現ウイグル作家協会会長である、マムットイミン・オシュール氏の代表作品、

『砂に埋もれた街』から第一部「諸国を行脚したスプルガ」を公開します。

 

 

 

 

砂に埋もれた街

 

マムットイミン・オシュール

 

江上鶴也 訳

 

 

 

 

第一部      諸国を行脚したスプルガ

 

第一章    太陽王

 第二章    諸国を行脚したスプルガ

 第三章    逃げた王子

 第四章    月夜

 第五章    あんた残れ、旅人

 第六章    死体

 第七章    街壁のない街

 第八章    不思議な知らせ

 第九章    憂いなき街で戦争

 第十章    腹黒い奴らに扉を開くな

 第十一章   さあ、誰が王様になるのだ

 第十二章   王宮の会談

 第十三章   盗人は夜来る

 第十四章   敵討ち

 

 

 

 砂に埋もれた街についての伝説を、私におじいさんが話してくれた。おじいさんにはおじいさんが話してくれたそうだ。おじいさんのおじいさんにはそのまたおじいさんが話してくれたのではないかと思う...

   著者

 

第一部  諸国を行脚したスプルガ

 

第一章   太陽王

 

 荘重な街の大門から、驢馬を引き連れて出て来たこの人は、【諸国を行脚したスプルガ】だった。街の大門前では街に入るのをずっと待って、門外で夜を過ごした隊商達が集まっていた。スプルガは、温かい息を吐いている駱駝達の鼻っ柱をあっちこっち潜り抜け、長い上着や短い上着の、髭を生やしていたり生やしていない人達が、ぎゅうぎゅう詰めになっている中を、どうにかこうにか通り抜けて安堵した。そして、驢馬に跨り、石を敷き詰めた王宮道路を急ぎ駆け出した。

 快晴の空にゆっくり揺れ動いている白い雲陰に、朝日の赤い陽光が瞬いた。スプルガの目の前に、街の街壁と平行の田畑、方々に伸びている農道、遥か遠くには際限のない広野が広がっていた。幾多の隊商や家畜の蹄を磨耗させた石ころだらけの路を、スプルガの驢馬が足をリズミカルに音立たせていた。分厚く、高い街壁に取り囲まれている厳かな街が、旅人の後方に取り残されていた。この街は、この周辺に名を馳せた、太陽王の都であった。驚いたことに、諸国を行脚したスプルガは、生涯にこんな冷淡な顔をした街を見たことがなかった。

 街は非常に大きくて、王国に属する国々から掠奪してきた富が満ち溢れていた。暗い庭園に囲まれている宮殿は、立派な柱で飾られていた。方形の煉瓦を敷いた広い路、眩しく輝いている極彩色の東屋、鬱蒼たる林の間から見える奇妙な円屋根、人工の山の頂きに設置された石段などは、街の景観に更に威厳を添えていた。街の巷では金銀、宝石、高価な毛皮、芳しい香料、ある小王国の献上品を入れた箱、食器などを積んだ隊商達が、後を絶つことなく王宮目指していた。これらの富はこの地の王宮での飲食や装飾などの瀟洒を極める生活のために費やされてしまうのだった。

 諸国を行脚したスプルガは、この街の豪華な中に春の本当の匂いを、人達の顔に裕福を暗示する赤を、高らかに笑う本心の笑みを見なかった。街の汚く、狭い路地裏は貧乏人達で満ちていた。豪華な王宮を造った職人達、出来物だらけの手で素晴らしい東屋を建てた棟梁達、腕の良い彫刻師達が老朽した見すぼらしい家で斜めになって眠り、仲良く暮らしていた。通りで背を屈め、重労働に喘いでいる人達が、昼時帰って来るのだった。間者達は疑い、周囲を窺って用心し、ひそひそ囁き合っていた。樹上では鳥達がぴーぴー囀り合っていた。心地よい風で木の葉がざわざわ音を立てていた。ざーざーと流れている水は、小川の側の雑草に接吻しながら流れていた。しかし、この自然の愉しみを満喫できるような心の余裕を持てなかった。

 また、街の街壁外では、『乞食部落』といわれている集落もあった。低い家並み、曲がりくねった土の狭い通りで構成されるこの集落で、ぼろぼろの服を着て通りの土を投げ付けて遊んでいる子供達の多さに驚ろかされた。幾らかの乞食達は、地面を掘っただけの地下倉を造って住んでいた。どこの家の庭の門前にも、毛が抜け落ちて痘痕になった犬が、前足に頭を載せ惰眠を貪っていた。この犬達はひどい怠け者で、盗人が来ても家主が起こしてくれなければ吠えはしなかった。どこの家の玄関前にも積み上げた襤褸布、鉄屑、古着、袋の中で固くなったり、黴が生えたりした幾つかのナンなどが目に入った。この地では、一本の樹木や緑の草花さえ目に付かなかった。何処も灼熱の日向でからからに乾いていた。この集落の人達はみんな街へ入って行き、乞食暮らしをしていた。王様は彼らが街中に住むことを永久に禁止したのだった。街に入っても、彼らが大通りで物乞いするのを禁止した。彼らに施しをするのは、やはり、街の路地裏に住む貧しい人達だった。

 諸国を行脚したスプルガは、太陽王のこの偉大な都にどうしてやって来たのか、彼にも分からなかった。多分、彼は路を迷ってしまったのか、それとも、運命の風が彼に吹いて、この地に送り付けたのか。スプルガは旅程を気の向くままに任せていた。彼はいくつもの川を渡ったが、どうしたことか、ある隊商の後を付いて行き、誰かの焚き火の側で寝た。彼は街の大門に入らないうちに、この呪われた場所に来たことを後悔した。門番は、頭に薄い帽子を被り、顔に濃い顎髭を生やして、丈の長い綿入れコートの片方の裾を腰帯に挟んだ、この奇妙な人物を叫んで立ち止まらせた。

「おい、顎髭」

 スプルガは門番が叫んだのを聞かなかったかのように進んだ。何故なら、彼の名前は顎髭ではないからだ。

「おい、顎髭、お前に言ってるんだ」

「わしを呼んだんですか」

「そうだ。お前だ。何処へ行くんだ」

「ご覧の通り、街へ入って行くんです」

「驢馬をこっちに引っ張って来い」

 門番達はスプルガを掴んで引っ張り、ある隅っこへ連れて行って、ポケットや懐を翻した。彼らは小銅銭数枚より他には何も探し出せなかった。世故に長けたスプルガは、声を出さず、されるがままにいた。当然、彼はこんな旅で出会う盗人達の手に渡してしまうような所には貴重品を置いてはいなかった。

「偉大なる我が都の規則を知ってるのか、お前」と、門番の一人が訊ねた。

「わしの知っていることより、知らないことの方が多いです」と、スプルガが返事した。

「それなら、聞いておけ。この街に初めて来た者は、大門へ入るのに銭を払うんだ」

「神に誓って言いますが、あなた達も調べての通り、わしにはあの銅銭何枚かだけで他には何もないんです」

「銭がないなら、街に入って何をする気なんだ。それとも、お前、物乞いするつもりなのか。そんなことするんなら、ここからとっとと帰れ。乞食部落の物乞い達も大勢いるんだ」

「ご冗談を言わないで下さいよ」と言ったスプルガは、話を続けた。

「わしは諸国を行脚する旅人です。他に並ぶことの無い力のある太陽王様の栄誉、名だたる偉大なる都の噂を聞き、訪ねてみようと思い遠くから来たんです。わしの何処にお金や財産があるというんですか。富を集めるのに知恵を使ってはいません。富は偉大なる王様にだけ授けられるんです。何処で暗くなれば、そこで寝るだけです。今日、得たお金は明日に持ち越しません。皆さん、お聞きでしょうか。神は明日の命を与えた人に、明日の喜びも加えて下さる。神聖なる書にそういうふうに書かれてあります」

「お前、えらく口が達者じゃないか」と、門番がスプルガの言葉を遮ると、もう一人の門番が、

「銭がないなら、この痘痕驢馬を置いて行け。それとも、王宮のために一箇月労役しろ。二つに一つだ。どっちか選べ」

「一体、どう言うことなんです。わしにはさっぱり分かりません」

「じゃ、お前の言ったことを諦めろ。それか、一箇月ただ働きだ。でなきゃ、驢馬を置いて行け」

 この話を聞いて、スプルガの醜い驢馬は、思いっきり声を張り上げて、大声で話しても聞き取れないほど、この街中に煩い鳴き声を響き渡らせた。門番達は怒って、驢馬の肋を固い靴で数回蹴りつけた。スプルガには、驢馬は太陽王よりも価値があった。驢馬が折檻されたのは、まるで自身にされたかのようで背中が痛んだ。

「おい、おい、旦那達。そんなことしないで下さい」と、間に入ったスプルガは、

「見てお分かりのように、こいつはこんな質の悪い生き物だから、神は別の何かにせず驢馬にしたんです。分かりました。労役に就けば良いんでしょう。驢馬はわしの手元に置いて下さい」

 スプルガは石割人夫達の中に入って石を割った。小山を平地に、平地を小山にする労役人夫達に加えられ、驢馬と土を運搬した。その地で街壁の上に造られた処刑台を、街の広場の真ん中で死刑を処せられて、頭が散乱した威厳のある斬首刑台を、足に重い足枷をがちゃがちゃ言わせて、鞭の下で働いている受刑者達を見た。何処も人の苦渋と、深い沈黙が覆っているようだった。ただ、二つの出来事がスプルガの記憶に残っていた。

 一度、スプルガは乞食部落を見てみようと思って行き、驢馬だけでなく彼は命とさえも別れてしまう寸前だった。汚らしい一群の人達が蟻が集るようにやって来て、スプルガを驢馬から引きずり降ろしてしまった。真っ裸の子供達の何人かが驢馬に乗ったりもしたが、他の子供達はスプルガの懐をまさぐり、服を引っ張り合おうとした。怖ろしくなったスプルガは、

「おい、良心無し。あんた達、こんなことしても良いのか。あんた達は仲間達からも奪うのか。わしはあんた達と同じ乞食なんだぞ」と、思い付いたことを大声張り上げて言った。

 その時、叫ばなかったならば、この奇怪な人達がスプルガの服を引き裂き、肉をも掠奪して一塊ずつに分けられてしまうところだった。ともあれ、スプルガの訴えは良い結果になった。蟻のように集ってくる乞食達が、何故かさっと立ち止まった。

「お前、ほんとに乞食なのか」と、一人が訊ねた。

「みんなに言うが、わしは、ある遠い国の名ある乞食なんだ」と、スプルガが大声張り上げた。

「じゃ、お前、何で驢馬に乗ってるんだ」と、最初に声を掛けた乞食が、スプルガの言葉を遮った。

「乞食は何も持たないのが当たり前なんだぞ」

「俺達の国じゃ、驢馬を持ってないのは乞食じゃないんだ」と、スプルガが説明した。

「その上、わしは国では乞食の長老なんだ。驢馬に跨って諸国を行脚するんだ。一つ街に行くと、その土地の乞食部落を訪ねるんだ。あんた達のしたことが、他所の乞食達の耳に入れば恥ずかしいことじゃないのか」

