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「門前の小僧習わぬ経を読む」のことわざは、「平生見聞きして慣れていると、意識して学ばなくても、自然にできるようになるというたとえ」とされている。僕もそのように認識していたのだが、そうではない!と思わせる体験をした。
近くのお寺にボランティアとして20名で落ち葉を掃きに行った。小さな山の半分がお寺の敷地で山の雑木林の中にたくさんの墓がある。(まぁ、その寺は深溝松平家の菩提寺であるため、松平家のお墓がほとんど。松平家は神道に宗旨替えしているので、今はお墓と言うより文化財的扱われ方なのだけど。) 一日がかりで、落ち葉を集めまくった。20人でやってこれなのだ。これを一人でやったら・・・。なにせ、「よし、きれいに、はいた」と思って後ろを向くと、もう落ち葉が落ちているという事態。昔は、誰がやっていたのだろうと思いをはせた。小坊主か寺男か・・・そのときひらめいた。 この仕事の特徴 (1)同じ約束事の繰り返し (2)世俗と乖離 また、寺は昔、お坊さんやこれから修行して坊さんになろうという僧だけでなく、知的障害者の労働の受け皿になっていたと、記憶している。合わせて考えると、この寺での暮らしは自閉症の症例に最も向く生活なのではないかと思った。現代社会は、適応できない人を排斥するが、当時は、地域社会の中にあって、自閉症や知的障害の人でも、その人なりの生き方ができる場所として寺などが機能していたと実感した。 そこで、テーマに戻るが、「門前の小僧習わぬ経を読む」は、自閉症に見られるイデオサヴァン (idiot savant)症候群のことを指したものではないのかということだ。 現代では、寺が、地域社会においてそのような機能を失ってしまったため(政教分離や教育・宗教分離のため、一つの宗教に染まらない事が日本では、インテリの様に思われる節がある。このためではないだろうか。)、「門前の…」と聞いても、イデオサヴァンと接続しないが、当時の人たちは、当たり前のように、このことわざは、イデオサヴァン症候群の特殊な能力への畏怖を示したものだと認識できたのではないだろうか。 そう考えると、雪舟禅師の涙でネズミの絵を描いたという話も、イデオサヴァン症候群だったのではという気もしてくる。 まぁ、そんな事をつれづれ考えるほど、やってもやっても、落ち葉は無くならなかったのでありました。 |
2003年12月29日 00時32分44秒
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「朝四時からの仕事の時もある。10日でいいから自分と代わってみませんか」と言われた。
私も自分の仕事は、自分が現在置かれている状況は、決して楽ではないと思っている。案外、みんながそう思っているのかもしれないと、思った。 その人が、耐えられるだけの苦労が選択的に与えられているのかもとも思う。 しかし、誰かに「自分の代わりをしてみませんか。大変だから。」と言葉を続けるのはルール違反ではないか。その人の人生は、その人のもので誰のものでもない。大変さも人それぞれ。大変な仕事も「よせばいいのにやっちゃうんだよなぁ」という、その人が選んだ道だろう。 |
2003年10月04日 16時48分36秒
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「タバコと税金 素人考察」を、飲み会の折、喫煙者にぶつけてみた。
結論、喫煙者は、早く死ぬ可能性が高いから、その分、介護保険は使わずにこの世を去る。・・・そうか。 「働き盛りの時に精一杯働いて、タバコで余分に税金を納め、短命に終わる」という、最も、国庫に優しい国民のあり方かもしれない。 やはり、喫煙者に足を向けてはねられない? |
2003年09月21日 17時27分41秒
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タバコを吸う職場の人と話ながら気づいたこと。
タバコの増税で、「喫煙者は高額納税者だ」なんていうふうに言われたりしているが、果たしてそうか。 喫煙者は、肺ガンになる可能性が、5倍(20本/日)になるという(←これもそもそも怪しいが)。 ということは、肺ガンの治療を受ける人も5倍というわけで、これらのひとはその分、医療保健を多く使う。ということは、タバコで多く払った分の税金は、実は、自分の健康保険費用を補填する目的であらかじめ多く払っていると考えるとすっきりする。 非喫煙者は、喫煙者から、「自分たちは、多く税金を払っているんだ」というせりふに肩身の狭い思いをしなくて良いのだ。 |
2003年09月19日 07時50分26秒
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看護と介護の違いについて考えた。
介護も看護も英語ではcareで違いはない。アメリカでは、介護保険という考え方もないわけで、ヨーロッパに日本と似た保険制度があるとのことだが、やはり日本独自の世界の誇る介護保険制度。 看護師の仕事の最大の目的は、「治療する(なおす)こと」だ。これは間違いない。そして介護助手(介護福祉士)の仕事は、「入浴・オムツ・シーツの交換・食事のお手伝いなど」である。これらの介護を通じて、介護助手が目的とするところは、患者(あるいは利用者・入居者)に、「生きていて良かった。人生はすばらしい」と感じてもらうことではないだろうか。 介護を必要とする人は、何らかのハンディを抱えている。体のどこかに不自由があったり、痛みや息苦しさがあったりだ。そんな苦しみを、治療ではなく、本当の意味での手当てで、支え和らげることが介護の目的であると思う。本人には、いつ止むとも分からない手術後の苦しみや発作などが起きたとき、薬以上に、横でさすってくれる人の温かみが、「大丈夫だ」と言ってくれる人の存在が、何より必要な時がある。 「病気なんだから多少の苦しみはしょうがない」、「明日になれば、収まっていて命に影響ないのだから」、「これまでの不摂生が悪いのだから苦しみは当然」・・・周囲の人の心の一部に、そんな考えがあるのではないだろうか。その健康な人の何気ない冷たさが、最も患者を傷つけ人としての尊厳を奪うと感じる。 介護の充実は、効率化が進む現代(医療)にあって、「人の命を大切にする」本来の意味を取り戻そうとする動きだと考えたい。 |
2003年09月18日 07時20分31秒
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昨日、雲仙の温泉に入って、思いついたこと。極楽について。
今まで私の認識の極楽浄土は、「行く」という感覚だった。こう書いてしまうと、「極楽に行きたいがため、現世で功徳を積む生き方をしています。」という感じだけれど、私は熱心な仏教徒とはとても言えない。 だって、極楽のイメージは、「人々みんな微笑みが絶えず、争いもなく、辺り一面花が咲き誇り、心地よい音楽が流れ・・・」という感じ。・・・あり得ない。こんな所、3時間もいられない。退屈すぎる。これが目標とする世界なら、今の日本のほうがよっぽど極楽状態だ。 だから、私は極楽に行きたいとは、思ったことはない。(地獄には行きたくないとは心から思うけど。) で、露天風呂につかりながらぼーっとしていて気づいた。極楽というのは、この「心の平静の状態」なんだと。 初秋の雲仙。日がやや傾きだした頃。露天のお客は自分を含めて3人。浅い露天風呂に仰向けに耳までつかってみる。紅葉の枝越しに見える高い空。聞こえるのは自分の心臓の音だけ。そんな状態で、そう思った。 この心の極楽をいつも作っておくために、修行するんだろうと思った。どんな時も、意識的にこんな極楽の心象を作り出すことができたらすばらしい。ちょっと悟った感じ。 そんな気になるほど、秋の雲仙はよかった。 |
2003年09月15日 21時42分20秒
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