ダイナミックフィギュア
2011年02月 早川書房 ハヤカワSFシリーズ Jコレクション(上下)
<内容>
太陽系から異星人が飛来してきて、地球上空に軌道リングを建設した。そして宇宙にて異星人同士の対立が起き、軌道リングの一部が地球上に落ちてくる。そのリングは地球上の生物にとって、精神的苦痛を与え、リングが落ちた一帯からは人はおろか全ての生物が逃げ出し、空白地帯ができることに。そのひとつに日本の四国が相当し、そこから謎の生物キッカイが発生した。そのキッカイを殲滅しようと、二足歩行型特別攻撃機・ダイナミックフィギュアが開発される。そしていよいよ、ダイナミックフィギュアが戦線に送られることとなったのだが・・・・・・
<感想>
ハヤカワSFシリーズ Jコレクションの作品は、全部とまではいかないが、それなりに新刊を読み続けているのだが、久々に読みがいのある作品であったなと。私的にはJコレクションの中ではここ数年で1番良いと思われる作品。
上下巻それぞれが400ページで2段組みと、かなり長大な作品。にもかかわらず、長過ぎというよりも、もっと長い作品として描いた方が良かったのではないかと思えるほどの内容の濃さ。決して読みやすい作品とは言えず、読み終えるまでにそれなりに時間がかかったのだが、それでもまだまだ読みたいと感じさせらた。
内容は地球外生命体の飛来から、それらが地球に与えた影響、海外とのパワーバランスと複雑な政治背景、その地球外生命体によりさまざまな影響が出た人類の状況と形態、それに対抗しようとする人々、そしてそれらを殲滅せんと開発された二足歩行ロボット・ダイナミックフィギュア。と、こんな具合に、とにかく事細かな設定が数多く盛り込まれている。この三島浩司という作家が今後SF作品を書く上で、新たな設定は残されていないのではないかと思われるくらい、この作品に投入されている。
そして本書の一番の特徴たるところは群像小説となっているところ。タイトルからすると単にロボットものという感触を受けるかもしれないが、実はこの作品、とにかく濃い人間模様が描かれているのである。群像小説と呼びたくなるくらい、多くの人々が登場し、そのひとりひとりが強烈な個性を発し、そのうえで大きな物語を創り上げているのである。これはもう圧巻という他、何もない。普通であれば、これだけ登場人物が多ければうんざりするところであるが、むしろもっと登場人物のひとりひとりについて知りたいと思ってしまうほどである。
濃すぎる内容、複雑な設定と政治背景、精神的に複雑な人間模様、あふれんばかりの要素にうずもれてしまいそうになり、決して読みやすくはない作品。しかし、読み続けているといつしか中毒になり、この物語が終わってほしくないと思えるほどであった。また、これだけ長大な小説に関わらず、最後はやや尻切れトンボ気味ではなかったかとさえ感じられてしまうのである。この著者には、これに負けず劣らないもっと凄い物語を作ってもらうか、もしくはダイナミックフィギュア改稿版なんていうのをいつか作ってもらえたらと思わずにはいられなくなってしまう。
高天原探題
2013年08月 早川書房 ハヤカワ文庫JA
<内容>
突然、少女が謎の土塊により生き埋めとなり、その少女を少年が助け出すという事件が起きた。それを発端に、京都周辺にて同様の事件が起き始める。謎の識別不能体“シノバズ”。それは、人々を無気力に陥れることから、“動機を殺す”という表現が用いられることに。そのシノバズを討伐する組織“高天原探題”に入ることとなった寺沢俊樹。彼は、発端となった事件で少女を救い出した人物であった。寺沢は、あのときの少女に再会しようと望むのであったが・・・・・・
<感想>
三島氏の本を読むのは「ダイナミックフィギュア」に続いて2作目。この作品をパッと見た時は「ダイナミックフィギュア」を書く前の前段のような物語なのかなと思ったのだが、なんと書下ろしということで、後から書かれた作品であった。
読んでいて感じたのは「ダイナミックフィギュア」は長大な作品であったが、そこから部分的に切り落として、ひとつの作品を描いたというものがこの「高天原探題」かと。とはいえ、設定に関しては全く異なるものである。
この作品では謎の“シノバズ”という不明体に対して、隊員たちが鉄棒を用いて対するという肉弾戦。この“シノバズ”という不明体とその発生から現代までにおいて細かな設定がなされている。ただ、本書の特徴は、それらの設定というか謎に対してどう対処するというものではない。それよりも、二人の男女の再開と、未来についてのみ描いていると言ってもよいほどである。
本来であれば、この“シノバズ”というものが何故発生したかとか、これをどう収束させていくのかというところに焦点を置くべきであろう。ただ、そこを突き詰めるとまた長大な作品となるがゆえに、あえてそぎ落とし、読みやすい長さにしたという事なのだろう。未消化部分が気になるところもあるのだが、これはこれでうまくまとめたなと思えないこともない。