「お前、国では乞食の長老とか言ったがのう。わしらの乞食王に会わねばならんのう」と、老いた乞食が叫んだ。

「乞食の王様だって。あんた達に乞食の王様もいるのかい」と、スプルガは驚いた。

「お前、国では乞食の長老なら、俺達には王様がいるんだ。直ぐに会えるぞ」

 乞食達はそれぞれに喋り、スプルガを先頭にして歩いた。スプルガは、巧く切り抜けようとしたが、口が災いしたかなと、余計なことを言ったのを後悔した。本当は、スプルガが乞食の長老であることを伝え、窮状から逃れようと思った。この馬鹿野郎達の王様がいるのを、一体、誰が思うだろうか。しかし、一旦、口から出たのを反故にするのは今更できなかった。だから、ある賢者が、【言葉を口に出すまで人が支配する、口から出てしまった言葉は人を支配する】と、真理を言ったものだ。

 乞食達はスプルガを案内して、傾いて今にも壊れてしまいそうなある家の前に連れて来た。家の中の黒くなったぼろぼろの茣蓙の上に、髪や髭が絡み付き、歯が真っ黒の、洗わないので元の色がなくなった、他の乞食達のよりもぼろぼろの上着を羽織った、威厳に満ちた人間が座っていた。彼の年齢がどのくらいなのか想像もつかないほどだった。辺りをぶんぶん飛び回っている蠅や、網を張って壁や天井からぶら下がっている蜘蛛は、この『王宮』を、更に神秘的にしていた。諸国を行脚したスプルガは気味悪くなった。乞食王はスプルガを一瞥もせず、

「お前は誰だ」と訊ねた。

「乞食です」と、スプルガは躊躇せずに答えた。

「そうだ、偉大なる天の前では誰もが同じく乞う者だ。人間は自らの喜び、幸福を神に乞う。違いはそこだ、わしらは神に乞い願ったものをイスラム教信者達の手を通して得るのだ。お前、来世に行けば分かるだろう。王様達、高官達、金持ち達は、この世での行いに責任を果たせず困難になった時、乞食達の全てが歓喜して天国へ行ける。何故かと言えば、金持ち達、高官達は国民の諸物を力と威圧と嘘で奪ってしまう。乞食達は他人の随意な厚意でくれたものを受け取る」と、乞食王が乞食哲学の蘊蓄を傾けた。

「お言葉を聞き心が洗われ、我が仕事に一層、誇りを持ちました」と、スプルガが煽てた。

 彼は何とか頭を使い、この魔窟から無事脱出しようとした。

「わしは、たまには少し恥ずかしいことがあるんですが」

「恥ずかしがるな。誇りを持て」と、乞食王がスプルガの言葉を遮った。

「わしらは、他人が犯罪を犯すのを防ぐ者達である。例えば、ある人のポケットには自分が使う分以上の金貨があるとしよう。この余分な金が必ず彼に悪事を思い付かせる。わしらは、彼のその余分な金を乞うのだ。彼は悪事に走るのを思い留まる、それに、多くの善行もする」

「素晴らしい」と言ったスプルガが、また言葉を続けた。

「わしは今までどんな乞食の口からも、こんな意義のある言葉を聞いたことはなかったです」

「お前はただの乞食の前ではない、乞食の王様の所にいるのだぞ」と、乞食王は得意になった。

「わしはお前に言うが、偉大さから言えば、わしの名は太陽王から二番目だ。たまにその太陽王がわしに用がある」

「その太陽王のですか」

「ほら、この首の銅板が見えるか」と、乞食王は首にぶら下げている小さな銅板を見せた。

「ほれ、この銅板を持っていれば、わしは自由に王宮へ行き来できる。たまに太陽王自身がわしを呼び付けなさる。何故だか聞きたいだろう。太陽王は自軍で他所の国を攻める時、先ず最初にその土地へわしの乞食達を送ることになる。この乞食達はその土地で十人、二十人と産んで、短期間の内に大人数になるのは想像もできないだろう。この犬の子達がその土地へ行って金持ちになると、直ぐにわしのことを忘れてしまう。わしは、このことに全く怒りはしない。人は富を見たら、創造主さえも忘れてしまう。わしの言ったのが分かるかな、お前は太陽王の名声を聞いて来たのだろう。多分、彼はこの世ではわしより位が高いだろう。しかし、あの世ではわしの位は彼のより上だ。神はお前に大層な職を授けなすった。この職で死んで行く縁を下される。さあ、帰りなさい」

 またある日、スプルガは街の通りで手をしっかり縛られた囚人一人と出会った。兵士二人は、その囚人を前に押しながら歩いていた。

「おい、兄弟」と、囚人がスプルガに向かって叫んだ。

 スプルガは不意に驢馬の歩みを止めた。何故なら、その囚人はスプルガの故郷の方言で喋ったからだった。

「お前は誰なんだ。どう言う人間だ」と、スプルガは驚いて訊ねた。

「誰かを名乗るには時間がない」と、囚人は言い、

「この二人の兵士も、まだ俺が誰だか知らない。つまらんことで、こいつらに捕まっちまった。俺の正体がばれると、一生牢獄暮らしだ。あんた、懐に金貨一枚持ってないか。たったの金貨一枚だ。俺を助けてくれよ」

「何を言ってるんだ、お前達」と、兵士達は二人の話が分からないので訊いた。

「あいつは俺の兄弟なんだ。俺を助けろと言っている。ほら、この金貨一枚で、あいつを赦してやってくれ」と、スプルガが返事した。

 兵士達にとって、囚人を王宮に連れて行って引き渡すより、その金貨一枚と換えた方が都合が良かった。スプルガは驢馬から降りて、兵士達に手を伸ばした。彼の掌には本当に金貨一枚が陽光で輝いていた。

「金貨一枚だけか」と、兵士の一人が呟いた。

「分かるだろう、俺達二人なんだぞ。金貨一枚をどうやって分けるんだ。くれるんなら、二枚くれ。でなきゃ、失せろ」

「分かった。それなら、二枚やろうじゃないか」

 スプルガは掌の金貨を地面に投げた。一枚の金貨が固い煉瓦の上で、ちゃりんと音を立てて二枚に割れ、二方向に別れて転がって行った。兵士達は驚いて目を丸くした。また、直ぐに正気に戻り、金貨が転がった方へ行った。スプルガは囚人の縄を解いて上げた。

「ありがとうよ」と、囚人は言って、

「『タムテシャール』(※壁穴開け)っていう俺の名を覚えておけ。何かあったら、恩を返すからな」

 囚人は走るようにして遠くへ去って行った。何故か彼の燃えるような目が、スプルガの目の前から暫く消えないでいた。これより他に、この街で見たものはスプルガの記憶に深く残りはしなかった。 この街の全てのものは、唯一、統治者である太陽王の意のままに、喜びの為にあった。全てはその一人の意向に従っていた。王宮の大臣、学者、賢者達、麗人達は、その一人の人物が決定することによって動いていた。

「さあ、驢馬よ、お別れだ」と、スプルガが驢馬に号令掛けた。

「お前、もし、厩舎で一日長く繋がれてたら、退屈で鳴き喚き、世の中を煩く騒ぎ立てただろう。王宮の可哀想な奴らの気が狂わないでいるのには驚かされた。全ての権力者である太陽王は、どんな人なんだろうか。彼は夜、どのくらい広い寝床で寝るんだろうか。一度の食事でどのくらい大食らいで、大口開けて飲み込むんだろうか。多分、彼の口は鰐よりも大きいんだろう。彼の耳はお前のよりも長くて、肩に垂れ下がってるのに違いない。それとも、彼はお伽噺の悪魔そのものなんだろう。でなきゃ、どうして彼の名前を聞いただけで、人は震え上がるんだろうか」

 諸国を行脚したスプルガは、望郷の念にかられた。彼の故郷は相当遠い所の砂漠の中にあった。神が奇跡を見せ、あの砂漠の中に素晴らしい泉を下された。人達は泉の水を引きオアシスにした。スプルガが生まれ育った街は、街壁も王様もなかった。無数の泉が街の中で小川になり、音を立て滔々と流れている。小川の側の砂地では、小さな子供達が真っ裸になって駆けずり回っている。柳の木陰のハンモックでは、赤ん坊達が甘い眠りに陥っている。桑の木陰のフェルトに座っている女達は、面白い話をしながら糸を紡いでいる。街の広場では、世界のあらゆる所からやって来た商人達が、商品を広げて商売している。彼らから税金を取るのを誰も思い付きはしない。彼の地の富は、金持ち達にとても寛容で、憂いのない暮らしをさせていた。夜には公園から歌や楽器の調べが聞こえる。歌い手達は歌に恋人達の悩み、幸せを掴んだ少女の喜び、遠い隊商路を来る人達の苦しみ、夫を待ち焦がれる女達、花の咲いた野原、陽で非常に乾燥した砂漠、春を追っている鳥達、他に、諸々の事象について歌唱する。スプルガは、そんな愛すべき故郷を離れて一年ほどになった。彼はいつも旅をすると、故郷から遠く離れた所に行く。そして、また故郷を想い路を辿る。

 諸国を行脚したスプルガは、今、命辛々逃げ出した太陽王の都を、もう一度振り向いた。

「驢馬よ、前を見よ。恐怖政治をするこの土地から遠くへ行こう。この街の大理石の柱、銀の泉、美しい庭園を呪え」

 そして、スプルガは驢馬に更に強く鞭打った。

 

 

 第二章   諸国を行脚したスプルガ

 

 五十歳過ぎぐらいの、髭面のこの人は、故郷では【諸国を行脚したスプルガ】という渾名で有名だ。スプルガは小さい時から夢想家だった。春に流れの側に生える小麦の幼苗、木の花の白や青が揺れている様は、彼に強い息吹を与えた。葉が銀色になった柳の枝に止まり囀っている春の鳥達を眺めて、何時間も座っていた。この鳥達は冬の厳寒期は何処にいなくなるのだろうか。春になると、この地をどうやって見つけられるのだろうか。星は昼間、何処に隠れているのだろうか。小川の水はどんな力が作用して流れるのだろうか。遠吠えしている嵐、稲光を放つ雷は、何の怒りだろうか。人は何故、死ぬのだろうか。この世の主は、一体誰なのだろうか。その他、諸々の複雑な疑問が、彼の想像世界を遠巻きにしていた。神秘的な月夜、故郷を、親兄弟を残して恋人に付いて行った娘、礼拝用の小さな敷物に座り、子供達の幸せを涙ながら祈っている母親、夜明けに聞こえた心地よい笛の調べは、スプルガの子供心に悲哀の感情を芽生えさせた。

 スプルガの家族がいる町内の通りをたまに来るある人が、スプルガに特別、興味を持たせた。人達は彼を【トホティ・アシック】(※トホティの愛)と言っていた。何かを言って叫び、路の熱い土を蹴散らし裸足で出て来たトホティを見るなり、小さな子供達が、

「ほら、トホティ・アシックがこっちに来るぞ」と言って、蜘蛛の子を散らした。

 人が言うには、トホティはある貧しい家庭の息子だった。彼は成長して青年になると、ある金持ちの娘を好きになったが、金持ちは娘を別の誰かに嫁がせた。それ以来、トホティは結婚せず、一生ぶらぶらしているという。トホティ・アシックはいつも、

「創造主から見れば、金持ちって何だ。貧乏人って何だ。人って何だ。蟻って何だ。みんな同じだ。神はみんなを創造し、滅亡させるんだ。この世で、ただ愛だけが不滅なんだ」と言っていた。

