ギフト 西のはての年代記Ⅰ Gifts (Ursula K. Le Guin)
2004年 出版
<内容>
“西のはて”の高地は、代々ギフトと呼ばれる特別な力を受け継ぐ領主たちが治めていた。カスプロ家には“もどし”と呼ばれる強力がギフトが備わっていた。その力を受け継ぐ後継ぎの少年オレック。しかし、彼はとある理由により、父親から目を封印されていたのだった。オレックが目を封印することとなった運命とは・・・・・・
<感想>
著者のル=グウィンといえば、「ゲド戦記」が有名であろう(といいつつも、私自身最初の2巻くらいしか読んでいないのだが)。その著者が書いた、新たな3部作が河出文庫から刊行されたので、購入し読んでみた。ちなみに、この三部作は既に河出文庫から全て刊行されている。
物語は、狭い地域での小さな村々で起こる争いを描いたものである。ただし、それは普通の争いではなく、“ギフト”と呼ばれる魔法のような不思議な力が中心に置かれたものとなっている。そのギフトの力関係により、微妙な均衡状態が保たれている中、ひとりの少年が成長する様子が描かれている。
なんとなくその“ギフト”というものがまるで核による抑止力のようなものを表しているようでもある。そこまで物騒でも、また強力でもないのだが、その大きな力に主人公の少年は人生を翻弄されることとなる。自分に本当にその力が宿っているのか、そして自分は人に対してその力を振るえるのか。少年はギフトの存在に悩むのだが、そんな悩みをよそに、現実には大人たちによる主権争いが繰り広げられ、彼の両親もその渦中に放り込まれることとなる。
“動”よりも“静”が多いというか、具体的に動くよりも悩み事のほうが多く描かれていたように思える。決して、“動”の部分がないというわけでもなく、ギフトの存在も抽象的ではないにもかかわらず、煮え切らなさを強く感じてしまう。しかし、あえてアクションを強調せずに少年の内面を描いたことにより、高いレベルのファンタジー作品として成功していると言えるのかもしれない。
ラストでの主人公の選択が印象的で、続編の展開が気になるところ。次の作品を読むのが楽しみである。
ヴォイス 西のはての年代記Ⅱ Voices (Ursula K. Le Guin)
2006年 出版
<内容>
古くから交易地として栄え、文化の中心でもあったアンサル市。しかし、何年も前に東の砂漠から来たオルド人に侵略され、アンサルの人々は圧政を強いられ続けていた。そんな国で生まれたメマー。彼女はアンサルの名家ガルヴァ一族の血を引きながら、オルド人の血もひいていた。メマーは道の長から、本を読むという教育を受けつつ、オルド人を深く憎み、この地から彼らを追い出すことを心に誓っていた。そんな彼女が17歳となったとき、アンサルに語り人がやってきたと噂になる。メマーは語り人であるオレックとその妻で動物使いのグライと出会うこととなり・・・・・・
<感想>
“西のはて年代記”の2作目となる作品であるのだが、ずいぶんと内容が濃い。単なるファンタジーとしてではなく、政治、文化、精神の解放という事柄が描かれており、実に内容の濃い小説となっている。まさに大人が読むに値するファンタジー小説。
前作「ギフト」では、魔法的なものが中心として描かれているが、本書では普通の人々の精神的な面が物語の中心を占めている。圧政を強いられてきた都市で育った女の子の視点と成長を背景に、一つの国の行く末が描かれている。戦闘とか直接的な力が加わる場面も描かれてはいるものの、そこは決して物語の核ではないのである。また、圧政から解放へと向かう様子が描かれていても、勧善懲悪でもなければ全てがめでたしというようにも書かれていない。そういった微妙な部分を残して極めて現実的な国の行く末を実に見事に描ききっている。
