「催琶」 右葉ごと 98/12/23 23:00 催琶は、路家の使用人だった。母の代からの使用人だった。 母の代から、路家に仕えている。路家の当主そして、その息子に。身の回りの世 話をするのが主な仕事だ。 母は乳母から、使用人頭にまでのぼりつめた。裏で路家を束ねる立場にまで。そ して催琶はその下で働いている。しかし滅多に母と口を聞くこともない。 いまの催琶の主な仕事は、路家の子息、嘩人の世話係だった。嘩人とは、幼い 頃、一緒に遊んだ覚えがある。いわゆる乳兄弟というものかもしれない。しかし、 物心ついたころから、嘩人と母とは、催琶の日常から消える。女中としての仕事を 仕込まれ、十を過ぎたころから、嘩人の世話係となった。もうこちらから口をきく ことは許されない。 必要なこと以外に、滅多に嘩人と話をかわすこともない。催琶が話をする相手 は、だから女中仲間の杏沙と、理籐くらいだった。 催琶の顔には、大きな傷がある。 傷がある。だから、傷ができる前から知っている杏沙と、理籐とは話すことには 抵抗はない。でも、それ以外の人と、催琶はあまり話をすることを好まなかった。 恥ずかしいから、という理由とは違う。話す相手の視線はいつも、自分の頬の傷に 向けられ、そして、相手の興味のほとんどは、傷に向けられる。それがなんだか、 空虚なものに思われただけだ。催琶は、催琶ではなく、傷のある女。自分の言葉 に、自分自身に、目を向けて欲しかった。頬に傷ができたときから、母からの関心 も失ってしまったように思われる。その時から、笑ったときも、泣いたときも、な にもかも、心から感じることがなくなってしまったように思われる。思われる。思 われる。しかし、それすらも、意味はないのだろうか。 庭の銀杏の木は、毎年、毎年、同じ事を繰り返し、そして生きて年をとってい く。私も同じようなものだ。毎日毎日。同じ時間に。嘩人の髪を整える。その鏡の 向こうに、庭を眺めて催琶は思った。 「催琶。」 身支度を終えた嘩人が、催琶の名を、呼んだ。 「はい。」 「一度戻って、半拿様の屋敷へ出かける。用意しておいてくれ。」 「はい。かしこまりました。」 「夕刻に戻るから。」 「はい。」 嘩人はいつも、催琶の目を見て話す。そして、催琶の視線はいつも、嘩人の足下を みている。足下を見て話す。使用人のやり方。 嘩人は軽やかに話す。静かに話す。静かに見つめる。 「嘩人様って、やり手だって噂よ。」 理籐は噂話が好きで、いろいろと外の話をきかせてくれる。 「この間なんて、長論様を、やり込めたんですって。きっと出世なさるわ。」 話の中の嘩人は、催琶の知っている嘩人とは、別人のようだった。どちらが本当の 姿なのかは知らない。どうでもいいことだ。 嘩人は来年、嫁を取るらしい。かの大臣がぜひにと望んでいるとのことだ。ま あ、どちらにしても、催琶の生活は変わらないだろう。貴族の結婚は、一緒に同じ 部屋に暮らすわけではない。夜だけ妻の部屋に通うかたちとなる。催琶の使用人と しての仕事が大きく変わることはない。 「催琶」 ある日。母に呼ばれた。使用人頭に。 「なんでしょう。張佳さま。」 傍らに、女が一人、控えていた。 「嘩人様のご結婚が、決まりました。西大臣家の、真鷺宮様です。」 「・・・おめでとうございます。」 催琶は、ふかぶかと頭を下げた。 「こちらは、西大臣家で真鷺宮様にお仕えしている完磁さん。これから連絡役に なっていただきます。当家に滞在する機会も増えるでしょうから、そのつもりで。 完磁さん。これは当家で嘩人様の世話役をしております、私の娘。催琶です。よろ しくお願いします。」 「どうぞよろしくお願いします。」 