雨と傘と卵と、不思議な少年。
君と出逢った夜の話。
天卵(そらたまご)
七月も半ば近いというのに、梅雨は未だ明ける気配を見せない。
南都来は空を見上げ、ひとつ大きな溜め息をついた。
ここのところ、晴天というのを見たためしがない。毎日毎日雨ばかりで、良い時でも曇り空がせいぜいだった。
雨は嫌いではないし、降らなければ降らないで困る事は南都来も解っていたが、
少年達が好む、身体を激しく動かすような遊戯は、雨天の元では行う事が出来ない。
南都来の表情が冴えないのはその所為だった。
塾帰りの暗い道、薄ぼんやりした街灯に照らし出される南都来の紅色の傘も、
最近の酷使に耐えかねてか、何処か元気の無いように見える。
(梅雨が明けたら、やりたい事がたくさんあるのにな……)
もう直ぐ待ちに待った夏休みだというのに、この雨では思いきり遊べないではないか。
南都来はまたひとつ、大きな溜め息をついた。
----と。
ここで南都来は、回りの風景がいつも帰途と違う事に気がついた。
空を見上げながら歩いていた所為で、曲がる通りをひとつ間違えたかなと南都来は思った。
しかし、それだけでは説明がつかない程、この通りは南都来の住む珠洲代町の雰囲気にそぐわない異質なものだった。
濃い闇に包まれた夜道を照らすのは、電気灯とは明らかに違う乳白色の柔い光。
その光に照らし出される歩道は、月のような青灰の花崗岩のタイルが敷き詰められた物。
建物の壁はコンクリートの無粋なそれではなく、南都来が見た事もない白い材料で組まれていた。
生まれて十二年、ずっとこの街で暮らしている南都来にも、ここが珠洲代町の何処なのか全く見当がつかなかった。
気味が悪くなってこの通りを出ようとした南都来だったが、背後を振り返って愕然とした。
そこには、確かに道が存在していたはずなのに。
なのに、何時の間にかそこは白亜の壁に囲まれた行き止まりになっていた。
「ここ……どこ……?」
青褪め呟く南都来の元に、雨は未だ止まず、静かに降りつづけていた。どれぐらい、歩いただろうか。
行けども行けども大通りに出ない。とおりの長さから考えて、そんな事はありえないはずなのに。
(僕……一生この通りから出られないのかな……)
想像するだけでも恐ろしい考えが、南都来を支配し始める。
その時だった。
南都来はこの通りに入って初めて、建物の壁と花崗岩のタイル以外のものを見た。
白いペンキの塗られた木造の柵、色とりどりの塗装がはげかけた様々な遊具、
ぬかるんだ剥き出しの土、雨露に濡れて微かに煌く草花たち。どうやらそこは公園のようだった。
普段は人で賑わうであろうその場所も、雨----それもこんな遅い時間帯では誰かがいるはずもない。
なのに、公園の隅に生えた大きな樹の根元に人影が見えた。
人に逢いたいと思う自分の願望が幻覚を見せたのか、と南都来は思い、目をごしごしと擦りもう一度よく見てみた。
やはり、そこには人がいる。それも、背丈からして自分と同じくらいの十二、三才程の子供が。
(あの子に、道を聞いてみよう……!)