 スプルガは、愛って何だ。何故、愛は火の中、水の中でも怖れず入れるのだろうか、と不思議がった。

 ある日、トホティ・アシックは、彼から逃げず路の真ん中に突っ立っているスプルガの頭を撫ぜて、可笑しげな笑いをし、

「お前、誰の子供だ。ああ、お前も大きくなるんだな。残念だ、俺はどうしてお前くらいの時に死んじまわなかったんだろうか」と言った。

 トホティ・アシックが行ってしまって直ぐに、また一人、スプルガを呼んだ。スプルガが頭を上げると、道端で立っている大きなターバン姿の人を見た。この人は町内の坊さんだった。

「トホティ・アシックは今、お前に何を言ったんだ」と、坊さんが訊ねた。

「『俺はどうしてお前くらいの時に死んじまわなかったんだろうか』って言った」

「死を怖がらぬ無信心者め」と、坊さんは怒りながら行ってしまった。

 坊さんが、今まさに角を曲がろうとしていると、路上に、またトホティ・アシックが現れた。

「おい、坊や」と、彼がスプルガに声掛けた。

「坊さん、今、お前に何言ったんだ」

「『トホティ・アシックは今、お前に何を言ったか』って訊ねた」

「お前、何言ったんだ」

「僕、あんたが僕に言ったことを言ったんだ」

「坊さん、何言ったんだ」

「坊さんは、『死を怖がらぬ無信心者め』って言った」

 これを聞いたトホティ・アシックは大笑いした。方々に止まっていた鳩達が驚いてぱーっと一斉に飛び立った。

「信心を測る天秤は神の手にある。死はアッラーの恩恵だ。この世で苦しんでいる人達は、死を想っている。罪を犯した者は死を怖がる」と、トホティ・アシックが言った。

 スプルガの父親は街の富裕な商人の一人だった。父親には娘が三人いて、スプルガは晩年になって得た男の子だった。だから、父親は息子を悪人達から遠ざけるため、好い加減に、【スプルガ】(※箒)と名付けたのだった。名前からすると、箒はいつも塀に捨て置かれる他愛ないものでも、それは人が毎日必要とするものであり、人を汚れから回避させる優れたものである。

 スプルガの父親は、スプルガを街の有名なイスラム学院の一つで学ばせた。スプルガの何人かの同輩達は、十何歳でコーランを終了し、その後、彼らの全てはそれぞれ街の大きなモスクの指導者となった。しかし、スプルガはどんなに励んでみても、初級のコーラン教則本さえ巧く学べなかった。がやがや騒々しいイスラム学院では、彼の頭には何も入らなかった。

 暗く湿った寝室で、前に初級のコーラン教則本を開き座っていると、スプルガの想いは、人達の喚声で熱気のあるバザールに、農民達が歌を口遊みながら犁を引かせている広い畑に、鳥達が囀っている野原にあった。彼は陽光で光っている露天を、鳩達が飛び交っている真っ青な空を、際限のない広野を貫いて方々に伸びた小道を、森に散った氷雪や濡れた葉を想った。たまにスプルガはイスラム学院から逃げ出して街の端にある丘に登って座り、遠くで銀のように光って流れている水や方々に伸びている路を見詰めていた。また、これらの路を何処までも行けば何処に着くのだろうか、と思ってもみた。

 スプルガが勉強しているイスラム学院で、あんな湿気た暗い寝室で腕白な子供達の心に信仰の光を点すことを一生涯してきた、顔は青白く、背を丸めた一人の長老がいた。彼はたまにスプルガの頭を撫ぜながら、

「ほら、お前の目から別の光が輝いている。お前はここにいても心は別の所だ。神はお前の心に別の何かの愛を授けたのだろう。それとも、将来、お前の身に起ころうとする、凄い運命があるのだろう。神は知っている」と言った。

 スプルガはこの人が好きだった。この人は粗暴で傲慢だった。保守思想で人を嫌悪させる他の教師達とは違っていた。

「先生、外のあれらの路を行くと、何処で行き止まるのですか」と、スプルガが例の長老に訊いた。

「疲れた所で止まれば良い、お前」と、その人は答えた。

「もし、疲れず歩き続けたらどうします」

「疲れないのはただ神のみが持つ奇跡だ。我ら神の僕はみんな疲れるのだ」

「もし、創造主が僕にそんな力をくれたとしたらどうですか」

「もし、神がお前にそんな力を与えてくれたら、そうなればお前、世界の果てに行って止まれば良い」

「世界の果てですか」と、スプルガは驚き、

「世界にも果てがあるんですか」

「果てはある。お前、屋上に上がれば四方は果てのようだろう」

「世界の果てに行ったら、他に何が見れますか」

「お前が夜見たのと同じ果てのない闇と無数の星を見る」

「果てのない闇と仰いましたか」

「そうだ。聖なる本に書かれていることに、我々が住むこの地を際限なく水が取り巻いている。人間は聖人アダムが初めてこの地に来た時、地は水の上に浮遊していた。聖人アダム曰く、『ああ、天よ。私はこのような止まらなく浮遊しているものの上で、どうやって生活していくのだ』と、神に訴えた。創造主は、地表を高い山で埋め動かないようにした。その後、地上を七層の天空で覆って、闇を星、月、太陽で飾った」

 こんな話はスプルガ少年の思考を更に呼び覚ませた。彼が学ぶイスラム学院の四角く高い塀の中から、騒々しい街の雑踏から逃れて、旅行袋を肩に掛け遠い所に旅に出たい、世界の向こうには何があるのか自分の目で見たくなった。

 スプルガは父親の死後、父親の財産、大きな庭のある屋敷などを、姉達に財産分与した。内廊下のある家はとても広く豪華でも、スプルガの考える世界よりはずっと小さかった。彼の血管は四角い塀の中で敬虔な神の僕となって生きることを回避させる、別の血潮が波打っていた。

 スプルガは父より受け継いだ財産を、か弱い姉達に遣ってしまってから、身がかなり軽くなったのを感じた。その日から、スプルガは希望していた旅行人生を始めた。その後、現在まで、彼は一箇所に長くて一年以上は留まったことがない。彼は無限の砂漠を回り、その周辺に星のように散らばっている街や村を一箇所ずつ訪れた。驢馬の頭をバザールに向け、驢馬の背袋に針、糸、お茶、塩など、砂漠の人達の必需品を満載し、バザールや路上の集落で商品を売って得た些少の儲けで旅を続けた。スプルガは何度か砂漠の盗賊達の襲撃に遭い、危なく命を失う寸前だった。また、何度かそんな盗賊達と知り合いになり、宿営地で一緒に夜を過ごした。ある時は、博打打ち達が賭場で遊ぶのを見たり、また、ある時は、冒険家達、旅行家達の不思議な世界、生涯、生き方について面白い話を聞くことがあった。

 ある時、スプルガは知らずに、人を殺す趣味がある狂人の家で夜を過ごした。山のような大きな体躯で、胸は馬の鬣のような真っ黒い剛毛で覆われていた。その人の目は火が燃え人を刺した。その人は終始、自分が殺した男達、女達、子供達の数、彼らが死ぬ間際にどんな苦痛でのたうち回ったか、流した血、惨たらしい断末魔、飛び出た眼球などについて、興奮させるような話をした。その人は話の間、熊手のような大きな手を動かせて見せ、

「それでだ、お前、今日、わしの客になったな。でなきゃ、今夜、お前がどうやって命を絶つのか見て愉しんでやろうと思ったんだ」と言って凄み、スプルガを怖がらせた。

 この吸血鬼の言うには、人間は全ての犯罪と破壊の根源であるという。神が創造したこの広い世界の清潔を守るため、世の全ての人達を、つまり、最後には彼自身さえも縊死する決意であるという。

 スプルガは一睡もせず、慄きながら夜を明かした。怖ろしさの余りスプルガは、あの狂人に、一振りで何百ゲズ(※1ゲズ=0.71)も伸びて、また一振りで短くなって鞘に入る不思議な剣について、思い付いた出任せを話した。

「あんた、そんな剣をほんとに見たことないのか。そんな剣について聞いたこともないのか。ほんとにないのかい」と、スプルガが言い、

「わしは、あんたにそんな剣を一本持って来ってくれば良かったな。そうすれば、あんたは人を一人ずつ殺すような面倒なことはしなくても済む。その宝剣を一回振るだけで何百人の首が、あんたの目の前で転げ落ちるのにな」

「お前、わしを騙そうとしてるんだろう」と、狂人はスプルガの話を一方では信用して、一方では疑って訊ねた。

「世界の何処に、そんな剣があるんだ。もし、あるなら、わしは何で今までその剣のことを何にも聞いてないんだ」

「わしらの聞いたことより、聞いたことのない方が多い。見たことより、見たことのない方が多い。まてよ、そうだな、わしもその剣を一体、何処で見たのか思い出せないでいるな。でも、あんたに約束するが、またもう一度ここを通過する時、そんな剣を一本、必ず持って来よう」

 そんな約束をしたスプルガは、その怖ろしい居場所から命辛々やっとのことで脱出できた。

 スプルガはたまに非常に遠くへ行く。波立つ海へ、また知らないある国々の国境へ行って触れたりもした。そんな時、スプルガは、大空に翼を羽ばたかせ、自由に飛翔している鳥達を見て愉しんだ。神が羽と両翼を授けたこの生き物達を、海洋や何処の王国の国境も妨げられはしなかった。だが、スプルガと驢馬は飛べなかった。例の尊敬する師匠が言ったのは本当だった。人は本当に疲れる。たまにスプルガは疲労で寝付いた。知らない土地の路上で、知らないある旦那の宴席で、または、ある旅人達が眠る焚き火の側で転た寝して座り、彼は故郷を、故郷の悲愴感のない面白可笑しい人達を思い出していた。そして、路を後戻りした。

 飛ぶことができなくても、スプルガは自分の驢馬にとても感謝していた。スプルガと彼の驢馬との関係は特別な信頼関係があった。世の中の何千頭といる驢馬と姿形が寸分変わらないこの普通の驢馬は、操ることにかけては随一だった。スプルガが棒で驢馬の頭をどちらかに向かせると、驢馬は立ち所に自分が何処へ行けば良いのか分かった。スプルガが驢馬に重い荷を載せれば、何も言わず彼は歩いた。スプルガが歩く時は、驢馬の後ろからではなく、驢馬の前を歩いた。驢馬の後ろで、驢馬の蹄から上がる土埃に埋もりながら歩くのを、スプルガは屈辱であると思っていた。灰色驢馬は先導しなくても、主人の後を遅れず付いて来ていた。スプルガの服から匂う汗混じりの匂いが驢馬には分かった。

 スプルガはたまに長旅の途上で困窮し、どうすることもできなくなった時、彼の忠実な驢馬を売るのを迫られるのだった。そんな時、スプルガは驢馬を連れて、金持ちの隊商の頭領や悪徳商人達と商談し合った。当然、驢馬を安く売ろうとはしなかった。この特別な生き物と一時間も離れると寂しくなるのが分かっているので、驢馬をこの世でありったけの美しい言葉で賛辞し値段を交渉し合った。驢馬を売り払うと、バザールの有名な食堂の一つに入り、大汗を掻きお腹を満たした。余ったお金を腰の布帯にしっかり挟み、泊まっている木賃宿に帰って行くのだった。宿主が苦く入れてくれたお茶を飲み疲れを癒した。それから数日も経たたない夜か夜明けに、スプルガの驢馬が宿の門前に現れるのだった。何故なら、誰もスプルガのようにこの驢馬を大事にしなかった。他人の考えでは、この驢馬はただの驢馬でしかなかったからだ。彼らは驢馬に思う存分荷を載せ、世界で最も汚い言葉で罵るのだった。スプルガにはこの驢馬は忠実な連れであり、信頼のおける友でもあった。驢馬が帰って来るや、スプルガは驢馬の頭や目を撫ぜてやり、麦混じりの飼葉か玉蜀黍だけを遣った。小一時間もせずして、スプルガは木賃宿から消えて新たな旅に出るのだった。毎回の旅はスプルガに新しい感動を与えた。新しい旅では、スプルガは新たな奇跡と出会った。また、途中で道連れになった人達から新しい話を聞いた。