ひとつの国の行く末を描いた小説とも言えるのだが、それをあえて一人の少女にスポットを当てて描いたことにより、物語の完成度が増したという感じである。魔法的なものも登場はするのだが、それらが決して超自然なものではなく、ごく普通の精神的な儀式として受け入れられてしまうのもまた不思議な感じがした。今まで読んできた数々のファンタジーとは異なる余韻を残す作品であった。
パワー 西のはての年代記Ⅲ Powers (Ursula K. Le Guin)
2007年 出版
<内容>
都市国家エトラ、そのアルタの館で奴隷として暮らす少年ガヴィア。彼は姉と共に物心がつくまえに水郷地方からさらわれて、奴隷として過ごすこととなった。奴隷ではありながらも、裕福な館と良心的な主人のおかけで教育を受けながら、心身共に豊かに生活をすることができた。そしてガヴィアは、だんだんと水郷に生まれた者がもつ能力に目覚め始める。読んだ本の内容を完全に覚えてしまったり、未来の風景を目にすることができたり。ただ、その能力については姉から周囲には打ち明けるなと固く言い聞かせられていた。そうした日々を送る中、都市国家エトラは周囲の国と戦争が続き、ガヴィアが今までに豊かに思えた暮らしに対し、亀裂がはいる事件が起こる。自分はここにいるべきではないと思い至ったガヴィアはエトラを出ることを決意するのであったが・・・・・・
<感想>
ひとりの少年の長い旅を描いた物語。奴隷としての人生を送りながらも、裕福な雇い主に高度な教育を受けさせてもらうことができ、満たされた人生を送っていると感じていたガヴィア少年。奴隷仲間からいじめを受けたり、雇い主のひとりから邪険に扱われることがあっても、基本的な彼の暮らしぶりは変わらないと思われた。しかし、ひとつの大きな事件により少年は自身の奴隷という立場を改めて考えざるを得なくなる。
本書は多岐にわたる主題を持ち掛ける内容の作品。奴隷と自由について、教育を受けるという事柄について、物事を伝えるという事について、本というものの役割についてなど、色々なことを考えさせられてしまう。さらには、自分がいるべき場所、そのカテゴリーやアイデンティティなどといったものまでも、投げかけられているようで、内容が深い。
この作品が“西の果て年代記”の三作目となり、完結編であるのだが、今までの作品と比べれば“魔法”的な要素は少なかったかなと思う。故にファンタジーとしての背景に基づいてはいるものの、ごく普通といってよさそうな少年が旅をして、見聞を広げ、本当の自分のいるべき場所を見出していくという文学的な内容のようにもとらえられる。ただし、根底にあるものは難しくても、基本的には読みやすい物語に仕上がっていることには間違いないので、十分にファンタジー小説として読むことができる。
最後の最後でガヴィア少年が今までビジョンとして見てきた、自分がいるべき場所に到達したときには、さすがに目頭が熱くなった。最後まで読み通せば、本当に長い旅をしてきたんだなと読んでいるほうが痛感させられる。本当は、ガヴィア少年のこの先のほうが気になるのだが、物語がここで終わるという事は、その後は平凡に幸せにくらしたということなのであろう。そう自身を納得させつつ、物語の余韻にひたりたい。
楽園の泉 The Fountains of Paradise (Arthur C. Clarke)
1979年 出版
<内容>
モーガン博士は歴史に残る有名な橋を建造した人物。そのモーガン博士が新たなる建造物を考案した。それは、赤道上の静止衛星と地上とをつなぐ“宇宙エレベーター”であった。論理的には可能でも、実際にそれを建てるとなると数々の問題が浮き彫りとなる。さまざまな困難を乗り越えて、“宇宙エレベーター”は現実に宇宙へと到達する事ができるのか!?
