天(そら)には銀のひかり。
満ちるには足りぬ、十三夜の月。


厩舎にも似たその平屋の、切り込まれただけの窓から、月光が注ぐ。
藁を敷き詰めただけの、寝台とはとてもいえぬ寝所で、薄い金の髪の青年の膝に頭を預けるようにしていた、
月明かりに負けずしらじらとひかる銀髪の少年は、ぱちり、と目を瞬いた。
青年の言葉が余りにも唐突だったので。
けれど、其の言葉が、けして嘘ではないことは、以前から話していたから良く知っていた。


「…こんや? いま、すぐ?」
余り、言葉を話すことに慣れていないような、何処かたどたどしい様子で、
確認するように少年が問いかけると、青年はこくりと確かに頷いた。
いつも穏やかな色を浮かべる真紅と紺碧の双眸に、真面目な光を宿して。
「ええ、そうです。今夜、今すぐに。逃げましょう、シィン。この場所から」
其の言葉はずっと、ずうっと待ち焦がれていたもの。
驚きと同時に浮かび上がる感情に淡くだけ顔が綻んだ。
だが、同時に不安にもなる。まだどこか幼さなの残る眉をよせて、少年は青年を見上げて問いかけた。
「でも、…だいじょうぶなのか? そんなことを、したら、エイル、あなたは……」
言葉を呟きながら、琥珀色の金瞳が不安げに戸惑い揺れた。
自分はいい。だが、もしも脱走がばれたら、あまつさええ阻まれたりしたら、青年がどんな酷い目に合わされるか。


それを思うと、胸が痛む。張り裂けてしまいそうなほど。


そうなるくらいならばいっそ、どれほど劣悪な状況でも、
この手をどれほど血に染めるとしても、今のままでも良いのではないか、
そんな罪深いことを思うほどに。


少年は青年を大切に思っていた。とてもとても大切に思っていた。
その小さな心で、狭い世界の中で、それでも精一杯に、家族にするように、友にするように、
或いは幼い心がまだ理解しきれぬ感情すら伴い、青年のことを思うていた。
だからこそ、心に生まれた不安はみるみる膨れ上がっていく。
青年は、そんな少年に微笑みかけた。それは何時も少年を勇気付ける、安らがせる、優しい笑顔だ。少年が大好きな、笑顔だった。
あたたかな指が柔らかな髪を梳き、少年の不安を払うように言葉を紡ぐ。
「いいんですよ。きちんと絶好の機会を伺っていました。今夜は、領主は留守。それにともなって兵も少ないものです。
抜け道も、調査してきました。大丈夫。今夜なら、いけます」
其れは確固たる自信を持った声。見上げる少年の目元にそっと口付けをおとし、青年は続ける。
決意を促すために。選択させるために。


「貴方は優しい子です。こんなひどいところで、人殺しの片棒を担ぐことなど無い。貴方は道具ではないのですから。
夢を共にかなえましょう? わたしは小さな料理屋を開いて、あなたはすてきな絵描きになる。
好きなところに行って、好きなものをみる。もう、自由を踏みにじられることも、誰かを傷つける必要も、無い」


ずっと一緒です。青年はそういった。
其の言葉に、其のやさしい、少年の願いそのままの言葉に。ほろりと幼い柔い頬を涙が伝った。
嬉しくて、叶ってほしくて。少年は青年の言葉に頷いて、返す。


「……うん」


それは酷く小さな、けれど、確かな選択の声。
青年は満足そうな表情浮かべて、そっと少年の頭を藁の上、下ろした。
そうして、立ち上がって白い手を差し伸べる。
「さあ、行きましょう。此処を抜けたら、エルフェンブラを目指します。
其処には神殿があって、ハーフの庇護もしてくれているそうですから。
それにね、その街の近くにはきれいな景色がたくさんあって、何より海があるのだそうですよ」
「…うみ…」
青年の手を受けてそろりと立ち上がりながら、まだ見たことの無い其の場所を、話にだけ聞いたはるかな蒼を、少年は想う。
其れはきっととてもとてもきれいなものだ。いままで見た、少年の知る何よりも、きっときれいな景色だ。
それは、それは、とおい。けれど掴めそうなゆめの、いろ。
「みたい。みてみたいよ、エイル」
「ええ、きっと。きっと見られますよ、シィン」
あわくはにかむように微笑んだ少年の頭をなでてやり、青年もまた穏やかな笑顔を浮かべる。
そうして、ふたり。手に手を取って、そろりと牢獄のような其の地を抜け出した。




青黒く沈む闇の中、銀の月光だけがたよりの果てない夜の道へ。
彼となら、彼と一緒なら、何処までもいける。



まだ見えない明日を、其のときの少年は、只素直に信じていた。



先に待つ、悲劇も知らずに。




天(そら)には銀のひかり。
満ちるには足りぬ、十三夜の月。
降り注ぐ輝きは隔てなく。そうして、其の光だけが全てをみていた。





全てを、知っていた。

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