夢の花、現の闇 〜壱〜
「ん、…ぁ、あっ、は…」
丑みつ時。
朔夜の手に何度も翻弄され、雅枇は潤んだ目で窓から見えた月に喘いだ。
幾度目かの極み。
四肢はしびれ、声も枯れて悲鳴にすらならない。
「……雅枇…」
骨ばった指先が頬を撫でる。
「…………」
呼吸を淫して雅枇は視線だけを彼に向ける。
「辛いか…」
「………」
唇さえ、まともに動かせず、ただ見つめるだけ。
「…声も出ないか」
喉の奥で笑ってから、その指は今だ震える唇へ。
「お前は何を考えているのだ」
「…………」
首を振ろうとして、できないもどかしさに、なんとか唇を動かそうとして指先に止められる。
「……厭ならさっさと逃げればいい…」
ふっと離れた指が冷たい風を起こしたような錯覚。
薄れる意識の中で、雅枇は呟いた。
————貴方を愛しているから……
届かなかった心
飛ばすことすらできない声
翼が残っていても
明治時代。
吉原の遊郭が、日々「花魁道中」を繰り広げるほど華やかだった頃。
彼はその騒がしい大通りを眺めながら、まだ5歳という幼さで泣きもせずに艶やかな行列を見上げていた。
ぼんやりとうつろなその目は、一体何を映していたのか、今になってもそれはわからない。
どうしようもなく影を纏ったその姿は、大人の誰一人にも気付かれなかった。そして、それは今も変わらずに、彼に奇妙な雰囲気を纏わせている。
行列の先頭に立って、ゆっくりと歩く花魁。
自信と色香に満ちた優雅な目を真直ぐ前に向けて。
彼女を思い思いに見つめる人々。
「……お前はあの時、何を考えていたのだ?」
自室で、彼の膝に頭を乗せて横になった朔夜は、夏の夕方の涼しい風に目を細めながら尋ねる。
「………あの時?」
彼——雅枇は、庭から聞こえる蝉の声からゆっくりと現実に戻って来たような口調で、朔夜を見下ろした。
変えたばかりの畳の匂いが強い。
「花魁道中の……私がお前を拾ったときだ」
見上げもしないで、低く問う。
彼の手が、自分のほっそりと白い手よりも綺麗だと雅枇は思った。
「……5歳の頃でしょう?覚えておりません」
くす、と綺麗に笑う。
二人が出会ったのは、雅枇が5歳、朔夜が12歳のころだった。
親に連れられて東京に行っていた朔夜は、吉原の花魁道中を見ていた。一緒に行っていた年の離れた従兄弟は、先頭に立つ花魁の艶やかな笑みに魅了されていたのを覚えている。まだ子どもだったせいもあってか、朔夜にはあまりにもゆっくりと動く行列に、どこに面白みを見付ければよいのかわからなかった。
ふと、目線を逸らすと道の端に座り込んだ幼い子供を見付ける。
あまりに白く、痩せて細いその子どもに吸い寄せられるように近寄った。
『お前…一人なのか?』
黙って頷いた子どもは、びっくりして朔夜を見上げていた。
彼と同じ目線になるようにしゃがむと、彼は子どもの伸びきったかすかに茶色の前髪をかきあげた。
ぼんやりとした目は、色素が薄いのか髪と同様少し茶色がかっていた。
『………名前は?』
『…みやび』
幼い子どもの声で言った彼に、朔夜はポケットから白い和紙に包まれた砂糖菓子、和三盆を差し出した。
雅枇が彼の頬に触れようとしてその手を逆に掴まれる。
指先に触れる唇が柔らかい。
「雅枇…」
やっと見上げて来た目は、ひどく冷めていて、思わず胸が痛くなる。
そうやって誘うのはいつだって朔夜のほうなのに。
「あなたこそ、何を……」
「…なんだ?」
言いかけて雅枇はふっと口をつぐんだ。
やんわりと微笑んで誤魔化すように手を引っ込める。
「ダメですよ。そろそろ夕食のお時間でしょう?」
「……お前はまた来ないのか?」
