夢の花、現の闇 〜弐〜



「まあ、綺麗」
突然聞こえてきた声に、朔夜と雅枇は振り返る。
ちょうど庭のあずま屋で花を見ながら茶を飲んでいたところだった。
柿の木に止まった蝉が五月蝿い。
声の主は、二人の姿に驚いたらしく、あら、と頬を染めて俯いた。
「失礼いたしました。あまりに手入れの行き届いたお庭でしたので、つい…」
真黒な髪を綺麗に結わえて、桃色の、地模様のある上品な振袖を纏った幼い雰囲気の少女だった。
「あら、お嬢さん、こちらにおいででしたか」
後から追いかけて来た声に、雅枇は体が強張るのを感じた。大奥、かのの声だ。
「まあ、朔夜もこちらに……」
途中で言葉が止まったのは、孫の隣に立つ雅枇の姿を見付けたからだ。
それでも、部外者に気付かれないように、かのは彼女に微笑みかける。
「お嬢さん。あれがうちの孫の朔夜でして、未熟ながら当家の長でございます」
「お婆様、そちらの方は…」
朔夜の低い声音が響く。
「華江美智子さん。昔からお世話になっている華江様のお嬢さんですよ」
かのに紹介されて、美智子はにっこり微笑んで朔夜に頭を下げる。
華江家———京都に古くから続く貴族。朔夜の父と美智子の父は長い間親しい友人だった。父亡き今も、たまに家に訪れては朔夜の様子を見にくる。
それでも、今まで一度も娘、美智子を連れてきたことはなかった。
綺麗な唇に紅を引いた、色の白い彼女。
ずっと昔、まだ幼い頃に、友人の女の子の誕生を祝うとかで父に連れられて華江家を訪れたことを思い出す。
「ああ、確か1度だけ私が8つの時にお会いしたことがありましたが、…それ以来ですね。全くわかりませんでした」
「まあ、そうでしたの?私が1つの時ですわね…覚えておりませんわ」
くすくすと笑うと、揺れる黒髪がきらきらと陽に透けて輝いた。
「父に連れられて参りましたら、とても綺麗なお庭が見えましたので…」
おっとりとした口調で話す彼女に、朔夜は、そうでしたか、と優しい笑みを返す。
「お婆様、それでは華江様がいらっしゃっているのですか」
「ええ、先程お見えになりましたよ」
「…すみません、突然のお邪魔だったようで…」
約束か何かあったかと、考えた朔夜に慌てた美智子が言葉を挟む。
「いえいえ、華江様でしたらいつお越し頂いても嬉しい限りです。父亡き今も私のことを気にかけてくださって…本当に父上はお優しい方だ」
再び、包み込むような笑みを美智子に向ける朔夜。
雅枇はひっそりと一礼してその場から立ち去ろうとした。それを、朔夜は手で制する。
「雅枇、客人だ。下げなさい」
「………はい」
あずま屋の机の上の食器を見て、朔夜は振り向きもせず雅枇に命ずる。
かののいるこの場から一刻も早く立ち去りたいと思う、雅枇の心を見透かした上での命令だ。
雅枇はわかっていながら、それに従うしかない。
「庭を気にいっていただけたようで」
「ええ、本当に綺麗に手入れをされていますのね…まあ、月下美人…」
「ああ、そちらはもう昨晩咲いてしまったのですが……」
朔夜と美智子の会話を聞きながら、手早く食器を片付ける。
なるべく音を立てないように、盆の上に乗せ静かに雅枇はその場を後にした。
「…朔夜さま、さきほどのあの方は…?」
「ああ、私の世話役でして雅枇といいます」
「…世話役……のわりに、お若い方ですのね」
「ええ…それより、あちらに向日葵がございますが、よかったらご覧になりますか?」
「ええ、是非」
雅枇の話題から上手く話を逸らせ、庭の奥へと美智子を連れていく。
その孫の姿を見て、満足そうに安心したように微笑むかのの姿があった。

