「した」 右葉ごと 99/07/03 22:29 表戸を叩く音がする。 こんな夜更けにいったい誰だろう・・。 朱磁はうっすらと目を開けた。そのままうとうとと床の中でまどろんでいる。戸を叩く 音はしばらくして、消えた。朱磁の意識もまた落ちていこうとする。すると。 「おい、起きてるか?」 と、声が、聞こえた。朱家の吏長、李の声だ。部屋の中に入ってくる気配がする。吏長は 召使いの長であり、その家の執務のすべてを司る者である。普通の吏長は許しも得ずに当 主の部屋の中に入ってくるようなことはしない。うちの吏長はつくづく特殊だと床の中で 朱磁はぼんやりと考えた。 「朱磁?」 「うん。どうした?」 天蓋の覆布ごしに朱磁は答える。この覆布を李がばっと開けて揺り起こそうとはしない のは、それでも気を使ってるのかなと、のんびりとしたことを考えているのは、まだ朱磁 がきちんと起きていないからなのだろう。 「江家より使いが来た。すぐ来て欲しいとさ」 「江・・・」 江家といえば、最近祈祷を頼みに来るようになった、あの・・・。顔が浮かぶ。どんど ん意識が覚醒する。身を起こす。 「どんな使い?」 「さあ、よくわからん。とにかくすぐ来て欲しいそうだ。使いはまだ待たせてある」 「分かった。すぐ行く。」 部屋の中から李の気配が消えるのを待って、朱磁は床から抜け出て衣服を着始めた。 手早く支度を終えて客間に行くと、李と江家の使いが待っていた。使いは朱磁の顔を見 るや否や話し出す。 「ああ、朱磁様。お願いします。今すぐ江家においで下さいませ。大変なのです」 「一体何事です?」 「そ、それが・・・。私にはよく分からないのですが、とにかく朱磁様を至急お呼びして こいと。とにかく、とにかくよろしくお願いします。朱磁様」 「・・・仕方ないですね。とりあえず伺いましょう」 このまま使いに聞いていても、「大変だ大変だ」というばかりで埒があかないようだ。 行くしかないだろう。ため息を一つついて、朱磁は言った。 「李、車の用意を」 「既にいたしております」 使いの手前、丁寧な物腰、言葉遣いの李だった。普段は当主を当主とも思わない言動の 李だ。まあ言葉遣いはぶっきらぼうでも、やるべきことはきちんとやる、というより痒い ところにも手が届く仕事ぶり。うちには、こんな変な吏長がぴったりかもしれないと、好 きにさせているが、こんな時に見せる李の言動に、朱磁は、かえって妙に違和感を感じて しまう。 使いは先に馬で屋敷に戻り、その後を追って牛車が動きだした。すると、屋敷に残った はずの李が、するりと乗り込んできた。驚いて目を向ける。そんな朱磁に答えて李が言っ た。 「おまえ、その格好で行くつもりか?」 「・・・だめ?」 「だめって・・少しは自分の格好に気を配れよ。そんな格好で行ったら朱家の名折れだ」 言われて自分の格好を見てみる。確かに頭は後ろでまとめただけだし、衣着も普段着を 羽織ったままだ。貴族の屋敷に行くのには、ふさわしくないかもしれない。 「だけど緊急事態だぞ?」 「そんなの関係ないね。ほれ頭だせ」 車の中で、李に髪を結ってもらい、そして李の持ってきた衣装を羽織り、なんとか体裁を 整える。そうこうしているうちに、車は江家に到着した。 江家の先の当主は江蔭といい、つい二年ほど前に当主を退いた。しかしながら才気依然 衰えず、江家を影で牛耳る存在だという。その江蔭、どこから噂を聞きつけたものか、最 近月に何度か朱家を訪れるようになった。そして祈祷を請うのだ。といっても朱磁の能力 は起こっている現象を鎮めるもので、未然に防ぐ為になにかをすることはできない。世に 言う祈祷を行うことはできないのだと、さんざん説明して断ったが江蔭は納得せず、形だ けの祈祷を半ば強要して、朱磁の元を訪れる。 朱磁はその強引さに閉口してもいたのだが、しかしこのように急な呼び出しを受けるの は初めで、一体何事だろうと屋敷の門を見上げながら思うのだった。 屋敷に迎え入れられると、そのままあわただしく江蔭の寝室に導かれる。