 

 

 第三章   逃げた王子

 

 諸国を行脚したスプルガは、気儘な旅を続けていた。彼の驢馬の足が跳ねる軽い土埃が舞い上がり、朝日の熱い光へ染みていった。スプルガはまだ街からあまり遠離ってはいなかった。彼の後ろには街の高い街壁の陰影が遠くから見えていた。スプルガの側を、街を目指す隊商達、驢馬か徒歩で路を行く農民達、幌馬車に揺られて座っている、ある金持ちの息子達などが通り過ぎていた。スプルガの驢馬は一方の耳を垂れ下げ、また一方の耳を真っ直ぐ立て辺りの様子を窺いながら、歩幅を小さくして足早に駆けて行った。灰色の驢馬は毎回、このような直線路に出て調子良く駆けていると、スプルガは驢馬の上で暫く転寝する癖があった。

「さらば、スプルガ」と、スプルガは驢馬の上で目を閉じ、己に号令を掛けた。『多くの路を通ったな。幾つもの国を巡ったな。色んな人達を見たな。この世の秘密の扉に至ったのか、どうなんだ。多分、大空の無限の星と地面の石ころの一つずつ、水のない砂漠と波立つ海は、本来、親戚だったろう。神はどうしてこの地面に生き物を産み、また神の元へ召すのだろうか。わしらは、暗い一夜、母親のお腹から泣き、怒りながらこの世に生まれ落ちた。わしらは、ある時は悲しみ、ある時は喜び、ある時は善い行いをし、ある時は罪を犯しながら生きて、最後はいつか死んで行くんだ。生きることの意味は何だ。多分、創造主がこの地でわしら一人一人の性情を、心の善悪を試すためだろう。不思議なことに、あの乞食王のあそこの世界での位が誰よりも上にあるなら、彼は何故この言葉をそんなに自信を持って言うのか。その時、誰もを脅している太陽王の位は何処にあるのか。もし、太陽王の居場所も天国にあれば、彼は天国へもその王権を翳して入り、神権を行使するのを避けはしまい。いいや。神のみぞ知るのだ。わしが思うには、太陽王の居場所は地獄であるのが相応しい。真っ赤な炎が王権の象徴であるコートを焼き、彼を真っ裸にして遣るなら、彼は自分が支配するただの住民達よりも下だ。罪を背負った破落戸であるのが分かる。じゃ、わしの位はどうだ』

 スプルガはやっと寝付いたようだった。早足で走っている驢馬が突然立ち止まり、スプルガはもう少しで落ちてしまうところだった。彼は何が起こったのか分からず、目を開け辺りを見回した。陽が昇り、何処も静寂で、路上には誰も見当たらなかった。

「どう言うことだ」と、スプルガは驢馬に訊いた。

 驢馬は耳を動かして前方を見て、何でもないようにしていた。

「わしはお前にどうしたんだと訊いてるんだ。お前はわしにもんどり打たせて落とし、あそこの柔らかい土で身体を擦り付けるつもりだったんだろう。もし、わしでなかったらお前、肋を殴られたところだぞ。くそったれ」と、スプルガは驢馬の肋を足の裏で強く蹴った。

 その時、スプルガの耳に誰かの叫ぶ声が聞こえた。

「待ってー、おーい、旅の人ー、待ってー。驢馬を私達の方へ向けてー」

「止まれ」と、スプルガは驢馬を止めようとして、後ろを振り向いた。

 肋をひどく蹴られたのを怒った驢馬は、言うことを聞かずそのまま前進した。

「止まれとわしは言っとるんだぞ。聞いてるのか。ひどく折檻するぞ」

 スプルガは力を入れて手綱を引っ張り、声のした方へ驢馬を向けた。

 スプルガは路の端にある鬱蒼とした木の陰にいる二人の女を見た。女達は顔をスカーフで覆っていて、一人が赤ちゃんを抱いていた。もう一人がスプルガを手招きした。

「おーい、旅の人、こっちへ来てちょうだーい」

 スプルガは驢馬の頭を女達の方へ向けた。

「今日は奥さん達、わしを呼んだのかな」

「そうです。お前を呼んでるんです。親切な旅人さん」

 スプルガが近くに来て止るやいなや、女達の一人が声掛けた。

「お前、ムスリム(※イスラム教徒)のようだね。ムスリム達の心は広い。お前、この赤ちゃんを一緒に連れて行け。この婦人も一緒にお前に遣る。この人は赤ちゃんの面倒を見る。それに、驢馬に餌を遣ったり、何かとお前の世話をするから」

 女の言葉はスプルガの耳を疑わせた。

「ちょっと、待ってくれ」と、スプルガは驢馬を更に女達の所へ近付けた。

「わしは、何がなんだか分からん。どうしてわしがこの子を連れて行かなきゃならんのだ。あんた達はどうしてこの子を見ず知らずの者に遣ることになったんだね」

「ああ、お前に何て説明したら良いのかな」と、スプルガを呼んだ女が、頭のスカーフに手をやって直しながら言った。

「この子は今、危ないんです。この子をお前だけが助けられる」

「わしが。どうしてわししかこの子を助けることができないんだね。この子の父親は。両親は誰だ。親戚はどうした。わしはとても遠い所から来たんだ。わしはこの子を何処に連れて行くんだ」

「お前の質問に答える時間がない。私もお前が誰だか、何処に住んでるのか、何をしてるのか訊かない。お前もよけいなことは訊かないように。親愛なる旅人よ。お前がこの子を遠くに連れて行けば行くほど嬉しい。この子は私の心です。この子は何処であろうと生きていればそれで良い。どうか願いを拒否しないで、お前、頭が良さそうだね。私が言ったことも言わなかったこともよく分かったようだ」

 女は啜り泣いた。諸国を行脚したスプルガが、脱出させなければならなくなった幼子は彼を頼っていた。その子は凄く純真で幼かった。何も知らないその子は、もう一人の女に抱かれて甘い寝息を立てていた。その幼子がどんな宗教であっても、どんな階層の生まれであっても、神の前では天使よりも素晴らしかった。何故なら、彼はまだ何の罪も犯していないし、彼の頭はこの世の悪魔や災害の誘惑を避けている。心に罪を持っている人達より純真だった。人はたまにこんな幼い時に死ななかったことを後悔する。まだ世の中の苦楽の何かを知らない、春に良い香りのする花をまだ嗅いでいない、雪の最初の雪片や、また、秋に葉が散るのを見ていない、神の純真な僕の身に本当に危険が迫っているならば、当然、ムスリムである以上、この子を助ける義務がある。もし逃げるならば、この世にこんな罪はあろうか。

 女はスプルガが思案しているのを見ると、直ぐさま懐から袋を出し、驢馬の背袋に投げ入れて、

「袋の金貨を足りるだけ使いなさい。この娘が気に入れば嫁にして良い。道中無事で、頼みましたよ。子供をお前と神にお願いしました」と言った。

 そして、女は林の間にある小道を通って、街の街壁の方を目指し走って行った。

「わしには財産や女房は必要ないんだ」と、スプルガが呟いた。

 子供を抱えている女がスプルガを睨んで、

「さあ、行きましょう。ここでこうしていると危険です」と急がせ、子供を抱えてスプルガの驢馬と並んで路を進んだ。

 そんな二人を見た人達は、彼らを街から出て、近くのある村へ行く夫婦だと思った。『運命に驚かずにはおられん』と、スプルガは思った。

 スプルガは長い間、独り者で驢馬と仲良くしていた。新しい道連れを得た。生涯、子供の顔を見ないでいた。神は彼に幼子を道連れにした。この歳になるまで所帯を持とうと思ってもみなかった。知らない女の悲しみが彼の身に及んだ。人生も旅と同じだ。この旅では誰かと別れ、また誰かと出会う。

 スプルガは驢馬の上から、子供を抱えて付いて来る女に注意を向けた。女は頭のスカーフを翻し顔を見せており、若くて頑丈そうな女だった。旅で足手纏いになるような、鈍間な女ではなさそうだった。女は子供をしっかり胸に抱え、スプルガの驢馬に遅れないように付いて来ていた。女は度々、スプルガに大きな路から裏道へ行くことを指示した。彼らは畑を走っている農道を行き、また、砂漠の路上に出るのだった。また、何故か徒歩の人達が路を付いて来ていた。スプルガは何か危険なことが起こる予感がした。腕に抱いているあの罪のない幼子への女の無私の愛情は、女が自ら好んで危険の中に入ることを意味していた。スプルガは、『どうしてわしらは大きな路を行かないのか』と不思議がって、声も出さず歩いている女に声を掛けた。

「お前、何を怖がってるんだ。あの婦人はお前の何だ」

「あの婦人はうちのご主人です。この赤ちゃんの母親です」

「お前の主人で、この赤ちゃんの母親だって。じゃ、お前はこの赤ちゃんの何だ」

「うちはこの赤ちゃんの乳母です」

「何てこった」と、スプルガは言って、

「わしは今まで、自分の子供を乳母と一緒に遣ってしまうことなんか聞いたことがない。じゃ、この赤ちゃんの父親は誰なんだ」

「この子の父親は死んでしまったんです」

「赤ちゃんの父親がいないんなら、母親は自分の勝手で子供とお前をわしにくれたんなら、どうしてわしらは盗人のように隠れながら行くんだ」

「ああ、神様。あんたは何て馬鹿なの」と、女が言い、

「うちが抱いてるこの赤ちゃんは誰だか知ってんの」

「知らん」

「知らないんなら訊かないでよ」

「そりゃ、何てこった」と、不思議に思ったスプルガが、

「知らないことを訊いて、知らなきゃならん」

 女はスプルガの驢馬に近付き、声を潜めていった。

「あんた、秘密を守れるかい」

「それには心配及ばずだ。他人には言えない秘密を聞くだけにするから。すぐ忘れてしまうから大丈夫だ。秘密を守る一番良い方法は忘れることだ」

「そんなら、うち、あんたに言うけどね、うちの腕の中にいるこの赤ちゃんは王様なんだよ」

 スプルガの驢馬は足を踏み外し、スプルガはもう一度、転び落ちそうになった。

「お前、何て言ったんだ」

「あんたの耳は遠いのかい、旅の人」

「神に感謝。わしの耳はなんともない。闇夜に遠くから来ている隊商達の鈴の音で、彼らは何処の土地から来た隊商か、また、何処へ行くのか想像できる。でも、お前、この赤ちゃんを王様って言ったな。絶対信じられん」

「ほんとにそうなんだから。うちら、王様を抱えてるんだよ。この秘密をあんたに言ってはだめだったのに、つい口を滑らせてしまった。あんたこのことを漏らさないようにね。それか、あんたが言ったように早く忘れるんだ」

