島田荘司  作品別 内容・感想2

嘘でもいいから誘拐事件   5点

1988年11月 集英社 単行本
1994年01月 集英社 集英社文庫

<内容>
 「嘘でもいいから誘拐事件」
 「嘘でもいいから温泉ツアー」

<感想>
 テレビ番組スタッフのタック(隈能美堂巧)、ターボ(鈴木貴子)、ディレクターの軽石三太郎らが登場するユーモア・ミステリ第2弾・・・・・・といっても、その後第3弾は出てはいないのだけど。

 今回は、中編が2冊。レポーターを担当するタレントの女の子がゴンドラの中から消え失せ、身代金を要求する手紙が残され、さらには鬼の幽霊が出るというもの(「嘘でもいいから誘拐事件」)。もうひとつは、テレビ番組の撮影に温泉を訪れた一同が、何故か白い着物を着た人物に襲われる!(「嘘でもいいから温泉ツアー」)という内容。

 著者自身が手抜きで書いているシリーズではないかと言われて困惑しているようなのだが、このシリーズ作品は実際に読んでみると非常に気になるところがある。それは、コメディタッチのユーモアミステリにも関わらず、あまり読みやすくないのである。むしろ島田氏が書く、普通の社会派小説っぽいミステリ作品のほうが読みやすいと思ってしまう。これは、後に書くことになる“犬坊里美”が主人公の作品もそうなのだが、実は島田氏、ユーモア調の作品を書くのが苦手なのかなと感じてしまう。人には、向き不向きがあるということなのだろうか。

 本書は、それぞれの作品が短いので、ちょっとした一発ネタを盛り込んでのミステリというようなもの。ただ、“誘拐事件”のほうは、それなりにミステリしているという感じであるのだが、“温泉ツアー”のほうは、ミステリ的にも弱すぎるような。あくまでも、作中のちょっとしたひとつのエピソードに過ぎないという内容くらいにしか思えなかった。本当であれば、この2つのネタを盛り合わせて、ひとつの作品をつくるくらいで良かったとも思えるのだが。


夜は千の鈴を鳴らす   6.5点

1988年11月 光文社 カッパ・ノベルス
1992年01月 光文社 光文社文庫

<内容>
 寝台列車の閉ざされた部屋のなかで女性の死体が発見された。死亡していたのは東京の不動産会社の女社長。元々心臓が悪く、病死と判断されたのだが、捜査一課の吉敷竹史は、社長秘書を務める若い男に対して不穏なものを感じていた。ひょっとしたら女社長は殺されたのではないか・・・・・・だとしたら、どのような方法で殺害されたというのか? アリバイを崩すべく吉敷が捜査を行っていくと、24年前に起きた未解決に事件に遭遇し・・・・・・

<感想>
“倒叙”作品というわけではないのだが、プロローグで男が女に対して犯行宣言をし、実際にその女が被害者となって発見されることとなる。寝台列車の閉ざされた部屋のなかで発見された故に事故死と思われたのだが、吉敷は直感で事件ではないかと判断する。そして、プロローグで出てきた“男”の存在に胡散臭いものを感じ、序盤から彼を犯人と考えての捜査が始まってゆく。

 アリバイ崩しの内容ゆえに地味な作品・・・・・・かと思いきや、中盤になると意外な展開が待ち受ける。それは過去に起きた未解決事件に吉敷は直面することとなり、今回の事件の関連と、両者の事件の真相を解き明かさねばならなくなるのである。

 ストーリー仕立てが非常にうまく出来ていると感心させられた。過去のオリンピックの開催と新幹線の開業をストーリーに結び付け、それを現代にもうまく生かしている。さらには、ちっとした仕掛けが色々とちりばめられており、後半は読んでいて決して飽きることのない構成に仕上げられている。島田氏の数ある作品の中で、スポットが当たることにない作品のひとつと思われるが、これは隠れざる秀作といったところではなかろうか。


幽体離脱殺人事件   5点

1989年05月 光文社 カッパ・ノベルス
1992年07月 光文社 光文社文庫

<内容>
 吉敷竹史が所属する警視庁捜査一課にもたらされた事件は、観光名所のしめ縄にぶら下がった状態で発見されたという死体の件。しかも、被害者の遺留品から、吉敷がたまたま知り合いとなった男の名刺が発見され、吉敷は事件に興味を抱く。
 一方、東京で医者の妻として暮らす輝子は、京都に住む旧友の陽子に呼び出されたことにより、恐ろしい事件に遭遇することとなり・・・・・・

