「春の風邪」 右葉ごと   02/04/21 23:44

  朝からどうにも鼻水がとまらなかった。
 初めは、なんだか鼻の裏が乾燥しているなあ、という程度だったのだ。
 それがだんだんと熱を持って、やがて鼻水がとまらない。
 今は、頭もぼうっとしてきている。
 本格的に風邪かもしれない。

 佐は寝床に大の字になりながら、うつらうつらしていた。
 うたたねした後のけだるさが身をつつんでいる。
 身を起こすと、やはり熱を持っているようだ。
 まずい。
 風邪薬はあっただろうか。
 身を起こすと佐は、薬箱をがさがさと探った。前に薬師に貰ったものがあったが、
しかしそれが本当に風邪薬であったのかは図りがたい。とりあえず、恐らく風邪薬
であろうものを選んで、飲んでみる。 その一瞬だけ、喉が軽くなった気はした。
 しかし、しばらくしても頭のぼうっとした感じは無くならない。
 佐はまた横になった。

 2,3刻ばかり、すぎただろうか。佐は目覚めた。
 体の熱っぽさは相変わらずなくならない。
 いかんなあ。
 佐は仕方なく身支度を簡単にすますと、薬屋へ行くべく家を出た。

 外は寒い。
 春なのに寒い。
 佐はすかさず後悔をした。やはり寝ておくべきだったのか。
 佐の体は寒い。なのに目に映る景色は春爛漫である。桜の花が目の前をひらひら
と落ちていく。
 ああ、春だなー。
 桜の下で佐はしみじみ思った。鼻の頭を赤くして。鼻のかみすぎである。
 
 町の喧噪の中を佐は進んでいく。とりあえず薬師である。
 鼻の頭を赤くして、佐はずんずんと人混みを突き進む。そのずんずんぶりが、人
をして避けさせる理由だったかもしれないが、しかし、そんな佐にぶつかる人間が。
 どんっ。
 おっとごめんよ。
 通り過ぎようとする人影の、その顔を認識する前に佐は無意識に腕を掴んでいた。
「な、なんですかい?だんな。」
 佐は、ぼーっとしながら、男の顔をみつめた。それから改めて男の腕を掴む自分の
腕を眺めた。それからまた、男の顔をみつめた。そんなことを繰り返し。
 しばらく、じっと考え込んで、やっと答えにたどり着く。
「おでのさいふ。」
「へ?」
「おでのさいふかえせ。」
 男はスリなのだった。仕方なく佐の財布を差し出す男に、さらに言う。
「ほがのさいふもだしな。」
 いや、ダンナ、それだけは勘弁を。
 男はなんだか必死に言いながら、隙あらば逃げようとしていたが、佐はその手をし
っかりと握って放さない。熱のせいか加減が効かない。ものすごい握力である。なん
ならこのまま警邏にいくか。そういうと男は諦めたように2,3の財布を佐に渡した。
 スリを放して、またずんずんと佐は歩く。

 薬屋はまだか。
 ここに布団をしいて寝たい。寝たいぞ。布団があったら寝るぞ俺は。
 佐の体は熱を持ってきた。鼻水は相変わらずとまらない。早く薬を飲んで寝ないと
まずいよな。早く薬屋に行こう。ああ面倒くせえ。薬屋はまだか。こんなことなら、
家で寝ていればよかった。そうだそこの路地を突っ切ったらたぶん近道になるはずだ。
いやそうに違いない。
 薬屋、薬屋、薬屋、薬屋。

 そんな訳で今度は佐は路地を突き進んでいった。
 鼻水がとまらない。
 ずるずると水っぱなだ。水っぱななので、絶え間ない。やがて、当然のことながら、
鼻紙がつきた。一度使ったよれよれの鼻紙を使いまわしてみるものの、それもまた、
よれよれすぎて使えなくなる。
 うー。鼻紙ー。鼻紙はねえのか。 
 このまま鼻を垂らして歩くのは、気持ちが悪い。
 だけど鼻紙がない。着物の袖で鼻をかむのもいやだ。そんな袖をひらひらさせて歩
くのはいやだ。
 うー。鼻紙ー。誰か鼻紙は持ってねえのか。
 周りを見回してみるけれど、人気のない路地で、誰の姿も見あたらない。佐は人影
を求めてうろつきだした。薬屋のことは、すっかり念頭に無い様子だった。
 やがて、ある小道の方から人声が聞こえ、佐はとにかく、声に向かって突き進む。
 角を曲がって、見かけた人影に第一声。
「おい゛、はながみもっでないか?」
 人影は若い女と年輩の女。それを取り巻く二、三人の男。佐の姿を見かけて、女達
があわてて飛びついてきた。佐は溢れそうな鼻をあわてて押さえる。
「ど、どうかお助けを!」
「あ゛ー?」
「なんだ、てめえ?!」
「お願いします!助けて!」
「あんだ、はながみ、もっでるか?」
「はい、持ってますけど。」
「てめえ、邪魔すんなら、ただじゃおかねえぞっ。」
 なんだか男達が飛びかかってくる。佐はぼーっとそれを眺めた。
「あ゛ー、うるぜえなあ。おでは、はながかみてえんだけどよ。」
 ・・・。 
「ありがとうございました。私どもは、珊街の酒屋をしております・・・」
「はながみ。」
 鼻紙を貰って、佐はとても満足した。
「本当にありがとうございました。」
「あ、そうだ。わるいけどよ。ごれ、警邏にとどけてくでないか?」
 先ほどの財布を女達に託すと、佐は鼻をかみながら今度こそ薬屋に向かって歩きだ
した。

