<内容>
狂信的な母親に育てられた風変わりな少女キャリーは16歳。絶対的な母親の権威と、止まるところを知らぬクラス・メートたちの悪意、それに自身の肉体の変化も重なって、彼女は極度に追いつめられた。・・・・・・誰も知らなかったのは、彼女がテレキネシスの持主であることだった。キャリーの精神が完全にバランスを崩したとき、チェンバレンの街は炎に包まれる。
<感想>
もう30年近く前に出版されたキングの処女作。今、この年代に読んだのでは30年前における評価とはまた著しく異なるものになるであろう。なにしろ、現在ではキングの系譜ともいわれるべき作品が多々出版されており、それらを読んで育った世代となるのだから。
当時の状況を勝手に仮定して評してみると、明るい時代から暗い時代への幕開けとでもいったところか。テレキネシスといえば、どんなことを思い浮かべるだろうか。超能力というと何か未来的なものを感じ、明るい可能性のようなものを連想したくはならないだろうか。アメリカでも昔、超能力を扱ったコメディ映画があったような気がする。そこに超能力という物の暗黒的な面だけを取り入れたかのような小説が登場してしまった。さらには主人公が少女であるという点からしても残酷さをさらに加速させる効果が見られる。そこには暗く、あまりにも現実的で破滅的な未来を予測させるなにかを人々の心の中に植え付けていったのではなかろうか。そんなことを考えさせられる一冊である。
<内容>
メイン州の田舎町“セイラムズ・ロット”。この町にはマーステン館という、忌まわしい過去を持つ不吉な建物があった。作家であるベン・ミアーズはかつてセイラムズ・ロットに住んでいたことがあり、今度の新作はそのマーステン館を題材にしたものにしようと町へと向かう。すると、その廃屋であったマーステン館を最近買い取ったものがあるということを知らされる。そしてそのときからセイラムズ・ロットで不可解な事件が次々と・・・・・・
<感想>
この本を読む前に小野不由美氏の「屍鬼」を読んでいる。そして本書を読んだことにより、「屍鬼」という作品がキングの「呪われた町」をモチーフとして、それに日本的な民俗学的要素を取り入れた本であるということがわかった。そのパニック・ホラーたる原点の書、それがこの「呪われた町」ということなのだろう。
これはキングの初期の作品であるのだが、想像していたよりも深みというものは感じられなかった。というよりは、そういった深みというものを狙った作品ではなく、ホラーの要素のみで書かれた作品ということなのであろう。本書からは、徹底的な人間の無力感というものが伝わってくる。人は計算された巨大な悪に巻き込まれたときにどう対処すればよいのだろうか。特にそれが超自然的なものであれば、どのように他の人に警句すればよいのだろうかという事を考えさせられてしまう。しかし本書では人々は無力に流されるままではなく、必死にそれに立ち向かおうとする力強さというものも描かれている作品となっている。
<内容>
ジャック・トランスは妻のウェンディと5歳の息子ダニーとの三人家族。ジャックは自分の癇癪持ちが災いして、教職の身から追われることになってしまった。知人の紹介を受け、ジャックは冬季期間中のホテルでの管理の仕事をいやいやながらも請け負えざるを得ないことに。トランス一家は三人だけで、冬山に孤立したホテルで過ごすこととなる。
そのジャックの息子のダニーはモノを見通す不思議な力を持っていた。その力ゆえにダニーはホテルでさまざまな怪奇現象を目の当たりにすることになり、そしてホテルにてトランス一家を待ちうけていたモノが徐々に牙をむき始め・・・・・・
<感想>
「シャイニング」という映画の宣伝をコマーシャルで見たのを憶えているためか、最初は本書に対して俗なホラー小説という印象を持っていた。しかし実際に読んでみて、そんな印象派綺麗さっぱり飛んでいってしまった。本書こそがキングの初期の代表作であり、これこそがモダンホラーというものへの扉を開いた作品であるということを見せつけられた一冊であった。
本書はホラー小説のジャンルとして簡単に言ってしまえばホテルに棲まう幽霊モノである。しかし、その幽霊の扱い方がとてもうまく、ただ単に姿を見せて脅すというものではなく、徐々に家族の不和に付け入りながら少しずつその勢力をあらわにしていくという絶妙なさじ加減で描かれている。
そしてなんといっても、その家族の不和につけこむ心理的な描写が優れているといえよう。家族の不和といっても、元々家族の仲が悪いというわけではない。しかし、誰もがつい抱いてしまうような疑念を増幅させ、そこから悪意を搾り出すという、まさに悪魔ながらの手腕が見事に感じられるのである。
また、“シャイニング”というタイトルもうまく付けられている。このタイトルの意味はその名のとおり“かがやき”を意味している。本書は全編暗いもので覆われ方のような雰囲気の作品になっているのだが、その中で常に小さな“かがやき”が希望の一筋として見えているようにも感じられるのだ。これにより「シャイニング」がホラー小説でありながらも、本当のところは希望を表している小説というようにもとれると感じられるのだ。
<内容>
プレイサーヴィル・ハイスクールに通うチャーリー・デッカーは、二人の教師をピストルにて射殺し、同級生たちを人質にとって、教室に立てこもる。警察に包囲される中、デッカーとクラスメートたちは緊迫した時間を共に体験し・・・・・・
<感想>
感想を書いていなかったので再読。スティーブン・キングが作家になる前に書いていた作品であり、出版しようとしたらボツになったとのこと。後にリチャード・バックマン名義での出版となり、この名義での最初の作品となった。
もっとハチャメチャな内容であったような気がしたが、さほどカオスな作品ではなく、思ったよりも落ち着いていたという感触。混沌とした中で、学生主体のホームルームが行われていると言っても良いかもしれない。主人公が何故、クラスメートに打ち明ける気になったのかはわからないが、ある種の懺悔のようにさえ感じられてしまう。
要は自尊心がどこまで保つのかということか。両親や同級生からいじめられ、はたまたいじられることにより、それをどこまで耐えることができるのか。その自尊心が崩壊してしまうと、このような出来事が起こりうるという警鐘のような作品。日本では、こうした場合復讐に走るよりも自殺を遂げてしまうことが多いのだが、それが銃社会のアメリカとの違いなかもしれない。
昔であれば、「あぁ、こういう事件もアメリカでは珍しくないなぁ」くらいで済んでいたのだが、最近では銃乱射事件がしょっちゅう起こることにより、もはやひとつひとつが注目さえされないという恐ろしい時代になってしまった。
<内容>
<紹介のことば> (J・D・マクドナルド)