催琶はまた、ふかぶかと頭を下げる。 「よろしく。」 完磁は、つんと気取らずにはいられない女のように見えた。頭の先から、足の先ま で、催琶を鑑賞した。特に、頬の傷を。目に、特有の光を浮かべた。 いつか、どこかの場面で、こんな会話がされるだろうと、催琶は容易に思い浮か べた。 「大丈夫ですわ。真鷺宮様。あの女中。顔に大きな傷がありますの。あのような者 に、嘩人様が気をかけることなど、有ろうはずがありませんわ。ご安心なさいま せ。」 現に催琶が路家の当主に、嘩人の父に、年頃になっても召されることがなかったの は、この傷のおかげだった。嘩人が世話係を他の女にかえないのは、謎のような、 そうでないような。よくわからない。たいがいの貴族なら、世話係は、もっと美し い女にしていると思う。 「もう、さがってよろしい。」 催琶は、部屋を辞した。 日ざしが、廊下に差し込んでいた。催琶はしばし、そこにたたずんでいた。 変化は有ろうはずがないと思われた催琶の生活にも、それは当然のごとくやって きた。新しい女主人を迎えるべく、新しい邸が敷地内に作られる。人がどんどん 入ってくる。会話を交わすことはほとんどなかったが、よくすれ違ったり接触する 機会が増えた。人目にさらされる。自然と顔がうつむいていく。 「ねえ。おねえさーん。」 庭を掃除しているときに、人足に声をかけられた。 「え?」 声をかけられることが意外であった。その人がそこにいることにも。ここは工事箇 所とは違うはずだ。 「なんですか?」 「ごめんね〜。ここってどこなのかなあ?これ、張って人に渡せって言われたんだ けどね。」 「あ、じゃあ渡しておきます。」 「あ、そう、それで、もどるには、どっちに行けばいい?」 道を、催琶は示した。 「・・・。」 そのまま去るかと思えた男は、そこで振り返った。 「ねえちゃん。その傷さあ、どうしたの?」 男は頬を指しながらいった。 「・・・。小さい頃、泥棒が入って・・・。」 「ふーん。大変だねえ。ま、いろいろと、がんばってね〜。」 手をひらひらと振りながら男は去っていった。今まで、見ず知らずの人と話すと き、大抵の人は催琶の頬の傷をいぶかしげに眺め、そして目をそらし、見ていない 振りをしながらも、ちらちらと眺める。それでも決して傷のことを聞こうとしな い。こんな風に面と向かって聞かれたのは初めてだった。不思議と、怖くはなかっ た。会話もせずに、ただじろじろと見られるほうが、怖いと感じるのは、なぜなん だろうか。外見だけで、判断されるから?面と向かって聞かれたことで、少しの会 話で、こんなにも気が楽になるとは。思わなかった。 「催琶。」 「はい。」 「もう、きいていると思うけれど、西大臣家から、妻をめとることになったよ。」 「はい。」 嘩人は、しばらく催琶の顔を眺めた。よろしく頼むよ。とか、そういう会話が続く のかと思ったが、会話はそれきり途絶えた。 会話。催琶と嘩人のそれは会話といえるのだろうか。 「催琶〜。ごめんねえ。悪いんだけど、厨房いって、茶菓もらって来てくれるかな あ。」 そう理籐に頼まれた。最近になって、そういう用事が頼まれることはなかった。厨 房に行くは工事現場の近くを通らなくてはならない。多分理籐たちが気を使って避 けてくれていたのだ。今日はどうしても忙しくて手が足りない。 「いいよ。」 催琶はうなずいた。歩く。邸内を。 案の定、工事現場の近くを通りかかると、じろじろと眺められた。 催琶は、顔を上げた。顔を上げて歩いた。 この前、人足と会話を少しだけ、交わした。悪い人には思えなかった。きっと知 れば怖くない。知らないから怖いんだ。なにもかも。 