何時から、研究員どものストレス発散の対象にされるようになったか。
一番最初が、何時の事だったか、もう覚えていない。
切っ掛けも、理由も。だから、多分些細な何事かで因縁をつけられでもしたのではないかと、想う。
鬱屈した感情が、研究員どものなかには溜まっていたんだとは、解る。
こんな、人の道を外れた研究所のなかで、狂わず、心すり減らさずに生きていこうとするのは難しい。
だから、黒夏から特別扱いされている──俺からすれば嬉しくもなんともないことだけれど──実験体にでも、
ストレスをぶつけて、清々としてしまいたかったのだろう。
迷惑この上ない話、だったけれど。それを告げることさえ、俺には赦されていなかった。
この身体は院の持ち物。道具。備品と変わらない。
そんなものが逆らうことなどできるはずがない。
幾重にも刷り込まれた暗示、かけられた機術。
薬品による抑制。統制。そういったものが、俺の身体を縛っていた。
俺にとって、院のものの命令は絶対であり。
どんなに、厭わしく思っても、あれらを傷付けるために動くことのできる部位は。
指一本とて俺には残されてなどいなかった。
作り物の身体は心を裏切り。そうして、俺を何時も絶望させた。
口にするのも厭わしいような、そんな行為の数々を、日毎夜毎強要された。
何回された、とか、何人にされたか、なんて覚えていない。
無遠慮な手と嘲笑う、声。
痛みと、不本意な、熱。
流れる血、滑る液体。
視界にちらつく人の姿は、暗く影のようで判然としなくて。
大抵意識が無くなるまで甚振られるから、記憶は断片として曖昧だった。
それでも、九鐘のいたうちは彼が庇ってくれたからまだ幾らかマシだった。
彼は酷くまっとうな性根の人間で。
時々泣いて、大抵は怒っていた。
院の腐敗、所業、倫理を外れた全てに、彼は憤っていた。
それらを変えようと足掻いていた。
其れがどんなに危険かは知っていて。それでも止める事はなかった。
だから、死んだ。
此処で生きるには、彼は余りにもまっとう過ぎた。
行われていることを見て見ぬ振りして。俺のことも放っておいてくれたら、よかったのに。
戦場では庇うし、情を傾けて。俺のことを連れ出そうとなんかしたから。
だから、死んだ。俺が、殺した。殺させられた。
関わらなかったら。諦める弱さを守っていたなら。
死ぬこともなかった。こんな最後を迎えることなんか、なかった、のに。
俺は、泣いてやることさえできなかった。
喪失の痛みに空っぽになりそうな心を抱えた俺は、そうして院に連れ戻された。
もう、味方なんていないし、後はされたい放題だった。
研究院どものなかには治癒の得意なものもいたし、ボロボロになるまで好き放題にされてから、大抵は治療された。
放って置かれる事も多かったけれど、人より頑丈に、自己治癒力も高くできているらしい身体には、大抵大事なかった。
一度、壊れてしまったことがあった、けれど。
次に目が醒めたときには、跡形もなく綺麗に治されていた。
戦場で傷つき、倒れたときと同じように。
泣くことも叫ぶこともできなくて。
俺は人形でしかなくて。それ以上になんかなれる筈もなくて。
護りたいものも、欲しいものもなくて。
人間だったという記憶。それさえ、真実なのかわからなくなっていた。
終わらない地獄。抜け出せない常闇。
そうなのだと受け入れて、足掻くことなんてやめて。
心も何も凍らせて、捨ててしまおうと想った。
諦めてしまおうと想った。
楽に、なるために。
失くしてしまう位なら、失くして、こんなに痛い位なら。
いっそ初めから、誰も近づけなければいい。
そうしたら傷つかない。哀しく、ナイ。
何も望まなければ、落胆も失望も絶望もない。
何も感じなければ、いい。
そう、生きよう。──否、在ろう。
そう決めて、もう、温もりなんていらないと想った、のに。