<感想>
 全体的に微妙な内容であったな。こういう作品も含まれているから、吉敷竹史シリーズについては、なんとなくいまいちな印象が強くなってしまうような気が・・・・・・

 冒頭こそ、しめ縄にぶら下げられた死体という島田氏作品らしい雰囲気で始まるものの、それ以後は二人の女の学生時代から現在までにおける関係の話が延々と語られてゆく。しかも読んでいて楽しいものではないので、いささかうんざりしてしまう。そして、中盤からようやく物語が動き出すものの、ミステリとしてはあまりにもわかりやす過ぎる展開が進められてゆくこととなる。

 色々な点でいまいちであったなとしかいいようがない。しかも肝心のタイトルにある“幽体離脱”という部分が不発であった。登場人物らによる“厭”な部分が強すぎて、しかも後味も悪い作品。


見えない女

1989年09月 光文社 光文社文庫
1995年06月 南雲堂 単行本(改題:「インドネシアの恋唄」)

<内容>
 「インドネシアの恋唄」
 「見えない女」
 「一人で食事をする女」

<感想>
 未読であった一冊。文庫版では「見えない女」。その後、南雲堂から発売された単行本では「インドネシアの恋唄」と改題されて刊行される。どちらも掲載されている短編のタイトルである。ここに載っている3つの話は、登場人物は異なるのだが、どれも海外においての美女との出会いが共通項となっている。

「インドネシアの恋唄」は、ひょんなことからインドネシアへと旅することになった青年がインドネシアの娼婦と出会い、恋をするという物語。その後、何故か二人は理解不能な事件に巻き込まれることとなる。ここに載っている作品の中では一番ミステリっぽい内容。導入が、「赤毛連盟」を思わせるようなものになっているのだが、その目的が何かというのが最後の最後までわからない。青年の青臭い恋模様がなかなかのアクセントとなっており、さらにはインドネシアの風土が物語に厚みを与えている。

「見えない女」は、フランスへと映画作成を目的に仕事をする男が出会った女との話。“見えない女”という理由に迫る内容であるが、これがなかなか意外で面白かった。本作ではフランスが舞台となっているが、ハリウッド版でも同じような内容のものができそう。

「一人で食事をする女」は、ドイツへと城を巡る旅に出た男が奇妙なふるまいをする美女と出会い、関わり合いになっていく話。美女を巡る話もさることながら、ドイツの城に関する薀蓄に楽しむことができる作品。美女の秘密に関しては近代的な内容となっており(あくまでも書かれた当時の年代で)、過去と近代と両方にわたるドイツというものを垣間見ることができる。

 全体的に事件性のあるミステリとしては、「インドネシアの恋唄」くらいしか見どころがなかったように思えるが、物語としては面白かったかなと。手軽に読めるトラベル・ノベルといったところか。ただ、文庫版はもう絶版になっていて入手しづらいことであろう。


羽衣伝説の記憶

1990年02月 光文社 光文社文庫

<内容>
 吉敷竹史刑事は、プライベートで訪れた画廊で“羽衣伝説”と題された彫金を目にした。一目見て、吉敷は分かれた妻が作ったものではないかと気づいた。別れた妻、通子は以前事件に巻き込まれたときに再会を果たしたのだが、その後行き先を告げずに行方知れずとなっていた。その彫金からは通子の行方はわからなかったものの、吉敷がたまたま捜査で訪れた土地で、通子の手掛りを見つけ・・・・・・

<感想>
 島田氏の本で、まだ読んでいなかったうちの1冊。これを読んで感じるのは、吉敷シリーズが、御手洗シリーズ比べて人気がないというか、認知度が低いのは、このような作品が間にはさまれているからではということ。

 本書は、ミステリというよりは、吉敷と別れた妻・通子との物語になっている。「北の夕鶴2/3の殺人」で再開を果たしたはずの二人であったが、その後登場することのなかった通子との関係がどのようになったのかが、ここで語られている。

 話の流れとしては、吉敷が通子の痕跡を見つける。吉敷がホステス殺し事件の真相を巡って、京都へ出張。そこでホステス殺しについては一件落着し、一息つくことに。すると偶然にも通子の痕跡を追うことができ、再会を果たす。そして、通子から過去の話を聴き、吉敷がその謎に迫る。

