が必要なのか。最初からいらないだろうに。
 そう思いながらも、ヒイラギは、トキが帰ってくることを知っていた。
 右腕と、目の奥が熱い。トキが帰ってきたとき、自分の顔を見られたくなくて、ヒイ
ラギはそっと、キューブを自分から離れたところに、置いた。それでもキューブのス
イッチは消さない。キューブは暗闇の中で淡くひかって、トキの帰ってくる場所を照ら
していた。

 いつの間にか、座ったまま、眠ってしまったようだった。左側が重い。ニオイをか
ぐ。トキの髪のニオイがした。トキが左どなりで熟睡していた。かすかに、もたれか
かっている。しばらくして、ヒイラギは小声で、トキの髪に向かってささやいた。
「ばーか、ぼけ、たーこ、あほう、まぬけ、クソッタレ。」
声になるか、ならないか。息だけで、ささやいた。
 その時、トキの頭が動いた。硬直するヒイラギに、トキが顔を向ける。同じようにさ
さやく。ヒイラギの耳に向かって。何かの言葉を。
 そして、トキは再び眠りについた。ヒイラギもまた、目を閉じた。少しでも回復しな
くては。また再び歩き出す前に。

                                <了>