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教育改革国民会議の最終報告が2000年12月22日に首相へ提出された。学校教育の改革や道徳教育の充実、教育基本法の見直しなどがある。奉仕活動の義務化など疑問をもたざるをえない提言も含まれている。
小・中学校では2002年度から、高校では2003年度から新しい学習指導要領が施行される。小学3年から総合的な学習の時間がカリキュラムに組み込まれることになった。この総合的な学習の時間と完全週休2日制、ゆとり教育の実施をするため、小中学校で学ぶ内容が3割削減される。ゆとり教育が今問題となっている学力低下に拍車をかけるという見解も出ており、国民的な議論となっている。
最終報告から一部抜粋して、提言の内容を私なりに検討していく。「」内の文章が国民会議最終報告である。また新学習指導要領や最終報告で指摘されていない教育問題についても考える。
最終報告を検討する理由は、これからの教育に対する指針となるからだ。この報告自体がそのまま法律化されるわけではないが、次の学習指導要領の改正や将来の教育を考えるうえで基礎となりえる結論である。
「今までの教育は要求することに主力を置いたものであった。しかしこれからは、与えられ、与えることの双方が、個人と社会の中で温かい潮流を作ることが望まれる。個人の自立と発見は、自然に自分との周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにまだ会ったことのないもっと大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ。思いやりの心を育てるためにも奉仕学習を進めることが必要である。
小・中学校では2週間、高校では1ヵ月間、共同生活などによる奉仕活動を行う。その具体的な内容や実施方法については、子供の成長段階などに応じて各学校の工夫によるものとする。
奉仕活動の指導には、社会各分野の経験者、青少年活動指導者などの参加を求める。親や教師をはじめとする大人も様々な機会に奉仕活動の参加に努める。
将来的には、満18歳後の青年が一定期間、環境の保全や農作業、高齢者介護など様々な分野において奉仕活動を行うことを検討する。学校、大学、企業、地域団体などが協力してその実現のために、速やかに社会的な仕組みをつくる」
この奉仕活動についての最終報告を見ると、中間報告では含まれていた「義務」の文字が消えている。結局のところは義務化と何ら変わらないはずである。義務化としていても、どこまで強制力があるのか疑問だった。義務教育といっても、全員が通っているわけでもないし、引っ張って無理やり通わせることもできないはずだ。やらないといってしまえば、それまでである。
中間報告を知った時は拒絶も大きなものだったが、今になってみるとある程度沈静化してきた。小・中・高でそういう経験をさせること自体は必要だと思い始めたからだ。
だが全てを納得したわけではない。一番の問題は奉仕活動の時間をまとめてとることである。18歳になって一定期間行うようになっている。2001年の2月2日に町村文部大臣(当時)が、「大学の入学時期、就職活動(や雇用時期)も秋にする。高校卒業の3月から半年間に奉仕活動を行えばいい」(2001年2月3日読売新聞)と述べている。高校卒業と大学入学との間にうまく奉仕活動を組み込んだわけだ。
半年にしても一年にしても、高校卒業時にまとめて奉仕活動を行うことには変わりはない。また、奉仕活動をやる意義の思いやりの心を育てる、個人の自立などが18才の時点でどの程度培われるのか疑問である。人格がほとんど形成されている時点でどのくらい矯正できるのか。有効的に社会性を養うためにも、まとめてやらずに小学校から平均的に行うようにすればよい。必要だと思えば行う期間を増やす。小さいころから当たり前のように経験させることによって、初めて身に付くのだ。
奉仕活動をまとめてやる意味の一つに、共同作業をさせることがあると思う。一定期間家から離れて、身の回りのことや炊事・洗濯等を自分たちでやらせながら、奉仕活動をする。この意義を満たすためには、学校の枠から外れる必要があるため、授業の合間にすることはできない。
生活に物があふれ、簡単に欲しいものが手に入る社会になった今、がまんを強いる経験をさせることは大いに賛成ではあるが、このことは本来家庭で行う教育、躾なのだ。親が幼いころから少しずつ覚えさせていかなければならない能力である。わざわざ外で、ましてや18才になってからまとめて行って身に付くものではない。