「わしが言いたいのは」と、スプルガが言い、

「この小さい赤ちゃんがどうして王様になったんだ。また、この子はどうして王座に就かず、わしのろくでなしの驢馬の蹄から昇る土埃を被りながらこの地を去って行くんだ。どうしてわしらこの子に跪いて敬礼しないんだね。また、お前に言うが、お前のこの街ではどうしてこんなに王様が多いんだ。太陽王に乞食王、少ないからって、それに加えてこの街では赤ちゃんの王様も一人出て来た。それとも、お前、わしを馬鹿にしてるのか」

 女は言ってはいけない秘密の糸口をすでに教えてしまった。それで、女はスプルガに負わせる全ての事柄を話すしか仕方なかった。

「あんた、うちらの太陽王について何か聞いたかい」

「聞いた」と、スプルガは返事し、

「今回、その偉大な王様の城下町を訪ねるために来たんだ。豪勢な王宮、何万もの兵士、何千の奴隷を見た。労役させられ石を砕いた。この可哀想な驢馬も重い荷を運んだ。大門の門番にポケットを翻されて、一文無しにされた。そんなお前の街と偉大な王様を呪って遣るって言って出て行くところだ」

「あいつらに皮を剥がされなかったのを喜べば良いよ」

「それじゃ、その世界に名だたる太陽王その人は、お前の腕の中のその小っちゃい赤ちゃんなのか」

「太陽王は三日前亡くなったよ」

「お前、何て言った」

「しーっ、声を小さく。この話はうちらだけでひそひそ話すれば良いんだから。危険な身の上であるのを忘れないようにしておくれ」

「それじゃ、この子は何処の王様なんだ」

「この子はね、太陽王の一番小さな息子なんだよ。その三日以来、王宮内は血の海になったんだ。大きい王子達が互いに殺し合ってるんだよ」

「王座争いか」

「そう、うちもこのことはあんまりよく分からないけど。順番では太陽王の長男が王座に就くんだけれど、あんたに言うけどね、王様の長男はひどい残忍で腹黒く、悪さにかけては随一なんだ。幾らかの人達はね、あいつが陰謀して父親を殺したかも知れない、って疑ってるんだよ。悪さにかけてはほんとに凄くて、自分には沢山の妻達がいるのに、兄弟の妻達にも目を付けるし、その上、父親の妾達にも手を付けるんだよ。こんな王子に王座を継がすのを他の王子達が賛成しなかった。それで、王宮内で殺し合いが始まったらしんだよ」

「おお、神様よ。お前、何てこと言うんだ」と、スプルガが声を荒げ、

「ほれ、わしは一ヶ月来、あの街にいたんだが、誰からもそんな怖ろしい話は聞かなかったぞ」

「全てのことは王宮内で秘密裏に行われているんだ。あんたは他所者だし、街の連中でさえまだ知らないでいるもの。王宮の内大門は厳重に閉められているからね。王宮内の全ての規則はね、こうなってるらしい。新しい王様が決まって王座に就かないうちは、前王の死は知らせないらしいよ。でないとね、国内で謀反が起こって、王座が揺らぐらしんだ」

「分かった。どんな王座でも爆発寸前の火山の上にあるようだな」

 女はスプルガの言った意味が理解できず、話を続けた。

「あんたにうちを遣った婦人はね、太陽王の妻達の一人なんだよ。殺し合いを怖がって、小さい王子を救うためにうちを助けに呼んだんだ。うちらは婦人が王様を招く時に使う特別な寝室の秘密の扉から地下道を通って出たんだよ」

 女が喋った後の話は、スプルガには到底信じられなかったが、事の真相が分かった。

「世の中で王宮より不思議な所は他にないはずだ」と、驢馬の上でスプルガはき、

「あそこでは毎日、毎時間、可笑しなことが起こり、面白いことが発生している。後の歴史家達が起こったこの不思議な事件について歴史談義する。しかし、わしらが手にする記録は、一体、どのくらいほんとなのか。これには何とも言えない。流血の争いが終わり、勝利した者達が先ず初めに歴史に目を通す。自分達を粉飾した頁を残させるか、更に詳しく書かせ、犯罪の痕を残らず消し去ってしまう。歴史に書かれた部分より、まだ書かれずにいるか、または書かれて消されてしまった部分の方がほんとのようだ」

 

 

 第四章   月夜

 

 スプルガと例の女は、麦、玉蜀黍、野菜などを植えた畑を、でこぼこの丘を通る小道を数日進んだ。知らない集落を通過し、木が腐って歪んだ橋を渡り、外れの宿営地で夜を過ごした。女は上着を畳んで置き、かなり身軽になった。スプルガは女の力強く若い女であるのを気付いた。女は本当に働き者に見えた。宿営地でスプルガの手足を洗う水を用意したり、食事を拵えたり、寝床を準備した。女は玉のように清楚で真っ白い肌の美人ではないが、目鼻立ちが良く、赤味がかった肌黒い女だった。女はある時は太陽のように明るく、スプルガに気軽に媚びて、スプルガのどんな用事にも対応できる様子であった。ある時は、黙りこくって、何か考え事をしているようであった。女の身体はがっしりしていて背が高く、驢馬に乗せると驢馬の背が重たくなった。そんな時、スプルガは驢馬の側を歩いた。灰色の驢馬は耳を動かせ、自分の背に子供を抱えて跨っている知らないお客を驚き眺めていた。彼らは路上で涼める木か、小川に着くと止まって休憩した。そんな時、女は王子の襁褓を乾かし、乳を含ませた。女の胸も身体に見合う大きくてしっかりしたものだった。赤ちゃんは乳房を頬張って貪欲に吸った。真っ白い母乳が彼の口からこぼれていた。たまに女が王子に乳を遣る時、王子の頭を撫ぜながら声を立てず落涙した。

 彼らは必ず夜の帳が降りてから場末の宿に入った。一夜泊まり、翌朝早く消えてしまうのだった。子供を抱いて歩く女は、全く何の苦労もないかのように速く歩いた。たまには驢馬を追い越して行き、後ろを振り向いてスプルガが来るのを待ってさえいた。

「へーえ、凄いじゃないか」と、スプルガは女を見ながら行った。

「神はお前に充分な力を授けたな。さあ、わしに腕の子供を渡せ、少し抱いてやろう。お前、疲れただろう」

「いいえ、うちが抱きます。王宮の規則ではね、王子を他人に渡すとだめなんだ」

「今、お前は王宮じゃなくて、アッラーの天下、だだっ広い所にいるんじゃないか。見なさい、辺りの全てのものは陽光で心地よく動いてる。ほら、遠くの林でカッコーが鳴いてる。雲雀のどんなに嬉しく囀り合ってるのが聞こえるか。ここでは、お前も、わしも、誰もかも自由なんだ。わしが誰だか知りたいんなら、この自由を追い掛けて旅人になった人間だ。安心しろ、ここじゃ誰もわしらに注意する者なんかおらんよ」

「知ってるのかい、この王子はいつか王様になるんだよ」

「アッラーが縁を与えればな」と、スプルガは女の言葉を訂正した。

「王様になる人をね、ただ決められた者だけが抱くのが条件なんだ」

「わしはこの世で色んなことを見たが、こんな護衛兵達がいない、乳母の乳を吸ってる王様を見たことない」と、スプルガは笑い、

「実際、わしは王様の面倒を見る規則は全く知らんが、涙を流しながら王子に乳を含ませるのも王宮の規則なのかい。お前、たまにこの敬愛する王様になる子に乳を飲ませる時、どうして泣くんだ」

「知ってるかい。うちもあんたと同じ他所の人間なんだ。うちの故郷はあの雪山の後ろにあるのか、それとも、あの緑の丘の方にあるのか、うちにも分からない。うちの生まれ故郷の女達はね、うちと同じで背が高く、胸が大きくて乳が沢山出るんだ。王宮に必要な乳母は、そんな所から選ばれて連れて来られるんだ。うちは何歳の時に王宮に来たか思い出せない。ある女がうちの頭を撫ぜながら泣いて別れたのを、幌馬車に腰掛け揺られながら長い道程を行ったのを、まるで夢の出来事のように思い出すよ。多分、うちが子供の頃はとっても可愛かったんだろう。王宮の人達がうちを真っ直ぐ王宮に連れて来て、王妃達の用事をさせられたんだ」

「今だって、綺麗だぞ、ねえさん」

 スプルガの褒め言葉を初めて聞いた女は、微笑んでちらっとスプルガを一瞥すると話を続けた。

「多分、選ばれた王様は寝室にさえ入ることを許したと思うよ。でもね、うちのような庶民の娘達を下層階級出だからって、王様は決して愉しむために選びはしないよ。うちは婦人の使用人だけだった。あんたに言うけど、王宮のうちら使用人達の境遇はひどいもんだよ。ほら、あいつら十一、二歳のうちを犯したんだから」

「どいつらなんだ」

「どいつらだって、初めに位の高い人が犯した。その後、王宮の役人、大門の門番、御者、調理人、使用人、それに、たまに成長した悪戯な王子達もうちらに手を付けるんだ。だからね、うちらは父無し子を産むんだ。子供が産まれると直ぐに監視員達が連れて行き、殺して捨ててしまうんだ。うちらのこの大きい胸に乳が溜まってるようにと、奴らはうちらの出産を喜ぶんだ。そして、うちらの子供を殺し、婦人達の子供達にうちらの乳を飲まさせるんだ。太陽王が可愛がってる妃達さえ乳母達の母乳を搾って飲むんだ。乳で身体を拭くんだ。うちはこの王子に乳を上げてる時、たまにうちの子供達のことを思い出すんだ」

「お前、何て言った。お前の子供達もあるのか。何でわしらその子達も一緒に連れて来なかったんだ」と、驢馬の上で斜めに座ったスプルガが訊いた。

「うちは男の子一人と女の子一人を産んだ。ほんとに可愛い子供達だったと言ってた。その子達の長い睫毛、小っちゃい目、うちに手を伸ばす、ぽちゃっとした手がいつも目の前から離れない。二人と引き裂かれた。うちから取ってしまったんだ。連れて行って殺してしまった。うちが何で泣かずにいられないか分かるだろう。見て、うちの胸から流れてる真っ白い乳は、本来その子達のものなんだよ」

 女はしゃくり泣きした。スプルガの心にこの女への同情が芽生えた。二人は長い間、黙り込んで進んだ。スプルガは二度とこのことについて女に訊かなかった。

 ある日、小さな王子を抱えている女がとても嬉しそうだった。彼らは綺麗に澄んだ山の水が滔々と流れる草原にやって来て、女は規則を破り、王子をスプルガに抱かせた。王子は目を大きく開けて、髭のあるこの人を見詰めた。

「うわー、ここは何て綺麗なんだろう。ここで少し休憩しようよ」と、女が言った。

「そうしよう」と、スプルガが同意した。

「お願いだから、あんたうちの方を見ないでよ」と、女は言うと下流へ行った。

 驢馬は辺りの草を分厚い唇を開け、思いっきり食べ始めた。間もなくスプルガの耳にぴちゃぴちゃと水の音が聞こえてきた。女が少し離れた所で隠れて洗っていた。スプルガは腕の赤ちゃんを見た。将来、王様になるのが相応しいこの赤ちゃんは、今までスプルガが出会った幼子達と何の変哲もなかった。