「はしがき」
「地下室の悪夢」
「波が砕ける夜の海辺で」
「やつらの出入口」
「人間圧搾機」
「子取り鬼」
「灰色のかたまり」
「戦 場」
「トラック」
「やつらはときどき帰ってくる」
「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」
<感想>
キングの処女短編集にあたる作品集であるが、最初の作品集からして見事であると感嘆せざるを得ない。本当に見事に悪夢の数々を描ききっている。一度は誰もが夢に見そうな物語から、想像だにしないような悪夢まで、本当に隅から隅までといった内容。これがまだ分冊の半分というのだから、信じられないほどのボリュームである。キング未読の人は、この作品から読み始めるというのもいいかもしれない。
例によって、「紹介」と著者による「はしがき」から始まる。実際、読み飛ばしてもいいくらいの内容であるし、著者自身でさえも読み飛ばすことを薦めているのだが、だからといって読み飛ばすことができるかというとできるはずもない。
「地下室の悪夢」は深夜のビル清掃におけるネズミの悪夢を描いた作品。私はあまりネズミに接したことがないので、この恐怖がわかりずらいのだが、わかる人にはわかるのだろう。猫くらいの大きさのネズミってどんなもんなんだろう。
「波が砕ける夜の海辺で」は終末を描いた作品であるが、若者視点のわりには落ち着いた内容になっている。「ザ・スタンド」の外伝のような話と思えた。
「やつらの出入口」この作品集(前半)の中で唯一のSFものであるが、タイトルと未知なる恐怖をうまく結び合わせた内容になっている。起承転結うまくできている。
「人間圧搾機」と「トラック」は機械の暴走、もしくは反乱を描いた作品。どちらも怖いが「人間圧搾機」のほうがホラー小説としては恐ろしく感じられた。派手さでは「トラック」のほうがいいかもしれない。
「子取り鬼」と「やつらはときどき帰ってくる」の二つは全く毛色の違う作品であるのだが、どちらも現実的というよりは妄想に近い内容に思えた。特に「やつら〜」は救いようのない話なのだが、その発端や根拠がわからないため話が不透明という印象が強かった。
「灰色のかたまり」も根拠はないのだが、ある程度想像できてしまうため恐ろしさを感じ取れてしまう。遠い田舎での奇怪な話ということで、ありそうでなさそうな話。
「戦場」はさらに妄想的なものが強いのだが、ここまでやってくれればむしろ受け入れたくなってしまう。おもちゃの兵隊と真面目に戦う男の話。
「呪われた村」は町から村に変わったこともあって、「呪われた町」の縮小版といったところか。日記や書簡から、逃れたくても逃れらない、せまりくる恐怖の必至さを感じ取ることができる。「呪われた町」とはまた異なる内容ではあるが、これはこれでなかなかのもの。
<内容>
「超高層ビルの恐怖」
「芝刈り機の男」
「禁煙挫折者救済有限会社」
「キャンパスの悪夢」
「バネ足ジャック」
「トウモロコシ畑の子供たち」
「死のスワンダイヴ」
「花を愛した男」
「<ジェルサレムズ・ロット>の怪」
「312号室の女」
<感想>
昔、キングの作品を読む前は、キングって単に怖い作品を書く人なんだなと漠然と思っていたのだが、初期に書かれたこの短編集を読んでみると極めて先鋭的な作家であったことがわかる。モダン・ホラーなんていう呼び方があるのだが、まさにそうした新ジャンルを開拓したというにふさわしい作家であることがよくわかった。
「超高層ビルの恐怖」この作品は、ありきたりな意見となってしまうのだが今で言えば漫画の「カイジ」を思わせるような内容。さらにはそれだけでなく、終盤でどんでん返しが見られるところが秀逸。
「芝刈り機の男」は「深夜勤務」に掲載されている機械の反乱を描いたものに似ているのだが、こちらでは人間的な気味の悪さが付け加えられている。なんとも言えない厭な作品。
「禁煙挫折者救済有限会社」これは「超高層ビルの恐怖」につながる一味違ったギャンブルが描かれている。この作品が幸せにつながるというように描かれているところに絶句。
「キャンパスの悪夢」超自然的なストーカーが描かれた作品。極めてキングらしいと言えよう。
「バネ足ジャック」タイトルがうまく不気味さを醸し出している。内容は普通なのだが、効果的な書かれ方がなされている。
「トウモロコシ畑の子供たち」これが一番怖い作品。映像化されているようであるが、映像では絶対に見たくない。今まで読んだキングの作品で一番怖いかも。
「死のスワンダイヴ」兄と妹の奇妙な関係が描かれている作品。“依存”をテーマに変わった感じで書かれている。何故か印象に残った。
「花を愛した男」有りそうで無さそうな話。実際にいたら恐ろしいどころか、迷惑極まりない。
「<ジェルサエムズ・ロット>の怪」こちらは「深夜勤務」に続いて、“ジェルサレムズ・ロット”が描かれている。ようするに吸血鬼もの。吹雪の中の吸血鬼というのも珍しい気がする。
「312号室の女」入院している母親を見舞いに来る男の葛藤を描いた作品。心理描写がおみごと。
<内容>
百人の少年を集めて開催される競技“ロングウォーク”。それはひたすら歩くという競技であるが、歩行速度が落ち、三回警告を受けた後、さらに注意を受けると銃殺されるというもの。そして、最後のひとりになるまで“ロングウォーク”は続けられるのである。この競技に参加することを決意したギャラティ。そして、当日出会い、共に競技を続けることとなる百人の少年たち。彼らを待ち受ける現実とは・・・・・・
<感想>
リチャード・バックマン名義で書かれたスティーヴン・キングによる小説。最初タイトルを見た限りでは、ロードノベルズのようなものかと思っていたのだが、読んでみると、まさにこれこそが“デス・ゲーム”だと言わんばかりの作品だということに気づかされる。
百人の少年たちが集められて、最後のひとりになるまで歩き続ける“ロングウォーク”という競技。実はこの作品、その背景とか細かい説明はほとんどなされていない。参加した少年たちも、それぞれの思惑があるにせよ、さほど大した理由で参加したわけではなく、にも関わらずデス・ゲームを強いられることになるという不思議な内容。しかも、参加者たちは、その残酷性については理解していても、その勝利の先に何があるのかについては、漠然としたことしか知らないのである。そのようにほとんど状況が説明されないまま、ひたすら少年たちは歩きつづけ、その数を徐々に減らしていくこととなる。
だんだんと読み進めていくと、“デス・ゲーム”というよりも、実は著者が反戦小説として伝えたかった作品なのではないかと考えるようになっていった。現実にはどのようなことなのかわからないまま、軽い気持ちで戦争に参加し、それがいつしか隣にいた者たちが次々といなくなるという現実を描きあらわした作品というように思えるのである。少年たちの無知、待ち受ける理不尽で残酷な現実、英雄と持ち上げる地元の人々、そうしたことの全てが戦争というものの一幕を形を変えて表しているように感じられるのである。