 しかし道に迷った。
 鼻紙探索のため、何も考えず歩いた結果である。
 散々あちこち歩いて、気がつけば夕日。
 春の霞たなびく空に、沈む夕日がゆらゆらと。
 光に目を細めながら、きれいだなあと、佐はしみじみ思った。夕日に照らされて、
佐の顔は赤かった。けれど、鼻はもっと赤かった。鼻はこすれて、ちょっとすりむけ
ていた。

 こうはしていられない。早くしないと薬屋が閉まってしまう。佐は焦って歩きだし
た。しかしそれを遮る人影が。
「待たれい。」
「あ゛ー?」
 なんだか深刻そうな男達が7,8人。
「ちょっと顔を貸して頂きたい。」
「わるいげどよ。ちょっどいそいでる゛んだ。」
「こちらも急ぐのだ。手間はとらせない。ちょっとこちらへ。」
 なんだかよく分からないが、用事を聞いてしまった方が早いかなとぼーっとした頭
で佐は男達に囲まれながら川原へ向かった。ちょうど進行方向だったので。

「先ほど、財布を男から奪ったであろう?あれを寄越しなさい。」
「はあ?」
「ごまかしても、分かっておるのだ。さあ、財布を寄越せ。」
 財布?・・・・・・・・・・・・・?
「スリの男を引っ捕らえて、はかせたのだ。さあ、出せ!」
「さあ出せ!」
「さあ!さあ!さあ!さあ!」
 財布?財布?
 ・・・・・・! ぽん!
「ああ、ざいふなあ!」
「認めたな!さあ出すのだ。」
「っていってもな゛いぞ。」
「何?」
「な゛い。」
「何故、出し惜しみをする・・・。」
「さては、中身を見たな?」
「見たのか?」
「・・・。」
 男達に急に殺気が芽生えた。
 佐は、またまたぼうっと男達を眺めた。体はとっても熱かった。頭にもやがかかっ
ているようだ。あー、もう完全に熱があるなあ。佐は思った。そういえば、薬屋、と
佐は思った。財布のことは頭になかった。
 対して男達はなんだか悲壮感漂っていた。
「おのれ、生かしてはおけぬ。」
「くっ。こうなれば・・・覚悟!」
   
 月が昇っていた。
 川原には、立っている人は誰もいない。倒れ伏す人影がごろごろ。
 そのど真ん中に、佐は大の字になって倒れていた。真っ赤な顔をして。
 つまり、動き回った結果、熱が上がりすぎたのだった。
 月がぐるぐる回っている。
 体は熱い。意識はもうろう。
 とにかく吐く息も何もかも熱い。
 あ゛ー、帰って寝てえ。
 運動して汗かいたら熱下がるかと思ったけど、全然だめだ。あちい。水飲みてえ。
 おりゃー、このまま熱でしんじゃうのかなー。
 ちょっと弱気になってみる佐であった。
 涙目である。
 さえざえと冷えた月の光りが、熱い佐を見下ろしていた。


 深夜。
 薬屋前。
 一人の男がよれよれになって、戸締まりのきっちりされた店の前にいた。
 佐であった。
 ゆでだこのような顔をしていた。 
 閉店。
 そして、呆然と佇む佐の頬に、一滴の水滴。
 春雨である。
 濡れていこうなんて、今の佐には酷かもしれない。
 深夜の街に、佐の絶叫が聞こえた。
「あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
 じょうだんじゃねえぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
 諦めて家路に着くべく角を曲がった佐の視界には、今の絶叫でびっくりして塀にぶ
らさがったまま固まった黒頭巾の男の姿が。
「しっ。失礼しました!」
 男は佐と目が会うなり、いずこへか走りさった。
 
 佐はびしょぬれになって、やっとのことで家にたどり着いた。
 とにかく寒かった。
 衣服を脱ぎ、体を拭くと、とにかく家にあるすべての着物を着、薬箱にあっただけ、
全部の種類の薬を飲むと寝床に入った。ものすごく時間がかかった。関節がぎしぎし
した。
 目を閉じて、じっとしていると、しばらくして寝床がぬくまってくる。
 そのぬくもりが、とても身にしみた。
 やっぱり寝床が一番だ。佐はしみじみ思うのだった。
 そして眠りに落ちていく。
 熱く、とけるような眠りに。 
 明日には熱が下がるといい。