「さあ、王子」と、スプルガは子供を見て言った。

 子供は布団で足を揺らし蹴った。

「狂ったお前の大きい兄ちゃんが、お前が所有するあの王位継承権をなくそうとしてる。今、王宮でお前を探して見つけられず、どんなにか怒ってるだろうね。多分、彼は剣を抜き王宮内で見つけた赤ちゃん達を手当たり次第、血で染めてるんだろうよ。それか、奴は先ず初めに、お前の慈悲深い母親の首を吊しただろうな。神が授けた運命を見てごらん。何千もの兵士に守られるのがほんとのお前のような王子を、自分の面倒さえ見切れないわしのようなか弱い者の懐に飛び込ませよって。お前、ほんとにいつか王座に就くようになったら、わしらがお前をこんなにして抱いて行ったのを、お前のためにわしらが身の危険に遭うのを覚えていられるかい」

 赤ちゃんは、ぽっちゃりとした手を伸ばしてスプルガの顎髭を掴もうと努めた。

「違う」と、スプルガは自分の意見を翻した。

「王様から恩返しを期待するなんて馬鹿者のすることだ。為政者達は先ず最初に、自分達の秘密を知る者達を目の前から消してしまう。神の僕の真の恩恵人はアッラーそのものなんだ」

 スプルガはまだ子供の王様についての意見を終われずにいた。遠くにいた女が現れた。スプルガは驚いて女に見蕩れていた。女は洗い髪を梳いたので、尚更、美しくなった。スプルガが思うに蕾が開いている薔薇か、木立の間から見えている満月が現れたかのようだった。その時、スプルガが抱いている手に生暖かいものが触れたようだった。スプルガは直ぐに気付いて、子供を地面に置き、立ち上がった。

「こら、あんた、何すんだ」と、スプルガの側に来た女が言った。

「何をって」

「あんた、王様達の扱いを知ってんのかい。うち、あんたに言わなかったかい。何で王子を地面に置いたんだい」

「お前、この子の襁褓を直ぐに乾かせ。わしの生涯で、こんな所で糞や小便をたれる王様を見たことがない」と、スプルガは笑って言った。

 女も思わず失笑してしまった。何故か今日の女はにこやかだった。スプルガに穏和な仕草をしたくて、またスプルガに擦り寄り甘えたくなった。女は王子を地面から抱き上げるのを忘れ、スプルガをじっと見ていた。

「ねえ、今、うちらこの子の両親で、一組の夫婦のようだね」と、女が言った。

 この数日の旅で、スプルガはこの女に親近感を覚えた。一風変わっていて、粗暴で、純朴に見えるスプルガのような男達の特徴は、善良で隠れた英知の持ち主であるのを女は知った。女の心にイブの時代から男を得て、その愛情を獲得する思いが日毎に募った。スプルガは、女が言った夫婦についての意味が分からなかったのか、それとも、分かっても分からない振りをしたのか、女から目を逸らし、手を洗うため小川へ足を向けた。

 彼らはまた路を進んだ。女は常に微笑んでいた。野の花を摘み耳元に刺した。たまに鼻歌を口遊んだ。

 

  このうちの身の上は誰も知らない

  溜息が出る。苦しんでも人は死なない

  王宮の婦人達が喜んでると王様は思わないで

  女達に金銀宝石は荷物になる。心は微笑まない

 

 女の歌は、王宮の下女達の苦痛を、高い街壁の中に囚われの身となった妃達の煩悶を、子供と離別した母親の悲哀を折り込んだ哀歌だった。

 その日、彼らは辺鄙な宿に投宿した。女はスプルガに好物を作って持てなした。その夜、女はスプルガを寝床に誘った。

「うちを見て、旅人。あんた、どうしてうちに甘えさせてもくれないんだ」と、女は枕に肘を突いて言った。

「甘えさせるって、お前にか」

 スプルガは思ってもみなかった女の言葉に驚いた。

「お前、小さな子供でもないだろう」

「だって、うちは女なんだよ」

「そうだ、お前は女だ」

「うちの寝床に入る気はないのかい。それとも、うちを気に入らないのかい」

 諸国を行脚したスプルガは、ぼーっとなった。小さい王子は女の傍らで熟睡していた。夜半になっていて、月明かりが彼らの部屋の中を薄暗く照らしていた。女は敷き布団の上で半裸になって横たわり、掛け布団の一方を開けて、スプルガに胸をはだけて見せた。困り果てたスプルガは、何を言ったら良いのか分からなかった。

「だ、だめだ。お、お前はどんな人にもお似合いの女だ」と、スプルガは吃って言った。

「そんなら、どうしてうちの寝床に入らないんだい。うちは初めのうち、あんたに犯されるんじゃないかって心配してたんだ。その後、うちはあんたを待ってた。あんたは横になると直ぐに眠ってしまうだから。うちはね、長い間、目を閉じないんだ。うちの女主人があんたにうちを渡しながら、良かったら女房にしろって言ったのを、あんた、聞いたんだろう」

「確かにそう聞いた」

「ということは、うちらに許可くれたんだ。あんた他に何を心配してるんだい」

「...」

「それとも、あんた女を近付けない誓いでも立ててんのかい。それか、あんたの信心じゃ、結婚しちゃだめなのかい。もしそうだったら、あんたそんなひどい信心は捨ててしまいなよ。女と男はそれぞれ必要だから作られたんだからね」

「...」

「どうして黙ってるんだい。うちを女房にしても損はないよ。あんたの後について用事するよ。うち、王宮で一番美味しいご飯の作り方を習ったんだから」

 スプルガは声も出なかった。彼は女達に興味を示す年齢は過ぎ去ったと思っていた。スプルガはこの若くて健康な若葉を弄んで彼のの尊厳を犯すことを望まなかった。女はスプルガを好きだからではなく、孤独を一時でも紛らわせるためか、それとも、気まぐれの一時的な欲望を満足させる必要があって、スプルガを寝床に招いたのだ。一時期、スプルガにも青年期があった。彼にも待ちに待った恋人達がいた。当時はどんなに美しく、また忘れられぬことか。小道や広野で、またはシャムシャル町の狭い路地裏でスプルガに窓を開け媚びを売る別嬪達、賑わうバザールで何気なくベールを翻して微笑む美人達は彼の記憶にある。そんな女達の何人かは大きな美しい目でスプルガの心に火を付け、彼を従わせた。スプルガをそんな気にさせた美人達の家で一晩、たった一晩だけ客になった。二度と訪問することはなかった。何故なら、一つの目標を長く追うのは危険であるのを彼は熟知していた。女の激しい求愛がスプルガにそんなことを思い出させた。女は喋り続け、質問した。

「返事してよ。それとも、あんた、うちに言えない欠陥があるのかい。それとも」

「よせ、お前。わしの歳はお前には合わないよ」

「歳のことを言うのかい」と言って女は笑った。

「そうだ。もし、わしの子供達がいたなら、お前より年取ってるだろう」

「王宮では棺桶に足を突っ込んでる年寄り達も、うちらにちょっかいを出すんだよ。恥ずかしがらなくても良いから。このことはうちが望んだんだから」

 女はそう言って、スプルガの寝床に転がるように入り込んだ。

「そんなことするな、そんなことするな」と、スプルガは訴えて避けた。

「わしはお前を嫁さんに貰うにも、先ず、誰かに証人になって貰い、結婚式を挙げねばならん。お前はわしを罪人にするんだぞ。手を何処に伸ばしてるんだ。やめろ、痒いじゃないか」

 しかし、女はスプルガに更に強く抱き付き、着ているものを脱ぎかけた。女は力強い手でスプルガを女の方に引っ張った。偉大なる王子は、直ぐ側で起こっている一風変わった愛の遣り取りを知らず、甘い寝息を立てていた。月が雲間に見え隠れしていた。女の激しい欲望の喘ぎで星が更に輝き、瞬きした。スプルガは、この女の愛を、今日か、永久か、それとも、その数分かでも受け入れることしか他に方法はなかった。彼の身体が無くし、忘れた感覚が甦って来た。

 

 

 第五章   あんた残れ、旅人

 

 また、新たに夜が明けた。スプルガは朝早く起床して沐浴した。夜明け前の礼拝を終えると、神に罪の赦しを請うた。彼らはまた旅立った。女は欲望を幾らか満たしたので、今日は何故か言葉少な気だった。女は驢馬に跨って進むスプルガを、路上から度々見詰めていた。

 女は王宮にいた時、不安定で、嫌な屈辱的生活に飽き飽きしていた。女は何度も、ある人が何処からともなく現れて、女を安全に遠い何処かの土地へ連れて行ってくれるのを望んでいた。連れて行ってくれる人の歳や容貌がどうかなどは、女にはどうでも良かった。女が望むことは、ただ、自分を保護してくれる男性、そんな人がいれば、世界のどんなに遠い所に連れて行ってくれても良かった。そこで、その男に食事を作り、健康でまるまるとした子供達を産むのだ。女の子供達を誰も殺さなく、子供達に濃いお乳を遣れるのだ。子供達が大きくなって、女の周囲を騒がしく満たすのだ。そして...。

 女は王宮内での暮らしを思い出したくもなかった。王宮の女使用人達、乳母達と王宮の役人達の隠れた関係は人を辟易させた。王宮の高官達は、目に付いた女使用人達を気に入れば一夜床に招き入れるのだ。『このことを誰かに漏らせば殺す』と言って脅し、翌日にも追い出すのだった。王宮の使用人達と隅っこで怖々、震えながらしているのも全く愉しくはない。あんなに豪勢な王宮で、貧乏農民の女房になるのを望まない侍女が見つかるだろうか。

 女は王宮からこの王子を擁し落ち延びることを、女の自由意思で同意した。女は危険な身の上にあった王子を救うのと、実のところ王宮から遠い所で、安心した暮らしを送るつもりであった。女は考え事をしながらスプルガを見詰めていた。この人の歳をそんなに大きいとは思えなかった。彼には男達の持つ全ての特徴的な気質が見られた。しかし、この女には彼が一人の男であるばかりでなく、慈愛に満ちた近親者に等しかった。この人は畑を耕し、安定した暮らしをする農民ではなく、果てのない放浪を職とする一風変わった人のように見て取れた。

 スプルガと女は、石ころだらけの河原、荒れ果てた路、広い丘陵地を越えて進んでいた。遠くに樹木で覆われたでこぼこの小山が連なり、その間に高い雪山が見えていた。その小山の方に続く路を望見した女の目が光った。

「ねえ、あんた。うちね、この辺を知ってるような気がする。うちを兵士達が王宮に連れて行った時、こんな小山の間を通った気がするんだ。うちら長い道を進んだ。馬車にはね、荷物もあったような気がするよ。うちはね、大きな箱の上に座って揺られてた。幌馬車の窓の隙間からそっと外を見た。あの小山を越えれば、うちの故郷に行けると思うんだ。王宮に連れて行かれた時、うちは小さかった。その後、聞いた話では、両親は悲しみながら亡くなったらしい。今、故郷にはどんな近親者がいるのか知らないけど」と、女は言った。

「お前、あっちの方をお前の故郷だと思ってるらしいな。世界には互いに似た小山は少なかないぞ」と言ってスプルガは笑った。

「あんたが言ったのは、ほんとかも知れない。でもね、この辺は目に焼き付いてる。うちらその辺で幾らか土地を買って耕すんだったらね、うち犂を操るから」

「明日から、わしらはあの山の方じゃなく、ほらこっちの砂漠に続く路を行くんだ。前の路は一日中、隊商や旅人に出会うし、それに宿もあるだろう。こっちの路は人が少ないから、王の密告者に捕まる心配はない。わしは砂漠の一番近道で、一番秘密の路を知ってるんだ」