 物語の1/3くらいのところで、ようやく事件が起きるのだが、そのホステス殺しについては、あっさりと解決を迎えてしまう。後半には通子と吉敷が再開し、通子にとって過去のわだかまりとなっている事件の話を聴き、吉敷はそれにひとつの解釈を語りだす。この過去の事件もあっさりとしたものであり、早々に解決を果たしてしまう。

 結局のところ、なんとなく事件を挟んではいるものの、それらは決してメインではなくて、あくまでも吉敷と通子の物語となっている。「北の夕鶴2/3の殺人」と本書を通して、通子という人物がどのような者なのかということが語られているのだが、個人的にはさして感銘を抱くような事柄はなにもなかった。夫婦間のすれ違いについても、基本として刑事の仕事が忙しいというくらいで、他に語るようなこともない。どうにも興味のわかない話を聴かされたという感触である。


御手洗潔のダンス

1990年07月 講談社 単行本
1992年08月 講談社 講談社ノベルス
1993年07月 講談社 講談社文庫

<内容>
 「山高帽のイカロス」
 「ある騎士の物語」
 「舞踏病」
 「近況報告」

詳 細

<感想>
 久々の再読。それぞれの作品をもっとよく憶えているかと思っていたが、内容を忘れていた作品のほうが多かった。

「山高帽のイカロス」は、島田氏らしい作品。電線に男がそらを飛ぶような格好でひっかかったまま死んでいたという不可解な謎に御手洗潔が挑戦する。この作品に関しては細かいところをすっかりと忘れていたのだが、それもそのはず、不可解な状況となってゆくそのディテールが意外と複雑であった。細部をよく考えられているとはいえ、偶然性にも助けられているという感じ。とはいえ、不可解な状況を紐解いていくという魅力が損なわれることはないので、楽しめる逸品であることは間違いない。

「ある騎士の物語」は、ある種のアリバイトリックといってよいのかもしれない。この作品集のなかで一番記憶に残っていた作品。というか、記憶に残りやすいトリックといってもよいであろう。改めて読んでみると、実際にはその工程において、絶対目撃されてしまうだろうなぁと思わずにはいられなかった。

「舞踏病」は、奇妙な踊りを踊る男がいるという相談が御手洗に持ちかけられたことから徐々に裏に潜む犯罪の全貌が明らかになってゆく。内容としては、ホームズの「赤毛連盟」系の内容だなと容易に気付かされる。ただ、事件を起こしている者の、真の目的がなかなか見えてこないので、物語全体の真相に引き寄せられてゆくこととなる。また、単に事件のみを描いただけでなく、病理学的な問題にもメスをいれるものとなっている。

「近況報告」は、その名の通り御手洗と石岡の近況が描かれているもの。ファン必見・・・・・・とういうか、御手洗もののアンソロジーなどを書く人のための詳細設定というような。


踊る手なが猿

1990年08月 光文社 カッパ・ノベルス
1993年11月 光文社 光文社文庫

<内容>
 「踊る手なが猿」
 「Y字路」
 「赤と白の殺意」
 「暗闇団子」

詳 細

<感想>
「踊る手なが猿」は、ロジックとかトリックとは無縁なのだが、ミステリ小説として非常によくできている。まさにミステリ短編小説のお手本というようなもの。特にこれといった探偵も出てこなく、普通の人々の痴情の様子を描いたものであるのだが、登場人物の感情面、ストーリーともによくできている。普通に終わらせるだけでなく、“ハヌマンラングール”という謎を付け加えることによって、さらに物語に厚みを出しているところは見事。

「Y字路」は、倒叙小説であるのだが、話が進んでいくうちに思いもよらぬ方に展開していくという内容。とはいえ、一見完全犯罪のようであっても、冷静に見てみれば穴だらけ。ただ、語り手である女の心情に共感を覚えるとやるせないものが残る。この作品のみシリーズキャラクターである吉敷が登場している。

「赤と白の殺意」は、とある青年が過去を追うというストーリー。短めの話。青年単独ではなく、途中から道連れとなる女性を加えることにより、全体的な暗さを良い意味で薄れさせてくれている。

