「かぜがふいたら」  右葉ごと  

 オケの練習する音が、響いてきた。
 部室は珍しく人がいっぱいだったので、私は部室の目の前の廊下のベンチに腰掛けながら、
オーケストラの音に耳を澄ませる。 
 パート練習をしているのだろう。みんなてんで、バラバラの音を奏でている。でもそんな
音が、妙に耳に心地よいのだ。おかしなことに私といえば、オーケストラのちゃんとした合
奏よりも、こんな練習の時の音の方が好きだったりする。
 特に合奏前の音を合わせる、チューニングのときの、あのまとまりのない音が一番好き。
 どうしてだろうか。
 写真サークルに入っていなかったら、オーケストラにでも入っていたかも。肩をぐきっと
回しながら、そんなたわいもないことを考えていた。
 今の私は和ミン待ち。今日はもう授業が終わりだから、和ミンが来たら、一緒に家に行って、
お好み焼き大会をする予定だった。
 部室のドアは開けっ放しで、中にいる人たちの談笑も聞こえて来る。ゼミの話やら、夏の
旅行の話やら・・・。何を聞くつもりもなく、耳をすませる。廊下を風が、吹き抜けていく。
オケの音が鼓膜をかすかにふるわせる。
 眠い。
 おたふくソースはあっただろうか・・・。そんなことを考えていたら、廊下から、足音が
聞こえてきた。瞼をあげると、そこには恭子ちゃんがいた。恭子ちゃんは、軽やかに、私の
前を通り過ぎていく。
「こんにちは。」
 恭子ちゃんは部室の開け放たれたドアから、中にいる人達に声をかけた。
「おお、恭子ちゃーん。こんにちは。」
「まま、座って、座って。」
 恭子ちゃんは、先輩が立ち上がって空いた席ににっこり笑いながら、すっと腰を下ろした。
「あの一澤くんは?」
「まだ来てないよ。」
「そのうち来るから、ちょっと待ってな〜。おーい、お茶!」
 恭子ちゃんは、一澤と同じ学科の女の子。うちのサークルに入っている訳ではないけど、
一澤を探しによくやってくる。だから、みんなが恭子ちゃんを知っているのだ。
 恭子ちゃんはかわいいので、うちのサークルでは人気者だ。
 そして、恭子ちゃんは一澤の彼女である・・・。多分。きっと。よく知らないけど。でも
お似合いって感じだけど。一澤は、はっきり言って変人だと思うけど、黙っていたら格好い
い部類に入るのだろうし。
 開いているドアの向こうに、恭子ちゃんの笑顔が見えた。
 なんだかね。女の子だなあと思う。
 かわいいんだとっても。
 そこだけ、春風がぽっと吹いてくる感じ?
 私にはまねできないなーと思う。私っていえば、スカート嫌いだし。いつもジーンズだし。
 んーでも、ジーンズは楽なんだよう。あぐらもかけるし。
 和ミンとか昌実ちゃんは、アクセサリーとか好きだよな。でも、私は指輪とかネックレスと
かは、締め付けられる感じがして、嫌だし。なくすし。
 なんか、私って自然児?
 でも、いいんだ。私は、本当は、自分のそういうところが気に入っているから。
 自然体がいちばん。そうではないのか?
 部室からは、恭子ちゃんを交えての話し声が聞こえてくる。
 なんとなく、本を取りだして、読み始めてみた。
 でも、本に集中できない。
 なぜなら、多分、あんまり風が気持ちよかったので。
 廊下の向こうから、ほんとに気持ちのよい風が通り過ぎていく。オケの音と一緒になって。
 視界には、午後のとろーんとした光。遠くから笑い声が聞こえてくる。それもよい騒音だ。
 誰もいない、廊下。
 私と風と楽器の音だけ。
 本は膝の上に。そのまま目を閉じた。眠りに落ちそうにはないけれど、そのまま瞼を閉ざ
していよう。
 ただ頬を風がなでていく。なでていく。
 しばらくしたら、頭をつんつんされた。和ミン来たのかな。
 と思って瞼を開くと、傍らに立つのは一澤だった。
「カサカサ」
「あ?」
 ぽかんとした私をそのままに、一澤が部室に入っていった。恭子ちゃんが、ぱっと顔を輝か
せる。
「あ、一澤くーん。」
「ん。ちょっと待って。」
 そのまま一澤はどこからか傘を取り出し、それを片手に出てきた。
「これ。ありがとな。」
 差し出された傘。貸した傘。
「あー。傘。」
 でも、不思議だ。あの雨の日の翌日、私、部室に傘が戻されてないかと探したんですけど。
でも無かったんですけど。だから傘、忘れ去られたのかと思ってた。貸した傘。
「これ、どこに置いてあったの?」
「ロッカーの上。」
「・・・。」
 それじゃ分かるわけないです。一澤様。
「はい。確かに受け取りました。」
 うやうやしく、受け取って見せる。
「それ、何の本読んでんの?」
「ん?」
 私は本を一澤にかざしてみせた。しゃべるより、その方が楽な気がしたからだ。
「ふーん。」
 のぞき込む一澤。そこへ、ひょこっと恭子ちゃんが顔を出す。
「一澤くーん。いこ。遅れるよ。」
「ああ、うん。じゃ、な。」
 部室の先輩方に一声かけ、そして恭子ちゃんと共に、一澤は廊下を去っていった。
 部室では、また何か笑い声が聞こえてくる。
 私はすぐに、本に視線を戻すふりをしたけど。本に集中できない。
 しばらくして、また目を閉じた。
 オケの音は、止んでいた。
 和ミンはまだこない。
 風は相変わらず吹いていたけど、前のような心地よい空間は、もう帰ってこなかった。
 でも、まだしばらく、目を閉じていたかった。   
 目を閉じていよう。
 もう少しだけ。