催琶はいままで、外にでる用事は、いつも、人に頼んでいた。でも、外に出てみ たいと、いま、催琶は思う。外が怖いと思っていたのは、自分が人に忌まれるので はないかという恐れからだ。でも、誰かに、話してみたい。ほほえみかけてみた い。催琶は思う。その結果、頬の傷を怖がられるかもしれない。でも、もし私を 知ってもらえたら、怖がられることはなくなるのかもしれない。 「催琶。」 「はい。」 「最近、外に出てるのかい?」 用事以外の事を話題にされるのは、久しぶりで、催琶は思わず嘩人の顔を見てし まった。すぐに足下に視線をおろす。 「ええ。買い物に出たりしています・・・。」 「外の世界はどうだい?」 「ええ・・・。怖かったけれど、いまは、楽しいです。知り合いも、少しできまし た。」 「知り合い?」 「筆屋さんとか、櫛屋さんとか、お店の人と顔見知りに・・・。」 「そう。よかったね。」 しかし、その声は、何かを押さえた声のように、催琶には聞こえた。気のせいだろ うか。催琶はそっと嘩人の顔を見た。その目はどこか、遠くを眺めていた。 いままで、嘩人のことは、よく知っていると思っていた。会話がなくても、少し の仕草から、なんとなく気持ちや考えていることが分かる気がした。しかし、そん な表情をしている嘩人は、何を考えているのか、分からない。催琶は結局、嘩人の ことは、何にも分からないのだ。 庭の銀杏の木を眺める。 銀杏の木。木は、精一杯毎日を生きている。枝をのばし、葉から日をとりこん で。毎日同じ繰り返し。それを私は自分と同じだと思っていた。催琶は考えた。 でも、違う。木はその力を毎日精一杯使っている。でも私は。足があり、口があ り、笑う力があり、その他にもできることはあるのに、全然その力を使っていな かった気がする。なにを、していたんだろう。私は。 「催琶。」 「はい?」 「最近、少し変わったね。」 「・・・・。」 催琶は小首を傾げた。そうだろうか?自分ではよく分からない。 「そうでしょうか?」 「うん。表情が増えた。」 思わず催琶は考えこんでしまった。 「催琶。庭の木を切るよ。」 「・・・そうですか。」 真鷺宮は梅を非常に愛でていると聞く。西大臣家も梅ばかりと。そのように、要望 がでたのだろう。予想はしていたことだった。なのに不覚だった。催琶はくるりと 後ろを向いた。 「催琶。」 嘩人は催琶の正面にまわりこむ。うつむく催琶の頬に、そっと手を伸ばす。傷のあ る頬に。指が水にふれる。ふれようとするとき、催琶は、ぱっと離れた。 「失礼します。」 部屋を出た。本当は、許可なく下がってはいけないのに。勝手に部屋を出た。 それからの催琶は、嘩人の前だと堅くなな態度をとるようになった。なぜそうな るのか、催琶自身にも分からない。会話がほとんどないのは、前と同じであるの に、こんなにも違う空気。ぎこちなく、堅い。 とかす為に、嘩人の髪に触れていると、泣きそうになってしまう。自分でもとら えられない感情。 「張佳さま。ちょっといいでしょうか?」 「・・・どうしたの?催琶。」 張佳は執務机から顔を上げた。 「はい。・・・私、真鷺宮様もお輿入れして、嘩人様の周辺も人が多くなります し、自信がないんです。」 「催琶・・・。」 まじまじと、張佳は催琶の顔を眺めた。 「仕事を代えて欲しいというの?」 「・・・・。」 「催琶・・・。」 「すいません。」 「・・・どちらにしても、交代を探すのは時間がかかります。仕事を仕込むのも時 間がかかるし、真鷺宮様お輿入れであわただしいこの時期には無理よ。」 「はい。」 「その後なら、なんとかなるかもしれないけれど・・・。でも、催琶、本当にそれ でいいの?」 「・・・・。」 