<内容>
元女優で現在はデザイナーをしているグリゼルダ・サッターリー。彼女はある日、突如二人の男に出会い、有無をいう暇もなく、自分の部屋に押し込まれ、“青い玉”はどこにあるのかと聞かれることに。その後、その“青い玉”を巡って、グリゼルダは謎の双子から付け狙われ、さまざまな事件に巻き込まれる。グリゼルダの姉妹や元の夫であるコン・サッターリー、さらには警察をも巻き込み、“青い玉”を巡る騒動は拡大してゆき・・・・・・
<感想>
なんか不気味な話であった。初っ端から、話の全く通じない双子の男が主人公を連れて家に押し入ってくる場面が繰り広げられる。それのみでも寒気がするのだが、登場する人物の誰もが奇妙な者ばかりで、それも物語にさらなる不気味さを付け加えることとなる。
明らかにモラルを欠いていると思われる双子の兄弟。その双子と同様の匂いのする主人公の妹。ひたすら自分の行動をひた隠しにする元夫。親切で常識人かと思いきや、身分を偽る隣人といい、登場する誰もに不穏なものを感じてしまう。さらには、主人公自身もたいした意味がなく“青い玉”の存在をひた隠しにしており(実は夫への未練からか?)、別に手放したところで主人公にとって何のデメリットもないのではと思えてならなかった。
とにかく、奇怪で奇妙な物語。今でいえば、モダンホラーというような位置づけなのだろうが、当時はスリラーなどと呼んでいたもよう。まさにスリラーという語呂がぴったりマッチしている内容の作品であった。
本書はスパイ小説で有名なドロシー・B・ヒューズという作家のデビュー作であるとのこと。それがなかなか訳されなかったので、記念碑的作品とは言えそうであるが、これが万人受けする内容かというと微妙。とにかく、物語云々よりも登場人物自体やその行動がひたすら不気味な作品という感じのみ。
<内容>
「ピカデリーパズル」(1889年)
「緑玉の神様と株式仲買人」(1893年)
「幽霊の手触り」(1899年)
「紅蓮のダンサー」(1906年)
「小人が住む室」(1986年)
<感想>
作品が書かれた年代を見ると、かなり昔に活躍した作家だということがわかる。作者のファーガス・ヒュームって聞き覚えがないと思っていたら、そういえば扶桑社文庫「横溝正史翻訳コレクション」に「二輪馬車の秘密」という作品が掲載されていたのを思い出す。この作品集では5作品が掲載されていて、「ピカデリーパズル」と「小人が住む室」は200ページ弱、他の3編は30ページ程度の短めの作品になっている。
「ピカデリーパズル」は、駆け落ちした二人の男女と、町で発見された身元不明の女の死体が問題となる作品。一応、ダウカーという探偵らしき人物が出てくるのだが、推理をするというよりも、ひたすら証言を聞きまわり、それにより判断を行うという捜査を繰り返している。最終的には“ダウカーの失敗”という副題を付けてもよいような内容。ストーリーとしては面白いのだが、証言のみに振り回される探偵と、結局真相は犯人による告白というところが、この作品の評価を低くしているのではなかろうか。とはいえ、この年代のミステリって、だいたいこんな感じのものなのかもしれない。
「緑玉の神様と株式仲買人」は、内容は異なるものの「ピカデリーパズル」を短くした作品という感じ。こちらも探偵がひたすら証言を追いつつ捜査をしていくというもの。結末も「ピカデリーパズル」に酷似しているような。
「幽霊の手触り」は、ホラー風の作品。語り手が幽霊屋敷で奇妙な体験をする物語。ホラー風でありつつも、何気に現実味のあふれる結末が待ち受ける。
「紅蓮のダンサー」は、復讐劇。なんとなく超自然的なものを匂わせてはいるが、実は普通に復讐が遂げられるという話。
「小人が住む室」は、ミステリというよりもファンタジックな物語。自分の出生について知らぬ若きバイオリン弾きが、その素性を突き止める旅に出ている途中、とある屋敷に迷い込み、そこで小人に出くわすという物語。物語が嫌な方向性へはいかないので楽しんで読むことができる。バイオリン弾きの人生と、小人にまつわる家系の話がやがて交錯していくところに魅了される。
<内容>
学校を卒業後、亡くなった両親からの配当金を頼りに詩人として細々と生活する青年コリン・レヴェル。ある日彼は母校の校長から学校で起きた事故について調査してもらいたいと手紙で依頼される。レヴェルは学生の頃、学校で起きた事件の謎を解いたことがあり、その実績から彼が選ばれたようである。
学校へ行って事情を聞いてみると、ガス灯用具が生徒の頭に落ちて死亡するという事故が起きたようなのだが、その生徒が奇妙な遺言状を残していたというのである。しかし、特におかしな点は見当たらず、事故ということで結論付けられることになったのだが、その後またもや生徒の事故死が起こることに。しかも、前に事故死した生徒の兄が・・・・・・
<感想>
2005年の復刊フェアの際に購入した作品。ようやく読了。それで読んではみたものの・・・・・・うーん、色々な意味で微妙。
まず、読んでいるときに感じたのは“学校の殺人”というタイトルで学校が題材になっているにもかかわらず、学校という雰囲気やにおいが一切しない作品であるということ。物語の展開の全てが学校をとりまく大人たちの視点によって進められている。これは、せっかく学校というものを題材にしたというのに、ほとんどそれが生かされていないというのはもったいないのではないだろうか。
また物語上、重大な役割をになうこととなる寮監の妻というエリングトン夫人の存在が妙に浮きすぎているように思える。そしてその奇妙な浮き具合により、本書で展開される物語が、このエリングトン夫人を中心に周っているということがわかる。
さらには探偵であり、主人公であるはずのレヴェル青年。この主人公が全く探偵として機能していなかったと感じられた。本書では通俗の探偵小説とは異なる、読者に予想をさせない展開というものが一つの売りのようだが、1932年当時であれば確かに一風変わった作品と思われたのかもしれない。ただし、現代においてはその展開について、特に注目するようなものは感じ取れなかった。
本書も古典として、このような作品がありましたという位置づけの作品といってよいであろう。年代順に推理小説の発展になぞらえて考えていけば、注目すべき点が見つかるのかもしれない。また、“チップス先生”など文学作品を書いていた著者がミステリにも手を染めていたという事実や、その当時の文学作家の多くがミステリにも着手していたという歴史的な面について着目してみるとまた面白いと思われる。