椅子に腰掛けてひとり、待っている。
何時もそうして、待っている。
ずっとずっと、待っている。
待ち焦がれている。
あの扉が開く時を。





  Cage





打ち捨てられて久しい、薄暗い洋館の奥深く。
飾り付けられて整えられた小さな一室だけが、彼の今の全てだった。

此処は時間の流れが定かではない。日の感覚が思い出せない。
何時も同じように椅子に腰掛け、贈り物の縫いぐるみを抱きしめて、宙(そら)を見るともなしに見ている。
浮かべられた表情は見目をさらに幼く見せて、あどけないけれど、何処か壊れたような其れだ。
ひどく茫洋とした其処には情動らしいものは殆どない。ただ、在るとしたら一つだけ、何か誰かを待つような色だけで。
両の手足は枷と鈍く光る銀色の長い鎖で繋がれているけれど、其れを全く意に介することもない。
元よりそう太くもない手足は、此処に来てから殆ど動くこともなかった所為で、更に細さを増し、今はもうろくに走ることも出来ないだろう。
だけれど構いはしなかった。誰より愛しいかの人が帰ってきた時に抱きつくだけ、駆け寄るだけの力が残されていればそれでいい。
そう、微塵の迷いも恐怖も無く、彼は考えていた。

彼にとって、世界の全てである人が帰ってこないから、暇を持て余して無意識に口ずさんだ歌は、
以前に友達に教えて貰ったものだったけれど、今はもうその友達の名前も顔もぼんやりとしか思い出せない。
記憶が少しずつ剥落していく自覚はあった。そう長い時をしっかりと生きた訳ではないけれど、
それなりに思い出も大切なものもありはした。でも、もう其れに価値を覚えることもない。
ただ一色だけで染められた心は、それをおかしいとも思いはしないのだ。もう。
そんな正気は疾うに、壊れていたから。

余りにも退屈で、待ち焦がれて。
だから、珍しく少しだけ椅子から立ち上がって、重い緋色の絹繻子で出来たカーテンをそっと開ける。
外は暗い。夜でよかったと思った。空に月のかかる時間が好きだった。
振り仰いだ、窓の外の月は朱い。今宵は満月であるらしかった。
欠ける事無く満ちた其れは血を吸って肥大したようで。青い悲しみの月は、狂うような光の影に掠れて小さく見える。

あの人は今何処でどうしているだろう。彼はぼんやりとそんな事を思う。
彼には視界の外を窺う力などなくて、ただ想像する事しかできないけれど。
決まって想像する外は、赤い。

外の世界には雨が降る。赤く、赤く、血の雨が。
今日も、明日も、その次も。世界中の命か、あの人の命が絶えるまで。
今日も、あの人はひとり、屍の丘を築き、奪う者の名を戴く剣で魂を狩り取っているのだろう。
今日は、何人逝くだろうか。終りまで後、何人だろうか。

早く、終わると良いと思った。
かつては、罪悪感と悲しみから其れを願った。
だが、今は違う。終わらなければずっと居られないから。
終わったらずっと一緒に居てくれると約束した。
だから、待っている。その時を待っている。
其れだけが望み。他には何もいらない。
ただ一つだけがあれば良い。
何より綺麗な銀の色が。

以前は、離れていればその分だけ怖かった。
何時、知らない所でどうなってしまうかなんて解らなくて。
かの人はいつも無茶をする人で。だから、眠ることが、明日が何時も怖かった。
何時、無くしてしまうかなんて解らなくて。繋いだ手、離れてしまうかもしれなくて。
いとしくていとしくてその分だけ、彼は喪失の影に怯えていた。

でも、今は不思議と彼の心は安らかだった。
離れている時間のほうがきっとずっと長いのに。
其れは多分、ひとつの真実に、気付いたから。

あの人に出会って、拾われて、その時から世界が始まった。
光も色彩も温もりも安らぎも居場所も全て、貰ったもの。
何も無かった自分に、五感をくれた人を喪う時が来るなら。
ならば、その時が自分の世界の終りだろう。
己の手で、生に幕を下ろせばいい。或いはもう、心閉ざして眠ってしまおう。
例えば死したとて、世界を象る精霊たちの王、神の獣の一柱たる人と同じ場所に行けるかは解らない。
だけれど、また無明の何も無い時間を生きる位なら。
この想いだけ抱いて醒めない眠りにつく方が、ずっとずっと救われる。

そう決めてしまえば、何も怖く、なかった。

つらつらと物思う内、ふと、耳朶を震わすように部屋の外から微かな音に気付く。
普通なら聞き逃してしまう程の小さな音。
其れを聞き逃すことは無かった。此処に来る音は一つだけ。
だから、此処に来てから以前にまして耳が良くなった。
廊下を歩く音。訪れる足音。其れに早く気付けるように。其れが良く解るように。

カーテンを閉じて、定位置である椅子に戻る。
大人しく良い子にしていないと、かの人に褒めては貰えないから。
縫いぐるみを抱き締め直して、行儀良く腰かける。
待望のほかは何も無かった面に、零れるように笑みが浮かぶ。
狂う程に愛しげな、蕩けるような微笑。
其れは彼岸の者を連想させる、一線を越えてしまった者の表情だった。
一切の困苦から解き放たれた、ただ幸せだけが在る虚ろ。

扉が開く。その瞬間から僅かだけの逢瀬が、今の幸せの全てだった。
だから、其れを微笑んで迎えた。
その時に、時が止まればいいと叶わぬ事を夢想しながら。





閉ざされた部屋で夢を見る。
其処は翳りゆく部屋。閉じた鳥籠。病んだ夢。甘い毒で満たされた揺籃。
斜陽の時から夜になる事はあれ、けして明けることはない。
朽ちて行く過去と、刹那の今と、来る事の無い未来だけが降り積もる。

閉ざされた部屋で夢を見る。
今日も、明日も、その次も。先の無い未来を夢見ている。
飛び立つ翼は手折ってしまった。瞳は眩む愛の闇に閉ざしてしまった。
鎖など無くとも手足はもう歩くことを止めて。戒めを望んだ。
唯一つの居場所だけ見つけた魂はもう、何処へも往けない。行かない。

ただ、それが幸福なのだ。
ただ、ひたすらに幸福なのだ。

どんなに壊れても歪んでいても。其れもまた幸せの一つの形で。

愛している。
愛している。
あいしている。

其れだけはただひとつだけ、かつてと変わらず、その身体と心を満たしていた。