決して楽しめる作品ではないものの、この作品を通じて著者が書き表したいと思ったことは痛切に感じ取ることができる。従来のキングのエンターテイメント小説とは異なる思想の作品。
<内容>
苦学生であったアンディは200ドルという報酬を得るために、大学の心理学教室での投薬実験に参加することにした。するとアンディはその実験により、ちょっとした不思議な力を身に付けることとなった。その後、アンディは同じ実験を受けたヴィッキーと結婚し、子供をもうけることとなる。その娘チャーリーはアンディよりも、さらに大きな超能力を持つこととなり、両親たちを悩ませることとなる。そしてチャーリーが7歳になったとき、CIAの下部組織の一団が彼ら親娘を拉致しようと襲いかかり、アンディらは逃亡生活を送ることとなり・・・・・・
<感想>
今まで読んだキングのモダンホラー的な味わいの作品とは、ちょっと異なる内容といえよう。超能力者とそれを捕えようとする組織との話になっており、ある種SFとか伝奇小説といってもよさそうな作品である。
これはなかなか面白い作品であった。ただ、主人公の親娘たちの先行きに絶望感しか思い浮かべることができず、やや暗い内容の作品となってしまっている。それでも必死に生き続けようとしながら逃亡する主人公親娘を応援したくなる気持ちは読んでいるうちにどんどんと強くなって行く。さらにはそれをあおるかのように、彼らを捕えようとする組織の人間達の悪役っぷりがなんとも言えないものであった。
この作品を読むと、ホラー作品というよりは、何か反体制的な内容のものを書きたかったのかなというように感じられた。ここに書かれたのはあくまでも特殊な事例であるが、なんとなく権力に押しつぶされる市民というような構図を思い浮かべさせられてしまう。
ある種、設定はありきたりなような気はするものの、そこにただよう絶望感が大きく、それがとても印象深かった。数あるキングの作品のなかでも心に残る一冊となることであろう。
<内容>
クリーニング工場に勤めるバートン・ドーズ。あるとき、彼が住む地域に高速道路が建設されることにより、工場は立ち退き、さらに自宅も売り払わなくてはならなくなった。何故かドーズは無性にそのことが気に入らなくなり、いつまでも仕事にしがみつづけ、自宅を売ろうともしなかった。新しい家を捜していると妻にまで嘘をつき、その場所から動こうとはせず、新しい仕事さえ探さないドーズ。そんな彼が最後にとった行動とは!?
<感想>
リチャード・バックマン名義で書かれた作品。最初は「ロードワーク」(道路工事の意)というタイトルで日本で出版されたが、後に改題されて「最後の抵抗」というタイトルとなった。
話の背景としてはありがちなもので、公共工事により、自分の生活を変えなければならなくなったというもの。通常であれば、できるだけ多額のお金を受け取り、新生活へとなるわけだが、何故かそれをしない本編の主人公バートン・ドーズ。仕事や自宅に対する愛着というものも確かにあるのだが、何故かかたくなに家から出ていくことを誇示する。それは、愛する妻と別れることとなってさえも、そこから立ち退くことをよしとしないのである。
結局のところ、主人公自身も何故そこまで意固地になるのかきちんと理解しているかというと微妙。最後の方に、自分にはこの生き方しかできないのだということに気づかされるのだが、それさえもどこか言い訳に聞こえてしまう。ようは、血か何かによるどこかに根付いた“反骨精神”というものがそういう行動を起こさせたのではなかろうか。
基本的に、公共工事に反抗するだけという内容なので、ややページ数は長いのではと感じられた。ただ、なんとなく主人公の行動に肩入れできなくもない気持ちも芽生えてしまい、物語の先行きに惹き込まれたのも事実。実際のこのようなことがあったとすると、当事者であったら別なのだが、はたから見ると迷惑この上ないと思えてしまうんだろうなぁ、とも。
<内容>
自動車修理業を営むジョー・キャンパーの家で飼っているセント・バーナードのクージョ。大型犬で恐ろしそうに見えるものの、子供好きで気のやさしい犬であった。そんなクージョであったが、ある日コウモリにひっかかれて狂犬病を患うことに。クージョは次第に凶暴になり、やがて人を襲うようになり・・・・・・
<感想>
読む前のイメージとしては、車に閉じ込められた母と息子が凶暴な犬にひたすらおびえるというもの。実際に読んでみると概ねそういう内容なのであるが、思っていたよりもそこに至るまでの経過や登場人物たちの背景について細かく描かれていた。
主人公となるのは広告代理店を営むヴィク・トレントとその妻ドナと息子のタッド。タッドは夜な夜な見えない幽霊の存在におびえ、ヴィクとドナはそんな息子をなだめようとする。一見夫婦円満にみえるものの、実はドナは夫のいない間に他の男と浮気をしており、後々トラブルを引き起こすことに。
そして自動車修理業を営むジョ・キャンパーと妻と子供という三人家族。この一家がセント・バーナードのクージョを飼っている。主人公のヴィクの家族と同じ家族構成であるものの直接家族同士の交流はなく、単に調子の悪い自動車を直してもらうという間柄。
こうした背景が示された後、クージョが狂犬病にかかり、物語は悪い方向へと進んでいくこととなる。
本書には前述した通りの2つの家族が出ているのだが、どちらもいたって一般的な問題をかかえている。それがうまく解決しそうな問題もあれば、今後もゴタゴタが続きそうなものもあるのだが、そういった普通の状況を狂犬病という異分子が吹き飛ばしてしまうこととなる。
車に閉じ込められる親と子の場面に関しては、もっとダラダラと時間が過ぎていくように描かれてゆくのかと思いきや、意外とスピーディーに書かれていたという印象。前半部が家族間の問題のみでやや退屈さを感じてしまうものの、その分物語の山を後半に持ってきており、後半部分は一気に駆け抜けてゆくこととなる。
キングの作品としては普通の部類に入るかもしれないのだが、最初からキングの作品を追ってきた人にとっては異色ともいえる作品であったらしい。というのも、今までの作品とは異なり、本書では超自然現象のようなものは一切なく、現実的な事象のみで語られる物語となっているのである。思いのほか、最後の幕切れに関しても驚かされたので、先入観を持たずに普通に読んでもらえればと思う。
あと、文庫版のあとがきには、ラストの部分のネタバレがなされているので読む人は注意されたし。
<内容>