多聞寺討伐
2009年04月 扶桑社 扶桑社文庫(日本SF)
<内容>
「追う 徳二郎捕物控」
「弘安四年」
「雑司ヶ谷めくらまし」
「餌鳥夜草子」
「多聞寺討伐」
「紺屋町御用聞異聞」
「大江戸打首異聞」
「三浦縦横斎異聞」
「瑞聖寺異聞」
「天の空舟忌記」
「歌麿さま参る 笙子夜噺」
<感想>
光瀬龍氏による時代SFが収められた作品集。ここに集められたのは、主に1960年代から70年代にかけて描かれた作品のようである。
これら作品群についてだが、率直に言えばそのどれもが“唐突”という印象。背景はどれも時代劇といってよいようなものばかりなのだが、そこで起きる怪異の全てにSFを用いているのである。つまり、通常であれば時代小説における怪談話のネタに宇宙人や未来人を持ってきているという内容。
ただ、そうしたSF的怪異についてどれも説明不足であり、単に宇宙人や未来人が騒動を起こしましたで終わっているのである。このへんは短編であるゆえにしょうがないことなのかもしれないが、読んでいる方としてはあっけにとられてお終いとなってしまう。特に、この著者が歴史的造形にもこだわりがあるようで、各時代考証についてきちんと調べ、細かく描いているのである。それゆえ、そういった細部にページ数がとられているので、SF的な部分がちょこっとという印象しか残らないこととなる。
日本のSF史として歴史的な意味合いは強い作品なのかもしれないが、正直ひとつの作品集としてはあまり楽しむことができなかった。
百億の昼と千億の夜
1973年04月 早川書房 ハヤカワ文庫JA
2010年04月 早川書房 ハヤカワ文庫JA(新装版)
<内容>
この世の謎を探るべく西へと旅立ったプラトンは、神秘ともいえる技術を目の当たりとする。国を出奔し旅立った悉達多(しつだるた)は空間のひずみを抜け、未来の世界へと旅立つ。ナザレのイエスは、人々に最後の審判を語り、死せる瞬間奇跡を起こす。地球が創世から滅亡へと向かう中、彼らは世界の流れとどう向き合い、いかなる役割を果たしたのか?
<感想>
世界の創世が語られるのだが、そこから経過についてはほとんど語られず、一気に滅亡へと向かってゆく。しかも最終的には、地球が中心ではなく、地球でさえも時空の流れの一幕でしかないというような感じであった。
壮大さは感じられるものの、物語の流れというバランスについては微妙と思われた。最初に出てきたプラトンはその後登場せず、シッダルタが主人公なのかと思いきや、その敵対者であった阿修羅王のほうが主となっていたり、イエスは添え物のような扱いしか受けていなかったりと、主たる登場人物自体がはっきりしない。そうしたなかで、世界の滅びと、時に移りゆくさまが語られてゆくばかり。
というか、主題自体が人間ではなく時の流れ、もしくは“時空間”そのものにあるということなのであろうか。もはや精神を超えた物語のようであり、内容について行くことができず、取り残されるのみ。
ヨハネスブルクの天使たち
2013年05月 早川書房 ハヤカワSFシリーズ Jコレクション
<内容>
「ヨハネスブルグの天使たち」
「ロワーサイドの幽霊たち」
「ジャララバードの兵士たち」
「ハドラマウトの道化たち」
「北東京の子供たち」
<感想>
近未来の世界を舞台とした短編集。テーマとしては、テロや内乱が激化するなかで、そこに生きるさまざまな人々の様相と行動を描いている。
正直なところ、世界の国々での思想や生き方が描かれていても、共感どころかいまいちピンとこないというのが本音。ゆえに、物語を純粋に楽しめたかというとそうでもない。最初の「ヨハネスブルグの天使たち」は、中盤までの小さな世界の中で生きる人々の様子を描いていたところはよかったものの、後半になり、一気に世界を広げすぎてしまうと、ついていけなくなってしまった。
思想といった面でピンとこなかったせいなのか、物語うんぬんよりも、短編集として全体的な構造のほうが気になってしまった。「ヨハネスブルクの天使たち」は、短編よりも中編以上の作品として仕上げたほうが良かったのではないかとか。他にも複数の物語にまたがって登場する人物を見ると(特に最後の三作品などは)、ひとまとめにしてくっつけてしまっても良かったのではないかと思われた。
また、「北東京の子供たち」を読んだときには、昨年末に出た天童荒太氏の「歓喜の仔」を思い起こさせ、最近はこういった作風が流行りなのかとも感じさせられた。
全編にわたる共通項として、“DX9”という玩具用に大量生産されたアンドロイドが登場している。この存在によって、連作短編的な味わいを深めたかったのかもしれないが、その有用性がよくわからなかった。物語上有効に利用しているように思える部分もあれば、いかにも大量生産めいた使い方もありと、単に便利屋として使われているかのようにも思える。いまいち、深い存在なのか、軽い存在なのか、宙に浮いたアイデンティティという気がしてならない。