18才にまとめてやる大きな障害は、高専である。前にも述べたように5年の教育を行う高校と短大が一つになったような学校である。高専生が4年になって半年間、学校教育が中断されることは、不幸としかいいようがない。全体の1%弱の学生しかいないので議論の対象にならないかも知れないが、少なくとも高専生が教育を中断してまで自主的に奉仕活動へ参加することはないだろう。
最後に、奉仕活動の内容である。農作業や高齢者介護などの人道的活動に限定しないで、もっと広く社会活動、体験学習とするべきである。学校に通っている期間は社会との接点がなかなか得られないのが実状である。学校教育に組み込むことにより、社会性や広い視野を持つことができるはずだ。自分の知らないことには興味がわかないものなので、子供にできるだけ多くの体験をさせるべきだ。
奉仕活動の意義を尊重し、子供たちに実施するなら、次のようにするべきだ。
奉仕活動の内容は、共同生活を伴う人道的作業と、社会の仲に入り人との触れ合いをする社会活動をする。この奉仕活動は、他学年、他学校、他世代との交流の場である。
共同生活は一週間程度、小・中・高すべての学校で行う。社会体験をカリキュラムに組み込まない場合、人道的作業とともに行う。
実施する時期は各学校、地域に任せる。例として、夏休みの前後、二学期制をとっている場合、前期と後期の間、可能であれば学期内に設ける。
「高校での学力向上を目的として、学習の成果を測る学習達成度試験を実施する。この学習達成度試験は、年複数回行い、学年を問わず何度でも受験できるようにする」
学力向上の目的で試験を行う効果は薄いのではないか。学校の定期テストと同じように、結局試験前の勉強に成績が依存してしまう。試験後の学力が保持されているかわからない。ただテストを増やすだけで、学力向上とつながらないのではないか。どうせ導入するのなら高校だけに限らず、小学校や中学校でもしたらいい。子供の学力低下が叫ばれているなか、教育の最低水準を確保する目的で実施するほうが有意義である。
学力低下についていうと、二つの考え方ができるはずだ。一つは、同じ学年の生徒が年々学力低下している意味である。もう一つは、生徒が勉強した内容を忘れていくことで起こる学力低下である。今世間で使われている学力低下は前者の意味である。大学生が簡単な算数ができない、ゆとり教育の問題などだ。この二つは全く性質が異なり、当然原因や解決法は変わってくる。学力達成度試験は高校だけではなく中学校や小学校で行う。年に一回程度、今までやってきたすべての内容のテストをする。つまり中学生や高校生でも小学校の内容をテストするのだ。まだ授業でやっていない内容を含めてもおもしろい。難しければ公式や解き方を一緒に載せておけばよい。自力で問題を解く力もはかれる試験になる。この試験をすれば後者の意味の学力低下かどうかわかるはずだ。もしそうだと、基本的な知識が十分ついていなく、付け焼き刃のようなその場しのぎの学力しかつかない教育をしていることになる。定期試験では点が取れるが、しばらくすると忘れてしまう。そんな教育では意味がない。少なくとも基礎の部分は大人になっても知識として蓄積しておかなければならない。
学校教育では前学年で習った内容を勉強し直す機会はあまりない。授業の進行で精一杯なのが実状だ。この試験を再確認の使えばよい。忘れていた知識を覚え直すきっかけにするのだ。
学習達成度試験の活用として、大検と融合させてもよいだろう。高校卒業程度の学力がつけば、高校に通っていなくても高卒資格を取得できるようにする。何歳でも大学に入れるようにできるので、飛び級への応用も可能である。
「一人ひとりの資質や才能を生かすためには、これまでの一律的な教育を改める必要がある。基礎的な知識を確実に身につけさせるとともに、それぞれが持って生まれた才能を発見し伸ばし、考える力を養う学習を可能にすべきである。
小・中・高校の各段階において基礎学力の定着を図るために、少人数教育を実施する。習熟度別学習を推進し、学年の枠を超えて特定の教科を学べるシステムの導入を図る」
個性を伸ばす教育をどのようにして実践するのか曖昧である。一つの考え方として少人数教育をし、習熟度別学習の導入を提案しているのだろう。個人の理解度に合わせた教育が実現できれば授業への不満が少なくなり、学力も向上する。だが少人数教育であっても、生徒の授業の理解度というのは千差万別なので、一斉授業ではどうしても対応できない部分も出てくる。
