籠
其れは暗闇の中
四方を黒で塗り潰し
五感を無で覆い
時間を永遠に塞いだもの
其れは何時の話だったか—————。
最早誰もが忘れ去った時空の波を越えた先の頃。
凍るような外気に、低い声音がひとつ。
「雪……」
ふと見上げた空はどんよりと雲っていて、今にもこの地上を押し潰してしまいそうな色だった。
彼はそこから、考えられないほど白く儚い結晶が、はらはらと舞い落ちるのに気付き、廊下の真中で立ち止まった。
そこから見える、小さな街。
四方を海で囲まれた小さな島、神伽威島(かむかいじま)。
ここは神の立寄る島といわれ、地図上には記されてはいないため、外からの人の出入りはほとんどなく、情報も何もかもが遮断されていて完全に外界から隔離されている。
人々はまだ古代を生きていて「科学」などという言葉は無に等しい。
自然を敬い、神を信じ、あやかしの存在を忌み、術と宗教の世に治められた空間。
「もう冬か…」
彼の名は揚弦(ようげん)。
黒く、背まである長い髪と灰色の目は藍色の衣に映える長身のまだ三十に届かない歳の男。
この島をまとめる主である。
街を一望できる高台に立てられた屋敷の廊下で、十数年前の出来事を思い起こす。
同じ雪の降り始めた日。
この島に生まれ落ちた二つの生命が巻き起こした、波瀾の日々。
〜〜 其の一
〜〜〜〜〜
肌寒くなってきた日の朝、揚弦は屋敷から出て北にある社へと散歩に出ていた。
まだ十八にしては大人びた彼は長身で、黒い艶のある、肩までの髪をきちんと束ねて幼い頃に亡くした母親の墓へ向かっていた。
「おはようございます、揚弦さま」
「ああ、伽耶か。早いな」
社の門をくぐり、墓場へと向かう途中で、ここに務める、もう時期十四になる巫女に出会う。社の掃除をしているところだった。
「揚弦さまもお早いですね。…お母様のところへ?」
「ああ。今日は珍しく早く目が覚めた。そのままもう一度寝るわけにもいかず、散歩がてら、と言ったところだ」
「よいお心がけです。でも、…お体の調子が悪いのではないですか?ゆくゆくはこの島を治めるお立場になられるのですもの、気をつけていただかないと…」
「まあ、まだ何年も先の話だろうが…別に心配するようなことはない」
苦笑しつつ、別れを言ってそのまま墓地へ。
秋から冬にかけての空は、本当に高く、寒々しい。
よく晴れ渡った青空は、一人で仰ぐとどこまでも淋しい。
特に、こんな澄んだ空気の中で、人気のない社の裏に立っていると、本当に自分一人だけになってしまったような気になる。
社の裏の墓地は、この島で天に旅立った者たちの墓ばかりであった。
いくら人の出入りがないとはいえ、世界がこの島だけでできているとは誰も思ってはいない。そしてまた、この島だけが特殊で隔離されているということも皆知っていた。
若い者が、島から出て行こうとして失敗に終わるという話はよく聞く。
揚弦自身、いつかこの島を出て外の世界を見てみたいと思っている。ただ、彼が他の若者のように無邪気になれないのは、若いわりに利口な頭が自分の立場というものを充分すぎるほど理解しているためだった。
自分が出て行けば、自分を心配して無茶をする使用人が一体何人出てくるのか。父親がどれだけの心労を背負うか。
島がどんな混乱に診まわれるのかも。
「……花があればよかった…」
母親の墓石の前に座り、手を合わせようとしてふと呟く。
でも、季節柄花という花はどこにも見当たりそうもない。
仕方がない、と思いながら再び手を合わせ、目を閉じる。
冷たい風が、彼の頬を撫でて行った。
母親への伝言を終えても、彼はそのまま目を閉じていた。
何も聞こえない。
虫の声も、小鳥のさえずりも何も聞こえない。
そして、何も見えない。
不意に襲われる、心地いい孤独感。
「………?」
目を開けかけたその時、ふっと風に乗せられて甘い香りが鼻をくすぐった。
立ちあがり、周りを見回してみるが人気はない。
気のせいかとその場を離れようとして、また立ち止まる。
「………?」
誰かの声がした。
振り返り、また甘い匂いが風に届けられる。
「…なんだ?」
きょろきょろと回りを見回していると、ごうっと強い風が吹いた。
その中に、小さな声が混ざる。
『…ここにいる…』
「誰だ?」
声に出したところで相手が現れるとは思えなかったが。
「……………」
もう、耳を澄ましてみても、風が吹いても甘い香りも声も何も届いてこない。まるで、夢でも見ていたかのようだ。
それでも、揚弦はしつこく何度も回りを注意深く見回していると、
「……何やってんの?」
突然声をかけられて振り返ると、墓地の入り口に小柄で華奢な少年が立っていた。
「朱螺(あから)」
「おはよ」