こんな時間に公園にいる子供を妖しいとか危険だとか思うような余裕は、いまの南都来にはなかった。
早くこの異常な状況から抜け出して家に帰りたい、それだけが全てだった。
南都来は泥に脚を取られそうになりながらも、樹に向かって走った。
「あの……!」
南都樹が声をかけようとした瞬間、木の根もとの人影は彼の訪いに気付いてゆっくりと顔を上げた。
その人物は染みひとつない純白のレインコートを着込み、フードをしっかりと被っていた。
そのフードから覗くひと房だけ赤いメッシュの入った透明感のある水色の髪が、人工の灯りの元、きらきらと光る。
染め髪にしてはあまりに綺麗なそれが縁取る白磁の面は、男とも女ともつかない中性的な美しさ。
一瞬、南都来が全てを忘れて見入ってしまうほど、鮮烈な姿だった。
「何か?」
問い返す声も男にしては高く、女にしては低すぎた。
そうして声をかけられ、南都来は我に返った。
「あ、すみません。この通りからどうやって出たらいいか教えてもらえませんか? 道に迷ってしまって……」
「……? 入ってきたのなら、出て行く方法も解る筈だと思うけど? 」
「え!?」
怪訝そうな顔をしてその人物が言った答えは、南都来を困惑させた。
「それ、どう言う意味ですか??」
「-----ああ、そうか。君は違うんだね。たまたま迷い込んでしまった口か」
彼----口ぶりからしてどうやら男らしい----の言葉は、ますます南都来の疑問を深めただけだった。
「そう言う事情ならここから出る方法、教えてあげても良いけど」
形のよい唇を微かに持ち上げ、そう言った彼の口ぶりはどこか含みのあるものだった。
「けど?」
「ぼくの仕事を手伝ってもらえないかな。これが終わらないと、ぼくも家に帰れないんだ」
「仕事ってなんですか?」
「その敬語をやめたら教えてあげるよ」
そう言って、そんな色の目があるのか、と思えるような灰色の瞳を茶目っ気たっぷりに光らせた彼は、歳相応の少年に見えた。
南都来は、それを見て彼に対して親近感が沸いてくるのを感じた。
「そう言うなら普通に話すけど……仕事ってなに?」
「この鳥の卵を取り上げる事さ」
見れば、彼の腕には金色の鴉が抱かれていた。
「金色の鴉……!?」
「そう。金烏って言う天鳴鳥の一種だよ。太陽に住む、人間にとっては伝説の鳥」
(人間にとっては……って)
君がまるで人じゃないみたいな言い方じゃないか、そう言いかけて南都来は問うのをやめた。
なんとなく、この不思議な時間が壊れてしまうような気がしたので。
彼は、南都来のそんな逡巡には気がつかなかったのか、説明を続けた。
「この鳥が産む卵は、天卵って言って天気の元が詰まっているんだ。」
そんな話、聞いた事がないという思いがちらりと頭を過ったけれど、南都来はそれ以上考えるのをやめた。
ここまで非科学的な事が続いたのだ、今更現実にしがみついても仕方がないと悟ったからである。
何より彼の双眸は、嘘や絵空事を語っているにしてはあまりに真摯で、純粋過ぎたから。
南都来は、もう彼が何を言っても、素直にそれを受け入れようと決めた。
「こいつ、普段ならもう梅雨明けを告げる快晴の天卵を産むんだけど……
今年は夏至をとうに過ぎたって言うのに、産むのは雨の天卵ばかりで、ちっとも晴れの天卵を産もうとしないんだよ」
言って、彼はごそごそとレインコートのポケットを探ると、鶏の卵より僅かに大きい卵をひとつ取り出した。
それは、重々しく垂れ込める雨雲のような大理石色をしていて、南都来はそんな色の卵を見たのは初めてだった。
「これが、雨の天卵。まだ割ってないから、中には雨天が詰まってる。耳を当てて聞いてごらん。雨垂れの音がするから」
言われるままに、耳を当てる。
すると、卵の殻の内側から、激しい雨と風の音が聞こえてきた。
「すごいね……まるで嵐を閉じ込めているみたいだ」
「ふふっ、良い言い方だね。えっと……あ、名前、聞いてなかった……教えてくれる? 」
「僕? 僕は春杉 南都来。南都来でいいよ。君は?」
「天音。苗字は長いから省略するよ」
「天音くん、かぁ……綺麗な名前だね。でも、そんなに長い苗字なの?」
「ざっと七文字って処かな。それと、『くん』はいらないよ。ぼくも呼び捨てするし」
(七文字……!?)
一体どんな苗字なんだろう……そう思いながら、南都来は別の事を聞いた。
「それで、どうやったら良いのかな。その鴉に卵を産ませるには」
「優しく優しく擦って上げればいい。そうして金烏が気持ちよくなってきたら、自然と卵が産まれるはずなんだ。問題は----」
天音は俯いた。ひとつ、深い溜め息をつき、彼は話を続けた。
「想いをこめないといけないんだ。晴の天卵なら優しい気持ちを込めれば良い。
晴れて欲しい、そう願う晴天のような温かい想いが、金烏に晴の天卵を産ませるんだよ」
「じゃあ、どうして卵は生まれないの? 金烏の調子が悪いとか? 」
南都来の言葉に天音は表情を曇らせた。
「違うよ。ぼくにはそれができなかったんだ。
今年の春、ぼくは父さんから金烏を世話する仕事をもらった。
この珠洲代町の天気の元になる天卵を生む金烏を。
仕事を貰えたのはすごく嬉しかったけど、金烏に時節に合った天卵を産ませるのはとても難しくて、
梅雨にあった天卵から、夏にあった天卵を産ませるように変える事ができなかったんだ。
何とかしなければ、父さんたちや街の人間に迷惑をかけてしまう……そう想えば想うほど、焦ってしまってこころが纏まらない。
乱れたぼくの心を敏感に察知して、金烏は雨の天卵しか産めないでいるんだよ」
だからこの子は悪くないんだ、というように天音は金烏の頭を撫でた。
「それで、僕に手伝ってほしいって言ったんだね」
「うん。きみは、晴れた空の元、過ごす楽しさをたくさん知っているだろう?
