霧深く人の手の入らぬ森の奥に、古びれた神殿が佇んでいた。
白い石造りの彼の宮には、古代の人々の精一杯の祈りと尊崇を込めて、
精緻な彫刻が施され、神聖なる祝詞が巡るように刻み込まれていた。
参拝する者はとうに滅びて絶え、誰一人として足を踏み入れる事のないこの神殿の最奥には、ひとりの神が囚われている。
いや、神であったものと言うのが正しいだろうか。
其の力は未だ強く、衰える事を知らないが、彼以外の一族と其の眷属は奉る者を失くして、
遥かな昔にその権威と共に闇と夜の中、異端として追われた。
失墜した旧き神々は、ある者は輝くばかりの容貌を失くして、醜い妖鬼と成り、
ある者は深淵を見通す理知を奪われ、或いは天地を引き裂く程の力が弱まり、哀れな魔物と化し、
またある者は何にも侵されぬ硬き意思を見失い、揺らぎ続ける幽かな幻、朧げな木霊と変じた。
故に彼もまた今の人の基準で取るのであれば、妖しの者となるのであろう。
この世に最早只ひとりの、美しい異形として。
足元に流れ落ちて尚余りある長い銀髪は、彼の顔を、白い長衣を纏った身体を縁取って、
僅かに灰みを帯びた水晶の糸を紡ぎ上げたように、光を受けてはとりどりに色を変えた。
彼の双眸は永き時の流れを封じた琥珀のような深みのある金色で、口唇は珊瑚か薔薇の色合い。
淡く光を纏う透けるような白い肌と、背にある髪と同色の翼を除けば彼はほとんど人間の若者と変わらぬ体つきをしている。
ただ其の身は、顔形は、例えようもなく美麗であり、ひどく神秘的な怜悧さと蠱惑の塊のような魅力を併せ持ち、
心弱いものが目を合わせれば心の臓を凍りつかせられ、命を奪われてしまいそうなほどであった。
だが、見る者も無い中で外形の美しさなど何の意味があるだろうか。
それでも、遥かな昔、この姿を愛しいと云ってくれた相手が居た。
まだ若い古代人で、祭司のひとりだった。
他の者のように崇めるでも畏れるでもなく、人が親愛なる者に言うように静かに、他意なく、綺麗だと言ってくれた。
祭司は彼を誰よりも慈しみ、彼もまたその人をいとおしいと想った。ずっと傍に在りたいと願った。
人と神、何れは引き裂かれるであろう未来は予測できたのに。
祭司が不治の病に侵され、徐々に痩せ衰え、それでも腕の中で以前と変わらぬよう微笑むのを見た時。
彼は一族の中でも最も強いと言われた自らの力を惑いなく使った。
ただ、喪いたくなかったから。願ったのはそれだけ。
黄泉還りは全能に近い力を持つ神であろうと赦されぬ禁忌。
咎人とされ引き離されて、何処か連れて行かれた祭司の行方は杳として知れず、
生死の理を書き換え、輪廻を乱した其の罪の為に、彼はずっとこの場所に囚われている。
柱に凭れた体勢で、唯一の外界との接点である窓を見上げれば、折れそうな新月がかかっていた。
こんな夜には掠れた風の中に木霊と化した父なる神の声が響くのと、
薄い月影に紛れて妖鬼と成った母神や、魔物へと堕ちた弟妹の姿が在るのがはっきりと解るのだ。
それがより一層、彼の孤独と悲しみを深めた。
かつての穏やかで優しい、光に満ちていた日々と面影との鮮やか過ぎる差異の為に。
何も知らず、何も解らず、闇に慣れきった者たちがひどく羨ましい。
あれらは最早何の憂いも悩みもなく、変わり果てた我が身を嘆く事も無く、生まれた時から其の境遇であったかのように過ごす事ができる。
それはある意味ではとても幸せな事のように思えた。
顔を覆うように両手を挙げれば、じゃらりと重い枷の音。
それこそが神殿と森を包む結界と共に、彼をこの地に縛り続けるもの。