<感想>
小川一水氏の作品で「第六大陸」という月に建造物を建てるという作品があったが、本書はその先駆けとなる作品といえよう。SFにこのようなジャンルを表す言葉があるのかどうかはわからないのだが、いわゆる“建造物もの”とでもいったところか。
このクラーク氏といえば、科学的な分野において、実際に静止衛星の論理をいち早く述べた人でもある。故に、その静止衛星を使用して“宇宙エレベーター”を創るという発想もそのクラーク氏であれば自然のものといえるのかもしれない。
本書では前述のとおり、“宇宙エレベーター”というものが考案されている。ロケットを使用して、毎回宇宙へと飛び立つにはさまざまな問題が生じる事から、あらかじめ宇宙までの道筋を創ってしまえばよい、ということで考案されたエレベーター。そのポイントとなるのは、未だ現実には存在していない“超繊維”。
ただ、どうにも私自身が頭が固いせいか理解できないのは、そのエレベーターの建てかた。私自身が高い塔のようなものを建てると考えると、どうしてもまず、どでかい土台があって、そこから積み重ねていくという発想しか浮かばない。それがこの作品では、静止衛星から超繊維のワイヤーをぶら下げて可能にするというものとなっているのだが、どうもそこのところがうまく想像できないのである。そんなわけで、詳しいことはあまりうまく私の口からは説明できないで、詳細に興味がある方はぜひとも本書を読んでいただきたい。
この作品では理論的な部分については問題ないとして、そのエレベータを建てる上でのさまざまな問題点が投げかけられている。ひとつは、そのエレベーターを建設する場所について。そしてもうひとつは、実際にエレベーターを建てる上での技術的なトラブルについて。
こういったものを乗り越えて“宇宙エレベーター”が完成していく様子が描かれていく作品となっている。そのところどころで細かい問題点を挙げていくところがさすがと感心させられる。たぶん、この作品こそがSFにおける“建造物もの”の金字塔的作品といっても過言ではないのであろう。
幼年期の終わり Childhood's End (Arthur C. Clarke)
1953年 出版
<内容>
地球の上空に突如として現れた巨大な宇宙船団。彼らは自らをオーヴァーロードと名乗り、控えめながらも地球の統治に干渉してくる。彼らは地球の代表者であるストルムグレンのみと会談し、しかもそのストルムグレンにさえ姿を見せようとしない。地球の人々はオーヴァーロードに不信感を抱きつつも、絶対的な科学力を持つ彼らの前に対して、その状況を淡々と受け入れてゆくこととなる。やがて地球には平和が訪れることとなるのだが、オーヴァーロードの目的が徐々に明らかになり始め・・・・・・
<感想>
いくつかの出版社から出ているクラークにとっての代表作といってよい1冊であるが、光文社古典新訳文庫から出てたのを機会に、読んでみる事にした。名作といわれつつも私にとってはこれが初読である。
のっけから、まさにSFらしい作品という展開が待ち受けている。人類よりも数段上と見られる文明を持った宇宙人により、やんわりと支配される地球を描いた作品。物語上の大きな流れとしては、異星人の目的は? ということになるのであろうが、注目したくなるのは別のこと。
この作品を読んでいて感じたのは、今後地球全体の状況が良好な方向へと向かうには、このような手段しかありえないのではないかということ。本書では、異性人による侵略ではなく、ゆるやかに管理されるという状況で描かれている。その結果、人類は国同士で争うこともできなくなり、また争うことさえ無意味となり、やがて地球全体で一つの方向へと足並みをそろえてゆくこととなる。こういった劇的な変化がない限りは、実際に全ての人類が足並みをそろえるということはありえないことであろう。そう考えると、本書では地球が良い方向へと向かうための希望が描かれているとも捉える事ができるのである。
もちろん物語上では、うまい具合にいきましたということで終わるだけではなく、その後、想像を超えるような展開が待ち受けることとなる。第1部から第3部まで徐々にページをめくっていくと、人類の視点であった物語がやがてもっと大きな位置から見下ろすような形となり、宇宙全体を見渡すような視点へと変化してゆく。そして最後まで読んだときには地球を支配していたオーヴァーロードと呼ばれる異星人たちのジレンマ(彼らがそう感じているかどうかはわからないが)さえも感じられてしまうのである。