西暦2025年アメリカ。そこでは貧富の差が激しく、貧しいものはろくな職業に就くこともできず、働くことさえままならない。ベン・リチャーズは妻と病気の子供をかかえながら、貧困に苦しんでいた。そんな状況を打開しようと、人々の唯一の娯楽・テレビのなかで行われる過酷なゲームに出場することを決意する。そして、ベンは“ランニング・マン”という番組に出演することとなる。それは、全視聴者を敵に回しながら、命をかけてアメリカ中を逃げ回るというもの。ベンはゲームの勝者となり、妻と子供に大金を渡すことができるのか!? ベン・リチャーズの逃亡劇が始まる。
<感想>
映画化されたシュワルツネッガー主演の「バトルランナー」のイメージが大きかったのだが、読んでみると全く異なる内容。どうやら、映画化するにあたって、原作の内容を大幅に変えた模様。確かに、この原作通りだと放送はできないだろうな。
思いのほか、思想的な社会派SF作品となっており、設定の濃さに驚かされる。また、章の番号が100から始まり、カウントダウンされていく方式となっており、それも物語に効果をもたらしている。なおかつ、各章が短めとなっており、スピーディーに読み進めることができる。
まさにキング(リチャード・バックマン名義で出された作品だが)の作品らしく、モダンホラーとしての内容が色濃く、決して良い話にならないところがポイントと言えよう。ある意味、近未来的ノワールとも言えそうであるが、主人公の造形といい、彼の強い信念といい、著者らしさが出ている作品。いや、映画化されたがゆえに色ものだなどと思っていたが、そんなことはなく十分に一読の価値がある作品となっている。
<内容>
「スタンド・バイ・ミー」
行方不明となっている少年の死体が森の奥にあるという話を聞きつけ、4人の不良少年たちは一泊二日の旅に出かけることに。
「マンハッタンの奇譚クラブ」
うだつの上がらないひとりの社員が上司に勧められ、古風なクラブへと出入りすることとなった。そこでは、奇妙な話が度々語られ、ある日、老医師が体験したとある妊婦との想いで話を聞くこととなり・・・・・・
<感想>
感想を書いていなかったので久々の再読。この時期に読むこととなったのは今年出た「ファイナルファンタジー15」につられてといこともあるかもしれない。
この作品は「恐怖の四季」と題され、春夏秋冬にまつわる四つの中編をまとめたもの。日本版ではそれを2分冊にし、ここでは秋と冬にまつわる二つの作品が収められている。
「スタンド・バイ・ミー」は、言わずと知れた有名作。といっても、小説よりもリバー・フェニックスが出演した映画とその主題歌のほうが有名であろう。この作品はキングの作品にしては当時では珍しく、ホラーではない内容のものとなっており、完全なる青春小説となっている。悪ガキといってもよさそうな4人の少年のちょっとした冒険譚が描かれたもの。
この作品で注目すべきは四人の少年が、破天荒な生き様を見せつつも、その先にあるのは現実的な未来が待ち受けているという事を達観しているところ。ゆえに、どこか無軌道な行動にも、現実を見据えたかのような哀愁がただよっているようにも感じられてしまう。まぁ、作品の構成として、主人公が大人になったとある時点から、若いころのことを思い出すという話になっているので、そう感じてしまうのも当然のことであるのだが。
もうひとつの作品「マンハッタンの奇譚クラブ」は、打って変わって大人の青春小説というような香りただよう小説。ただ、そのクラブ自体よりも、最終的にはそこで話されるとある医師の話がメインであり、そこに一番の焦点が置かれた作品と言えよう。
とある妊婦が産婦人科に登場し、そしてショッキングな分娩の模様までが語られてゆく。ここではキングらしい、ホラー作家としての一面が存分に発揮された作品と言ってよいであろう。見方を変えれば陰惨な話でありつつも、そうは感じさせない雰囲気の小説になっているところが魅力と言えよう。
<内容>
「刑務所のリタ・ヘイワース」
無実の罪をきせられて刑務所へ入れられたと主張するアンディー・デュフレーン。彼は、銀行に勤めていたという知識を生かし、刑務所内でそれなりの地位を築き始めていった。そんな彼がよろず調達屋に求めたのはリタ・ヘイワースのポスターであり・・・・・・
「ゴールデンボーイ」
外見といい、中身といい、典型的なアメリカの優秀な学生であるトッド・ボウデン、13歳。トッドは町に身分を隠して住んでいた元ナチスの将校、クルト・ドゥサンダーに近づき、その身分を皆に明かすと脅し、クルトを支配しようとする。それから二人の奇妙な交際が始まり・・・・・・
<感想>
「スタンド・バイ・ミー」に引き続き、再読。4作合わせて“恐怖の四季”というタイトルが付けられ、日本では2冊に分冊。以前感想を書いた「スタンド・バイ・ミー」には、秋編として「スタンド・バイ・ミー」、冬編として「マンハッタンの奇譚クラブ」が収録されていた。今回読んだものは春編として「刑務所のリタ・ヘイワース」と夏編の「ゴールデンボーイ」の2編が収録されている。
「刑務所のリタ・ヘイワース」は、脱獄ものとしては王道といってもよさそうな内容の作品。まぁ、すでに“脱獄もの”なんていうジャンルは流行ってはいないであろうが、こういう作品をキングが書いていたというだけでも貴重。また、単なる脱獄ものとしてだけではなく、刑務所内の生活の様子をまざまざと描いた作品としても見どころはある。エンターテイメント作品として読める内容。
「ゴールデンボーイ」は、ある種の問題作といってよいであろう。当時、編集者がこれを掲載するのをやめようかと考えたほどの内容。この“恐怖の四季”の四編のなかでは一番ホラー色が強く、キングらしい内容の作品と言える。
テーマは、悪と悪の邂逅とでも言ったらよいのであろうか。“悪”の小さな芽生えが、より大きな”悪”に染まることにより、過大な成長を遂げる。一見、少年の心に善悪の葛藤があるようにも思われるのだが、後半の少年の行動を見ていくと、元から善良な心などではなかったのかとも考えてしまう。老人との出会いがなくとも、少年は結局同じような道筋をたどってしまったのではないかと・・・・・・。古い作品ではあるものの、現代にも通じるところがある物語。
<内容>
1年を通じて毎月必ず一度は巡り来る“満月”。その満月の夜に繰り返される惨劇の謎。真実を知った車椅子の少年マーティに迫る殺戮者の魔手。メイン州の小さな町ターカーズ・ミルズを血に染めて恐怖の四季が巡り来る・・・・・・
<感想>
キングが依頼されて、カレンダー向けに載せるものを少し長めにして中編にしたものが本書である。そのため、ストーリー的に期待するようなものではない。
内容はそれでも、まさにB級ホラー要素満載となっており、狼男に車椅子の少年とくれば王道という他にない。キングファンはどうぞ。簡単に読めるし。