「催琶、時間はあるわ。よく考えなさい。」 本当にそれでいいの?母の。母の声が、催琶の耳にこだまする。 最近、嘩人は帰りが遅い。飲んで帰ってくることが多くなった。結婚が決まり、 祝いの席が、自然増える。そのせいもあるのだろう。しかし、それにしても、前の 飲み方と、明らかに違うと感じるのは、催琶だけなのだろうか。部屋にもどると、 すぐに眠りに入る。それくらい、酔いが深い。前はどんなに遅くなっても、こんな に酔うことはなかった。 「嘩人様。御酒が過ぎるのでは?」 ぽろりと催琶は言ってしまう。また酔いつぶれて嘩人が帰ってきた夜のことだ。 言ってしまって、すぐに後悔する。嘩人がじっと催琶を見ている。なぜ、そんなこ とを言ってしまったのだろう。後悔の理由は使用人の立場を超えたということでは ない。最近すすんで頑な態度を取っているのは催琶のほうなのだ。それなのに、こ こで嘩人の心配をしているような言葉をかけるなど。なんて矛盾しているのだろ う。嘩人もそう思っているに違いない。 「催琶には、関係ないだろう。」 そう嘩人が言うのは無理がない。それでも、その言葉は、嘩人らしからぬ言葉で、 催琶の心はしんとした。 「はい・・・。すいません。」 そのまま礼をして去ろうとする。それで、泣きそうになったりしない。泣くわけが ない。催琶は自分が妙に冷静になっているのを感じる。感じようとする。 「催琶。」 灯を消した部屋の中から、声だけが聞こえる。嘩人の声が。 「催琶・・・ごめん。」 「・・・。」 「ごめん。」 「いえ、いいんです。」 嘩人の吐息が聞こえた。暗く、やさしい闇の中から。催琶は部屋の戸口にたって、 思わず月明かりの向こうの嘩人の寝床に目を凝らした。 「よくない。」 「・・・。」 「よくないんだ。・・催琶・・・。催琶は・・知らないから・・・。」 「・・・・・。嘩人様?」 それきり、もう何も聞こえてこなかった。催琶はそっと部屋を去った。 そして、いつものように、嘩人の髪をとかす。 でも、いつもとは違う。なにかが違うのだ。これまでの、ぎこちない空気とも違 う。嘩人は催琶を見ようともしない。 距離が。ものすごく離れてしまったような気がする。それでいて、それなのに、 心の奥底が冷え切っている。何も感じない。無感覚だ。 催琶は、嘩人の髪をとかし続ける。嘩人は催琶を見ない。 輿入れの日は、日一日と迫ってくる。 催琶も準備に追われるようになって来た。毎日が忙しい。考える暇がない。外に 出る機会も増えた。最初はおずおずと。しかし今は顔を上げて外に出られる。自分 を知ってくれる人がいるから。自分を知っている人に会えるから。笑うことも増え た。なのにどこかがからっぽだ。そんな気がする。そんな気が拭えない。拭い切れ ない。はやく、はやく輿入れの日が来てしまえばいい。 嘩人はあれから、催琶を見ようともしない。同じ生活を送り、同じことを繰り返 し。何も変わっていないはずなのに、それでもこんなに前とは違う。型にはまった 生活の中で、嘩人がいままで、いかに自分を一人の人間として扱っていてくれたの か、分かる。ちょっとした眼差し。ちょっとした言葉。それが、あるかないか。今 は全く自分は一人の女中だった。嘩人は自分を心の中から締め出してしまったのだ と思う。 催琶は自分が情けなかった。嘩人との距離は完全に離れてしまった。それは催琶 が望んだことの筈だった。それなのに、離れていこうとする嘩人に、寄って行こう とする自分が、自分の中のどこかに、いる。 嘩人が何を考えているのか、まったくわからない。分かろうともしたくない。そ れでも、頭の中をめぐる。最後に聞いた、あの夜の言葉はなんだったのだろうか。 