「あめのふるひに」右葉ごと 雨が降る日の眠りというのは、どうしてこんなに心地いいのでしょう? というわけで、寝坊した。 2限目の終わりくらいに、学校に到着。ほとんど昼ご飯食べに来たんだろという感じ。 少し古ぼけた講義棟が、ますます薄暗く見えてしまう。傘からぽたぽたと水が落ちて いく。 玄関でぶるぶるふるわせて、なるべく水滴を落としたのにも関わらず、傘から落ちた 水が床の汚れを溶かして流して汚れていく。 雨の日はそんな感じで、いろいろなものの汚さが際だって感じられて、そういうのが 嫌だ。こういう日に電車に乗って、しかもラッシュならもう最低の気分だけど。幸いな がら、通学は徒歩なので、それは感謝せねばなるまい。 8号棟のロビーは当然ながら人影はなかった。あと少しで2限目が終わる。今更教室 に入っていくのもなんなので、ロビーで二人を待つことにした。 ベンチに腰を下ろして。傘の先で、水滴で字を書いてみる。 水たまりから。 筋を。 のばしてのばして。 『キーンコーンカンコーン』 ・・・チャイムがなった。人が出て、ロビーに溢れてくる。 そのままベンチに腰掛けて、昌実ちゃんと和ミンが出てくるのを目で探しながら、人 が落ち着くのを待った。流れが途絶えたら教室に入って二人を探そうと思ったのだ。 と、そこへ声を掛けられた。顔をあげるとにこやかな笑顔がそこにあった。 「瑞ちゃん、寝坊?」 「あ、静さん。へへへ〜。やってしまいました。」 「ずるいよね。徒歩15分なのに。」 「静さんだって、近くじゃないか。」 「同じ15分でもこっちは坂がある!」 笑いながらそう言い切る静さんは、同じ学科の同じ学年。面倒見の良さで、学年のま とめ役のような存在になっていた。 「どうせ朝ご飯と昼ご飯一緒でしょ。」 「あ、ばれた?」 「ダメだよ〜。自炊生活、基本は朝ご飯だよ。」 「作りに来て。」 「バイト料よこせ。」 「え〜。」 けたけたと笑いながら、ふと外に目を向けると、静さんを待つ米ちゃん達の傘が見え た。人の流れに押し出されて、そのまま先に出てしまったのだろう。静さんは、私の視 線を追いかけて、米ちゃん達の姿を見つけると、慌てて口を開く。 「そうそう、それでさ、瑞ちゃん。今度の15日なんだけど、飲み会するんだ〜。大丈 夫?」 「あ、学科のやつ?」 「うん。そうだよ。」 「・・・。」 しばし止まってしまう。 つまり、問題は誰が出るのかということだ。 「いつまでに返事すればいいかな?」 「う〜んと、明後日までには頼むね。」 「わかった。」 じゃね〜と手を降ると、静さんは米ちゃんたちと雨の中、傘を差して出ていった。私 はそのまま教室に入っていく。人気のなくなった教室には、和ミンと昌実ちゃんが私を 待っていた。 「ほらね。やっぱり来た。」 「遅い!瑞ちゃん。」 「寝坊したね〜?」 「は〜い。申し訳ございません。」 「全く、あと2回遅刻したらコーヒーおごって貰おうか。」 「うわ。勘弁してくれ〜。」 「だめじゃ。」 「お腹すいた〜。瑞ちゃん来たし、ご飯にしようよ。」 「なんか、お昼ご飯食べに来たようだね。」 席を立ち、お昼を食べに、学食へと向かう。 歩きながら飲み会のことを聞いてみた。和ミンはサークルで仲良くなったので、学部は 同じでも学科は違う。だから同じ学科の昌実ちゃんに。 「ね、学科の飲み会の話聞いた?」 「あ、聞いた聞いた〜。」 「行く?」 「うん。多分ね〜。一応OKにしといたよ。」 「そっか〜。」 「瑞ちゃんは?」 「うーん。バイトとか無ければ多分。」 学科の中はきれいにグループ分けが成されていた。女の子の方が多いのだけど、その 少数の男子と女の子の混合グループと。女子校出身の人たち中心の女の子グループ(静 ちゃん達)。それとサークルとか、部活とか、バイトとか、彼氏の方中心で、学科でだ け一緒にいるグループ。あとは、どのグループにもはまれなかった、何人かの人たち と。 私は、昌実ちゃんとひとくくり。 二人で、でもどのグループにも入り込んだりしていた。ただ、それは昌実ちゃんの力 が大きいと思う。あっけらかんと、誰とでも仲良くなれる昌実ちゃん。 昌実ちゃんがいないと、一人の自分。 一人でいる。寄りかかれる存在がいないというだけで、どうしてこんなに心細いのか。 