<内容>
妻と幼い子供二人と共にルイス・クリードはメイン州の片田舎に引っ越してきた。ルイスは近くに住む老夫婦の夫であるジャドと仲良くなり、生活も順調と思われた。しかし、クリード一家が連れてきた愛猫が死んでしまったことにより事態は一変する。死んだ猫の件により、ルイスはジャドからペット霊園にまつわる秘密を教えられることとなり・・・・・・
<感想>
本書は今まで読んだキングの作品とはちょっと異なるものを感じられた。今までのキングの作品については、超自然的なものを含んだエンターテイメント小説という感じでとらえていた。それが本書は、重いテーマを扱い、そのテーマにまつわる家族の様子を描いたものとなっている。そのテーマとは、“死に向き合う”というもの。
ルイスの妻であるレーチェルは幼いころに双子の姉妹を病気で亡くしており、死というものについて過剰に反応する。また幼い娘エリーもまた過剰に死というものに反応し、ルイスは彼女らがそれを目の当たりにしたときにどのように乗り越えてゆけばよいのかと悩むこととなる。そんな折に、“ペット霊園”というものの存在を知ることとなる。
本書は当然ながら、単なる普通小説ではなく、超自然的な内容のものも含んだ小説となっている。そしてその核となるものが“ペット霊園”というものであり、そこに埋められたモノは数日後、甦ってくるというもの。ただし、生者とも死者とも言えないような状態で。その“ペット霊園”の存在は口伝で、密かに町の人々に伝えられていたのである。
そうして親しいものが亡くなった時に、彼らがとる行動とは!? というものが本題となってくるのである。実は、この作品を読んでいる時は、そうした悲しみに対して家族で乗り越えて、という希望的な展開が待ち受けていると信じていたのだが・・・・・・いや、最後の章のカタストロフィはすごかった。まさに、ホラーの帝王といわれる著者の作品であるだけのことはある。数あるキングの作品のなかでも、色々な意味で非常に重い印象が残る一冊であった。
<内容>
弁護士であるウィリアム・ハリックは誤ってジプシーの老婆を車で引き殺してしまう。相手が特定の住居を持たないジプシーであることと、ウィリアムが羽振りのいい弁護士であることが幸いしてか、ウィリアムは特におとがめもなく罪を逃れてしまう。被害者であるジプシーの老婆のさらに年老いた親は、その事に怒り狂い、ウィリアムにジプシーの呪いをかける。それ以来、ウィリアムの体重はどんどんと減り続ける。彼だけではなく、裁判の担当判事と警察署長の二人もジプシーから別の呪いをかけられることに。ウィリアムはなんとか、その呪いから逃れようとするのだが・・・・・・
<感想>
リチャード・バックマン名義のキングの作品。ジプシーにかけられた呪いにおびえる男の恐怖が描かれている。
あやまって車で人を引き殺してしまいながらも、罪を逃れることができた弁護士。しかし、その弁護士が罪の重さを感じつつ、日々苦しむ様子が描かれている作品のようにも捉えられる。もしくは、相手がジプシーということで罪の意識を軽く思いながらも、無意識のなかで殺人を犯したという重要性に苛まれる様子が描かれているようでもある。当然のことながら本書は、そうした心理的な悩みだけで終わらずに、“呪い”というものが具現化された小説である。
体重が減りつつある(というか、なくなりつつある)弁護士が呪いから逃れようと、行動を起こしていくところからは全く展開が読めなくなってしまう。他の人物の力を借りてジプシーにプレッシャーを与えようとしたり、自身がジプシーと対決をしたりとさまざまな行動へと出ることとなる。そうして最後にはうまくいくかというと、必ずしもそうでないというか、ここでもまた予想外の展開が描かれることに。
あえてきちんとした顛末を描かずに、その先にもひと波乱ありそうな雲行きのまま終わってしまうことには微妙さを感じてしまうものの、この物語の展開であれば、こうした終わり方もひとつの手段かなと納得させられる部分もある。なんとも言えぬ後味の悪さがホラー作品らしくて良い。
<内容>
「握手しない男」
「ウェディング・ギグ」
「カインの末裔」
「死 神」
「ほら、虎がいる」
「霧」
<感想>
この作品1冊では「スケルトン・クルー」という短編集の1/3でしかないので、きちんとした判断はできないものの、これだけを読むとキングはやはり長編作家であると感じてしまう。ただし、ここに掲載されている作品が初期の作品であったり、デビュー前の作品であったりと、統一感のない寄せ集めとなっているようなので、この作品群だけでキングという作家を判断するのも無茶な話なのかもしれない。
「握手しない男」については、オチもつけられており、うまくできていると感じたのだが、それ以外については微妙と感じられた。
「ウェディング・ギグ」はホラーというよりも、ギャングの抗争を描いたもの。
「カインの末裔」はホラーを取り超えてやり過ぎと思えるような内容。
「死神」はキングが初めて書いた作品とのこと。そのためか、ホラーというよりは幻想小説のようにも思える内容。キングの出発点は特にホラーを意識していたというわけではないのかもしれない。
「ほら、虎がいる」はホラーはホラーのはずなんだけど、なんだかファンタジーというか・・・・・・いや、決していい話ではないのだけれども。
これらの短編群と比較すると「霧」はひときわ異彩を放っている。この「霧」は短編集の2/3以上を占めており、これだけで一冊の本としてもおかしくない分量。しかもそのストーリーの異様さに度肝を抜かれてしまう。田舎町で台風による被害のあとに唐突に発生した“霧”。やがて町はその“霧”に包み込まれることになるのだが、その“霧”の中では異様な生物がうごめいているのを人間達は目の当たりにすることとなる。
この作品を読んで思い起こすのが「ザ・スタンド」。これと同じような世界の終末を描いたかのような作品。ただし、田舎町のスーパーマーケットの中という狭い視点から描かれている。読み始めたときは、恐怖の存在がもっと抽象的なものかと思っていたのだが、思いもよらず直接的な存在が用いられていた。これは恐ろしいとしか言いようがない。突然、リアル・ファンタジーの世界に叩き込まれたら、人間はどのようになるのかが描かれている。さらには、霧によって隠されているために全貌が分からなく、孤立した状況であるがゆえに外の世界がどうなっているか分からないという不安定さが、さらなる恐怖をあおるものとなっている。
これを読むと、自分が登場人物だったらどのような行動をとるのだろうか? もしくは、どのような行動を取るべきなのだろうかと、つい考えてしまう。ごく普通の日常生活から、あっという間に異質な世界へと叩き込まれるような設定ゆえに、もし自分がと、容易に想像できるところがまた怖い。