 太陽王に属する土地から出る最後の夜、旅人達は宿を見つけられず、畑の放置された古い小屋に泊まった。小屋の上に載せてある木が朽ちて黒く変色していた。小屋の隅に厚い蜘蛛の巣が張っていて、床に新しい乾いた麦藁が敷いてあった。この小屋は近くの畑を耕す農民達の収穫時期に使う建物のようであった。この数日歩いたでこぼこの石路は、スプルガをひどく疲弊させた。彼は驢馬を草地に放し、小屋に入るなり寝入ってしまった。女の目は全く眠たそうではなかった。『昼間、道端から見えた小山の連なりを越えれば直ぐ、うちの故郷に行けたのに』と、女は考えていた。その小山の間には本当に女の故郷があるのだろうか。それとも、これは女の思い過ごしなのか。どちらともつかなかった。何故だかこの女の頭にこんな想いが浮かんだのだった。その土地で遠くの雪を抱いた山から流れ来る清らかな山の水、長く伸びた渓谷があった。女は一度、父親に連れられて河原で魚を捕った。山道、畑、青々とした茂みの中にある普通の農家、野菜畑などが女の記憶にあった。もし、女が近隣の一労働者の女房になっていたならば、何て良かったことだろうか。この知らない人はこれから砂漠路を通り、一体、女を何処に連れて行くのだろうか。多分、付いて行ってしまうと、女は永久に故郷へ帰れないだろう。

 夜半、女がゆっくり床から起き出した。スプルガと小さな王子は熟睡していた。女は外に出た。月が辺りを牛乳のように白く照らしていた。遠くからざーざーと流れている水の低い音が聞こえてきた。何処かで犬の遠吠えがしていた。ということは、近い所に村があるようだった。女は犬の声がした方を目指して進んだ。初めは前後を見ながらゆっくり進んだ。小屋から遠く離れてから走り出した。女は思いのまま、何処をどう行ったのかも分からなかった。

 もし、王宮から王子を探しに出た兵士達が、この近辺で女を捕まえたなら、先ず初めに王子を探索する。その時、女は何て答えるのだろうか。王宮には女の必要はなく、彼らに必要なのは王子だった。もし、あの王子がいつか王位に就いたならば、赤ちゃんの時、彼を捨てた乳母を叱責して首を刎るだろう。もし、王位が他の誰かの手にあっても、将来、王位継承者である王子を見付け出せと女を責め殺す。もし、王子をあの旅人が連れて行ったなら、女はどうやって王宮の人達に王子を探して上げられるだろうか。

 女の目の前に、王宮で水に頭を浸け殺す、乳房を吊す、喉を絞め目玉を飛び出さす、袋に詰め殴る、身体の前後を棒で殴打する、生きたまま心臓を抉り出すなど、色んな刑罰が見えた。女は徐々に怖ろしくなってきて、走るのをやめた。赤ちゃんを思うたびに乳房が張ってきた。『間もなく王子が目を覚ます。王子はお乳を飲まないといけない。旅人はどうやって王子の面倒見るんだろうか。王子が泣けばどうやって宥めるんだろうか。王子は死ぬかも知れない』と、女は思った。罪の意識と母性愛が女を引き返させた。女は再び小屋に近付いた。赤ちゃんとスプルガは、まだ深い眠りの中にあった。静寂な夜に彼らの深い寝息が外にも聞こえていた。女は爪先で小屋に入り、赤ちゃんを腕に抱いた。息も吐かず小屋から遠退いて行った。そして、女は王子をしっかり抱き、風のように速く走って行った。月も女を追って走っているようだった。

 スプルガは早朝く起きると、側に例の女と赤ちゃんがいないのを悟った。彼は外に出た。付近を見た。何処にもいなく静かで、夜、放した灰色の驢馬は土に塗れて怠惰に横たわっていた。驢馬は主人を見てだらだらと起き上がり、伸び上がって身体を振った。女の姿は見られなかった。スプルガの脳裏に疑いが浮かんだようだった。小屋に戻り、女の寝床を触ってみた。寝床は既に冷たくなっていた。スプルガはまた小屋の外に出た。遠くの地平線に朝焼けがめらめらとして、新しい陽が昇る寸前であることを知らせていた。辺りを雀が鳴き飛び交っていた。早朝の澄んだ冷たい空気が寒さを覚えさせた。スプルガは小屋の中に再び戻り、頭陀袋の口を開け、路銀にと王子の母親がくれた金貨の入った袋を探した。袋はそのままだった。スプルガは外に出ると、小屋の前に座り考え込んだ。『あの女は何処に行ったんだろうか。そうだ、あいつは昨日、あの辺に故郷があるとか言ってたな。ということは、あいつは故郷を探しに行ったに違いない。それなら、あいつは王子の母親がくれた金貨をどうして持って行かなかったんだろうか。多分、あいつがわしの頭陀袋に入っている金貨の袋を取るまでに、わしが目を覚まさないようにと思ったか、それとも、慌てていて金貨の袋も思い出せなかったのか。何はさて置き、あいつは金貨を持って行かなきゃならなかったんだ。この金はわしのものではない。王子に使う金じゃないのか。あーあ、馬鹿な女だ。そんなに慌てて逃げなくても良いのに。故郷に帰りたいというなら、わしはお前を止めたか』

 スプルガは立ち上がると、孤独感が襲って来たようだった。女は数奇で悲しい過去の話をして、道中、スプルガを飽きさせなかった。宿では食事を作ってくれた。用事をしてくれた。あの王子はどうだった。あの悪たれ坊主はこの世で最も清純で最も弱く、何か罪を犯すことを、誰かを抑圧することをしていない政権だといえよう。この幼児も乳母の乳房をきつく押さえ付けて貪欲に吸い、彼らの側でぐーぐー眠っていた良い道連れだった。

 スプルガは女が戻って来るのを期待して、かなり日が傾くまで待っていた。女は帰って来なかった。スプルガは色々と想像を巡らせた。『わしはあいつを怒らせてしまったのかな。違う、わしはあいつを怒らせるようなことは何もしてない。あいつに礼を返せなかった。多分、あいつが夜中、赤ちゃんを外に排便させに出たんなら、獣に喰われてしまったのか。それとも、幽霊か妖怪が連れて去ってしまったのかな。違う、女は金貨の入った袋を取らなかったものの、王子の布団、襁褓を包んだ包みは忘れず持って行ってる。つまり、あいつはもう戻って来ないんだ』と考えた。

 スプルガは荷物を持って驢馬の側に行き出発準備をした。何となく物憂い気分だった。

「さらばだ、驢馬よ」と、スプルガは言うと、驢馬に飛び乗った。

「道中出会った道連れはほんとの友ではない、というのはこのことだ。また、わしら寂しくなったな。さあ、行くぞ、進め。わしらのほんとの道連れはずっと前にいる」

 しかし、スプルガは何歩も進まぬ内に突然あることを思い出して、驢馬の手綱を引いた。

「止まれ。多分、あの女自身が妖怪かも知れんぞ。でなきゃ、あいつは一晩の内にわしらの側からどうやって消え去ったんだ。あいつの残した跡は何処だ。何もなければ、驢馬よ、お前、あいつが何処へ行ってしまったのか知らなきゃならんのだぞ。あいつ、飛んだのか。それかとも。神よ守り給え。それじゃ、わしら数日来、妖怪と連れ立って来たのか」

 スプルガは今さっき、頭陀袋を持って出た、汚い小屋を怖々見た。そして、驢馬にひどく鞭打った。

「驢馬よ、行け、急げ。この可笑しな土地から直ぐ離れよう。分からんが。あのあれだな。そうだ、太陽王という悪党の街から出るなり、出会った女達の二人とも妖怪なんだろう。でなきゃ、何であいつらは黒いベールで顔を覆ってたんだ。お前、あの赤ちゃんをわしらに渡して行った女の顔を見たか。わしはちらっと見たような気がした。お前にどう説明して遣れば分かるかな。つまりだな、あの女は子供を産んだようにはみえない。絵のように綺麗で、少女そのものだ。妖怪達は人を惑わすために、人間達の目に女神のような姿を見せるんだ。それじゃ、太陽王自身はどうなんだ。彼は当然、妖怪達の一番の大悪党ということだ。でなきゃ、何で彼の名前を聞いた人達は怖ろしがって震え上がるんだ。あの赤ちゃん王子はどうだ。父親と乳母が妖怪なんだから、彼は当然、妖怪ということだ。あれだけ何日も一緒にいたのにも拘わらず、王子が幼子のように笑ったり、また、泣きわめいたりしたのを見たことがなかった。乳房にしっかり貼り付き、乳母を吸いに吸ってた。人の踝に穴を開け血を吸う妖怪達そのものだ。一番怖ろしいのは、わしはあの女と一晩抱き合ったことだ。驢馬よ、わしはお前に誓って言うが、あのことは女がわしに迫ったんだぞ。わしは初めは嫌だったんだ」

 スプルガの考えは可笑しくなっていった。

「驢馬よ、わしを見ろ。お前、どうして四本足で這って歩くんだ。わしはどうして二本足で立って歩くんだ。何で二本足の生き物は妖怪に変身できるんだ。お前、一生、驢馬のままでいるんだな。お前、言ってみろ。一体、妖怪になったのが良いか、驢馬になったのが良いか。どうして声を出さないんだ。お前、わしがお前より馬鹿なことを内心笑ってるんだろう」と、驢馬に話し掛けた。

 夜通し疲れを充分に取った驢馬は、早足で進んだ。驢馬は主人のこんなふうにやめることなく問答し、何かしら喋りながら行くのに慣れてしまっていた。

「あることが全く忘れられん。これはずっと昔のことだ。あの時は、お前、かあちゃんのお腹にもいなかった。わしがお前のとうちゃんのとうちゃんに乗ってた頃だ。だだっ広い所を進んでた。何処から現れたか知らんが、わしらの前に突然、結婚式の一団がいた。一団の前にラッパ奏者やチャルメラ奏者が歩いてた。後ろの馬車に枹太鼓奏者や手太鼓奏者が座ってた。その後に、輿に花嫁を乗せて運んでた。ああ、生涯にあんな大きな結婚式は見たことがなかった。ばち太鼓とチャルメラの音で耳が悪くなりそうだった。暫く輿に乗った花嫁に見蕩れてたよ。人の子がこんなに綺麗になるなんて信じられんかった。結婚式に参加する連中が、わしを道端に押し遣ったのにも気が付かんかったほどだ。彼らが去っても、まだ土煙がおさまらんでいた。ある人がわしに、『お兄さん』って声掛けたような気がした。振り返って見れば、わしの後ろに全身を黒いコートに包んだ女が一人いた。『お姉さん、私を呼んだんですか』って、わしは言った。『結婚していらっしゃいますか』って、女は訊ねた。今さっきの結婚式の興趣が消えてしまったようだった。『所帯を持つなら、あの輿に乗ってた娘のような娘を娶ればな』って返事したんだ。『ほんとに所帯を持つ気があるなら、私について来て下さい。あの娘の妹を紹介して上げます。妹は姉より綺麗です』って、女が言ったんだ。当時はわしもまだ若かった。青二才だった。深く考えずに黒衣の女に付いて行った。どのくらい路を進んだか分からないが、ある池の側に出た。池の側に大きな建物があった。そんなに大きな家なのに、一人の姿も見えない。黒衣の女が腰を曲げて、