子供の個性が教科の枠におさまっているわけではない。学校教育で扱わない個性をどう見出し、伸ばしていくのか。
個性を伸ばす教育、考える力を養う教育とは何か、よく考える必要がある。小学校では3学年から約1割の時間が総合的な学習に割かれる。考える力をつけさせるには、自発的に物事を取り組み自分で考えさせるのが一番である。個性を伸ばすにも同じことが言える。テレビやゲームに熱中するように、興味があることには子供はとりつかれたかのようにやるものである。学校は様々な知識を与え、個性を見出すきっかけ作りをする。あとは自ら行動する力に任せるのだ。
学校教育の中で、どのようにして個性を見いだし伸ばしていくのか難しい問題がある。例えば数学の得意な子がいるとして、その子に必ずしも数学の才能があるわけではない。学校で学ぶレベルの問題は、計算の方法を覚えてしまえば大半が解けてしまうので、暗記科目と大差はない。センスを問うものでなければわからない可能性が高い。
画一的な教育を改めるだけではなく、一方的な受け身教育を考え直すべきだ。基礎学力の定着には習熟度別学習のほかに、予習・復習を含めた反復学習、座学だけではなく実際に経験する。実体験により知識の意味がわかり、理解につながるのだ。そのためには自らで考える力が必要だ。それを養うためには、自ら学び考える機会を作り、先生が指導・支援するのである。
「教育という川の流れの、最初の水源の清れつな滴となり得るのは、家庭教育である。子どものしつけは親の責任と楽しみであり、小学校入学までの幼児期に、必要な生活の基礎訓練を終えて社会に出すのが家庭の任務である。家庭は厳しいしつけの場であり、同時に、会話と笑いのある「心の庭」である。あらゆる教育は「模倣」から始まる。親の言動を子どもは善悪の区別なく無意識的に模倣することを忘れてはならない。親が人生最初の教師であることを自覚すべきである。
親が信念を持って家庭ごとに、例えば「しつけ3原則」と呼べるものをつくる。親は、できるだけ子供と一緒に過ごす時間を増やす。
国及び地方公共団体は、家庭教育手帳、家庭教育ノートなどの改善と活用を図るとともに、全ての親に対する子育ての講座やカウンセリングの機会を積極的に設けるなど、家庭教育支援のための機能を充実する」
家庭での教育を重視することには賛成である。小学校に入学するまで、子供はあらゆることを家族から学びとっていく。家庭での躾や食生活が人格の形成に大きな影響を与えることを知る必要がある。幼児期の教育によって小学校だけではなく、思春期までも左右される。学級崩壊など子供が引き起こしている事件の一因は、家庭にあるといっても過言ではないのである。
親への躾教育を実施する必要があるのではないだろうか。学校・地域・家庭の三つで行っていた子供の教育形態が崩れている。親が学校だけに責任を押し付けないで、家庭でしっかりとした教育をするべきである。知らず知らずのうちに誤った躾を子供に強要している可能性もあるので、親に躾の指針を示すべきだ。
今の子供たちは自発性がない、我慢ができない子が多いようだ。このことが奉仕活動の導入につながった一因だと思うが、これは家庭教育の問題である。親の行き過ぎた干渉や保護が、今の子供を生んでいる。
子供が欲しがるからといって何でも買い与えれば、自分の思い通りになると勘違いし、我慢をしなくなる。不況といえども子供の周りに物があふれていれば、必然の流れとなっている。
子供のころから親が何でも決めてしまうと、自分で考えることをやめ親の意見を待つようになる。それが繰り返されることによって、考えて行動する力が身に付かないまま成長していってしまうのである。
これらは親がよかれと思ってやってしまっている可能性が高い。世代間の交流が薄くなっているので親に正しい子育てを第三者機関が教える時代に来ているのではないか。
「18才までに二度もある受験の弊害を減らし、中高生時代に基礎的な知識を学び、体験学習を通じて創造性、独創性、職業観をはぐくむため、中高一貫教育をよりいっそう推進する。子どもの選択肢を広げる観点からも、中高一貫教育校が全体の半分ぐらいになるよう、思い切った支援策を講ずる」
高校受験の弊害をなくすために中高一貫校を推進しているようだが、一番負担の大きい大学受験はあるし、中学受験の問題も出てくる。結局、受験の低年齢化が起き、中学受験を激化させる可能性がある。受験の負担が小学生に追い込まれ、根本的な解決になっていない。