<内容>
「パラノイドの唄」(詩)
「神々のワード・プロセッサ」
「オットー伯父さんのトラック」
「ジョウント」
「しなやかな銃弾のバラード」
「猿とシンバル」
<感想>
「骸骨乗組員」に続く分冊の2巻目。こちらは読み応えのある短編作品5作と1編の詩が掲載されている。特に「神々のワード・プロセッサ」と「猿とシンバル」は読み応えがあった。
「神々の〜ワード・プロセッサ」は作家にとってというより、一人の人間にとっての理想と希望を表した作品。キングの作品はどちらかといえば現実的な厳しさを表しているというようにとらえていたので、このような展開の内容に驚かされた。
「猿とシンバル」はキングならではの作品。抽象的な人間の恐怖を物質に置き換えることによって、より恐怖を強調するものとなっている。これぞモダンホラーと言えよう。
「オットー伯父さんのトラック」も恐怖を物質に置き換えたと言えるのだが、こちらは恐怖というよりも、どこか壮大なアメリカンジョークっぽく感じてしまう(内容はまじめな作品なのだが)。このへんの感じ方に関しては狭いに日本と広大なアメリカとの文化の違いによるものなのかもしれない。
「ジョウント」はSFファンであれば聞いたことがあるだろうが、アルフレッド・ベスター著の「虎よ、虎よ」のなかでのテレポーテーションを表す言葉。キングによるSF作品と言えるはずなのだが、なんかSFになりきっていないように感じられる。そんなわけでSF誌ではなく“トワイライト・ゾーン”という雑誌に掲載されたようだが、確かにそのほうが自然だと受け入れることができる。
「しなやかな銃弾のバラード」はホラー作家らしい設定と内容の作品。小さな小人が見え始め、次第に狂い始める作家と編集者を描いた内容。冗談のような話を決して笑い話とせず、恐怖と緊張を保ったまま描かれているところはさすがといえよう。なかなかの力作。
<内容>
「ミルクマン1(早朝配達)」
「ミルクマン2(ランドリー・ゲーム)」
「トッド夫人の近道」
「浮き台」
「ノーナ」
「ビーチワールド」
「オーエンくんへ」(詩)
「生きのびるやつ」
「おばあちゃん」
「入り江」
<感想>
“スケルトン・クルー”分冊の3巻目。今作もバラエティにとんださまざまなホラー作品を見せてくれている。
「ミルクマン」というタイトルで二つの話が語られているのだが、どちらも舞台は普通の日常生活のなかで語られているはずなのに、何故か終末の世界のような空虚さを感じさせるような作品。登場人物以外には誰も存在しない世界をイメージしてしまう。
「浮き台」と「おばあちゃん」の2作はホラー作品らしい内容。「浮き台」は海に浮かぶ油のような物体が怪物として具現化する物語。「おばあちゃん」は祖母に対する恐怖と“魔女”とを掛け合わせたような恐怖が描かれている。
「ビーチワールド」はSF世界を描いたような作品であるが、何故かキングが書くとSFっぽい感じにはらなずに“トワイライトゾーン”と呼びたくなるような作風になってしまっている。これはあくまでもキングがSFを苦手としているわけではなく、独特の世界を描くことができるキングの才能なのであろう。
「トッド夫人の近道」は車で近道を極めんとするばかりに異世界へと到達してしまうような内容。
「ノーナ」は心理的な恐怖を描くサスペンス・ホラー。
「生きのびるやつ」ではカニバリズムが描かれている。
「入り江」は恐怖というよりも、ひとりの人間の生きざまが描かれた作品。
以上、4作はホラーとしては異色かもしれないが、それぞれよい作品であった。
これで「スケルトン・クルー」として出版された作品を三分冊としてすべて読むことができたのだが、1冊1冊としてもそれぞれ濃い内容であると思えたので、これら全てがひとつの本であると考えるとものすごいなと感心させられてしまう。普通の作家であれば、これ1作出せば十分集大成といえそうな内容だと思えるのだが、キングにしてみればこれが氷山の一角にすぎないと思うと恐ろしいと感じてしまう。キングの短編集はまだ読んでいないものが多いので今後楽しみにどんどんと読み続けていきたい。
<内容>
デリーの町に1957年の頃から暗い影が差し始める。その後、デリーの町には多くの殺人事件や消失事件がおき続ける。誰もその理由に気づくこともなく・・・・・・ただし、7人の少年少女を除いては。
幼い頃、弟を亡くしたビル・デンブロウは“IT”の存在に気づいていた。デリーに潜む謎の影、それは時にピエロの姿をしていたり、さまざまなものに形をかえる。ビル少年ら7人は協力することによって、“IT”を退けたかに思えたのだが・・・・・・それから27年後、彼らは再びデリーの地に集まることとなり・・・・・・
<感想>
これは読んでみて、キングの代表作と言われるのも充分に納得のいく作品だと確かに感じ取ることができた。大げさな事をいえば、アメリカの近代文学の多くがこの本に詰まっているといっても過言ではないと思える(と、言えるほどアメリカ文学を知りはしないのだが)。
私は読む順番が前後逆になってしまったのだが、先に読んだ「暗黒の塔」という作品と多くのつながりがあり、それが「IT」と対を成すような作品であるということに気づかされた。何はともあれ、キングという名を聞いた事のある人であれば、ぜひとも読んでおいてもらいたい本である(今更になって読み終えた私が言うのも何なのだが)。これは、一生のうちに一度は読んでおいてもらいたい本の一冊に入る作品といえるであろう。
本書の内容で、一番大きく占めるものは、少年少女の友情と成長物語ではないかと思える。ホラー作品ゆえに、暗さと絶望さがそこにはあふれているものの、常に一筋の希望が差し込むように描かれている。その、暗さのみで物語を覆わない、一筋の希望のさじ加減が実に絶妙ではないかと思われる。
そこには、超自然的な絶望だけでなく、日常の中から染み出す、上級生からのいじめや親とのぎくしゃくした関係など、常に少年少女たちを苦しめるものであふれかえっている。しかし、それらも個人個人では手に負えなくても、彼ら7人の友情によって、それらの困難に立ち向かってゆくことができるようになる。
本書では決して、友情や希望というものが押し付けがましく描かれているものではないのだが、それらがうまくホラーというものを前面に出すことにより、ごく自然に受け入れられる内容になっているのである。
さらには、少年少女時代に過ごしてきた黄金とも言える日々が大人になることによって、徐々に消え行くという現実も物語全体を通して実に効果的に描かれている。
この作品は分量としてはかなり大めの作品であるのだが、最初のほうを我慢して読み続ければ、あとは自然と惹きつけられる興味によって読み進めることができるようになるであろう。是非とも、余裕のあるときに、この大長編に挑戦してみてもらえればと思っている。長きにわたる読了後、決して後悔する事はないであろう。