彼の背中には空舞う為の翼があるが、かつては千里を一刻で駆けた事のあるそれも鎖に繋がれた今では役に立つ事は無い。
時涯つる其の時まで、朽ちる事もなくこうして在り続けるのか。
そんな諦念を覚えながら、彼はゆっくりと瞼を落とした。
全てが痛みを与える世界のなかで、ただ夢だけが彼にとって心慰める優しいものであったから。
在りし昔日を想い、囚われの旧き神は、眠りの縁へと落ちていった。
それからまた、千年の時が流れた。
人の身には永すぎる時間も、時の流れと隔絶された、眠れる彼にはほんの一刻の事。
その日は、満月であった。
常より明るい月明かりの注ぐ、夜半も過ぎた静かな夜闇を裂いて、竜が一頭、飛翔していた。
闇より尚冴え冴えと黒い鱗に覆われ、蒼穹を凝りそのまま凍りつかせたかのようなブルーの目をしたその竜は、
機敏な動きとしなやかな体躯から、内側より溢れるような若々しさを感じさせた。
事実彼の竜はまだ種族の中では青年といっていい年齢であった。
流れてゆく風の心地良さ、重力の枷より解き放たれる例えようも無い開放感に、竜は楽しげに其の双眸を細めた。
竜は元来何にも影響を受けず、自由を愛する誇り高い生き物。
神とも魔とも一線を画し、彼らを縛るのは純粋な世界の理と彼ら自身が定めた掟のみ。
人間は彼らを正邪に分け、時に恐れ、時に敬ったが、それすらも彼らにはどうでも良い事であった。
彼らを動かすのは、その心。己の情。只それだけであった
夜の散策にもそろそろ飽いて、里へ戻ろうと竜が翼を返しかけた時だった。
眼下の霧深い森のなかに、白い何かが見えた。
人を寄せ付けぬ深い森も、夢幻を見せる魔法の霧も、この青年竜には何の意味も為さぬ。
彼は興味の赴くままに、太古の聖域へと足を踏み入れた。
ゆるりと降下し、神殿の前に降り立つと翼を畳む。
彼の本性たる今の身体はその大きさから建物の中へと入るには不向きであった為、
竜は小さく身を震わせて詠うような鳴き声を上げた。
すると、眩い青白の光が竜の肉体を包み込み、一瞬の内に人間のそれへと変化させた。
人の姿に化身すれば、竜は短い黒髪に鋭い蒼の瞳を持つ、黒衣を纏った青年の姿となる。
彫りの深い整った面差しには、野生の獣のような強さと激しさがあるが、同時に抗いようのない高貴さと威厳を感じさせた。
其れは現世と幽世のすべての獣たちを統べる者とも伝えられる竜の、仮初の形としてこの上なく相応しい容色であった。
青年に化身した竜は、足音を感じさせない軽い足取りで神殿の中へと足を踏み入れた。
一歩入るなり、侵入者を阻む罠や仕掛け、人工の守護者が其の前に立ちはだかったが、
何れも竜の敵とはならず、僅かに無聊を慰める程度の役にしかたたなかった。
久しぶりにうきうきとした気持ちが湧き上がってくるのを感じながら歩を進めていく。
壮麗な装飾の施された回廊は、現在の人の建築様式とは根本から異なり、竜の目を多少なりと愉しませた。
やがて広い神殿内を回りきった竜は、自然神殿の最奥へとたどり着いた。
其処にはただ白い石壁が広がるばかり。一見何もない行き止まりのように見える
しかし、そのようなまやかしは、脆き人に対しては有効であっても、神や魔に比肩する力を持つ竜族には通用しない。
目敏く空間の歪みを見つけ、其の先にあるものを感じ取る。
ごく小さく人の子には聞き取ることも発音することも出来ない呪いの言葉を口にすれば、幻は瞬時に砕け、千々に霧散した。
後には黒曜石を銀で縁取って作られた重厚な大扉が姿を表す。
指先で表面を辿れば、『禁忌犯したる神を此処に封ず。努々開くこと無かれ』と古代文字で刻み込まれていた。