ぼくは、そういう経験がないから。イメージを持つ者が接したら、きっと金烏も卵を産みやすいと想う」
「え? 天音は遊んだことががないの?」
「ぼくが住んでいた所は、ぼく以外に子供がいなかったんだ。
この公園に来たのは、晴れた空の下で遊ぶ子供達のたくさんの楽しい想いが詰まっているから、
ぼくにもその気持ちが少しは解るかな、って思って」
悲しげに目を伏せる天音を元気付けようと、南都来は明るくこう言った。
「そうだ! 晴れたら、一緒に遊ぼうよ。僕、友達がいっぱいいるからさ。
サッカーでも鬼ごっこでもかくれんぼでも、なんでもいいからやろうよ!
天音が遊び方が解らないって言うなら、僕が幾らでも教えてあげるから」
ね? と南都来は笑いかけた。
すると、天音は一瞬戸惑うような表情をしたが、直ぐに優しい微笑を浮かべた。
「うん。ぼくも南都来たちと遊びたい」
「みんな気の良いやつばかりだから、天音もすぐ仲間になれると思うよ。
晴れたらする楽しいことを思いながら、金烏に触れてみよう。そうしたらきっと上手くいくよ」
そして、ふたりは、快晴の空とその下で起きるであろう楽しい事を考えながら、ゆっくり、優しく、金色の鴉の身体を撫でた。
思いを込めて、何度も、何度も。
すると----
「あ……!」
南都来たちの見ている前で、金烏は、ついぞふたりが見たこのない、
雲ひとつない晴れた蒼穹の空を凝ったような、美しい空色の卵を産み落とした。
「生まれた!!」
「すごい、すごいよ、南都来! こんなに立派な快晴の天卵、久しぶりだ……!」
二人は抱き合って、喜びを分かちあった。金烏も、それを見ながら満足げに目を細めている。
雨は何時の間にかやむ気配を見せ始め、ふたりの心はいま生れ落ちたばかりの天卵の色のように、明るく冴え渡っていた。
「ありがとう。おかげで、父さんたちを困らせずにすむよ」
「ううん。別に僕は何もしてない。僕は、ただ、きっかけを与えただけだよ。
約束通り、晴れたら遊ぼう! あ……でも、今日はもう帰らなきゃ。
今何時かわからないけど、もうかなり遅い時刻だろうから、きっとパパもママも心配してる……」
「そうだね……もう夜明けも近い……ギリギリだ。きみの家まで送って行くよ」
天音がそう言って軽くてを翳すと、ふわりと強い風が吹いた。
「う…わわわっ!??」
次の瞬間、南都来の身体は空に浮かび上がっていた。
「と、飛んでる……!?」
隣には、やはり宙に浮かぶ天音がいた。
頭を覆っていたレインコートの白いフードは取り払われ、肩の辺りで切り揃えられた彼の髪が、藍の夜空に翻っている。
「風の流れに乗ったのさ。今日は良い風が吹いている、すぐにどこへでも飛んで行けるよ。南都来、きみの家はどこにあるの?」
「えっと町の西の、11番地、赤い屋根の大きな家だよ」
「あの綺麗な造りの屋敷かい? わかりやすい場所でよかった。じゃあ、行こう」風の流れのまま、ふたりは空を飛んだ。
まだまだ都会とはいいがたい珠洲代町は、ネオンのような人工の明かりが少ない。
静かに眠る家と人々の姿が、南都来たちの眼下に広がっていた。
「すごい……! こんな体験、初めてだ……!!」
「喜んで貰えて嬉しいよ。あ、そうだ。ひとつ注意しておかなきゃ。
南都来、これからは少し気をつけたほうが良いよ。
今日はたまたまぼくとしか逢わなかったから良かったけれど、次元のあわい、この世ならぬ場所には、
きみみたいな子供を殺したり食べたりするのが大好きな、危ない連中もたくさん住んでいるんだからね」
「次元のあわい?」
「きみとぼくがさっきまで居たあの通りのような場所だよ。
普通の人間には、見えない、知らない、気付かない、だから入る事も出来ない、人でない者が暮らすところ。
人間が何時の間にか忘れかけてしまった、夢や空想ががいつまでも残りつづける地。
それが、次元のあわい。
きみは、他人よりそういうものに対する親和性が強いみたいだから、気を抜くと、またあわいに迷い込んでしまうよ。
そうしたら、今度は無事で済む保証はない」
「……分かった、気をつける……」