「暗闇団子」は、遺跡の謎から見出された物語が語られるというもの。やや江戸の情景描写が多すぎるような感じ。物語としては面白いのだが、花魁と主人公との恋が唐突過ぎて、現実味が薄いように思われた。


ら抜き言葉殺人事件   5.5点

1991年02月 光文社 カッパ・ノベルス
1994年02月 光文社 光文社文庫

<内容>
 ピアノと日本語を教えていた40前の笹森恭子が自殺体として見つかった。しかし、現場の状況から殺人の疑いも捨てきれなかった。そうしたなか被害者ともめていたとされる作家が殺害されたという報がもたらされる。作家は笹森から“ら抜き言葉”に関することで過剰なクレームの手紙をもらっており、それを受けて作家がエッセイなどで応酬をしていたのである。しかし、そんな言葉の使い方だけで殺人が起こるのか・・・・・・警視庁捜査一課の吉敷は笹森恭子の背景を調べはじめる。

<感想>
 再読であるが、この作品のタイトルのインパクトは随一と言えるのではないだろうか。“ら抜き言葉”って何? というところから始まり、なおかつその“ら抜き言葉”が原因で殺人って!?

 内容に関しては、序盤は意外と派手であり、のっけから3人の死体が発見される。ひとつは明らかな殺人によるものであるのだが、他の二つは自殺のように見られる。果たしてその真相は? というもの。

 ただ、作品全体としては印象がやや薄い。というのは、この作品は“ら抜き言葉”のみを扱っただけではなく、他の社会的な問題もいくつか取り扱っており、それによって“ら抜き言葉”の存在感がぼやけてしまっている。特に最終的な真相についても、他の社会問題が浮き彫りとなって来るものであり、本書は“ら抜き言葉”に関する小説ではなく、さまざまな問題を取り扱った社会派ミステリというものになっている。まぁ、それでも島田作品というだけではなく、この作品のタイトルにより手に取ってみたという人もいるのではなかろうか。


御手洗潔のメロディ

1998年09月 講談社 単行本
2001年01月 講談社 講談社ノベルス

<内容>
 「IgE」
 「SIVAD SELIM」
 「ボストン幽霊絵画事件」
 「さらば遠い輝き」

詳 細


涙ながれるままに

1999年06月 光文社 カッパ・ノベルス(上下)

<内容>
 天橋立に娘と住む、吉敷竹史の元妻・加納通子は意識の底に眠る記憶をたぐり、数奇な運命に翻弄されてきた自らの半生を振り返っていた。
 小学二年の夏、過って級友を死なせた事件。婚礼の日に自死した麻衣子と、その直後に変死を遂げた母・徳子にまつわる出来事。されに遡って六歳の冬、麻衣子と歩いた盛岡の白い原野と庭の柿の根元に埋めたあるものの忌まわしい記憶・・・・・・
「首なし男」に追われる幻影に悩まされながらも、盛岡での少女時代に体験した数々の悲劇の真相を探る決心をした通子。そこに明かされる凄絶な過去とは!?
 一方、警視庁捜査一課刑事・吉敷竹史は、霞が関の裁判所内で、上司・峯脇と老婦人とが言い争う光景を目撃。老婦人は、獄中にいる死刑囚の夫・恩田の冤罪を主張し、再審請求のため奔走していた。恩田事件が昭和三十三年に盛岡で起きた一家惨殺事件と知った吉敷は、別れた妻・通子の面影にたぐり寄せられるかのように、単身、事件の再捜査を開始! 盛岡・釧路を訪れた吉敷が対面した関係者はなぜか、通子と因縁の深い人々だった・・・・・・
 加納通子の数奇な運命と吉敷竹史に架せられた使命。過去から現在にいたる事件が彼ら二人をもう一度結びつける。


Pの密室

1999年10月 講談社 単行本

<内容>
 「鈴蘭事件」
 「Pの密室」

詳 細


最後のディナー

1999年11月 原書房 特別サイズ単行本

<内容>
 「里美上京」
 「大根奇聞」
 「最後のディナー」

詳 細

<感想>
「大根奇聞」は心暖まる奇跡の物語といっていいだろう。殺人などは出てこないが十分ななぞ解きとなっていると思う。結末も結構自分の好みである。

「最後のディナー」は推理と社会派的な内容がうまく溶け合った話になっている。最近の島田氏の話は本格よりも社会派に傾きかけているような気がするのだが、この作品はうまく社会派的内容がでしゃばらずにちょうどいい具合に仕上がっていると思う。謎解きという話ではないが老人の晩年の生き方がだんだんとあらわになっていくさまには悲しみと強さが確かに感じられた。