当然の様に李 がくっついてくるのに思わずささやく。 「どうしてついて来るんだ?」 「供人がいないのも変だろ」 いつもついてくる供人の関響はまだ夢の中だ。たたき起こすのもかわいそうで、そのまま寝 かせてきた。それにしても、家の中ではまったくの無礼者である李が、外ではこんなに気を 回すのがどうにも笑えてしまう。朱家の体面をおもんばかってのことにしても。 寝室に入ると、江家の吏長が朱磁のもとに駆け寄ってきた。 「ああ、朱磁様。よく来て下さいました」 「朱磁?朱磁殿とな、は、速う、速うこれへ!」 吏長の声をおしのけて、背後からしわがれた声が聞こえる。見ると憔悴しきった江蔭が、 天蓋の覆布の暗がりの奥にうずくまっている。傍らにかしづく側女らがついと道をあけ、朱 磁は暗がりの中に近寄っていった。 「どうしたのです?江蔭様」 「見よ、見てくれ、これを」 差し出した江蔭の手にはねっとりと汗が浮かび出ている。 「と、とまらんのじゃ、夕刻よりずっと、汗が、こんなに、こんなに出て、止まらん」 汗をかいているのは手だけらしい。その手のひらにじわじわと後から後から汗がわいて出 てくる。拭いても拭いても止まらない。 「主様、水を」 側女が近寄ってきて水を飲ませる。これだけ汗をかいているのだから、水分もとらねばな るまい。飲まないままでいたら、脱水症状だ。 「朱磁殿、な、なんとかしてくだされ」 江蔭の手はぶるぶると震えていた。朱磁はその手をそっと取り上げ、そして手のひらにに じむ汗を、なめた。 汗の味。 「ふむ。紅酒の味が・・・」 「は?」 「紅酒の味がします」 予想外の言葉に、そこにいる誰もが、江蔭も含めて、あっけに取られた顔をする。おそる おそる、自らの手のひらに少しだけ舌をつけた江蔭は、顔をしかめる。 「な、なにが紅酒じゃ!苦い。苦い。これはまるで・・毒のようじゃ」 言った自らの言葉に驚くように江蔭の顔色が引いていった。 「・・そう。江蔭様は毒と味わいまするか」 朱磁はさらに江蔭の手のひらをなめる。 「ああ、この酒。人の香もにおって来まする。一つは江蔭様の香り。そして・・華青の香。 もう一つは白香か」 江蔭の顔はほとんど土気色となった。 「な、なぜ、そんな・・・・。ひ、人ばらいじゃ、皆今すぐに出て行け!」 尋常ならざる剣幕に、部屋にいた誰もが外に出ることを余技なくされる。じっと朱磁のな すことをながめていた李も。 部屋の外に出た李を、側女の一人がいざなう。 「夜分ご苦労様ですね。さ。こちらでお休み下さいな」 「いえ、私は・・」 「さ、どうぞ」 一室に通され、茶や菓子も出された。供人として来た李には破格の待遇だった。 「ほんと、夜遅くにご苦労様ですわね」 「いえ・・。しかし、大事でこちらも大変ですね。どうして、このようなことになったので す?なにかきっかけでも?」 「さあ、でも多分・・・。今日、知らせが来たのですわ。主様の若い頃からご懇意にされて いた箔様がお亡くなりになられたと」 「ほう、ではそれがきっかけに」 「ええ、多分。少し不思議なお亡くなりかただったそうですわ」 側女は急にいきいきとしだし、立て板に水のごとしに話しはじめた。 「なんでも急に倒れて高熱にうなされて、そのまま3日でなくなられたのですって。それを 聞いてから主様がおかしくなられて。どうしてなのかしらねぇ」 そのまま延々と続く話に相づちを打ちながら、李は、朱磁のことを思った。 朱磁は天蓋の奥深く、江蔭と向かい合っていた。 「江蔭様?さあ、お聞かせ下さい。昔何があったのですか?」 「・・・」 「言っていただかないと、私には対処のしようがございません。聞いたことは決してもらし たりはしませんよ。・・・・。昔、三人の間で何かがあったのですね?」 「・・・うむ。そうじゃ。私と、箔。そして・・・」 「・・・三人で紅酒を飲んでいた。・・・・そして、毒」 江蔭の顔は苦渋に満ち、そして手のひらの汗もますますわいて出てきた。 「そうじゃ。私と箔とで、毒を入れた。あの時の、あの時のあ奴の顔が」 江蔭は顔を覆おうとして、手の汗に気付き、怯えるように手を遠ざけた。 