人懐っこい笑顔を向けて、こちらに歩み寄ってくる彼は、揚弦の幼い頃からの遊び相手であり、親友であり、屋敷に住む彼の世話役でもあった。
腰まである茶色がかった髪をゆるく背でひとつに結び、同じ茶色の大きな目をした、中性的な容姿。
「起こしに部屋に行ったらいないんだもん。どこ行ったのかと思ったよ。」
にっこり笑ってから、
「僕もいい?」
墓石の前にしゃがみこんで、手を合わせる。
朱螺の長いまつげが白い頬に落ちる。
揚弦は彼の小さな背中を後ろから眺め、
「起こしに来たとは、お前にしては珍しく早起きなんじゃないのか」
朱螺はいつも朝食の時間ぎりぎりに起き出してきて食卓に座る。今日はまだ朝食の時間まで、あと一時間ほど余裕がある。
「そうだね」
くす、と笑ってゆっくり立ちあがると肩に落ちてくる長い鬢をかきあげた。
「今朝は寒くて早く目が覚めたよ」
「そうだな…今朝は少し冷える…」
「そう。だから、起こしに行ったっていうより、寝てたら叩き起こして夢の邪魔してやろうって思ってたんだ」
笑って歩き出した彼の後を揚弦はついていく。
「だって僕は寒さのせいで無意味な早起きをしたっていうのに、揚弦はすやすや寝てるんじゃないかって思うとなんかむしょうに腹立たしくなってね」
「なんだそれは」
「ふふ…」
墓地を抜けて、社の広い砂利の敷き詰められた庭を横切る。
鳥居をくぐって、石段の掃除をしている伽耶にまたな、と声をかけて社を後にする。
少し、鼻の頭を赤くした朱螺が隣を歩く揚弦を見上げる。
「今日の朝ご飯、多分おかゆだよ、梅の。それからおひたし」
「どうしてわかる?」
「こっそりつまみ食いしてきたから」
にっと笑った彼は、まるで幼子のように無邪気な顔をしていた。
朝食が終わるか終わらないかの時間には、もう屋敷は人の出入りで騒がしくなる。
揚弦の父、凄聯(せいれん)は、まさに忙殺の日々の只中にいた。
もう時期、10月末の神寄(かみよせ)がある。これは、神無月に出雲に集まった神々がそれぞれ自分の社に帰る途中、この島に立ち寄る日で、その神々を祭るための儀式であった。
そのため、社を護る主、巫女、そして屋敷に仕えてこの島の平安を護るために勤める術師、警備の者、島の代表者を集め、島全体の飾りつけから、神がここへ立ち寄ったときに迷わぬよう島の入り口から社までの道しるべとしての灯篭の置き方、神々を迎える儀式の内容などを決めるのに、日々追われていた。
「灯篭の数は足りているのか」
「はい。今年は昨年のように不足しているようなことはございませんでした」
屋敷の二階にある大部屋。
広い室内に置かれた大きな机を取り囲む十数名の男と女。
上座には、草色の着物を着た白髪交じりの凄聯が座っている。
隣に立つのは秘書。
「では、社の方はいつまでに全ての準備を終えられるのだ」
「はい。来週には…」
「よし。一日も遅れることのないように。島全体の様子は」
「家々の飾り付けはそれぞれの者達が取りかかっておりますので、心配するには及びません」
「そうか。では、当日の警備なのだが…」
その日、夕暮れ時まで島全体は祭り騒ぎをする。神々の立ち寄りをありがたがって騒ぐのはよいこととされているものの、日が暮れると同時に島の住民は全員家の中に篭ってなければならない。
神の通る道に人間が立っていては罰当たりということだ。
当然、祭りだからと調子に乗って酔っ払い、道端で眠りこけている者などいてはいけない。
これが毎年一番の厄介事で、警備にあたる人数など、何人いても足りないほどだった。
「警備の者は足りているのか」
「去年よりも五十名ほど増えましたが…」
「……なんとも言えぬな。去年までは足りないながらもなんとかおさめてはいたが…」
「それでも増えたのはよいことです。今年もなんとしてでもきちんと事が運ぶようにしましょう」
「うむ……そうだな…」
「凄聯さま、なにか…」
少し難しい顔で頷いた凄聯に、社の主が声をかける。
手に持っていた筆を弄びながら、丁寧な様子で皆の顔を見る。
「今年、警備の頭として揚弦を就けようかと思うのだが…」
「揚弦様を…」
一同の顔に、複雑な表情が刻まれる。
「…どう思う」
凄聯の言葉に、渋面。
「お言葉ですが…揚弦様が就かれることは大変心強いですし、私共としても嬉しい限りなのですが…」
島の代表者の言葉を、警備の者が継ぐ。
「…揚弦様は次期この島の主となられるもの。御身にもしものことがありました場合、手前共では責任を負いかねますが…」
その言葉に、凄聯も渋面する。
沈黙した一同に助けを出そうと社の主が再び発言する。
「あの…揚弦様は、なんと…」
短い溜息と共に、凄聯は答える。
「いや…まだこのことは話してはおらん」