宮内氏の作品は、「NOVA」などで短編では読んだことはあるものの、こうして一つの本として読むのは始めて。これだけのものを書くという才能があることは認められるが、小説として楽しめたかということに関しては微妙。それでも、今後の作品をもう少し、追っていきたいとは思っている。
盤上の夜
第1回創元SF短編賞受賞作
2012年03月 東京創元社 単行本
2014年04月 東京創元社 創元SF文庫
<内容>
「盤上の夜」
「人間の王」
「清められた卓」
「象を飛ばした王子」
「千年の虚空」
「原爆の局」
<感想>
第1回創元SF短編賞を受賞し、2012年に刊行された後も、日本SF大賞を受賞し、直木賞の候補作になったりと話題を集めた本。評判が良かったので、文庫化になるのを心待ちにしていたのだが、今年になって文庫化され、ようやく手を付けたしだい。
それで読んでみた感想はというと、これはなかなかすごい作品だと。これはSFのみにとどまらず、もっと広く、多くの人に読んでもらいたい作品だと感じさせられた。SF界隈の人には申し訳ない言い方であるが、本書をSF作品というくくりにしてしまうのはもったいないかなと。SFと言ってしまうと、SFと聞いただけで敬遠してしまう人もいると思うので、SFという紹介はせずに多くの人に手に取ってもらったほうがよいのではなかろうか。
この作品は、さまざまなゲームをモチーフとし、それをルポライターが取材するという形式で話が進められていく。扱われるものは、囲碁、チェッカー、麻雀、チャトランガ、将棋。これらのゲームに関わった人々のそれぞれの凄惨な人生が紹介されてゆく。
「盤上の夜」は、一番現代的なSFらしい作品ともいえるが、単にSFのみともいえない雰囲気を持っている。四肢を失った女流棋士の生き様が描かれており、その女流棋士の感覚を表現するのに、SF的な描写が用いられている。そうして囲碁を打ち、勝ちつつも次第に衰退していく様子が描かれ、彼女には何が見え、何を感じていたかを突き止めようとするがごとく、ライターは取材を重ねていくという内容。
この「盤上の夜」はSF的にも思えたのだが、他の作品はこれと比べるとSFというよりは、仮想的な歴史小説とか、それぞれの人生が描かれた小説と感じられた。ただ、仮想歴史なのかと思いきや、結構史実も入り混じっており、「人間の王」で描かれるチェッカーというゲームを通しての人間とコンピュータとの対決は、実は史実を追ったものであるということが後から調べて分かったしだい。さらには、「像を飛ばした王子」ではシャカまでが登場してしまう。
人を追いかけ、そのゲームにのめり込んだ人々が極限のなかで何を思ったかをテーマに取り上げた作品集。なかには、ゲームに直接かかわりのない人が主題となっている作品もあるのだが、基本はゲームというものを通しての人間模様が描かれている。物語としてよくできていたと思われたのは麻雀をとりあげた「清められた卓」が、結末を見て、うまく仕上げられている作品だと感嘆させられた。それ以外にも読みどころが多く、これは一読しただけでは完全に内容を把握できず、今後も年数をかけて何度か読み直して生きたい作品集だと感じさせられた。
エクソダス症候群
2015年06月 東京創元社 単行本
2017年07月 東京創元社 創元SF文庫
<内容>
火星生まれで、地球にて精神科医となったカズキ・クロネンバーグであったが、恋人の死をきっかけに火星へ舞い戻ることに。そこでカズキは火星唯一の精神病院で働くこととなる。スタッフもベッドも薬も不足しがちな過酷な地での医療。そうしたなか、強い妄想や幻覚を伴う“エクソダス症候群”が蔓延し・・・・・・
<感想>
火星を舞台とした精神医学の話。SF作品であることは間違いないのだが、何気に精神医療の過去から現在までの流れを辿っているような作品とも感じられる。というのは、火星の精神医療自体がレベル的にあまり進んでおらず、そのことに悩む医師たちが奮闘するというような流れの話だからである。ただ、そうはいっても熱血医療小説のようなものでは決してなく、最終的には精神病棟全体を巻き込んでの陰謀へと発展してゆくという作品。
ふとこの人の小説を読んで思うのは、最初の方の作品がそうだったという印象が強いせいかもしれないが、ジャーナリスト的な作品として捉えてしまう。今回も主人公が存在し、彼自身が事件に強く関わっていくものの、どこか遠くから出来事全体を眺めているという感じがしてならない。また、それなりに個性的な医者たちが多く登場したように思えるが、何故かそのどれも印象に残らずに終わってしまう。そういったところから、著者については物語の書き手というよりは、どこか説明主体の作品という風に感じ取れてしまうのである。それゆえに、うまく描かれている物語であるはずなのに、なぜかいつも印象にのらかないというような・・・・・・