常人であればここで退いていたかもしれない。
だが、彼は竜だった。命令、束縛、禁忌。そういったものを何より嫌う生き物。
却って興味を引かれ、好奇心のままに扉を探った。
幾重にも施された鍵と封呪も、竜が触れるだけでその力を失い、沈黙する。
竜が少し力を込めて押せば、軋むような重い音を立てて、長く開く事の無かった扉は開かれた。
淡やかな月光に照らし出されるのは、何もない、酷く閑散とした牢獄のような石造りの室。
其の奥に視線を遣れば。
──目を奪われるほどに麗しい、ひとりの囚神が居た。
銀灰の翼を畳み、円柱に凭れる様にして眠る姿は、
窓辺から差し込む氷輪の光輝を受け、仄かに青褪めて見える白い肌も相まって、美しい彫像のようにも見えた。
来訪者の存在に気付いて琥珀の眼差しがゆらりと開かれる。
視界に入った黒衣の青年の姿に彼は小さく瞳を揺らした。
確かな動くものなど最後に見たのは記憶も掠れるほどの昔だった。
参拝するものの絶えて以来、いや最前よりこの室を訪れるものなどいなかったから。
「ようこそ。客人とは珍しい…幾年振りか」
玲瓏とした響きを耳に残す声音を紡ぎ、淡い紅色の唇が微かに笑みとも驚きともつかぬ複雑な形を作る。
言葉を上手く紡げるか心配だったが、思ったよりも流暢に話すことが出来た。
何せ数千年もの間、言を発する機会など無かったので。
「それは、これだけ厳重に封された場所であれば、訪なうものも早々居りはしないな」
青年はおどけたように慇懃無礼ともいえるくらい馬鹿丁寧な会釈を取り、
低いが耳に心地良い声で揶揄するように言いながら、距離を詰めてくる。
衣擦れの音ひとつ立てぬ其の所作。そして、先刻より漂っていた尋常でない気配に彼は青年の本性を見た。
「人では無いな…かといって神でも魔でも、ない。……そなた、竜か」
「御名答だ。囚された神よ」
青年の骨ばった長い指が彼の顎を掬い取ると上向かせられて間近で瞳を覗き込まれる。
「それにしても、何だ。禁忌を犯した神というからどんなに凶悪な面構えをしているかと思えば、存外に弱々しい姿形をしているんだな」
不躾すぎる仕草、そして言動。
枷に戒められているとはいえ抗おうと思えば幾らでも払いのけられた筈である。
だが、それができなかったのは、合わせたそのブルーの瞳に、懐かしい面影を見てしまった所為だ。
愛しいただ一人の想い人もまた、こんな冷たい程に美しい青い眼差しをしていた。
青年の瞳と重なるように透かし見えた幻影を振り払うように、
彼は自らの顎にかけられた青年の腕を、枷の嵌ったままの手で掴み、
静かだが射竦めるような鋭い声音で制した。
「弱々しいなどと…どの口で云う。余り我を嘗めぬ方が良い、若い竜よ。
囚われの身なれど、この距離ならばそなたの五体を寸断するくらいはできるのだぞ?」
其の言葉、其の様子を、何とも興味深い、と若い竜は思った。
こんなにも心湧き躍る事象と出会ったのは何十年ぶりだろうか。
竜が元来好むのは荒々しいまでに力強い、しなやかな美しさだ。
だが、太古より美女や金銀財宝を集めるとも伝えられる彼らである。
繊細で透明な優美さにも心動かされぬわけではない。
その審美眼は公平であり、あらゆる物の正しい価値を見分けることが出来た。
そんな一族の純粋なひとりであるこの青年竜もまた、相応の美意識を持っていた。
手の中にある神が燃え立つような金色の瞳で睨めつけて来るのは、
竜の心の琴線を揺さぶるほどの苛烈さと美麗さを併せ持っていて。
とても、綺麗だと思った。