「でしたら、揚弦さまの御意向を伺ってから…」
頷く一同の顔を見て、凄聯も同意する。
「そうだな。とりあえず、この件はそれからにしよう」
そして議題は別の事柄へ…………。
屋敷は、一階に応接室、食卓、客室、使用人室、浴室があり、それだけで数えると部屋数は十五にも及ぶ。二階に揚弦の自室、揚弦の父凄聯の寝室、書斎があり、朱螺の自室、秘書室、大部屋があった。
そして、もう一つ。
今は亡き揚弦の母親、絢葉(あやは)の自室が生前のままに存在していた。
数ヶ月ごとの掃除にときに使用人が入ることを除いては、ここに出入りできるのは揚弦と凄聯の二人だけで、普段は鍵がかかっている。
部屋の中は、彼女の好きだった本や香、化粧道具などがそのままに棚に並べられ、寝台上には彼女の肖像画が飾られている。
銀色の髪を結いあげ、白い肌に髪と同じ銀色の目を映えさせる美しい女。
揚弦の目の色は母親譲りのものだった。
絢葉は二十三の時に逝去している。揚弦が四つの頃だ。そのため、おぼろげに母親の声や匂いを覚えているものの、顔は記憶しているというよりも、昔から見ているこの肖像画が記憶に摩り替わっていると言ったほうが正しかった。
揚弦は、たまに夜、この部屋に一人で篭って本を読み耽ることがある。
今日もそうだった。
南向きの窓を大きく開いて、そこへ椅子を持っていき、夜風を受けながら本を読む。
頁を繰る指が、扉を軽く叩く音に止まる。
「やっぱり、ここにいた」
入ってきたのは朱螺だった。
最も、入ってくるとは言っても実際に部屋の中に足を踏み入れることはなく、扉を開けて小さく笑っただけだったが。
「もう遅いよ。寝ないの」
扉に凭れた部屋着の彼は、といた髪をかきあげた。
朱螺が扉から中へ足を踏み入れないのは、彼なりの配慮だった。
ここは、普段回りに常に気を使い、注意を払っている揚弦の唯一の気の休まる場所だったからだ。
「何時だ」
「もう三時近いよ」
「……そうか」
本と閉じて机の上に置くと、揚弦は窓を閉めた。
蝋燭の火を消して、朱螺に近寄る。
「お前こそ寝ないのか」
「んー…寝るけど…」
背の高い揚弦の横髪に指を滑り込ませてにっこり笑う。まるで、遊女のような艶やかな微笑み。
その手を揚弦は緩やかに取り、後ろ手に部屋の扉を閉めた。
「お前には飽きるという言葉はないのか」
「よく言うよ。母さまが恋しくて淋しいのはそっちでしょ」
「うるさいな」
すぐ隣の自室の扉を開けて、先に朱螺を中に入れる。
続いて入ってくる揚弦の方を向いたまま、後ろ歩きで部屋の中へ進みながら、両手を彼の首へと伸ばす。
「かわいそうに、僕が変わりに慰めてあげるよ」
「慰めてほしいのはお前のほうだろう」
「意地っ張り」
「うるさいのはこの口か」
「ふ…」
強引に腰を引き寄せられて、重なった唇はなかなか離れない。
緩めた帯を床に落すと、それを気にも止めずに踏みつけにして寝台へ。
「ちょっと、今僕の帯踏んだでしょ」
「…さあ」
「ちょ………っ」
見下ろしてくる灰色の目は、儚いようで深い色。
頬に零れてくる黒い髪が夜風に冷えて冷たい。
太腿の内側を撫で上げる長い指に、朱螺は背中を這う淡い感覚を楽しんだ。
唇を追い、指先を追い、朱螺のざくろの舌は揚弦の目を捕らえて離さない。
うつぶせにされて背中を舐める揚弦の舌に喘げば、後ろから回された掌に強く握りこまれて息を止める。
髪を掻き分け、首筋から耳の後ろへ。
震える唇に銜えさせられる指は唾液に濡れ、奥深く穿ってきた熱はうねりと熱を上昇させて朱螺の足を突っ張らせた。
「あっ…あぁ……っ、んっ……よう…げ…っ」
女を知らないわけではない。
朱螺を知り尽くした今は、他に興味がないとでも言うべきか。
下らない火遊びをしたのも、そのために夜遅く屋敷を抜け出し顔を隠して街に繰り出したのも、いつも朱螺と一緒だった。
誘い始めたのはつい最近。
『そのほうが、顔を隠したりこっそり出て行く手間も省けるでしょ』
朱螺がまさかこんなにも艶やかな目をして自分を見上げて来たのは初めてだった。
「…あから…」
「ふぁっ…あっ」
低い声で名を呼んで、耳朶を噛むと仰け反る癖はすぐに見つかった。
背後から嬲られるのが好きで、最中はやたら手を握ってくること、眠る時は必ず体を摺り寄せてくること……。
「揚弦…」
乞われるままに唇を近づけると、嬉しそうに舌を伸ばす。
幾度目かの極まりの後、乱れた呼吸の中で大きく吐息した朱螺は目の前にある美貌を覗き込んだ。
「……なんだ」
「………別に」
まだ濡れた瞳を楽しそうに緩め、子どものような顔で白い指を揚弦の唇へなぞらせた。
「足りない?」
「……さあ」
掠れた笑いで髪が揺れる。
まだ夜明けは遠い。