催琶は知らない、と。何を、知らないというのだろうか。何も分からない。 「催琶」 その日、名を呼ばれた時、最初催琶は返事ができなかった。視線だけを嘩人に向け る。名を呼ばれるのは、久しぶりだった。嘩人の目を見るのでさえ。呼吸の仕方を 忘れてしまいそうだった。 「これを、長論様のお屋敷に。」 「・・・はい。」 「門番に渡してくれ。これを被っておいき。」 書状と共に渡されたのは、身分の高い女が外出時に被る頭巾だった。顔が隠れるも のだ。どうしてなのか、いぶかしげな催琶の顔に畳みかけるように嘩人が言う。 「内密な書状なんだ。屋敷の者にも気づかれないように。」 「はい。」 こんなことは初めてだった。いままでは、このような用事には、供人が使われてい た筈だ。催琶のような女中に任されたことは、一度もない。しかし、そのようなこ とは、催琶が口を出す問題ではない。催琶ができることは、言われたままに行動す ること。言われたことをただ、完璧に処することだけだ。 買い物に出ていくように、いつもの様に屋敷を出る。そして、教えられた長論の 屋敷へ向かう。屋敷のほど近くで頭巾を被る。頭巾だけがいやに豪華なもので、違 和感を感じる。早く済ませて脱いでしまいたかった。屋敷の表門に近づいていく。 手の中の書状を握る。門番が、そこにいる。話しかける。 「これを・・。長論様に。」 そして書状をそっと下に置くと、身を翻して走り去った。 すべては嘩人の指図通りに。 己の行動が、何を意味しているかも知らずに。 数日後。急に周辺があわただしくなった。 あわただしさのまま、嘩人が自宅謹慎となり、そして真鷺宮の輿入れが、たち消 えた。 催琶には、何がなんだか分からなかった。分からないまま、ばたばたと動いてい た。理籐と杏沙が話を仕入れてくる。二人が、話しをしている。 「嘩人様が、暗殺を謀ったって!」 「そんな。嘩人様がそんなことする訳ないわよ。あんなにお優しい方が。」 「そうなのよ!証拠はないのよ。」 「証拠がないのに、どうして・・・。」 「わからないわよ・・・!!なんでも北大臣様の暗殺計画があったとか、ないと か、それに嘩人様が関わっていたって・・!」 「そんな・・・。」 「嘩人様だって、お優しい方だけど、でも政が関わってのことで、仕方なく参画さ れたのかもしれない・・・。」 「・・・。」 計画に携わっていたという明らかな物的証拠はない。しかし携わっていなかったと いう証拠もない。名があがり、何人かの朧気ながらも証人があがった以上、嘩人も 無傷では済まなかったということらしい。謹慎処分で済んだのは、嘩人が今までに 築き上げてきたものと、路家の家柄。それに皮肉にも婚約していた西大臣家の体面 をおもんばかっての計らいのおかげといえるだろう。 しかし。真相はどうなのだろうか。催琶は考える。夜も眠らず。 考えて考えて。一つの可能性を思いついた。 思いついたら、言わずにはおれなくなった。催琶は時々そんなところがある。普 段は何を思っても考えても、それを表には出さない筈なのに、時々衝動的に、何か をしたくなるのだ。考える前に、話しかけていた。嘩人に。 月のきれいな夜。いつもの様に、嘩人の召し換えが終わった後だった。 「嘩人様。」 話しかけてから、頭のどこかでしまったという思いもあったが、もう口から出て しまった言葉は、催琶のもとを離れて、戻ってこない。 目だけで催琶を、嘩人は見つめた。嘩人の表情は今までに見たことがないもの だった。別人のようだ。まるで。読みとれない表情が沢山つまりすぎて、かえって 能面のようにも見える。その目に向かって、せき込むように催琶は続ける。 「お聞きしたいことがあるのです。」 