落ち込んでしまった南都来に、脅かしてしまったかと天音は反省した。
「まあ、もし、また迷い込んでしまったら、ぼくを呼んでよ。
声が聞こえたら、きっと助けに行くから。次元のあわいに距離は関係ない。思いが強ければ、どこにいてもきみの声が届く」
「……うん、もしも今日みたいなことになったら、一番に天音の名前を呼ぶよ」
ふたりは互いの目を見ながら笑いあった。
そうしているうちに、珠洲代町の西、11番地の赤い屋根の屋敷----南都来の家に辿り着いた。
家の明かりはまだ点いていて、両親が南都来がいつまでも帰ってこない事を心配して、未だ起きている事が解る。
「あ……パパとママ、まだ起きているんだ……怒っているかな……」
「大丈夫、心配しないで良いよ。ぼくがなんとかするから」
「天音が? でも、どうやって」
「魔法で、だよ」
悪戯っぽく、天音はウインクして見せた。
全幅の信頼を込めて、ひとつ頷いただけで南都来は何も言わなかった。天音なら何とかできると確信していたから。
そんな南都来の様子を見て、天音は不思議そうに訪ねてきた。
「ところで、南都来は、結局ぼくが何者なのか最後まで聞かないんだね。
こんなに色々なことをしてみせたら、普通の人間は一回くらい聞くと想うんだけど」
「え、だって……聞いたら、天音との時間が壊れてしまう気がしたから」
「それで聞かなかったのかい?」
「うん」
そう言うと天音は心底可笑しそうに腹を抱えて笑った。
「はははっ……南都来は本当に面白い考え方をするね。こんなに楽しい気持ちになったのは、生まれて初めてだ。
南都来といると、いままで見えなかったいろいろなものが見えてきて、本当に楽しい」
「そうかな……?」
「人間っていいなって想える、明日からまた頑張れる気がするよ。
珠洲代町の人たちの為に----南都来の為に、ちゃんと季節時分に合わせた天卵を産ませるから」
「頑張ってね、天音」
「ありがとう、でも本当にもうお別れだね。このままだときみもぼくも家に帰らないうちに朝になってしまう」
ちょっと悲しそうに、天音は言った。
急に、南都来は不安になってきた。
おかしな通りに迷い込んだ事も、この不思議な少年とであった事も、一緒に金烏の空卵を取り上げた事も、全て。
彼と別れてしまったら、何もかも夜明けに見た夢のように、消えうせてしまう気がして。
だから、聞いた。天音の存在を、再確認するように。
「また、逢える……?」
「逢えるよ。何処に居たって、何年経ったって、どんな姿になったって。
ぼくがきみを忘れなくて、きみもぼくを忘れなければ。きっと、また、逢える」
魔法の呪文のような、天音の言葉に、不安が溶けていくのを南都来は感じた。
「ほんとに?」
「ほんとだよ。ぼくは嘘はつかない。だから安心して」
「うん……僕、忘れない、忘れないよ。天音のこと」
「ぼくもきみのこと、絶対に忘れないよ」
「ばいばい、天音」
「さよなら、南都来」
『またね』
ふたりの声が、重なって、同じ言葉を紡いだ。
なんだかそれがとても嬉しくて、互いに笑いあった。
そのあと、二階にある天窓をそっと開けて、南都来は自分の部屋に入った。
窓を振り返ると、まだそこに天音がいるのが見えたので、南都来は心の中でもう一度、
(ばいばい、天音)
と、呟いて、彼に向かって小さく手を振った。
最後に南都来が見たのは、今までで一番綺麗な笑顔で手を振り返す天音の姿だった。瞼に刺さる眩い光に、南都来は目を覚ました。
あのあと、直ぐにベッドに入ったけれど、眠りについた刻分が遅かった所為か、あまり眠った気がしない。
ひとつ大きな欠伸をしながらも、南都来は窓に近づいた。
(カーテンを通しても、これだけまぶしい光が入ってくるって事は……)
勢い良く、真っ白なカーテンを押し開く。
するとそこには、南都来の予想通り、待ち望んでいた青い青い晴天が、玻璃の窓越しに広がっていた。その空の色は、どこか天音の髪の色にも似ているように、南都来には思えた。
「天音、ちゃんとお父さんに晴の天卵を渡せたんだ……」
自然と笑みが零れる。友達が目的を達成できたという事が、純粋に嬉しい。