「素敵なお嬢様よねー、美智子様って」
「ほら、朔夜様と並ばれると本当にお似合いだわ」
雅枇が、食器を片付けに台所へ入ったとき、手伝いの女中三人が庭を見てきゃあきゃあと騒いでいた。
「あ、まあっ。雅枇さま、いいですよ。私達がやります」
一人が雅枇に気付いて茶器の乗った盆を取ろうと近寄る。
「ああ、いいんですよ」
にっこり微笑んで、雅枇は彼女の手をやんわり退けた。
その雅枇の手を見て彼女は首を振る。
「いけませんよ、だってこんなに綺麗な手を水仕事なんてさせたら勿体無いじゃないですか」
「そうですよ。あたし達みたいなこんな手になっちゃいますから」
別の女中が手を見せてくったくなく笑う。
「いいんですよ。私は男ですから、女性のように手に気をつかうこともない」
にっこり微笑んだ雅枇に彼女達はほうっと溜息をついた。
「雅枇さまって本当にお綺麗な方ですよねぇ…」
「本当。…でも、……朔夜様がご結婚なさったらもしかして、ここから出て行かれるおつもりなんですか?」
「ええ?それはいやです。だって、雅枇様に会えるのを楽しみに毎日ここでの水仕事も頑張ってるんですよ」
「あら、さっきまで朔夜様朔夜様って騒いでたのはあんたじゃなかったっけ?」
「朔夜様も素敵だけど、雅枇様はこうやって話しかけてくれるじゃないですかー」
「雅枇さま、出て行かれるんですか?」
「そんなの寂しいです」
騒ぎ立てる彼女達に苦笑して、雅枇は答えを誤魔化した。
「さあ、おしゃべりばかりしていると誰かさんに叱られてしまいますよ。そろそろお夕食の準備なんじ
ゃないですか?」
慌てて夕食の買出しやら準備にとりかかる彼女達を笑って、ふと庭に目をやる。
微笑みあって、花を愛でる二人を見て、その後姿は何を思ったのか。
この家の中で、唯一雅枇に慕ってくる彼女達ですら、ここに雅枇の本当の味方などはありはしないのだ。

「大きくなっただろう、美智子は」
「ええ。素敵なお嬢様になられました。あの時はまだまだ小さな赤ん坊だったのに」
「ほう、よく覚えておるな」
「私には兄弟がおりませんから、赤子というのが子どもながらとても珍しかったので」
苦笑する朔夜に、華江家の主は嫌味なく笑った。
庭でかのと花を見ている美智子を見ながら、二人は縁に座って茶を飲んでいた。
そろそろ日も暮れるので、帰ろうかという頃だ。
子どものころ、彼の大柄でたくましい体が、痩せて背ばかり高かった自分の父親とは違う、と思っていたのを朔夜はふと思い出す。
「今年二十になる」
「………はい」
突然言われたことの意味がわからず、とりあえず返事を返しておく。
「あれもよく見合いをさせたのだが、どうも私の意に叶う者がおらんでな…」
「…………」
振り返った彼の顔を見て朔夜は続く言葉を予測できてしまう自分が少し厭だった。
「朔夜君、君なら大丈夫だと思っておる。君の返事を待つ……と言っておこう」
「…………はい…」
「かの殿の了解も得ているのでな…後は君が首を縦に振ってくれるだけでいいんだ」
「…………」
また後日尋ねる、と言って縁から立ちあがる彼を、朔夜は無言で見ていた。
父親に呼ばれて振り返る美智子とふと目が合って、慌てて逸らせ頬を染める彼女を冷めた目で見た。

柿の木に止まった蝉が五月蝿い。


「………何も聞かんな、お前は」
その夜。
朔夜の部屋に冷たい茶と小夏を持っていった時だった。
「なんのことでございましょう?」
微笑み、透明な硝子の茶碗に茶を注ぐ。
朔夜は続きの部屋の閨に横になり、片肘をついてそれを眺めている。
「どうぞ」
何も言わない朔夜に雅枇は茶を差し出す。
いつもと同じ、無言で夜は更けていく。
無言で茶を飲み、無言で小夏を食べ、それを無言で雅枇は眺めているだけだ。
月が明るい。
「雅枇、来い」
閨から声を掛ける朔夜に、雅枇は無言で応える。
朔夜が、女が家を訪れた日には、それが婚約者ならなおさら、必ず雅枇を抱くのは今に始まったことではなかった。
それが、朔夜の嫌がらせなのは雅枇自身気付いていたし、朔夜も幼稚だとは思いつつ、本当は嫌がっているであろう雅枇を組み敷くのは、ある意味面白みを見出していた。
女に向けた目で。
女に触れた手で。
女に掛けた声で。
「っ、ふ………ぁ…、っ」
「お前と同じ年だそうだ」
「んっ、んっ………」
耳朶を噛み、髪を撫でる指はいつも以上に優しい。
「白い肌も、か細い声も…」
雅枇の目に溢れる涙が、快感のためか感情のためかわからない。
見下ろした肌は月に照らされていつもより蒼白く見えた。
「違うのは、女か男かということか…?」
震える唇を指先で撫ぜ、溶けるような口付けを与えて喉の奥で笑う。
「お前はどうするつもりなのだ?」
「あっ…・・——————っ…」
仰け反った首筋に噛み付く傷みが、心臓まで突き刺さる。
そうして、上り詰めさせておいて、彼はいつも冷ややかに嘲笑うのだ。
「私は華江美智子と婚約することにしたよ」

 

 

退散