祈祷が終わると、とうに五つ半を過ぎていた。
供人の関響をつれて屋敷を辞す。
屋敷を出て牛車に乗り込む少しの間に、空を見上げてみると、遠く端の方はすでに白ん
でいた。頭も肩も重く、早く寝床に入ってしまいたかった。だが寝床も我が家もまだ程
遠い。朱磁はため息をついた。
牛車に乗り込み、腰を下ろすと、やがて動き出す。その揺れを心地よく感じる。眠り
に落とす薬のようだ。そのまま眠りに落ちてしまう前に、朱磁は思いついて、外で牛車
に寄り添って歩く供人に声をかけた。
「関響、乗っていいよ、おいで」
少年である関響にとって、夜通し起きているのは辛かろう。きっと自分以上に疲れて
いるはずだ。
普通の家では供人が牛車に乗るなどとんでもないことだ。しかし朱家である。朱磁で
ある。いつものことである。関響はうれしげに牛車に乗りこんできた。
「ありがとうございます。朱磁様。外は寒くて」
「うん、屋敷まではしばらくあるしね。お前もご苦労なことだ。眠くないかい」
「ええ大丈夫ですよ。慣れてますから」
にっ。と関響は笑った。
「慣れてます、か。まぁね。いつものことか。祈祷は夜が多いから」
「はい」
「でも、子供のお前には夜通し起きているのは辛かろう。すまないと思っているよ」
関響はあわてたように言った。
「気にしないで下さい。朱磁様。これが私の仕事なんですから。・・・そんなことを供人
に言うなんて、朱磁様くらいですよ。あんまりそんなことばっかり言ってると、また
李さんに怒られますからやめて下さい」
朱磁は顔をしかめた。李の顔が浮かんだからだ。
李は朱家の吏長である。吏長は召使いの長であり、その家の執務のすべてを司る者で
ある。しかしながら朱家の吏長は特殊だった。家の中では無礼者。主人の朱磁にもずけ
ずけと物を言う。それなのに朱磁が他の者に気さくに対すると、これには「主人らしく
せよ」と怒るのだ。
顔をしかめたまま、朱磁は壁に背を預けた。
「寝るよ。私は。屋敷についたら起こしてくれ」
「・・・はい」
そのまま目を閉じようとして、朱磁は、ふと視界に残った関響の顔が気になった。な
ぜだろう。とても残念そうな顔をしていたのだ。だから目を明けた。よくよく見つめ続
けると関響は何かを話したそうな顔をしている。
「どうした?」
「いえ、その・・・」
「話したいことがあるなら、話しなさい。気になるだろう」
笑いながら身を起こした。眠気は相変わらず脳髄の半分を覆っていたが、いつもつい
てくる関響が、こんな様子を見せるのは滅多にあることではない。気になった。
「ええ、そのですね。ちょっと変わったことがあって」
「うん?」
「私の家のことなんです」
関響は遠慮しつつも、話し出した。
関響の家は、薬屋をしていた。といっても云々帝から続く御世からの老舗、とかいう
大店ではない。かといって吹けば飛ぶような小さい店でもない。胃薬である「讃胃薬」
が看板薬で、これが効くと評判。なかなかに売り上げを伸ばしている薬屋である。
関響はそこの4男で、そこで幼い頃出入りのあった朱家へ奉公することに相成ったの
だった。
さて、この程、店は引越しをした。今まで貯めていた小金を元に、手狭になった前の
店を手放し、新しく鵬併橋のあたりに家を建て、店を構えたのである。
客足も増え、売り上げも伸び。なかなかの順風満帆な運びと言えた。
「ところがです。なにやらおかしなことが続きまして」
「ほう?」
「風が、吹くのです」
風が吹く。それ自体は当たり前のことだ。しかし関響の家では、普通ではない風が、
吹いたのだ。
場所は中庭。家の造りはどこも同じようなもので、中庭を建物が囲むようにできてい
た。南が玄関と客をもてなす広間。北が台所や水場、物置。左右に部屋がある。中庭を
囲むようにすべてがある。その中庭を風が吹くのである。
まるで竜巻のように。
風が強い日ならば、それも不思議ではないだろうが、関響の家では、まったくの無風
