願いのために悪魔に魂を売った。
そうして叶うものなど、手に入るものなど、何もある筈無かったのに。

夢を見る。夢を見る。
今も始まったあの日のことを。

どうしてあの時頷いてしまったのか。
どうしてあの時安らかな終りを願わなかったのか。

自問はずっと繰り返されている。果て無い絶望と後悔を伴って。


 傷痕


無明の暗黒。眠りからゆっくりと意識が浮上していく。
手術台にも似た鋼の寝台の上、目を開けた。

何処か違和感のある五指が、それでもちゃんと繋がっていることを確かめてから開閉する。

開けた視界に映るのは傷ひとつないまっさらな身体。
意識を喪う前の、右手右足が欠け、内臓すらはみ出しかけていたボロボロの身体が信じられない程に、綺麗に修復されている。

否、ただ、新品の身体に移された、それだけなのだろう。

身を起こした俺に、研究員どもが声をかけて来る。
意識確認の作業のために向けられる質問ひとつひとつが鬱陶しい。
だけれど、問われれば答えざるをえない。意識が確りしているならば。
院のものの命令に、意向に逆らえない。この身体は、そう、出来ている。

そうして、問答の最後、今回の戦いの結果が伝えられた。
倒した無数の天使たちの死体。その正確な数字。
驚くほど少ないこちら側の死者の数。
それから、戦場全体の結果。
今回襲われた発電所のひとつと、その核たる赤い石はどうやら護りきれたらしい。

よくやった、と人殺しの上手さを褒め称えられる。
お前はよく出来た最高の「作品」だと。
院のものたちの、怖気の走る様な声と微笑が向けられる。
其れすらも一瞬。過ぎてしまえば結局は如何でも良い事だった。『戦績』は、空虚しく響く。
何処かぼんやりと他人事のように言葉を聴き、周囲を眺めていた。

そうする内、目覚めのあとの一通りの確認作業が終わり、異常が無ければ、流石に今日ばかりは何事もなく自室に戻された。


戻った部屋は既に夜闇が落ちて暗い。
今夜は月明かりも細く、部屋全体が闇の底に沈んでいた。
だが、人のものではないこの目には其れでも視界に不自由は無かった。
其れもあって、灯りなどつけぬままに寝台まで歩いていく。

其処に腰掛けて、見下ろした手のひらは真っ白で、傷も染み込んだ血の色も跡形すらない。
自分の身体でないような気がする。其れは、体を新しく移し変えられる度常に感じる感覚だ。
かたちは何一つ変わる事も無いのに、全て綺麗に治された新品の体。
それにはもうひとつの恐怖もある。

──この意識さえ、記憶さえ、作り物の複製でない等と、いったい誰が証明してくれるだろうか?

昨日の自分と、今の自分の同一性を照明してくれるものなんて何もない。
俺は俺なのか。ほんとうに生きているものなのか。
こう想う意識さえ作り物で、本当の俺は、昨日の戦場で死んだのではないだろうか?
全ては偽り。創られたもので、何もかも最初から院に弄られたまやかしなのではないのか?

わからない。答えはでない。
いっそ傷跡のひとつも残ってくれればよかったのに。

泣く事の赦されない身体で、恐怖から逃れるように俺はひとつの儀式をする。
身体を移し変えられる度にしていることがひとつある。

何時もの服に仕込んであるナイフのひとつを取ってきた。
そうして其れで左の手のひらに傷をつける。深く。
流れ出る血はあかい。人でない体。創られた体。
それなのに、血の色だけは人と変わらない。
その赤に、ぬくもりに安堵する。其れは変わらないものだったから。
痛みさえ鈍くなった身体で、鮮やかな血の真紅。
其れだけは、俺が「ウルフィニブラ」になる前から変わることの無いもの。

思い出すように。辿る様に。
かつて人だったころの身体にあったのとおなじ傷を其処につける。
繰り返し、繰り返し。
それが、俺の意識が連続しているものであるという証のように、続けている儀式。

そんなものは虚しい幻想なのかもしれなくて。
何一つ意味など持たないかもしれないけれど。


拠り所のようなその傷から溢れ出す血を舐め取りながら、俺は月なきみそらに言葉もなく祈っていた。

願わくば、この意識がもとより人でない作り物であっても。複製であっても。
幾度新たな身体に変えられ、刻まれ、傷付けられて、原型をなくしても。
一番大事なものの事だけは、決して忘れてしまわぬように。傷付けぬように、と。

其れだけを、願っていた。
全ては移し変えられ、またまっさらになって喪われてしまうものかもしれなくとも。

其れだけを、願って、いた。

 

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