「なんだい?」 この言葉を口にしてしまったら、もうどうなるか分からない。自分は使用人として の立場を完全に超えようとしている。この言葉を口にしてしまったら、どうなるの だろうか。 「嘩人様。嘩人様だったのでしょう?」 なにが?とは嘩人は尋ねなかった。 「あの晩、私に持たせた手紙。あれがそうだったのでしょう?」 長論は嘩人の政敵のはずだ。その、長論にあてて書かれた手紙。顔を隠した催琶に 持たせた手紙。暗殺計画の中に嘩人が含まれているとの密告はどこからされたの か。 「だとしたら?」 薄く、嘩人は笑った。月明かりに照らされたその顔は、彫刻のようだった。笑う目 と口もとだけが白くほの浮かぶ。こんなにも冷たさを感じさせる人だと思うことは 今までなかった。 「どうしてですか?御自身で御自身を陥れようとするなんて。」 「別に・・いいだろう。催琶には関係ない。」 「関係ないだなんて・・・では、どうして、どうして私に持たせたのです?あのよ うな手紙を、どうして私に。他にも、沢山人はいた筈です!」 「・・・。」 嘩人の笑いは、浮かんだままだった。それでも目をすっと催琶からそらせた。月を 見上げる。でも催琶は同じように月を見ようとはしない。嘩人だけを見た。目をそ らした瞬間に逃げられてしまう。はぐらかされてしまう。一緒に月を見上げた瞬間 に、真相を知りたいという気持ちは月明かりに溶かされてしまうだろう。催琶は嘩 人のもとへと近づいていった。そして嘩人の目の前に立った。 「嘩人様。教えてください。どうして、私の頬に、傷をつけたのですか?」 その瞬間はじかれたように、嘩人の目が催琶を射た。それだけで分かってしまう。 その言葉が間違いではなかったと。 「どうして・・。」 どうしてというその言葉は嘩人の口から出た。その顔からはさっきの能面のような 表情はすっかり消えていた。代わりに驚愕とそして怯えたような視線。 「分かりません。なんとなく。ほんとはずっと、分かっていたのかもしれない。」 そんな嘩人の顔から自分の足下に視線をずらし、催琶は答える。 「でも、どうして?どうしてなの。」 「・・・。」 嘩人は答えない。 「どうしてなの!嘩人様。どうして私に手紙を持たせたのですか。自分を告発する 手紙を。」 「催琶。」 嘩人の手が催琶の袖をつかむ。催琶はその手を振り払った。そのまま自分の頬の傷 に触れる。 「そういう手紙を私に持たせて、そうすることで自分の罪を償おうとしたのです か!?」 「催琶。」 どうすればいいか分からない。困ったように嘩人が、催琶の腕をつかむ。そんなこ とをしても、催琶の言葉も気持ちもとまらないのに。 「そんなのは、全然、償いじゃない。ひどい。ただの自己満足よ。」 催琶は嘩人を見あげた。そこに傷ついたような目を見て、動揺する。気持ちが急に 収束していく。 「・・・嘩人様の馬鹿っ。」 叫ぶと催琶は部屋を走りでた。嘩人の手は力をなくしてするりと落ちた。部屋の 中、月明かりの中で嘩人は立ちつくしていた。唇をかみしめて。 催琶は庭の銀杏の木があったところまで走りでて、そしてやっと立ち止まった。 結局何をしにいったのかも分からないまま、感情のまま嘩人に言葉をぶつけ、そ して嘩人のもとから走りさってしまった。 分かったのは、確かめられたのは嘩人が催琶の頬の傷を付けたのだということ。 それでも、自分の頭の中で吹き荒れているのは、そのことではない。嘩人が催琶 の頬の傷をつけたのだということでは、不思議と何の感情も湧いてはこない。ただ 当たり前のこととしてとらえることができる。きっとそうしなくてはならなかった のだろうし、しょうがないことだったのだと。