日の光を反射して輝く、昨夜の名残の雨露が、なんだかいつもより美しく見えた。天音の言葉通り、その朝少し怯えながら下に降りてきた南都来を、パパもママも怒ったりはしなかった。
久しぶりに晴れたわね、などとたわいのない言葉をかけてくるだけで、いつも通りの春杉家の朝だった。
ママの作った美味しい朝御飯を食べて、学校に出かければ、
友達は皆、梅雨が明けたな、とか、これで思いっきり遊べるぜ、とか嬉しそうに話していた。
しかし、どうして、今日、急に梅雨が明けたのか、それを知っているのは南都来だけだった。
そして、1週間後。南都来たちの学校は、今日から長い夏季休暇に入る。
雨雲はすっかり影を潜め、珠洲代町は完全に夏景色となっていた。
命を謳歌する、蝉たちの声がうるさいぐらいに溢れ。
学校の花壇の向日葵も、精一杯に背を伸ばして太陽の恵みを受けている。
塾に行く途中の道で、南都来はあの夜の事を思い返していた。
1週間前の晩の出来事は、次第に精彩を書き始め、
夢か思い出に変わってしまいそうだったけれど、瞳を閉じれば、直ぐに天音の笑顔が蘇ってくる。
(だから、あれは夢じゃない)
そう心の中で呟く。
やがて、塾に行く途中の、ちょうどあの奇妙な通りに入ってしまった辺りに差し掛かった。
あれ以来、何度も探してみたけれど、今日までとうとう通りは見つかっていない。もちろん、あの不思議な少年にも、逢っていない。
突然南都来の中に悪戯心がむくむくと湧いてきて、ちょっと天音に悪態をつきたくなってきた。
(ここだと天音に聞こえちゃうかもな)
そう思いながら、それもいいかなと考えた。
(天音が聞いたら、怒るかな。怒って出てくるかもしれない)
また、天音に逢えるなら。
あの時した、晴れたらみんなで遊ぼう、という約束が果たせるなら。
大きな声で、青空に向かって南都来は叫んだ。
「天音の嘘つき! 早く来ないと、君の事忘れちゃうぞ!!」
その時、
「ひどいな。ちょっと遊びに来るのが遅れただけだろ」
後ろから声がした。
あの、綺麗な、男とも女ともつかない不思議な声が。
「え……!?」
吃驚して南都来が振り向くと、そこには。
「お久しぶり」
肩の辺りで切り揃えた、ひと房だけ赤い、透明感のある水色の髪。
光を浴びて今日は微妙に違う色がかかって見える、灰の瞳。
今日はレインコートではなく、純白のウインドパーカーを羽織っていたが、その笑顔を南都来が見違えるはずはない。
「あ、天音!」
カバンを放り出して、南都来は天音に駆け寄った。
そのまま、彼が本当にいることを確かめるように抱きつく。
抱きついてきた南都来を受け止めると、天音は彼の栗色の頭を優しく手のひらで叩いた。
子供扱いされているようだったけど、それはもうどうでも良かった。
「言っただろ、ぼくは嘘をつかないって」
「----うん」
「悪口。ちゃんと聞いてたよ」
「……ごめん」
「いいよ、そのかわり」
天音は、1週間前ふたりが別れた時に見せたのと同じ、極上の微笑を浮かべて、言った。
「たくさん遊ぼう。きみが、もう2度とぼくを忘れる、なんて言わないようにさ」
「もう言わないよ。それに、あれは本気じゃない。忘れられるわけないじゃないか、天音のこと」
顔を上げて、南都来は天音の目をしっかり見た。
「ずっと逢いたかった。天音に逢えなきゃ、約束を守れないじゃないか、晴れたら一緒に遊ぼうって、あの約束。
今すぐ、それを果たしに行こうよ」
「どこへ?」
「どこへでも。天音が行きたい場所なら、どこだっていいよ」
どんなに遠くたって、きっと行けるから。
言外にそう言って、南都来は手のひらを差し出した。
「なら、ぼくは海に行きたい。まだ一度も見たことが無いんだ」
天音が南都来の差し出した手を取る。
「海かぁ。いいね。じゃあ直ぐに行こう! 夏休みは長いようで短いからさ」
「そうだね」
そして、ふたりは走り出した。
駆け出した南都来と天音の頭上には、あの晩取り上げた天卵のような遥かな蒼穹が、どこまでもどこまでも広がっていた。
ふたりの夏は、今、始まったばかりである。おしまい