「わしも、わしも殺される。箔も死んでしもうた。次はわしじゃ」 「殺された方の怨念ではないですよ。今になって、そのようなことは」 怯える江蔭を冷ややかに眺め、冷静に朱磁は答えた。屋敷に妖しい気配など何もない。殺 された相手はとっくの昔に清浄なる世界に赴いたであろう。卑小なる俗世間にとらわれたり せずに。 「いいや、そうに違いない。そ、それだけではないかもしれん。今までのことがすべてこの 身に帰ってくるに違いない。当主を退いてから、おかしなことばかりじゃ。変なものばかり を見るようになった。朱磁殿は何も感じないのか」 江蔭はあたりを見回し、がたがたと震えた。覆布の中の闇に溶けこむばかりだった。 「そう、己のなしたことはすべて己の身に帰ってくるのです。それをお覚悟の上でなしたの ではないのですか?」 「た、助けてくれ。朱磁殿」 「ええ。この場は鎮めましょう。しかし、それはこの場のみのこと。どうすれば己のしたこ とに決着がつくのか、お考えなさい。これから何をなせばよいのか、お考えなさい。それが なくては、この先もまたいろいろなことが起こりましょうぞ」 「わかった!わかったから、この汗を何とかしてくれッ」 朱磁は江蔭の手を取った。そして、そのわき出る汗をなめとっていった。 それはすえた匂いがした。 朝になり、朱磁は部屋から出てきた。部屋の外には江家の吏長と、そして李が待っていた。 「江蔭様はお眠りになりました。汗もおさまりました」 「ああ、ありがとうございます。朱磁様」 「私は、これにて失礼いたしますので」 礼をすると、朱磁はそのまま屋敷を出ていった。振り返らなかった。 「で?一体なんだったんだ?」 車に乗るなり、李が話しかけてきた。疲れていた身に、いつもの、その乱暴な口調がなん だか嬉しく感じられる。 「・・・罪悪感だな。何もおかしな気配は感じなかった。ただあの人の罪悪感が強すぎて、 あの人自身が元凶になったのさ。朝まで懺悔を聞かされたよ」 そうして朱磁は、李にだいたいのことを話して聞かせた。 「ふうん。・・・。お前、そこまで裏のことを知って、大丈夫なのか?」 朝まで江蔭が語った罪の数々。知った者は消されるかもしれない。李らしい、現実的な心 配だ。 「脅しておいたから大丈夫だろ。あの人は祈祷師やらそういう類のものにとんでもなく畏怖 を覚えているらしいから。自分自身でああいう現象を引き起こすほどにね」 「ふうん。」 「それでも・・・罪悪感を持つだけまだ増しなのかもしれないが、それを償おうとしないか ぎり、また同じことはおこるだろうよ」 「・・・そしたらまた、なめに行くのか?」 李を横目で、少しにらみつけるように、見る。 「何で、知ってる?覗きに来たのか、お前」 「さあな」 問いつめられた李の方が、苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。朱磁は肩をすくめた。 「・・・しかたないだろう。それが私の仕事だもの」 「おい、舌だせ」 「あ?」 「いいから、ほれ」 言われるままに、舌を出す。そんな朱磁に、 「・・・!?な!?」 思わず身を引いた朱磁の舌には、ひとかけらの、氷砂糖。 「口直しになめとけ」 氷砂糖が溶けおわるまで、朱磁は話すことができなかった。その溶けるような沈黙を、朱 磁はゆっくりと味わった。甘かった。 しばらくして、ぽつりと言う。 「なあ。この氷砂糖どうしたの?」 「ん?江家の側女にもらった。」 「ふうん。・・・なあ。お前本当はどうしてついてきたの?」 「・・・。別に」 じっと見つめる朱磁の視線。今度は李が朱磁を横目でにらんだ。 「・・夜中に一人で行かせるなんて、心配だろが。仮にもお前は」 「疲れた」 こてん。と李と反対側の壁に頭を持たせかけて、朱磁は目を閉じる。 「寝る。屋敷についたら起こしてくれ」 そんな朱磁を苦笑して眺めて、そして李も。ゆっくりと睫毛を伏せた。鼻先を風が掠めた。 かすかに氷砂糖の匂いがした気が、した。 了 |