その後で頬の傷から起こった苦労に ついてもなんの感慨もわき出てこない。何故なんだろう。 それなのに、嘩人が自らを刺す手紙を、催琶に持たせたことについては、もう心 底許せなかった。体が熱くなって、だからつい、嘩人に言葉をぶつけたのだ。もし 頬の傷を償いたいというのなら、それは嘩人がきちんとその話しをして、それから 催琶に謝る。それが筋というものだ。嘩人が、間接的に、催琶に自分を陥れる片棒 を担がせることで、自分への償いをしたつもりになったというのなら、それは大き な間違いである。そう言いたかったのに、話しの半分も伝えられなかった気がす る。 それでも自分の気持ちをぶちまけて、少しすっきりとした気持ちになった。それ だけに、頭が冴えてくると、催琶は落ち込んだ。明日からどんな顔をして嘩人に会 えばいいのだろう。泣きたくなる。よく考えたら自分は何をしにいったのか、分か らない。ただ叫んで帰ってきただけだ。なんの状況改善にもつながっていないよう な気がする。ただの莫迦だ。 そして自分の言動。使用人として、あるまじきこと。本来なら、こんなことをし てしまっては、文字通り首を切られても文句は言えない。でも嘩人はそんなことを しない。そんな嘩人のやさしさに、自分はつけ込んだ。 頬の傷をつぐなう?使用人に対してそんなことをする義理などない。何を偉そう なことを。嘩人の傷ついたような目が心に浮かぶ。私は、あの人のやさしさにつけ 込んだのだ。 私は領域を踏みはずしている。 ・・・明日、・・・謝らなくては、ならない。 緊張して、いつも通りの朝を迎える。嘩人は、表情を顔に浮かべない。それは政 治の世界で培ったものなのだろうか。仕事を終えて、退出する際に催琶は小さな声 で、嘩人に言葉をかけた。 「昨日は・・・。すいませんでした。出すぎたことでした。」 嘩人の背中がぴくんと揺れた。 「もう、いい。いいから。催琶。」 しぼりだすような声が聞こえる。頭を下げて、催琶は退出した。これからは、完璧 に、心から使用人としての立場を貫いていかなくてはならない、これからは。 そう心に決めて。 しばらくして、嘩人の謹慎処分は解かれた。そして告げられる辞令。使用人の間 を吹き抜ける噂話。 嘩人に地方の太守の辞令が下ったと。自分達はどうなるのだろうかと。嘩人に直 接仕えている者の人数はのべ30人を下るまいか。路家の家督は、弟に譲られるの だろうから、邸には、弟君が入られるだろう。使用人のうちの、何人が残れて、何 人が付いていくことになるのだろうか。自分達は、自分達は一体?そんな話しば かりが周りを取り巻いている。 私はどうなるのだろうか?未来のことは考えないことにした。明日は拒んでも拒 んでもやってきてしまうのだ。明日背負い込む苦労について、今から思い悩むこと はない。明日その時考えればいい。 嘩人様は私を連れて行くのか、行かないのか。 私は嘩人様について行きたいのか、行きたくないのか。 考えても結論がでない。考えても分からないことは、その時が来たときに考えれ ばいい。 そう思って、催琶は目を閉じ、眠りに落ちる。 「催琶。」 誰かに呼ばれたような気がして、目をさます。 目をあけると、そこには嘩人の顔があった。 声を出しそうになる。 「しっ。」 嘩人は催琶の口をふさいだ。部屋には理籐も寝ている。でもまったく気配を感じて いないのだろう。静かに眠っている。あの晩もこうだったのだろうか。誰にも気付 かれずに部屋に入り込み、そして催琶の頬に刀を立てて、走りさったのだ。 「出よう。」 手をとって、嘩人は催琶を連れ出す。手のぬくもりに、催琶は幼いころのことを思 い出す。まだ幼い頃、こんな風にして遊んでいたことがあった。 