体験学習を充実させることは別に一貫校ではなくてもできる。しっかりと学校ごとで教育を実行すればよい。
一貫校にすることで中学と高校の教育が効率化でき、大学入試に専念できるという意見もある。これはまさに大学に入れるための教育で、一貫校に理念が欠乏している典型的な例である。大学に入学させるのが目的なら話は別だが、学校側が入試に踊らされことなく信念を持って教育するべきである。
一貫校は6年間という障害がないので、勉強を怠る「ぬるま湯」状態になる可能性がある。学校側がただ厳しい対処をとるのではなく、生徒の学習意欲を高める努力が必要だ。中学校が終わる時点で、高校への受験やほかの一貫校への編入も考えるべきだ。一般の中学や一貫校からの編入も受け入れるなど、柔軟な姿勢をとらなくてはならない。
中高一貫校よりも高専の数をもっと増やすべきではないか。高専は工学系がほとんどであるが、文系である経営学科もできているので、多様な専門を行う場にしてもよい。法律学科や経済学科、医学科などもあってもよい。中学ではっきりと進路が決まっていれば早いうちから専門教育を受けることができるし、卒業後大学への編入の選択肢もある。自分の道と違うとわかればほかの専攻の大学にも編入できるので、リスクが少ないと言える。
現在、高専は約50校、中学生の1%弱が入学している。教育の規模としてはかなり小さく、世間に浸透していない。子どもの選択肢を広げる目的なら早くからの専門教育が見込める高専をせめて今の倍、多くて全体の一割ぐらいまでに拡大してもよいのではないか。
中高一貫校よりも、小中一貫校、高大一貫校を増やすべきだ。これは校舎を統合するだけではなく、教育自体も連続したものにするのだ。新学習指導要領では小学校と中学校のカリキュラムの不整合が問題になっている。例を挙げると、小学校では扱わない3桁同士のかけ算の筆算が中学校ではできることを前提としている点だ。滑らかに教育を行うためにも内容の跳躍をなくし、二度でまになる内容をなくす必要がある。
高大一貫校は高専の内容と同様の理由だ。必ずしも一つに統合するわけではなく、高校で大学の講義と一緒の内容をやっていれば、それを単位として認める。高校のうちから大学の基礎の授業を行うといった連携である。何年と区切らず、柔軟な教育を導入してもよいのではないか。
「小学生は生き生きとしているにもかかわらず、中学校、高校、大学と進むにつれて日本の子どもはくすんでいるという指摘がある。その背景には、中学時代から大学受験を意識しすぎて、少数の受験科目、しかも記憶力中心の勉強しかしないこともあろう。大学入試は、記憶力のみを測る一面的なものであってはならない。
大学入試試験は、問題を発見する力、問題の解決方法を見いだす力、あるいは推理力や論理的に考える力など多様な資質を適切に評価するものでなければならない。このような観点から、各大学がその理念、目標に基づき、高校での学習達成度試験、面接、小論文、推薦、あるいはこれらを総合的に行うアドミッション・オフィス入試などを採用し、大学入試を多様化する。
国際化を推進し、高校卒業後の学生に社会体験などの時間を与える観点から、大学の9月入学を多くの大学が実施するよう積極的に推進する。
大学入学時の入学定員の規制を弾力化し、合格ラインに隣接する一定の割合の受験生を暫定的に入学させ、1年間の勉学の成果によって改めて合否を判定し、定員数まで学生数を減らす方法をとるなど、学生に挑戦の機会を与える暫定入学制度を大学の選択で実施できるようにする」
確かに子供たちにとって大学受験は大きな関門となっている。しかし記憶力中心の勉強は受験勉強に限ったことではなく、高校受験や定期テストでも見られる現象である。大学受験を多様化することで解決できる話ではなく、目的もなくただ大学受験へ取り組む子供たちが存在している実状を考えなければならない。自分の将来像を考える時間を与え、学校や親がその支援をできる環境にするべきである。
大学入試だけを多様化するのではなく、大学自体にもっと特色を持たせるべきではないか。入試科目の数や大学名で決めるのではなく、大学の教育方針や学習環境で選ぶべきだ。大学側も特色にあった学生を選抜するために、試験科目を考えるべきである。
大学生の学力低下が問題になっていることから、国立大学の8割が2004年度から5教科7科目の入試を行う。最終報告の提言と相反する動きである。この科目増に対応できない高校も出てくるという意見もある。