起き上がった朔夜は肩まで伸びた長い髪をかきあげた。
「情夫を一家団欒の間に連れて行くなど、聞いたことがありませんよ」
にっこり微笑んで彼に櫛を渡す。
雅枇はいつも夕食を一人で自室で取っていた。
彼は、朔夜に拾われたとはいえ、いわゆる世話役として北条院家に住まわせてもらっている。それでも、現当主である朔夜の傍にい続ける彼が身内から煙たがられるのは、彼が理由で朔夜が一人身なのだと思われているからだった。
朔夜は、櫛を受け取り、長い髪をきちんとひとつに結わえる。
雅枇は朔夜の髪を結わえる姿を眺めるのが好きだった。
真黒な直毛。さらさらと音がしそうなほど綺麗な黒髪。
多分、自分の父親は異国人なのだろう。
小さい頃は、あまり外で遊ぶのを好まなかったせいかとも思っていたが、成長するにつれて、一緒にいる朔夜とは違う容姿になっていることに気付いた。
日に当たると茶色っぽい程度で済んでいた髪は、今ではすっかり栗色になっていて、目も同様に茶色く、肌は透けるように白い。
身内からはますます煙たがられる。
この秋で朔夜は27歳、雅枇は今20歳だ。いつまでも、ここにいられるとは当然思ってはいなかった。
「…じゃあ」
乱れかけていた着物の襟を直し、朔夜は立ち上がる。
「はい」
部屋から、振り向きもせずに出て行く朔夜を笑顔で見送り、雅枇は自分も食事のために自室に戻ろうと、朔夜が夕食から戻ってきてすぐに風呂に入れるよう、下着と浴衣を出しておく。
自室は、朔夜の減夜のある母屋とは少し離れた、離れにあった。
朔夜の自室は縁があって、その縁から離れのある庭にそのまま行ける作りになっている。
朔夜の歩いて行った廊下側の障子を閉め、反対側の縁の襖を開けて草履を履く。
今夜あたり、月下美人が咲くかもしれない。
大きな莟が首をもたげているのを横目に、雅枇は自室へと向かう。
自室に入って、自分も乱れた髪を直すと食事を取りに台所へ行かなければならない。
いつも、雅枇はこの時間が嫌いだった。
台所には大奥様——朔夜の祖母——がいることが多いのだ。
彼女は何よりも雅枇を嫌っていた。
自分の息子が3年前に急死して以来、この北条院家を継いだのは孫の朔夜だったのだが、自分が持ってくる見合いという見合いを全て朔夜が蹴っていたからだった。彼女は、それに腹を立て、身内に泣いて雅枇が朔夜をたぶらかしていると喚いて廻ったのだった。
「御結婚なさらないと、皆様御心配されていますよ」
一度、雅枇が朔夜にそっと言ったことがあった。しかし、朔夜はそんな雅枇に一瞥をくれて冷たく笑った。
「それが情夫の言葉か?」
それ以来雅枇は朔夜に、見合いの話はしないようにしている。
正直、雅枇は複雑だった。
自分は、彼が結婚するまでならまだ傍にいる権利があるからだ。
とは言っても、彼は自分を単なる情夫としてしか見ていないのは事実だった。5歳の頃に拾われて以来、彼に優しく扱ってもらったことは一度もない。
どういうつもりで拾ったかも、どういうつもりで今だ傍に置いておくのも、朔夜の暇つぶしのためであり、欲求のはけ口でもあることは十分わかっていた。
『お前…一人なのか?』
見上げた彼の目が、驚くほど綺麗な漆黒の色をしていたのをまだ覚えている。
差し出された手に掴まる前に、5歳という幼さであれ自分が惹かれたのは紛れもない事実だった。
自室を出て草履を履く。
どんなに情夫扱いしかされなくても、彼には溜息を吐く権利すらなかった。
食事の前に、わかりきっているくせにわざわざ、また来ないのか、と尋ねるのは、身内の前に晒して笑い者になる自分が見たいだけなのであろう。
広い庭を横切っていく雅枇の顔は、うつろに西日が照らしていた。