俺は結局其れを捨てることはできなかった。
諦念に支配されて、何ヶ月か、たった頃。
あの子に、会ってしまったから。
ある日のことだ。
朝も早くから、部屋から引きずり出されて、何時もの様に乱暴されて。
途中からは何をされているのか感じるのも厭わしかったから、心を其処から乖離させていた。
そうして、どれほど時間がたったか。気がついたら意識が飛んでいた。
ふと、不思議な、感じるはずもないものが身体に触れるのに目を覚ました。
常ならば、意識の覚醒と共に、痛みと鈍い不快感で苛まれるはずの身体が、軽くて、心地が、良い。
疑問に想って、疲労に重い瞼を開ければ、目に入ったのは、
綺麗な、夕陽の髪の少女、だった。
俺と同じように白く汚されてしまって、それが勿体無く思える、
泥の中の宝石のような、柔らかい煌き。
其れが眩しかった。
昔、見た、故郷の雪景色に落ちる金の光を思い出して。
ひどくひさしぶりに、きれい、だと想った。
少女というよりは子供に近いような、あどけない容姿の彼女は、傷だらけだった。
知らない顔だけれど、多分、俺と同じような目にあっている実験体なのだろう、と想う。
そんな、自分も辛いだろうに、少女は、目が醒めた俺に気付いたのか、
心配そうな顔をして、撫でるようにぺたぺたと、身体に触れてくる。
暖かい、やさしい、手。ちいさな、ちいさな──手。
握りつぶしてしまいそうに、華奢な。
だから、俺は怖くなってしまった。
こんなに、はかない温もりは、こわい。
思わず、身を引こうとして。そうしたら、小さな手で引きとめられた。
この子は研究員じゃない。力ずくですれば、振りほどけたろう、けれど。
そんな厚意すら傷つけてしまいそうで戸惑われて。
駄目なのに。凍らせた心にぬくもりは染み入って溶かしてしまうから。
離さなければいけないのに。傍にいたら又、傷付けてしまうかもしれないのに。
だいじょうぶ?と泣きそうにも見える顔で聞いてくる少女の存在は、
温みは、そんな気持ちを砕いて、しまった。
酷く久しぶりの悪意のない、他者の、存在。
触れてしまった其れは、やはり酷く温かくて。優しくて。
自分も傷だらけな曲に、それでも必死に俺の痛みを取り除こうとしているその姿がいじましくて、
泣きたい位に、冷え切った心に染みた。
だから、平気だとそう頷いて、返した。心配、かけたくなくて。
もう長いこと使っていなかった、ありがとう、なんて言葉まで俺の口からは零れて。
少し戸惑ったけれど、手を動かして、相手の綺麗な髪、汚してしまわないように気をつけながら撫ぜた。
ひどく温かくて。生きているのだと感じられて安心、する。
此処に来てから殆ど、触れる他者なんて、おぞましいものでしかなかったのに。
嫌がられるかと想った、けれど。そうして撫でていると、その子が淡くだけれど笑ってくれたから。
少しだけならこのままでいてもいいだろうかなんて、そんな甘いこと想って、しまった。
其れが、出会いだった。
俺と、シウィの。
あの時、恐々と触れた温もりは、いまは愛しいものに変わって、傍に、ある。
俺は今もあの子を傷付けてしまうかもしれない恐怖と戦いながら、横にいる。
何時か、壊してしまうのかもしれない。なくして、しまうのかもしれない。
だけれど、もう手放せない。喪うことなんて考えたくもない。
ほしいもの、まもりたいものが、俺にもできた。
人形じゃない、証明のような。
心が会ってよかったとそう思わせてくれる温もりを。
俺は、護りたいと、おもう。
祈る相手もないつくりものの身体で。
昨日と今日の同一性さえ示せない心で。それでも、願っている。
ずっと、なんて大それたことは望めない。
そうあれたらいいと思うけれど、信じ切れるほどにつよく、ないから。
だから──せめてと、願う。
少しでもながく、あの寒い場所で俺を温めてくれた、やさしいこの子と居られますように。