漆黒の海。
その暗く静かな海を、静かに照らす月。
満月というにはまだ少し満ち足りない、また、それがゆえに優しく感じる。
優しいほのかな月明かりの下、波間にたゆたう船が一艘。
その船の後甲板で、なにやら影が動いている。
その動きに合わせ、ビュッ!ビュッ!っと音がする。
影の正体は、剣士ロロノア・ゾロ。
音は、彼が握っている剣が空を切る音であった。
8927………8928………8929………
ゾロが声に出さず、素振りの回数を数える。
その合いの手のように、大きな円盤型の重りを何連も付けた竹刀が空を切る。
9381………9382………9383………
普通の人間であれば、数千回も素振りするのも困難だろう。
しかもゾロは、その手に200キロはあるであろう、重りをつけているのだ。
——— 普通の人間は無理でもオレにはできないとダメだ。
9594………9595………9596………
——— 『普通』じゃないヤツに勝つには『普通』じゃダメなんだ。
9713………9714………9715………
1万回を数えたとき、ゾロの動きが止まった。
ゴトリと、その重さにしては控えめな音をさせ、竹刀の先を下につけた。
それに寄りかかるように、額を竹刀につく。
「ふーーー………。」
短い髪の毛が吸い切れなかった汗が、頬や額を伝い、ポタポタと落ちた。
その一滴一滴が、静かな月を映し出し、ゾロの足元で少しずつ大きな月になる。
ゾロは月を見上げる。
夜空に浮かぶ、満ち足りない月。
その月に自分の姿が重なる。
——— いや、オレはまだあんなに満ちてねぇ。 ……それに………
月は時がくれば満ちる。
が、人(野望)はそうはいかない。
世界一の座は、月が満ちるように簡単に手に入るものではないことを、思い知らされたばかりだった。
「くっ………。」
ゾロの斜めに切られた大きな傷が疼く。
一応、手当てはしてもらったものの、通常ならばまだ動く事すらままならない、大きく深い傷だ。
しかしその疼きは、修行のせいではなかった。
物理的な傷よりも、精神的な傷——『世界との距離』をまざまざと見せ付けられた時の傷(ショック)のほうが深かったのだ。
——— 明日からもっと重くするか。
ゾロは竹刀を肩にかけ、傍に置いてあったシャツに手を伸ばした。
と、その隣に覚えがないタオルが置いてあった。
「ん?」
タオルの下には、ラップがかけられたトレイがあった。
大きなオニギリが2つと、分厚くスライスされたハム、コロンと何気なく転がされたプチトマトが3つ。
そして小瓶に入った酒だった。
「ありがてぇ。」
タオルを首にかけ、トレイの前に座り込んだ。
オニギリをほおばりながら、タオルで額の汗をぬぐう。
ふと、オニギリの乗っている皿に目が行った。正しくは皿の下だ。
小さな紙切れがはさんである。
「なんだ?」
『食い終わったら流しに置いておくこと』
それだけだ。
それだけだが、誰が書いたかはわかる。
というより、食料を自由にできる人物は限られている。
書き殴ったような文字を見ながら、持っていたオニギリを口へ放り込んだ。
「うめぇ。」
ゾロはゴロンと仰向けに寝そべった。
そして酒豪のゾロには小さく思える瓶に口をつけ、喉を鳴らして飲む。
思ったより甘い酒だ。しかしハムによく合う。
ただ渇きを癒すための酒ではなく、きちんと選ばれた酒のようだ。
「さすがだな………。」
3口ほどの量の酒だが、修行で排出された水分を十分に補ってくれた。
体全体に甘味が行き渡った。
空になった酒瓶を、月に照らす。
満月に程近い月が、瓶の丸みにゆがめられ、不自然な円を描いている。
瓶を通してみる月は、現実のそれよりも満ちている気がした。
ゾロは瓶をゴトリと床に置く。
空には元の満ち足りない月が、控えめで美しい光を放っている。
——— オレは月にはなりたくねぇな。
もう一度、月と己との間に瓶を置く。
——— 月は円になると終わりだ。
後は欠けて逝くのみ。
——— オレは………
しばらくの間、そのまま月を見つづけていた。