<プロローグ> 泣き崩れた私を憐れみ、ミロのヴィーナスは云った。  「あなたを助けてはあげられない。私は腕を失っているから」 孤独の中に、慰めも無い果てしなき道を、苦しみに満ちて歩き続ける。 私の呼びかけは、光にかき消され、私の叫びは、闇に呑み込まれる。 聞こえる。 私の棺を創る、心臓の高鳴りの音(ね)が。 黒い花が、私の墓に咲いていた。 悲しげに、嘆きのように。 広い世界で、たったひとりで、愛と救いを求め彷徨い歩いた。 彷徨い疲れし私を癒す場所はどこにあるの? 見つける事ができず、痛みをひきずりながら生きている。 望みも全て砕け、私は屍のごとく横たわる。 荒れ果て、淋しく続く道端に。 暗い夜の幻の中に、失われた喜びの夢を見た。 しかし、生命と光の夢よりね目覚めて、私に残されたのは、ただ破れた心だけだった。 神よ、私の希望が果てない夢であったとしても、私の生命が永遠の光で朝をもたらすまで、目覚めさせないで下さい。希望の無い悲しい夢であったとしても、目覚めた冷たい混沌とした現実よりはいい。 この世は闇ばかり。 何も無い。 闇に座って、怯えながら、いつまでも泣いていた。 絶望の長き道端に横たわり、死を待ちながら「光あれ」との囁きを待っていた。 神よ、愛と救いを・・・。    <第一章・マリア> 「いくら?」 「5。」 「5は・・ちょっとなあ。3万じゃダメ?」 「・・いいよ。」 思えば、暗い心にも優しい光は差した。 今ではそんな光も消え、すっかり闇に包まれている。 星のない冷たい夜、暗く大きな扉を開いた闇の奈落へ向かった。 「いいねえ、そのセーラー服。すごい興奮しちゃうよ、おじさん。」 男は気付かない。ここが自分の墓となる事を。 私は無言でセーラー服のリボンをほどき、男の腕を後ろで縛った。 「え?何々?ソフトSMってやつ?いいねえ、どんな事してくれるの?」 この男は何もわかっていない。サデイズムとマゾヒズムは表裏一体で、出どころは同じだ。両者を結びつける1本のラインは、厳格な強い理想に支配される、自我がもたらすモラルだ。 私は、ポケットからバタフライナイフを取り出した。 「あなたは私の宝石となる。」 一瞬、男の眼に脅えと恐怖が浮かんだが、プレーのひとつだと思ったらしい。 リアルな心が壊れ、心を噛み破る疑いや不信を、官能が生命の心髄を食べ尽くし、男は快楽を望む憐れな愚像となった。 私は静かに近づき、ナイフを男の心臓の前にかざした。 「ナイフの先で、心が震えてる。」 「うんうん、もうドッキド・・・」 腐った言葉が言い終わぬ間(ま)に、私は何の躊躇いもなく、男の喉を刺した。見開いた驚愕の瞳に永遠の闇が訪れるまで、墓場に沈んでゆく男を見つめていた。 私の官能には、狂気が宿る。 「もうすぐだよ。あなたが私の宝石となるまで。」 ラブホテルのみすぼらしいベットは、棺へと変わった。 私は丁寧に両眼をえぐり、取り出した。 どんな高価なダイヤより、私は美しい宝石を手に入れた。その宝石をそっとビンの中へ送り込んだ。 私は幸福に崇拝した。 私の心に、またひとつ黒い花が静かに咲き出した。 神に与えられた花が。 私の部屋は、どこよりも素晴らしい美術館だ。美しい宝石達が神々しく陳列され、そして今日も麗しく輝く宝石が加わった。 老醜をさらけ出すだけの身となった状態では、死を惜しむ必要はない。 死にゆく人間は、生きている間の最も重要なものを失う。 心から湧きい出る狂乱にまみれながら、輝かしい宝石達に見つめられ、私は闇に満ちて眠りについた。 太陽の仄暗き煌めきに、東の空は明るみ、光が流れ込む。 光を増して輝き出した静かな朝、私の胸はおぞましい闇がもたらす光につかまれた。到る所で私に漂い、到る所で私を呼ぶ。 風の響きの中、波の呻きの中、そしてこの胸から脱れ出る吐息に、常にその呼び声が響く。   「・・・マリア・・もうやめて・・・マリア・・・・」 苦き言葉よ、仄暗き悲しい声よ、孤児(みなしご)となって、消えゆく姿を探して漂うがいい。その幻の姿に巡り遭う日を、私は与えない。この身体、この心は私のものだ。 あんたには返さない。 冷えびえと、夜が濡れるのを待った。 退屈な現実の翼をつけた私は、空想の糸を辿っていた。 時は微かに低く息づき、夜のとばりがこの世を覆った。 私は行く。新たな宝石が、私を待っている。 悲しげに月は眺め、淋しげに星は光った。 私は闇へ導かれ、幸福のがらくたが足元に投げ出された外界へ出た。 私の野生の闇は、過去の伝説にもない、最も強い支配力に満ちている。 