「遺書。」(こっこ アルバム「ブーゲンビリア」より)

初めてこの歌詞を読んだ時、自分の心の中に自分でも気づかずに放置されていた感情に出会った気がしました。

「うん、そうなんだよ」って、歌詞カードに話し掛けたくなるよう な、自分にしっくりくる感じがありました。

私は死ぬのがとても怖いです。

小学5,6年生のころだったと思うのですが、毎夜「死ぬのが怖い」泣いたことがあったり(^^;

そのころから、時々「死んだらどうなるのか」みたいなことを想像するようになったのですが、

私はやっぱり死んだら、そこにあるのは「無」だと思うのです。

つまりは何もないってことですね(−−;

「自分が自分でない」状態ってどんな風だろう???

夢も見ずに寝ている状態が1番近いのかな

と、そのときの自分を思い出そうとしてみるけれど、思い出せるはずもなく。

「何も感じない」

この一言につきるのでは、と思う。それは、やっぱり本当に怖いのですが・・・。

まぁ、「死」に対する考えはさておき、

「何も感じない」

なら、自分の死後、自分の愛する人がどうなろうとある意味関係ないわけで。

遺書は、死後の自分への、自分がかかわった人への祈りかもしれないと思うのです。

(財産分与とかの話となると、これまたぜんぜん別ですが(−−;)

私は友人と、自分が死んだら何を置いてもとりあえずすぐに自分の家にきて自分の日記を回収するという約束を取り交わしているのですが、

これも一種の遺書だったり?

こちらは、あまりに若さゆえ(?)暴走してる日記を親に見られることを阻止するという、切羽詰った(?)約束なのですが(苦笑)

死んでしまったら、たとえ親に見られたところで、親はもう私に一切の影響を及ぼすことができないわけで。

親がどんなに嘆いたとしても、私は2度とお小言を食らうこともないわけで。

それならば、本当は日記を見られたところで、びくともしないわけなのですが。

それでも日記を友人に託そうとするのは、少なくとも自分の中では、どこかで自分のことを忘れないでいてもらいたいという気持ちが働いているような気がするのです。

死んでしまったら何も残らない。

自分がいなくなっても、ちゃんと地球は1日1回転して、朝がきて、日が暮れて・・・ちゃんと続いていくのです。

結局は幻のように、存在したことも忘れられてしまう自分だけれど、せめて自分が好きになった人くらいには、自分のこと忘れないでもらいたい。

「私の誕生日だけは 独り、あの丘で泣いて。」

誕生日じゃなくてもいい、1年に1度でもいいから、私のことをしのんでほしい。

いつか誰か、自分がすごく好きになった人に、この歌を贈ることができたら、そう思ったのですが・・・

「いつか誰かまた求めるはず。愛されるはず。そうなったら幸せでいて」

なぁんて、まだ生きてる、そしてこれからも生きていく気満々(笑) の私は独占欲やら、嫉妬やらにとらわれてしまっているので、言えません。

まぁそれでも、本当に私が死んでしまった場合

自分の愛する人には、「何も感じない」存在しない自分を思ってネガティブに不幸に生きていくのではなく、

また誰かを愛し、愛されて幸せに生きていってほしいと思います。

でもやっぱり、そういう場合にこの歌を贈ろうとしたとしても

「私が前触れもなく ある日突然死んでしまったなら あなたは悲しみに暮れては 毎晩泣くでしょう。」

なんて、そんな自信(?)はなかったりするわけで。

やっぱり、この歌を私の遺書がわりとして誰かに残すことはないのでしょう。

でもこの歌は、私の秘かな(って、ホームページに載せておいていうセリフじゃないですけど(苦笑))願いです。

(そういえば、こっこの「遺書。」の英訳は「A Will」となっているのを思い出してみたり。)

いつか遺書を残すようなことがあったら、きっとこの歌に類似するようなものを残すんじゃないかな。

お墓なんていらない、死んで形のない私に、形のあるものはいらないから、

形のない思い出の状態で、いつまでもそばにおいてほしい。

「みんなぁー、私が死んでも私のこと忘れないでねー!」

結局はそう言いたいんです、多分。

死んでも、私のさびしがりはなおらないのさ、って開き直ってみたりして。

実際私が死んだ後に、誰かの心の中で私が開き直っているとしたら、

その誰かさんこそ、私が「遺書」を贈りたい相手なのかもしれません。

  

  

  

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