昌実ちゃんが行くのか、確認してからじゃないと、返事を出せない、私。 そんな自分は情けない。情けない。多分、一人でもいくいく〜と言えるようになった ら、人生変わるのかもしれないのに。 けれど私は。 二人の後を追って歩きながら、ふと空を見上げた。灰色の空から絶え間なく降る水滴。 雨はやまない。 しとしとと。窓の外では雨が降っている。 5限目が始まる。ほの薄暗い外。そして蛍光灯のついた教室。なんだか夜の学校にい るみたいだ。蛍光灯に照らされた教室は、いつもよりも更に古ぼけて見えた。 けれどその古ぼけた感じが、なんだかなつかしい感じがする。窓の外には木がすぐ近 くに見える。どす黒い空を背景にその色はいつもに増して緑。空と緑の境目はにじんで 見える。 授業を受けながら、とろんとした気持ちになる。まろやかな感じ。 自分の輪郭も周りの背景とにじんでしまっているのかもしれない。 そんな雨の日は、嫌いじゃない。 授業が終わって、今日はサークルに顔を出さずに帰ることにした。雨がひどくなって きたのだ。どしゃぶりの雨。 南門から出て歩いていると、前を歩く人影に気づいた。このどしゃぶりに、傘も差さ ずに歩く人物。私も傘を差すのは好きじゃないから、少しの小雨だったら平気で歩いて しまうけれど、しかし今日は朝から結構降っていたはずなのに。現に構内を歩く人は、 傘を差さない人はいなかったぞ。・・・どうしたんだろ。 あんなに濡れて風邪ひかないかな。後ろ姿を見ながら歩いていたら、はっと気づいた。 あれは、あの後ろ姿は、一澤じゃないだろうか。そう思って見ていたら、ますます 一澤に見える。でもそれっぽく見えるだけ? でもあの鞄。あの鞄には見覚えが。 向こうに見える信号に気づいた。 信号・・・赤になったら一澤?は立ち止まる。そうなったら追いついてしまう。 どうしよう。歩調はゆっくり、ゆっくりになる。 もし一澤なら、声を掛ける? でも、どうするんだ。傘に入れてあげるのか?そんな ことをする間柄では決してない。顔見知りの知り合い程度。でも知り合いが雨に濡れて いるのに知らんぷりしていいのかな。それはそれで心苦しいかも。 信号は。赤になった。 隣同志、並んで待つ。斜め横からの顔をそっと伺ってみると、案の定、一澤。 あ〜。やっぱり一澤? 傘を少し前倒しにして、顔を隠す。そんなことしなくても、一澤は私のこと、覚えて ないかもしれないが。 雨は降る。 青になる信号。 歩いていく一澤の、その速度よりも、なるべく遅く歩いて距離を取る。ああ、もうど うしようか。 あとちょっとで家に着いてしまう。 一番勇気があるのは、今、ここで声を掛ける。「一澤君、傘どうしたの?」でも、覚 えていられなかったら、ただの恥だ。そして一澤だって、ただの知り合いにいきなり声 を掛けられて、二人で傘差して歩くなんて、迷惑だろう。たしか彼女もいらっしゃる身 分だし。 一番安全なのは、もうこのまま知らんぷりすること。 ああ、もう悩んでるのが馬鹿らしくなってきた。普通はこんなことで悩みやしないだ ろう。 一澤が、私の家の横を通り過ぎようとしている。 どうせ、あれだけ濡れているんだから、もう私が今更声を掛けたってどうしようもな いだろう。確かに、知り合いが雨に打たれているのに、傘を貸せなかったというのは良 心にちくちくくる出来事だけど、でもしょうがないじゃないか。そう。しょうがない。 そう思って空を、灰色の空を眺めて、ふと、思った。 昌実ちゃんだったら、きっとこんなに悩まないんだろうなと。 昌実ちゃんなら、きっと見かけた瞬間に声を掛けている。「どうしたの?入る?」っ て。断られたらどうしようとか、恥ずかしいとか裏の気持ちはぜんぜん無くって、ただ 単純に気の毒だから入れてあげようという、そんなストレートな気持ちから、その言葉 が言えちゃうんだろう。 私は。・・・ああ、もう! 「一澤君!」 「あ・・・?・・・ああ、ども。」 「ども。・・・家そこで、もう傘つかわないから。良かったら、使う?」 「・・・。どうも。」 「明日部室に置いといてくれたら、勝手に持って帰るから。」 「・・・ありがとう。」 「じゃ、さよなら〜。」 軽く礼をすると走って家に帰った。何も考えまい。何も。 雨は夜半まで降り続き、その雨音は眠る私の脳裏を満たしてくれた。 |