あくまでもSF作品的な展開でしかないとは言いつつも、ここには現在の地球がかかえる問題や先行きについてをやんわりと文章の中に埋め込んでいるようにも感じられてしまうのである。その内容は50年以上経った今でも決して色あせていないどころか、徐々に現実がクラークの作品に近づいてきているといってもよいのであろう。
エンジン・サマー Engine Summer (Jhon Crowley)
1979年 出版
<内容>
はるかな未来、すっかり様相が変わってしまった世界の中で生きる人々。とある部族の少年<しゃべる灯心草>は、村で過ごしていたときから、今に至るまでの出来事を話し始める。ひとりの少女と出会い、その少女を追って村を出て、聖人になろうとしたことで出会ったさまざまな人との触れ合いが語られてゆき・・・・・・
<感想>
物語として楽しむというよりは、芸術的に描かれた描写を堪能すべき作品。かつて映画でストーリーよりも、芸術的な風景に力を込めているものがあったが、本書はそれの小説版というように思える。
話は遥か未来を舞台に描かれている。科学が衰退し、一部で高度な技術は残っているものの、基本的には大概の人々が原始的な生活を送っている。想像するに、かなり過酷で厳しい生活が強いられているように思えるのだが、話の中では一切そのような現実的な厳しさを感じさせない描写で送られている。それは一人の少年の目を通すことにより、物語が終始進められているからではないかと思われる。その語り部となる少年の目を通すことによって、過酷な世界が光り輝くように貴重でやさしく表現されている。
最後の最後でとある仕掛けと現実が待ち受けているわけであるが、その効果としてはどうなのであろうか。個人的にはある人物にとっては厳しすぎる終わり方をしているようにも思える。また、読んでいる側としては、主人公がその後どうなったのかも気になるところである。このように読了後色々と思わせるところも、この作品の特徴を示すところであるのかもしれない。あくまでも、“少年ひとりの物語”ではなく、一少年を通して“世界を描く”物語ということなのであろうか。
古代の遺物 Antiquities (John Crowley)
2014年04月 国書刊行会 <未来の文学>(日本オリジナル短編集)
<内容>
「古代の遺物」
「彼女が死者に贈るもの」
「訪ねてきた理由」
「みどりの子」
「雪」
「メソロンギ1824年」
「異族婚」
「道に迷って、棄てられて」
「消えた」
「一人の母が座って歌う」
「客体と主体の戦争」
「シェイクスピアのヒロインたちの少女時代」
<感想>
国書刊行会による<未来の文学>シリーズの第15回配本。ジョン・クロウリーという作家については、「エンジン・サマー」という作品が有名。ただその他についてはあまり知られていないよう。また、勝手に過去の作家かと思いきや、今も現役のようである。とはいえ、元々多作な作家ではない上に、すでに70歳を超えているので、近年は本が書かれていないようである。ここでの短編作品は1970年代から2000年代までと、幅広くクロウリーの色々な作品を取り上げた日本オリジナル短編集となっている。
最初の「古代の遺物」については、過去に起きた古い話を取り上げ、その真相について言及するというもの。考古学系の内容ともいえるが、なかなか面白く話が語られている。
次の「彼女が死者に贈るもの」は、著者は意識したわけではないのかもしれないが、ホラー系、トワイライトゾーン系の作品のように感じられた。甥と叔母のぎこちない会話の中でのドライブが急展開により収束を遂げることとなる。
本書がこの2編のような作品ばかりであれば楽しめたのだが、その他の作品は文学よりのものも多く、エンタテイメントとはかけ離れていたかなと(元々<未来の文学>として取り上げられているから致し方がない)。
他には「雪」という作品が興味深かった。データについて描いているのだが、書かれている年代によるものか、データの劣化がデジタル的でははくアナログ的に描かれているのが面白かった。古い考えなのであろうが、むしろ斬新と感じられた。