大学生の学力問題は入試だけでは片付かないのではないか。前にも述べたように基礎学力がテストのときだけの知識になりすぐに忘れてしまう。この作業を繰り返しているだけなので、ただ試験を増やすのは無意味だ。小学校や中学校の教育のありかたに問題がある。
国際化や奉仕活動を組み込むための9月入学制度はどうかと思う。メリットが全く見えてこない。9月入学を導入するのであれば、4月入学と併用し年1回の入試を2回にすればよい。浪人しても最短で半年で大学に入学できるようになる。定員数をどうするかという問題も出てくるが、子供たちの入試に対する負担が本当の意味で軽くなるのではないか。
暫定入学制度をやるのならば、定員をなくし全入制にするとか、ほかの大学と共同して教育を行うといったことも導入できると思う。一つの大学にこだわらず、科目ごとに大学単位で選べると多くの講義から自分に適したものを選択できると学生のためにもなる。
「我が国には、政治、経済、環境、科学技術、その他新しい分野で世界をリードし、社会の発展に寄与していく高い志と識見を持ったリーダーが必要である。また、博士号や修士号などを有する専門家が活躍する諸外国と伍していくためには、今以上に高い専門性と強要を持った人間の育成が求められている。そのため、大学・大学院の構成と役割を改革すべきである。
学部では教養教育(リベラルアーツ教育)と専門基礎を中心に教育を行うこととする。大学院へは優秀な学生が学部の3年終了から進学することを大幅に促進し、このようなことがごく普通に見られるようにする。なお、学部で卒業するものは4年でさらに専門的な学習をし、社会に出てすぐに活躍できるよう、産業界などとの連携交流を図るインターンシップ(企業や行政機関、教育機関、NPOなどにおける就業体験)などを積極的に実施する。
大学院には、社会で必要と出れている実践的な専門能力を身につけるためのプロフェッショナル・スクール(高度専門職業人養成型大学院)と、研究者養成のための大学院(研究者養成大学院)とを多様な形態で設けることとする。
大学院入学者選抜に当たっては、他大学出身者、社会人なども公平に受け入れられるよう完全に開かれたものにする。
また特に優れたものであれば、修士号は最短で1年、博士号は最短で3年で取得させる。
社会人が大学・大学院に入学して学ぶ機会を拡大する。
大学へ入学にしたにもかかわらず学習に取り組む姿勢がない者が見られる。大学も勉強をしていない学生を安易に卒業させているという批判が以前からなされているが、改善されていない。学生にしっかりと勉強させるような取り組みが必要である。
学生が自らの位置付けを理解し、他者への思いやり、異質なものと自分自身の理解を深めるための教養教育を充実する。社会奉仕活動への積極的な参加を促すような学習システムを導入する。また自ら調べ考えるよう、きめ細やかな授業を行うために少人数教育を推進する。大学院生等を学部学生の学習指導などの教育補助業務に従事させるTA(ティ−チング・アシスタント)制度をさらに充実させる。あわせて大学教員の教育力の向上を図る。
また、そうした密度の濃い授業を推進するために、インターネットなどITの活用も図る。
幅広い知識と理解力を身につけるために、また国際化の観点から語学教育の充実にも活用できるよう、分野の異なる複数の専攻科目(主専攻、副専攻)を選択するダブルメジャー制度を導入する。
学生の学習意欲を歓喜し、自ら考える力を育てる観点から、成績評価の厳格化を図るための成績評価制度の導入や、水準に達しない学生の落第、退学など、それぞれの大学にふさわしい学習を促す取り組みを進める」
大学教育で一番問題となっているのが、学生の質の低下だ。基礎学力が身に付いていないまま大学に入学したり、講義をおろそかにして学生生活を送ったりしている学生が存在していることは確かである。
学力低下の影響で講義に支障が出ている大学も多い。そのために大学側が補習授業を用意するところもでている。
大学は一定の水準の教育を維持すべきである。学生が講義についてこれないからといって安易に単位を出したり、時間を割いて補習をする必要はない。講義についていけないのなら、学生が自分で勉強をすればいいのである。いちいち大学側が指導しなくてよい。
今後の大学のあり方として、教育の多様化や大衆化をするべきではないか。大人になってから学びたくなったときに気軽に通える大学にし、生涯教育の場としての役割にする。若い人たちに高等教育を実施し社会へと旅立たせる大学の本来の役割と、大衆教育をする場を両立させるのだ。これからは少子化の影響で学生数も減ってくる。学校としてやっていくためにも必要ではないか。