死は毒ある海の中、そして深淵には淋しいもの思いの慰めを求める者に、その孤独な魂が、あの薄暗い海を楽園と思う者にふさわしい墓を与えてあげよう。 私は救世主だ。 この世の、偽りの仮面を被った顔達が、気味悪くぼんやりと私を見つめる。 笑いとつぶやき。ため息とざわめき。 独り、月の光に照らされ、ひっそりと座る原石を見つけた。 「おじさん、何してるの?」 「え?あーいやあ、月がきれーだなーと思ってね。」 その腐った眼でも、月は綺麗に映るものなのか。 「今日は満月だね。満月の日は、すてきな事が起こるんだよ。」 「すてきな事かあ・・じゃあこうしておじさんと君が出会ったのも満月のおかげかな?はは、何てね。」 満月のせいではない。これは神の運命(さだめ)だ。 「でもこんな夜遅く、君みたいに可愛い子がウロウロしてると危ないぞ?最近は物騒な事件も多いし。ほら、君もテレビよかで見て知ってるでしょ?目ん玉くり抜く連続殺人。あーでも犯人は女らしいからなー。もしかして君だったりして。はは、冗談じょーだん。君みたいな可愛い子ちゃんは、あんな狂ったこたーしないもんねえ。いやーそれにしても、おかしな人間が多いねえ。」 男の臭い息と共に、長々と無意味な言葉が私の脳に注ぎ込まれ、私の心は苛立ち狂い始める。 おかしな人間は、おまえの方だ。幼児性欲に塗れた狂った思想のクズだ。 こいつは宝石じゃない。原石でもない。 この時から、自分の中の歯車が、少しずつ狂い始めた事に、私はまだ、気付かないでいた。 「近くに居酒屋があるからさあ、おじさんがおごってあげるから、さあ行こ行こ。」 「・・いいよ。」 おとこはヘラヘラと汚い口元を歪ませ、腐った眼で私の体のラインを舐める様に見ながら、自分の墓場となる場所へ向かった。 「それにしてもあれだね、君はポーカーフェイスってやつだね。それもいいけど、笑顔はもっと可愛いんだろうなあ。」 私は笑った事がない。笑い方も知らない。 私の顔から微笑みというものが消えて、長い月日が流れた。長い月日が去った。 偽悪な愛を語り合う、気味の悪い男女のざわめきが漂う居酒屋で、幸せそうにビールを飲んでいる目の前の男。 吐き気がする。 ここは私の居場所じゃない。こんな所に居ては。、私の心の根が干からびてしまう。声なき苦熱の会話で。 「おじさん、もう出よ。」 「え?今来たばっかりで?帰っちゃうの?」 「ううん。静かな所でゆっくりしたい。」 男は好機と卑猥な眼でささやいた。 「じゃあ、ちょっと休憩しに行こうか。」 そう。墓場は静寂が支配する場所でなければならない。 ラブホテルという名の墓場に着き、ベットという名の棺に男が腰を下ろした瞬間、男の腹を刺した。 汚れたその頬に赤味がさし、汚い口元が恐怖に震え、見開いた眼が苦痛を耐えている。 「・・な・・なん・・・どうし・・て・・こ・・・」 男の声は、私には届かない。 私は何度も何度も繰り返し、男の体に正義の剣を振りかざした。 「聞こえる?神の声が。見える?神の光が。聖なる神は闇の中にいるよ。」 私の心の奥底で、何かが変化している。 なぜ? 心から、とめどなく血が溢れる感覚に襲われる。 かつて体験した事のない恐怖におののき、耐えがたい苦痛に、私は叫んだ。 「苦しみの重荷にいつまでも耐えしのべ!苦しめ!苦しめー!」 手が、何かによって操られているかの様に、肉を突き刺す動きは止まらない。 熱く濁った血が私に降りかかる。 男は臨終の叫びをあげ、血塗れになり、悶えてのたうち回った。 墓場は、死と夜と沈黙が支配していた。 今まで集めた宝石達への想いがわき、そこにはただ、沈黙と暗い哀しみ。 潜んでいるのは、声なき死。 迷宮に導かれる様に、鏡の前で立ちすくんだ。 私の身体に住みついた男の血を、暗い瞳で自分の姿を見つめながら、身体中に擦り付けた。 私は見た。 鏡の中で、涙を流している自分を。 涙を知らずにいた私の頬に流れた時、 「目覚めよ」と、神の声が響いた。 私は嘲笑った。 初めての笑いだった。 あてどなく彷徨い、いつしか自分の部屋の窓際で、闇を見つめて泣いていた。 地に翼を垂れ、身悶えむせび泣いた。 夢の中で、私は聞くだろう。 彼女の声を。 「・・・マリア・・・」 麗しく輝く星よ、遠き彼女に告げよ。 私は、心の痛みをひきずりながら、生きていると。 私は、支柱を失った枝になった。 いつかこの枝が樹となり、飾る時が来るのだろうか。 宝石達を次々に壊していった。宝石ががらくたに変わるたび、私は変化していくのを感じた。 