ハリウッド・サーティフィケイト   6点

1999年11月〜2001年4月 (KADOKAWAミステリ)
2001年08月 角川書店 単行本

<内容>

<感想>
「水晶のピラミッド」以降見られるような、断片的なネタを寄せ集めて一つの物語にしたような形になっている。今回のものは、LAにおけるハリウッドというところ、パトリシア・クローガー事件、記憶を失い子宮をとられたというハリウッド死亡の女性ジョアンと彼女とともにいたはずでケルト神話を語ったというイアンという男、ポルノフィルム。このようなものを題材として一つの小説となっている。ただし、それらがすべてうまくつなぎあっているようにみえないのが欠点である。どうも、ジョアンが主題の部分とイオナが主題の部分とのバランスがあまりよく感じられない。雑誌掲載という形式のせいでもあるかもしれない。

 また、これは本書だけでのことでもないのだが、どうも女性主体のハードボイルドというのは妙に生々しくて好きになれない。特に島田氏が書く女性にかんしても吉敷シリーズの通子といい、後味の悪さが残る。

 全体的に見てこれをレオナを主人公として描く必要があったのだろうか? ミステリー仕立てだけでなく、十分本格の要素もあるのだから御手洗物にしてもらいたかった。まだ続編もだすようであるけれどもあまり読むきにも・・・・・・


魔神の遊戯   6点

2002年08月 文藝春秋 本格ミステリ・マスターズ

<内容>
 ネス湖の小村で旧約聖書の魔人が村人の体を引きちぎり、奇妙な場所に配置していく。奇怪なオーロラの出現から始まり、魔人の咆哮が鳴り響くなか、キャノンの村で連続惨殺事件が巻き起こる。驚天動地の謎、解答が秘められた“未来からの記憶”とは?  御手洗潔が新世紀に登場!

本格ミステリ・マスターズ 一覧へ

<感想>
 待ちに待った御手洗潔もの。ようやくここから新たなる復活劇が始まるのか。

 内容は序盤はまず、一人の精神病患者ロドニー・ラーヒムの異形の才能が取り上げられる。ここまでは21世紀本格と島田氏が称する流れに忠実に沿った展開に感じられる。そこではいくつかの謎のようなものがちりばめられているような気はするものの、大きな謎は提示されないまま次へと展開は移っていく。

 スローな立ち上がりになんとなくいやな予感を抱いたのだが、場面が変わるとスプラッターホラーとでもいいたくなるような殺人劇がこれでもかと展開される。しかもそれらの行為がまさにロドニー・ラーヒムの予見どおりの展開に。ミタライは物語に終始登場しているものの彼のキレの悪さを嘲笑うかのように殺人は続いていく。そしてミタライがこの殺人劇に終止符を打とうと開かずの扉を開けたとき・・・・・・

 序盤での淡々とした展開とうって変わった後半の展開はどちらかといえば「ハリウッド・サーティフィケイト」調。そしてラストは確かに見目疑うことのないサプライズエンディングが待っていた! のだが・・・・・・なぜだかあっけなく感じてしまった。読み終わった後に最初に戻って読み返すと、確かにうまく構想を練っていて全編著者の計算どおりであるということがわかる。まさに“魔神の遊戯”という題名がふさわしく感じられる本書であり、作品のできとしては水準を上回るできのはずなのであるのだが。

 この作品を読んでふとこんな言葉が浮かぶ。「マジックというものは見ているときは目の前でまさに魔術が行われているように感じるが、タネを明かされるとこんなものだったのかと幻滅してしまう」と。これはホームズの時代からいわれ続けられていることでもあるのだが、ふと本書を読んでこのように感じてしまった。どちらかといえば島田氏はこのように感じられるミステリのなかでもタネの明かし方がうまい作家であったような気がする。それなのに御手洗ものの作品にこのような感慨を受けてしまうのは、時代の流れによる作調の変化によるものなのか、それとも時代が流れたことによる読み手側の受け取り方の変化なのだろうか。読み手側のミステリの夢が覚めないうちに多くの御手洗の物語を紡いでもらいたいと思っているのは私だけだろうか。




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