大学の教育は多人数講義が主流であるが、理解度向上や考える力を養うためには義務教育同様に少人数講義が有効である。大学で高水準の教育を行うためには、研究室の拡大をするべきではないか。
大学院を重視する目的で院生の増大がされている。そのために研究室配属の学生が増え、研究室でまともな教育ができないところもでている。研究室単位で行われるゼミ(セミナーとも)形式の講義は、自ら考える教育に最適だし、研究に直結しているため勉強した内容を実感しやすい。効率のよい教育を実施するため研究室を拡大し、学部生も早くからゼミ形式の講義を受けさせる。学生自らが学んでいくのが大学教育の本質ではないか。
2002年度から実施される学習指導要領の改訂で、小中学校で3割の授業内容が削減される。ゆとり教育で、問題となっている学力低下がいっそう深刻になるのではという意見もでている。
新学習指導要領に基づいて行われた教科書検定の結果が2001年4月3日に公表された。学習内容が厳選され、新要領を逸脱する部分は徹底的に削除されている。特に理数系においては厳しい対応が取られている。
文部科学省がこの新しい指導要領は学習する最低限度の内容で、可能なら先に進んでもよいと言っている。3割削減したものを一生やらないのではなく、高校までかけてゆっくりと勉強するという。そう考えてみると高校の進学率が97%の今日、知識を一方的に詰め込むのではなく理解に重点を置いている教育を目指しているため、必ずしも学力低下にはつながらず、むしろ向上する可能性を持っている。
検定結果を見てみると教科書には3割削除された7割分しか載っていなく、神経質なほどに新要領が徹底されている。その先を勉強しようとすれば別にプリントや教材で補わなければならない。週休2日制や総合的な学習の時間の影響で、通常の授業の枠が減ったために学習内容が削減されたのはしょうがない対応ではあるが、今回の教科書検定はあまりにも行き過ぎである。教科書は教育内容の最低限度を載せるだけではなく、応用分野も含めた内容にするべきである。
内容自体を削減せずに、教科書内で最低基準の一律に学習する部分と、理解度に合わせて進める応用分野を両立させて掲載する。そのうえで教師に主導権を発揮してもらえばよい。生徒が自分で勉強を進めるのにも役立つ。教師が生徒のことを考えた自由な教育ができるにこしたことはないが、総合的な学習の時間への対応も考えなければならないので、もう少し配慮があってもよかったのではないか。
今回の教科書では不十分だと考えられるので、応用分野を盛り込んだ参考書を作成するべきである。総合的な学習や自習の資料の一つとして考えることもできる。
一斉授業のまま3割削減した教育を行うと、今まで理解できなかった生徒にとてはプラスとなるが、理解できていた生徒ましてや授業のスピードが遅いと感じていた生徒にとってはマイナスとなってしまう。いくら教科書が最低基準といっても、生徒の理解が進まなければ意味がなくなってしまう。授業に対する不満を解消するためには、習熟度別学習、少人数授業を一緒に導入すべきであった。
週休2日制と総合的な学習の時間の導入で、削減される授業時間は全体の2割程度である。前回の8割の授業時間で7割の教育を行うと、単純計算で12.5%しか減速しておらず、これだけの時間で基礎基本の徹底ができるか疑問だ。
新学習指導要領では小学校3年から、総合的な学習の時間が導入される。子供たちが問題意識を持ち、主体的に判断し、問題の解決する能力を育てる教育である。これまでの画一的な教育の弊害を踏まえ、生きる力を育てる教育を実現させるためだ。この総合的な学習の時間では、教科の枠にとらわれない教育ができるのも特徴である。
教育ジャーナルが実施した全国400校の新要領を1年後に控えた校長・教頭へのアンケート結果から、総合的な学習についてみてみる。(教育ジャーナル2001 4月号)
総合的な学習のテーマは決定したかという問いには、小学校では75%、中学校では61%が「はい」と答えている。総合的な学習の授業数は決まりましたかという問いには、小学校では一定の期間24%、弾力的59%、中学校では34%、30%。総合的な学習についての校内研究授業は実施したかという問いに、小学校が78%、中学校が31%が実施したと答えている。