今や、猟奇性、快楽性の堺界は拡散した。 私は神だ。 狂乱の神の裁きを受ける者達よ、このみなぎる力で、永遠の闇に葬り去ってあげよう。 もう、恐れるものは何も無い。 「・・・マリア・・・だめ・・・マリア・・・」 あの声がまた聞こえる。何も気にとめる事もない。 彼女へ告げた。 ねえ、私は神なのよ? この日から、無差別に殺人を楽しみながら繰り返した。 どれくらい月日か流れた頃だろうか。 退屈の影が、私から逃れずにいた。 そんな日の夜だった。 あの日、妙に月の光が香しい花々に微笑みかける様に照っていた夜、あの男に出逢った。       −−−−たかしーーーー その男によって、私の全てが変わり始めるのだった。 マンションのエレベーター乗る男を見つけ、閉まりかけたドアを、私の手が止めるより早く、その男はドアを開き、私を中へと導いた。 バカな男だ。自ら死を導いている。どんな裁きを下してやろう。 「君、病気でしょ?」 突如、男の口から発せられた言葉に、私は戸惑い、声が出なかった。 「僕を殺すつもりなんでしょ?君、名前は?」 男は微笑みながら言った。 「・・・マリア・・・。」 無意識に名を言っていた。 なに?この男はいったい・・。思考の糸が絡まって、ほどけない。 エレベーターの扉が開いた。 「おいで、マリア。」 私は夢遊病者の様に、男の部屋へと入っていった。 天国の果てへと続く部屋とも知らずに。 殺風景な部屋に、黒いソファーがひとつ。ガラスのテーブルには、タバコの吸い殻がたまった灰皿が置かれていた。 ソファーに座った男は、隣へ座るようにと私を促した。 「おいでよ、マリア。」 壊れそうな程、心臓が高鳴っている。 何なの?この感覚は・・? ・・・こわい・・・ 力を振り絞り、しわがれた叫びを吐いた。 「・・な、何なの?!・・あんたいったい誰よ!私は、わ、私は人殺しよ! 今まで、数え切れないくらい大勢の人間を殺してきたのよ!この手で! あ、あんたも殺すのよ!・・な、どーしてよ!何でそんな眼で私を見るのよ! ・・どうし・・て・・何なのよおーーー!!」 私は床に崩れ落ちた。眼の焦点が定まらない。 男は静かに私の前にしゃがみ、頭を撫でた。抵抗する事が出来ない。 「たかし。」 「・・え・・?」 「名前だよ、マリア。僕の名前はたかし。」 息苦しい。心臓が壊れそうだ。 「マリア。君の瞳は闇の輝きで満ちているね。」 頭がくらくらする。 「僕が、君の闇を永遠に葬り去ってあげる。マリア、恐れないで。」 何をいってるの?どんな意味なの? 気が狂いそうだ。私は悲鳴をあげた。心の悲鳴が鳴り止まない。 気付くと、私の叫びは静寂に変わり、たかしの胸に包まれていた。 「マリア、僕が救ってあげる。マリア、僕が愛してあげる。」 救い?愛?そんなもの知らない。 「僕がマリアを愛し、救う事が許されないのであれば、僕の生きている意味は、どこにもない。」 いつの間にか、無意識にたかしにしがみつき、幼い子供の様に声をあげ、泣きじゃくる私がいた。 私の髪を優しく撫でながら、たかしは言った。 「マリア、時々聞こえてこない?どこからか、君の名を呼ぶ声を。」 もうろうとしながら私はつぶやいた。 「・・・聞こえる・・・。」 「あの声は、君の声だよ。」 その日から、たかしとの生活が始まった。 仕事に行っている間、何をしても、どこに行ってもいいと、私に鍵を預けた。 どれくらいの月日が、たかしと共に流れたのだろうか。 日に日に、私の心に変化が起こる。 怖くはなかった。 たかしと出逢って以来、人の命を奪う事をしていない。 私の心、いや、私の全てが、たかしへの想いで満ち溢れていた。 「・・・たかし・・・。」 ざわめきの中で、ふと、つぶやいた。 「ただいま、マリ・・」 言葉が言い終わらぬうち、たかしにしがみついた。 涙が頬を伝った。 たかしは無言で、私を強く抱きしめた。 穏やかな日々が過ぎ去った。 静かなる月に、花が仰ぎ、星がひとつ、落ちる。 その星ははじけて、私の心に注ぎ込まれた。 その日、たかしは静かに、ゆっくりと私に語りかけた。 「マリア、愛してるよ。」 はじけて注ぎ込まれた星が、涙に変わった。 「私も愛してる・・・愛してる・・・。」 運命に導かれる様に、くちづけを交わした。 彼女の、いや、私の声が聞こえた。 「・・・マリア・・・」 天使の様な声だった。 安らかなる天国への道が見える。 愛しいたかしの腕の中で、私は幸福の眠りにおちた。 覚める事のない、永遠の眠りに・・・。