<内容>
小説“ミザリー”シリーズで御馴染みの作家ポール・シェルダンは新作が出来た勢いで酔っ払ったまま車で飛び出し、事故にあってしまう。その事故にあったポールを見つけ出し、彼を救い出したのはアニー・ウィルクスという女で、ポールの描くミザリー・シリーズの大ファンであると言う。アニーは何故か、ポールを病院へ運ばず、誰にも告げずに自分の家へと運び込み、彼を看病する。そしてあるとき、アニーが手にしたミザリーシリーズの新作の結末に納得がいかぬと言い出し、ポールに書き直しを命ずる。ポールは半身不随となって動けぬまま、ただアニーの言いなりになるしかなく・・・・・・
<感想>
映画にもなり、話題になったこともあるので、大筋だけは聞いた事があった。とある流行作家が熱烈なファンに自宅に閉じ込められ、彼女のために本を書かなければならなくなるという話。基本的な内容としては、ただそれだけなのだが、そういったホラー・サスペンス的な内容のみにとどまらず、本書の中にはキングの作家としてのスタンスが込められているといるということを実際に読んで発見する事ができた。
キングの作品を読んでいて常々思うことは、“長い”ということ。キングの本はページ数が多くて分厚い作品であるという印象が強い。これを今までは単なる冗長ととらえていたのだが、今回この「ミザリー」を読んだことにより、それはただ単に冗長という言葉だけでは済まされないのではないかと感じられたのである。
本書の中では作中作として、ポールがアニーに強要されて書くこととなる本、「ミザリーの生還」が描かれている。これは作中作ゆえに、ある程度大筋で描けばよいようにも感じられるのだが、この作中作までもがきちんと描かれているのである。これはアニーに強要されたゆえでもあるのだが、基本的な概念としては、物語上のつじつまをきちんと会わせるために、細部をこと細かく描く事が必要不可欠であるという考えからきているのである。
こういった考え方を作中とはいえ見せられると、今まで読んできたキングの本についても単に冗長というのみで終わらせるのではなく、キング自身の意図によって、ここまで細かく書く事が必要であるという意志が感じられるようになってくるのである。
ということで本書はホラー・サスペンス作品としても優れているというだけでなく、キング自身の作家としてのスタンスまでもが伝わってくる作品に仕上げられている。単純なサスペンスというだけではなく、なかなか深みのある作品として堪能することができた。
<内容>
純文学作家サド・ボーモントは、スランプを脱するために、新たなるペンネーム“ジョージ・スターク”を使い、血なまぐさい作品を書き上げていた。やがてスランプも脱し、もはやジョージ・スタークは必要ないと考えたサドは、世間にジョージ・スタークはサド・ボーモントであったと公表し、スタークの存在を葬り去ることとした。すると、“ジョージ・スターク”がこの世に現れ、自らを主張し、殺人事件を繰り返す。そして、サドに対して、新たな作品を書くように要求し・・・・・・
<感想>
なんとペンネームが実在の人物となり、元の作家を襲うという荒唐無稽の物語。スティーヴン・キング名義よりも、リチャード・バックマン名義で出版した方が似合いそうな内容であるが、そこまでペンネーム、ペンネームと続くとさすがにややこしいか。
主人公の作家サド・ボーモントのもう一つのペンネームがジョージ・スタークというのだが、この名前はドナルド・E・ウェストレイクがリチャード・スターク名義で悪党パーカー・シリーズを出版していることから“スターク”という名前を取り上げたとのこと。これは作中で言及している。
このジョージ・スタークが実在の人物となって、極悪非道な殺人を繰り返し、サド・ボーモントとその家族に迫るという内容。そこにアラン・バングボーンという保安官が巻き込まれ、極め付けにはキャッスルロックという地名が再来する。
一応、双子の片割れが一人の方に吸収されるという科学的な話が元となって語られる物語。ただし、内容はモダンホラーというよりも、B級サスペンス系ホラーというような安っぽい印象。前半は結構まともな話に思えたものの、最終的には著者のキングもジョージ・スタークを持て余してしまったのではなかろうか。結末が意外とおざなりのような感じに思えて、締まりがないというような。
<内容>
季節外れの10月に別荘である山荘で過ごすジェラルド夫妻。いやがる妻ジェシーをよそに、夫ジェラルド・バーリンゲームは、妻の両手を手錠でベッドにつなぎ、事に及ぼうとする。しかし、バーリンゲームは遊戯にふけようとする矢先、心臓麻痺で死亡してしまう。ベッドにはりつけにされたまま、ひとり取り残されたジェシー。だれも助けがこないまま、朦朧と時間が過ぎてゆき・・・・・・
<感想>
「ドロレス・クレイボーン」と同時期に書かれ、互いにリンクする場面があることを知り、続けて読もうと思っていたものの「ドロレス・クレイボーン」を読んでからずいぶんと時が空いてしまった。ただ、本書のあとがきを読んでみると、そこまで深くリンクしているわけではないので、あまり意識する必要はなかったよう。
それで、この「ジェラルドのゲーム」を読んでの感想なのだが、今まで読んだキングの作品のなかではワーストの部類に入る作品かなと。物語はセックスのプレイのさいに、夫が妻をベッドに手錠で拘束するも夫が心臓麻痺で死んでしまい、人里離れた別荘のなかでひとり妻が残されるというもの。文庫版で500ページの作品なのだが、この拘束された状態の描写がほとんどを占めるのである。これはちょっと読み進めるのがきつかった。
ベッドに拘束されている間、あたりを彷徨う野犬、ジェシーの過去の想い出、度々湧き上がる妄想、謎の人影等、あれこれと描写されるものの、それでも冗長という印象がぬぐえない。唯一の山場といってもよかったのは、拘束から抜け出そうとする凄惨な描写のみ。
また、最後の50ページくらいで、後日譚みたいなものが展開されるもののそれについても蛇足。全体的に200ページくらいの中編に収めてくれればよかったのにと思わずにはいられない。
<内容>
「そう、たしかにあたしは亭主を殺したさ」30年前に夫を殺したと噂される老女ドロレスに、再び殺人の容疑が。彼女の口から明かされる二つの死の真相。皆既日食に悪夢のような風景のなかに甦る忌まわしい秘密。罪が生み出す魂の闇。アメリカの女性の悲劇を余すところなく描き出す、慟哭の心理ミステリー。
<感想>
一人の老女によっての語り口で全編が描かれている。最初はとっつきにくく何度か読むのをやめかけたりしたが、話しが進むに連れて目が離せなくなっていった。