の日にでさえ、中庭を小さな竜巻が吹き荒れたと言う。またあるときは、雨の日に。外
はまっすぐに雨が降っているというのに、中庭だけは、水滴が渦をまいており、雨上が
りには中庭の中心だけが乾いていることもあったと言う。
「まあ、害はないのですけど、やっぱり不気味でしょう。それで、この前ちょっと里帰
りさせてもらったときに、母に相談されまして」
そこで関響は、はっとした様子で、あわてて言葉を付け加えた。
「もちろん、朱磁様に見ていただこうとか、おこがましいことではありません。祈祷師
の供人をしてるなら、何かわからないかと、わけの分からないことを言われまして・・・」
ぶつぶつと、最後は聞き取れない言葉になって消えた。普段元気な供人の、あまり目
にしない、しゅんとした姿を見て、朱磁は苦笑した。
「わかっているよ。気にしなくていい。鵬併橋と言ったか?」
「はい」
「それなら、通り道じゃないか。・・・これから寄ってみたら駄目だろうか」
「はい?」
「だって通り道だろう。今夕から、例の宮中のややこしい祈祷の会とやらにいかなくて
はならない。あれは数日かかるし、その後といってら、いつになるかも分からなくなり
そうだ。早めに行くなら今しかないと思うがな」
「いや、だって、朱磁様!」
「まあ、こんな時間というのが、顰蹙ものだが。家の人は起こす必要はないから、中庭
だけちょっと見せてもらえればいいのだよ。・・・迷惑なら、やめるけど」
「うちは全く問題ありません。ありませんけど、朱磁様。李さんが」
「時間はあまりかからないと思うよ。大丈夫、ばれない。かかりそうなら、後日としよ
う」
普段、幼い身ながら関響はよく働いている。低いながらも貴族の出で、その年齢には
働きはしなかった朱磁は、どこかで関響にすまない気持ちがある。そんな関響の見せた
悩みに、自身で何かをしてやれる機会を、朱磁は無意識にも逃したくないと思ったのか
もしれない。常にない熱心さを見せていた。そして、もちろん関響は朱磁が来てくれる
こと自体に対しては、依存はない。これ以上のことはないと思っている。
そんな訳で、牛車は鵬併橋近くの薬屋で歩みを止めた。空は白みかけていた。
朝早くであるが、関響が戸を叩くとさすがに召使は起きており、すぐさま戸が開く。
関響は召使に口止めをすると、そっと朱磁を中庭に招き入れた。
回廊から中庭を眺める。ほどなくして朱磁が言った。
「関響、この家が建つ前、この土地には何があった?」
「この家を建てる前ですね。ええと、確か塾があったと聞いております。何たらとか言
う高名な師が開いていたようです。師が他界して塾も解散し、建物も無人となり・・・う
ちが土地を買い取って、建物を取り壊して、この家を建てました」
「そう」
「あの、父も気になってあちこちから噂を集めたそうですが、特に塾で死人が出たとか、
恨みを残す事件があったとかはなかったようです。無人であったときも幽霊が出たりと
いうようなことは無かったそうですよ」
朱磁は、ちらりと視線を向け、関響が言葉を続けようとするのを制止した。そうして、
同じその視線で関響を回廊に留めおき、自分は中庭の中央まで歩みを進める。立ち止ま
って何かを感じ取るようなそぶりを見せた。
しばらくの静寂。その後、何かをつぶやいた。
途端。
風が渦巻いた。渦巻いた風は、そのまま上空へあがり中庭の中央にたたずむ朱磁の口
元へと吸い込まれる。
竜巻を受け止める朱磁の体は微動だにしない。風に巻かれ、やがれその風がすべて朱
磁の中へと吸い込まれる。
ヒュッと。
朱磁の喉元から音が漏れるのを最後に、風がやんだ。中庭は、何事もなかったかのよ
うに、静寂に包まれていた。
「朱磁様!!」
関響が駆け寄る。それに朱磁は笑顔を向けた。
「これで当分は大丈夫だよ。また何年かたって、何かあるかもしれないが、それにした
って害のあるものではない。大丈夫」
「は、はい。ありがとうございます。朱磁様、あの、お体は大丈夫なのですか?」