庭にでて、縁欄の手摺りに軽く腰をかけた嘩人に倣って、催琶も腰をかけた。 今夜は月は見えない。 月があるはずの方角が、おぼろげに、銀色に光っている。もやは銀杏の木の存在 しない庭をほのかに照らしている。 「催琶。渓陽に行くよ。」 催琶は嘩人の横顔をそっと見上げた。いつもの、穏やかな嘩人。 「誰も連れていかない。あまり便利なところではないしね。家族がいるものも多 い。向こうではある程度のものは用意してあるだろうし、一人で行く。皆の始末は ちゃんとつけて、行く。」 「・・・・。」 そうは言っても決して嘩人一人では行かせまい使用人が数人いることを催琶は知っ ていた。自分はそこに入るのだろうか。 「こうなったのは、でも催琶。自分が望んだことだったんだ。自分がしたいことを できるようになる為に今まで精一杯やってきたつもりだった。それなりに力も得 た。自由になることも増えた。でも駄目なんだ。」 嘩人は目を伏せた。 「駄目だ。何も自由にはならない。」 頭を垂れる。声がささやきに変わっていく。 「楽になりたかった。ただそれだけだった。」 そこで嘩人は顔をあげて催琶を見つめた。 「催琶を道具に使うつもりはなかった。それを償いの代わりにしようというつもり も。・・・でも、やっぱり自己満足の気持ちはあったかもな。」 目をそらして、ふっと笑う。 「逃げだな。」 催琶は嘩人の顔を見つめた。ただ、ただ見つめた。 「皆に迷惑をかけた。」 何も言えなくて、催琶はそっと手を重ねた。そうするしかできなかった。 しばらく時がたって、嘩人は言った。 「行く前に、謝っておきたかった。催琶・・・ごめんよ。」 「・・・・。」 「ごめん。催琶。僕はいつもそうだ。人の迷惑を考えない。」 「迷惑じゃ・・・なかった。迷惑じゃないもの。」 かぶりを振り続ける催琶の頭を、そのかぶりを止めるにはどうしていいかわからな くて、嘩人はそっとだき抱えた。そして呟く。 「ごめん。」 何故なのか、どうしてなのか、一切嘩人は言わなかった。でも言われなくても催琶 は嘩人が頬に刀を立てた、その理由が分かる気がした。そして理由を言うことが催 琶を束縛してしまうと感じるからこそ、嘩人は言おうとはしないのだろう。 「ごめん。催琶。」 繰り返される呟きに、初めて催琶の目から涙がこぼれた。一旦出始めると、もう止 まりようがない。何故こんなに止められないのか、自分でも分からないまま、催琶 は嘩人の胸で泣きじゃくった。嘩人の胸は、あたたかくて、いつまでも、いつまで もこのまま泣き続けていたかった。 月は相変わらず雲の裏から隠れて出てこない。 鈍色の光だけが、世界を照らしている。 そうして月は沈み、そしてまた、どんなに拒もうと明日はやってくる。明日には どうなるのだろう。自分は嘩人が好きなのだろう。けれど自分は使用人なのだ。自 分は嘩人のそばにいたいのだろうか。使用人として?嘩人は自分のことをどう思っ ているのだろうか。渓陽には連れていくのだろうか。言われなくてもついていくべ きなのだろうか。けれど使用人としての立場に自分の気持ちは治まるのだろうか。 私はこの立場を忘れるべきなのだろうか。忘れてもいいのだろうか。それともずる くなっていけばいいのだろうか。 いろいろな思いが催琶の胸を駆けめぐる。しかし今はそれらを涙で押し流して、 ただ催琶は嘩人の胸の中で泣きじゃくった。 何も考えずに。ただ泣きじゃくっていた。まるで子供のように。 涙は催琶の衣に、嘩人の衣に、銀色に照らされる地面に、ぽろぽろと、ぽろぽろ と落ちていった。 それは、過去のことも、未来のことも、すべてを押し流す涙だった。 涙の先は、誰も、しらない。 <了> |