事件性というものはなく、あくまで告白なのだが、老成した女性の語り口がどうどうとしていてなぜか見事にさえ感じられる。そしてドロレスとヴェラの憎しみしか感じられないのかと思われる長い生活の中に、奇妙な互いを認め合ったかのような友情が静かに語られる。語られた話しの中では、夫を殺害することになるいきさつやそれらにまつわる悲劇よりも、ドロレスとヴェラの奇妙な生活の話しのほうが印象付けられた。そしてそこに二人の強く生きようとせねばならなかった女性の強さと、寄り添い支えあう哀しさが強く感じられた。
<内容>
「ドランのキャデラック」
「争いが終わるとき」
「幼子よ、われに来たれ」
「ナイト・フライヤー」
「ポプシー」
「丘の上の屋敷」
「チャタリー・ティース」
<感想>
“ナイトメアズ&ドリームスケープス”と銘打たれた短編集。キングの発表した短編のみならず、中編等々色々な作品が収められている。ハードカバーでは2分冊なのだが、文庫では4分冊と読み応えがかなりありそうな作品集。これは存分にキングを堪能することができそうだ。
前に発表された短編集“スケルトンクルー”後の短編作品が集められているのかと思いきや、実はキング自身がずいぶん昔に書いた未発表作品を後から発表したりということもあり、決して新しいものだけではない。過去から現在まで色々な内容のものが収められている。
本書のなかで一番と感じたのは表題にもなっている「ドランのキャデラック」。これは一冊の本として出版されていたようでもあり、読み応え十分な内容。ひとりの小学校教師がギャングのボスにとんでもない方法で復讐するというてん末が描かれている。恐ろしさと壮快さが入り混じる作品。
「争いが終わるとき」という作品も趣向が変わっていて面白い。世界を滅亡させる原因となった過程が描かれている。じわじわと恐ろしさが伝わってくる。
「幼子よ、われに来たれ」は厳格な女性教師が主人公となる内容であるが、虚実と現実が入り混じり、次第に何が真実かがわからなくなってくる。そして女性教師がとる行動がまた衝撃的。
「ナイト・フライヤー」と「ポプシー」は吸血鬼ものというか、怪物ものというか。これらは結構普通であったかなと。やや古臭い内容のような印象。
「丘の上の屋敷」はなんとキングが描く災厄の町、キャッスルロックのその後を描いた作品。キング作品のファンであれば感慨が深いことであろう。
「チャタリー・ティース」もちょっとした災厄というか、事件を描いたものなのであるが、なんかじわじわとくる内容。結局良い話なんだか悪い話なんだか・・・・・・とりあえず良い話だと信じることにしよう。
<内容>
「献 辞」
「動く指」
「スニーカー」
「いかしたバンドのいる街で」
「自宅出産」
「雨期きたる」
<感想>
“ナイトメアズ&ドリームスケープス”文庫分冊版2冊目。今回もまた、癖になりそうなキング節を堪能できる内容。強烈! というほどの作品はないものの、じわじわとくる内容の作品が集まっている。
「献辞」は、決して序文ではなく一つの作品。作家となった息子をたたえる母親の口から語られる秘密の話。恐るべきというよりも、虚偽の区別がつかないような内容ではあるのだが、最後に明らかとなる証拠が提示される。
「動く指」は迫りくる怪物を描いた作品。それは、巨大ワニではなく、蛇でもなく、なんと人間の指! あくまでも“指”のみ。指が排水溝から迫りくる。
「スニーカー」を読むと、「動く指」に続いて、トイレ・ホラーか? と思ってしまうが、これはこれで面白い。真実が明らかにされるのを待つ幽霊ものといったところか。
「いかしたバンドのいる街で」は、“ロックンロールは不滅だぜ!”といいつつも、本当に不滅だったら、それはそれで困る話。
「自宅出産」は、タイトルからして地味な内容かと思いきや、やけに大きな話に広がって行く。最終的には、また小さな所に帰結するのであるが。「ザ・スタンド」の外伝という気がしなくもない。
「雨期きたる」は、とある街に迫りくる特有の“雨期”を描いたもの。かなり恐ろしい話なのだが、それに普通に対処する街の住人達の様子もある意味恐ろしい。
<内容>
「かわいい子馬」
「電話はどこから・・・・・・?」
「十時の人々」
「クラウチ・エンド」
「メイプル・ストリートの家」
<感想>
“ナイトメアズ&ドリームスケープス”文庫分冊版3冊目。
「かわいい子馬」は、ちょっと異色の内容で、殺し屋が登場する作品を書いたもののボツとなり、そのワンシーンを短編として起こしたものとのこと。これのみを読むと、いささか唐突な教訓めいた話ということになるのだが、背景を知れば納得。
「電話はどこから・・・・・・?」は、サスペンス風というか、ホラー風の内容になっているのだが、話が進むとまさにキングらしい“トワイライトゾーン”的な内容であることが理解できる。
「十時の人々」がこの巻のなかでは一番の力作。禁煙がブームとなることにより、一か所に集められた喫煙家の人々を見たときに思いついた作品とのこと。彼らが一つの集団となり結束し、予想だにしない一群と闘いを繰り広げることになるという恐るべき展開。長編にしても面白かったかもしれない。
「クラウチ・エンド」は消失した夫を探す妻の話なのだが、その前の「十時の人々」の話が強烈過ぎて、こちらがやや淡白に感じられてしまった。悪くない作品とも思えるのだが、ありきたりな感じで終わってしまったという印象のみ。
「メイプル・ストリートの家」が、また違った感じでぶっ飛んでいて良い。いじわるな継父を扱った小説というのは少なくないと思われる。虐待やらDVやら、そういった作品と言うのはよく見かける。ただ、この作品のような解決方法というのは類を見ない。何で? とか、どうして? なんて聞くのは野暮。どんな結末が待っているのかは是非とも読んで堪能してもらいたい。
<内容>
「第五の男」
「ワトスン博士の事件」
「アムニー最後の事件」
「ヘッド・ダウン」
「ブルックリンの八月」
「乞食とダイヤモンド」
<感想>
キングらしくない作品ばかりが集められた1冊。パスティーシュから野球エッセイまでと、意外とキングの仕事も幅広い。
ただ、読み物として満足いくというほどのものはなかった。「ワトスン博士の事件」がやや楽しめたくらい。キング流のホームズというのも、ほかのシャーロキアンの人たちが書くものとはまた違い、それなりに味がある。ホームズ譚らしからぬ密室殺人の謎を、なんとワトスン博士が解き明かしてしまうというもの。
「第五の男」は、ギャング風味の小説。「アムニー最後の事件」もパスティーシュらしいが、こちらは元がわからなかった。
「ヘッド・ダウン」は息子の野球観戦をしながら、地域のリトルリーグについて書き記している。その情景を詩として描いたのが「ブルックリンの八月」。「乞食とダイヤモンド」はおまけで、教訓めいた聖書のなかにあるような物語。