「大丈夫だよ。これが私の祈祷のやり方なのだから」
「はい・・・朱磁様?」
「ん?」
「あれは、なんと、おっしゃられたのですか?先ほどつぶやいておられたのは・・・」
「もう、ない。と」
「え?」
「もう、ない。もう消えてなくなったんだよ。と言ったんだ」
「もう、ない。」
「ずっとあると信じていたもの。それがない。思いはどこへいくんだろう・・・行き場所
がない。帰ることもできない・・・」
朱磁は、言葉を口の中でころがすようにつぶやいた。
「・・・せつない、な」
日はすでに高く、もはや朝ともいえない時刻。朱磁と関響は牛車に揺られていた。
あの後。関響が口止めしたにもかかわらず、召使は関響の父と母に朱磁が来た事実を
伝えてしまったのだ。おかげで関響の家族に、特に母御に、ぜひ朝ご飯を食べていけと
進められ・・・断れなかった朱磁だった。朱磁にすでに母はいない。関響の母の開けっぴ
ろげな愛情には所詮太刀打ちできないのだ。
「いいか、関響。あくまで!あくまで祈祷が長くかかりましたと、いうことにしておく
んだぞ」
「いや、朱磁様。この時間になって、それは無理なんじゃないでしょうか」
「いいや、本当のことなんか李に言った日には、何が起こるかわからないぞ。絶対に、
祈祷に時間がかかりましたですませるんだ。押し通すんだ。いいな」
「はい・・・」
そうして案の定。朱家の門には予想通りの人影が。待っていた。
李はにっこりと笑ってみせた。
「・・・で、朱磁様。今までどこに行っていらしたんですか?」
朱磁も嫣然と笑ってみせる。
「ああ、李。すまないな。祈祷が長引いてしまって」
「ほう。祈祷が。長引いたとな」
「そうなんだ。祈祷が・・・」
「そうか。その話。ゆっくりと聞かせてもらおうか」
ぐいっと朱磁の手をつかみ、牛車から引きずり降ろす。そのまま李は朱磁を引きずり
ながら屋敷へと歩きだす。
「わ、ちょっと待てって!」
「全部説明してもらうからな。祈祷しているはずの屋敷に使いを出しても戻ってきた訳
も、鵬併橋近くの薬屋の店先にうちの牛車が止まっていた訳も」
「李、李さん!!すいません!私が・・・!」
叫んだ関響を李が振り返った。その視線を見て、関響はすべての動作や思考を止める。
関響が固まっている間に、李はずんずんと回廊を進み、朱磁を連れていってしまった。
二人の姿を見送って、関響は首を振ってため息をついた。
つまるところ。
関響が何を言っても言わなくても、李はすべてお見通しなのだった。
そうして結局のところ、最終的には、朱磁を許してしまうのだろう。
だから言う必要はなし。そういう視線。だから放っておいてよし。
後で、ちょっと朱磁様に謝っておこうか。それすらも、きっと流されてしまうのだろ
うけど。
関響は、くるりと向きを返した。裏門から入っていく牛車の片づけの手伝いをしなく
てはならない。
「好き勝手にほっつき歩くなと何度言えばわかるんだ!仮にもお前は」
中庭には。
朱家の中庭には。
吏長の怒鳴り声が響いている。
平和だ・・・と関響は思った。
<fin>
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なんとか最後に間に合ってよかったです。
といっても短時間で仕上げたので、粗相があったらごめんなさい。
久々に、書きました。最後は朱磁さんで書きたかった。最後というきっかけが無かった
ら、書けなかったかもしれない。
F文はやっぱり、私にとって書くきっかけを与えてくれる場です。
集う場所がなくなろうとしているとき、せつない、さびしいで終わらず、では何ができ
るのか。つながりをなくさないように考えて模索する皆様がすばらしいと思います。
今までありがとうございました。多謝。
右葉ごと
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F文の最後に。10月24日。皆様お元気ですか。