現段階で総合的な学習を成功させる自信があるかという問いに対して、小学校では58%、中学校では46%が「はい」と答えている。小学校のほうが対応が進んでいるようである。
新しく加わる総合的な学習の時間についての教師側の対応は、新たな教育方針に対して消極的だと言える。テーマが決まっていない理由として学校側の回答は、小学校では上位から、テーマが多すぎて決まらない、教員のコンセンサスがない、新しい教科に対する不安・不満、教員にやる気が見られない、学校間格差が気になるという順序である。中学校では不安・不満が一位で、新しい教科に意義を見いだせないという意見もでている。
中学校では高校入試と直面しているため、試験勉強を重視したい気持ちが強いのだろう。生きる力を育てるという雲をつかむ教育より、目の前にある入試のほうを優先する気持ちもわからなくもない。
総合的な学習の意義が教師側に伝わっていないようである。このままの状態で総合的な学習を実行しても、十分な成果が上がるわけがない。教師がしっかりとした信念をもって教育に当たらなければ、生徒側が困ってしまうはずである。
新要領の導入まもない9月〜10月に行われたアンケート結果を見てみる。(教育ジャーナル2002 1月号)
総合的な学習の主題は決まりましたかという問いに、小学校では92%、中学校で53%が「決まった」と答えている。移行期間の授業で「自ら考え、自ら考えを述べる」子が増えましたかという問いに、小学校で多くなった30%、少し増えた59%、中学校で少し増えた59%と答えた。
その他の質問に対しても小学校よりも中学校のほうが対応が遅い結果だった。総合的な学習が子供たちに考える力をつけるのに有効な授業だということがわかる。
これまでの画一的な教育では一方的な知識を押しつけるものであった。子供はただ覚えるのみで、自分で考える機会が与えられなかったのだ。そのため退屈だと感じた子供たちは勉強が嫌になり、教えなければ学習しない子供を量産してしまった。
総合的な学習とは、生徒主導の教育方法だと言える。子供が自ら問題を探し、考える。受け身の授業では感じられなかった勉強の重要性やおもしろさを、生徒が実感できる教育が実現する。自分一人で勉強できる能力が身に付くと、きっかけさえあれば学習へとつながる流れが自然にできあがる。
従来の教育では得られなかった自立した教育を実現する意義を、教師は肝に銘じるべきである。知識を覚えさせるだけではなく、考えて答えを出す教育に変換すべきだ。
大学生の学力低下が問題となっている。分数ができない、少数ができない、といったレベルの算数ができない、中学レベルの数学ができないのである。試験科目に数学があった文系の大学生にもその結果は表れていて、ついには理系の大学生までも基礎であるはずの数学が身に付いていない学生がいるのだ。
この問題は大学生だけではなく、高校生や中学生からの積重ねである。国立教育研究所や河合塾の調査では、年々数学のテストの平均点が減少している状態にあるという。ゆとり教育の影響が大きいという考えが、国民を含めて広がっている。
中学レベルの数学が身に付いていなく、学力が年々低下していることは否定できない状態である。この学力低下がゆとり教育によってもたらされたものであるかは、疑問をもたざるをえない。
少なくとも大学生の学力低下は、ゆとり教育とは無関係であろう。中学校のときのテストではできたのにもかかわらず大学に入ってできないということは、授業でやった内容がしっかりと理解できていなく、その場しのぎの学力しか身に付いていないことになる。
年々学力が低下している点については、学校教育ではなく、生徒側の問題であろう。勉強自体に価値を見いだせなくなってきているのではないか。
一方的な授業を受けて、定期テストや入試のために勉強する。目的意識を持たずに、大学に入学してくる生徒が多くなってきている。テストごとにしか勉強せず、継続的な学力が身に付く学習がなされていないことが一番の問題である。
何のために勉強するのか、しっかりと教育しなければならない。テストや大学入試をいうのは、通過点であって目的ではない。本来、テストの点数はあくまでその時一瞬の学力であって、それがいつまでも維持されるものではない。よい点数を取ることが目標になって、その後の学力の定着に目を向けていないのではないか。
テストではかられる知識の量だけではなく、考える力や想像力も学力である。知識偏重の教育から脱却すべきである。
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