『さあ、どうぞ』って言って、わしを家に招き入れた。驢馬を門の前に繋ぎ、こんな汚い靴で絨毯を敷いた家へ入って行った。黒衣の女はわしを長く伸びた廊下を歩かせ、階段を上下して特別に造れられた部屋に招き入れた。部屋の中がどんなに飾られてたか、室内の高価な物がどんなに素晴らしかったか、わしがお前に言って聞かせても、お前はどうせ分からんだろう。『あなたが言った、例の娘はこの家に住んでるんですか』って、わしは訊ねた。女はわしを何重もの座布団に座らせてから、ベールを取った。わしは驚いて口を開いてたよ。わしの前に、あの輿に乗っていた花嫁よりも綺麗で若い女がいたんだ。わしには雲間から突然、陽が出て眩しく光ったような、空の満月がわしの目の前に転がり落ちたような気がした。『あんた、人間なのか、お化けなのか』って、わしは訊ねたよ。『どうお思いになろうと結構です』って返事した。女は甘え、わしに身を投げた。その夜、女と甘い一夜を過ごした。女は夜明け前にわしを見送った。『度々来てね』って言ったんだ。来た時、分かるように階段を数えて降りた。家の前の大きな池を目印にして周辺を詳しく見回した。驢馬に跨り、さらばって言って帰って行った。それで、一日過ぎない内に、あの美人が恋しくなったんだ。驢馬の頭を後ろに回してやって来ると、わしが目印にした大きな池や大きな建物が何処にもなくって、だだっ広い広野が砂漠に繋がってた。あの女をけっして忘れられなかった。それから、何年か探した。生涯独身で過ごした。全然見つからなかった。多分、あの時もどんな女にも会わなかったんだろう。それは夢だろう。分かるか、この人生の基本を。アッラーが成した奇跡の境界には行けないんだ。わしらが見ているこの世は、多分、わしらの目が見てる通りだろう。それとも、そうではないんだろう。それか、お前のと同じ驢馬達の目には別の、空に飛んでる鳥達の目にはまた別の、あの太陽王のような悪党達の目にはもっと違ったように見えるんだろう。それとも、わしらみんなそんな想像の世界で、間違った感覚で生きてるんだろう。それか、起きてるのに夢見てるんだろう。分からんが。多分、わしらのほんとの生は、ただアッラーの元に行ったら始まるんだろう」

 スプルガは考え事を一時やめた。驢馬はいつか農道に入り、一定の歩調で進んだ。

「わしらどんな話をしてたんだったかな。あの女は子供を連れてほんとに行ってしまったのかな。もし、あいつが妖怪でなく人間なら、どうしてわしを起こして、『さいなら、あんた残れ、旅人。うちは行く』って言い残して行かなかったんだろう」

 

 

 第六章   死体

 

 スプルガは考え事をしていたので、どのくらいの道程を行ったのか分からなかった。今日は、彼のお腹も空いているようにみえなかった。ある所で止まり、驢馬を草地に放して疲れを取らせようという思いもしなかった。疲れて飢えた驢馬は、頭を垂れ、怠けてゆっくりと歩いた。たまに路上に生えている草を見つけると止まり、それを大口開けて食べ咀嚼すると、また進んだ。

「もし、あの女が妖怪か悪魔ならば、」と、スプルガは驢馬に話し続けた。

「そしたら、わしは何者なんだ。わしはあの妖怪女と抱き合って寝たんじゃないか。多分、わしはその日から半分は人間で、半分は妖怪になったのかな。何でわしだけ喋ってるんだ。驢馬よ、お前も喋らないか。賢者達が、【多弁より寡黙が良い、沈黙は喋るより勝る】って言う格言をお前は聞いたことがあるかい。たまに為政者達は言葉少なめだ。彼らは自分達の英明さではなく、威厳を加えるためにそうするんだ。声を出さないのは彼らの知識がないことを、無能なことを隠すんだ。死体はどうして威厳があるんだ。何故なら、それは喋らないからだ。もし、お前が半分人間で半分驢馬なら、何て良かったろうな。そしたら、わしはお前に乗って、わしら二人、面白い話をしながら行くのにな。お前、今は聞くだけで、声も出さないが、半分驢馬で半分人間なら、お前が生まれてからどんな苦労したか、どんな畑で寝たか、誰と愛し合ったか、過去の話に熱弁を振るったろうよ。あの妖怪女が夜、何処へ行ったか、当然、お前知ってるはずだ。この不思議なことをも、わしに話してくれるはずなのにな。待てよ、わしら何か忘れてしまってるぞ。あの女達が妖怪なら、わしにくれた金貨は何だろう」

 スプルガは驢馬に乗ったまま、身体を一方に少し傾けた。下の頭陀袋の口から金貨を入れた袋を取り出し口を開けた。純金が陽光で輝きスプルガの目を眩ました。

「うわー。こりゃ、鋳造されてまだバザールに出回って無い、王様の金庫に収納されてた本物の金貨だぞっ。この金はわしらが一生食っても余るほどだ。こんなに財産持って故郷へ無事帰れば、故郷の連中は何て言い合うだろうな。当然、彼らは、『スプルガは王様の金庫に盗みに入ったようだぞ』って言い合わない。『スプルガは砂漠で何か秘密の金庫を見つけたようだ』って、きっと言い合うだろう。人がどうこう言おうが構わない。金持ちと同じようにわしも庭園を持とう、街から街へ旅するこんな意味の無いことをやめよう。お前、言ってくれよ。嫁さんを一人貰おうか、それとも二人か。お前に相談してもだめか。能力があれば十人貰えと、お前は言うだろう。わしは煩わしい余計なことをする馬鹿者じゃない。でも、お前に時間が来れば餌を遣って、驢馬小屋を掃除してくれる一人、二人使用人を雇うかも知れない。また、調理人、庭師、御者などの使用人達を雇わねばならん。退屈すれば愉しむのに楽士達もいないといけないな。そうしたらわしらは、食べて、飲んで、転た寝して、太ってしまうかも知れないぞ。お前は多分、飽きてしまい、綱を切って逃げ出して、雌の友達を見つけては好い加減なことをするんだろうよ。だから、賢者達が、【一人の人間、一頭の驢馬に肥満は似合わない】って、的を射たことを言った。良心から言えば、これは人の金だ。これを無駄遣いする権利はわしらには無い。あの馬鹿女はこの金をわしらに残して行って、要らぬ心配をさせているのを知らないんだ。命があれば何処かで彼らとまた出会うだろう。ほら、わしらあの女の名前も訊かなかった。何日も一緒にいて、女もわしの名前は何というのか訊かなかった。何て可笑しなことなんだ。もう一度、彼らと出会う運命なら、多分、王子は成長してるだろうが、女は分かるはずだがな」

 驢馬が突然、速く歩きだした。スプルガは後ろにひっくり返りそうになった。

「おい、お前、馬鹿野郎。わしが転んで死んだら良い、金はお前の手に入れば良い、お金を惜しまず使い何人も嫁を貰おうって気か」と、スプルガが頭に来て驢馬を叱った。

 スプルガは頭を擡げると、喚くのをやめた。遠くに村の樹木が見えていて、驢馬はあそこで休むために急いだのだ。スプルガは驢馬に怒鳴った。

「止まれ。お前、今日はどうした。止まれ。お前のしたことで、今日は一つも餌をやらないからな」と言って、驢馬の手綱を引いた。

「見ろ。あそこに何で人が沢山群がってるんだ」

 村に入る路上の橋の側で一塊の人達が集っており、彼らは何かしらについて議論していた。面白いことを見るのが好きなスプルガは、驢馬の頭をそっちの方へ向けた。人の群に近付くと、スプルガは驢馬から跳び降り、一群の真ん中のみんなが腰を屈めて見ている所へ割り込んだ。

「おお、神様」

 スプルガはそこで路の土が付着して横たわっている一体の死体を見た。それはあの王子の死体だった。死体の首は誰かが持って行っていた。

「わしが朝早く家から出て、水汲みにこの橋の方を見ながら来たんだ」と、ある老人が自分が見たことを新たに来た人毎に説明していた。

「見れば、ある女が、ほら、あの赤ちゃんを抱いて丘の方から降りて来てた。朝、わしらの村に来るのはどんな人かな、と思った。その時、ほら、この路の曲がり角から何人か馬に乗った兵士達が出てきた。その馬に乗った者達が女を見て、『おい、女、止まれ。何処へ行くんだ。止まれ』って叫んだ。わしはこの言葉をはっきり聞き取った。あの女は腕の赤ちゃんを胸にしっかり抱き、この橋の方へ走った。兵士達は馬を飛ばして来て、一瞬の内に女に追い付いた。ほら、この橋の外れで争い合った。おったまげたぞ、わしは生涯にあんなに勇敢な女を見たことがなかった。女の後ろから追って来て、女の頭を鞭で叩いた兵士を、一掴みすると馬から引き落とした。腕の赤ちゃんを取ろうとしたもう一人の兵士を後ろに蹴飛ばした。赤ちゃんが大声で泣き出した。兵士達は剣を抜いた。わしは怖ろしくて、ほら、あの灌木林の間に身を隠してた。馬達の蹄が音や剣が何処かに打ち当たって鳴った音を聞いてたんだ。一時、混乱状態のようだった。頭を持ち上げて見ると、兵士達は服を叩いて、馬の胸ベルトを結んでいた。兵士一人が地面の何かを拾って袋に入れると、鞍に結びつけた。そして、馬に乗り、引き返して行った。わしは怖ろしくて手足に力が入らなかった。兵士達が去った後も、暫く立ち上がれずにいたんだ」

「ズボンはどうだ。ズボンは何ともないじゃないか、じいさん」と、誰か一人が冗談を言った。

「冗談はよさんか」と、老人が怒った。

「それから、立ち上がって、一歩二歩と歩いて来ると、ここに赤ちゃんの死体が横たわっていた。頭が無いんで吃驚した。水も汲まず町内目指して駆けた。町内の連中に知らせて、人を案内して来た。こういうことだ」

「女はどうした」と、スプルガは老人の話が終わるなり急いて訊いた。

「それが、どうもよく分からん。女が何処に行ったか、わしも知らんのだ」

「多分、お前、怖ろしくてよく見なかったんだな。兵士達が女を縛って連れて行ったんだろうよ」

「違う、違う」と、老人が頭を振って否定した。

「わしは年寄りだがな、目はかなり確かだ。彼らは馬一頭に兵士一人が乗って行った。わしははっきり見たんだ。彼らが遠くに行ってから、ここに来てあちこち見回しても、あの女の姿は見えなかった。それか、逃げて隠れてしまったのかな」

「女が逃げても馬に乗った兵士達が直ぐ追い付くだろう」

「飛んで空に昇ったんだろうかな」と、老人が笑った。

 スプルガはまるで飛んで行った女を見詰めるように空を仰いだ。他の人達は、またこの事件について議論をし出した。スプルガは地面に横たわる死体を見て心が痛んだ。どうであれ、彼はこの幼い王子と数日間、道連れだった。スプルガは一群の中から出て、驢馬に跨ると、みんなの方を見て、大声で喋った。

「おい、みんな。わしを見てくれ。わしは旅人だ。頭を取られたこの子の誰だか、あんた達も知らないだろう。わしも知らない。誰だろうと構わん。彼の死体を路上にこのままの状態で放置していてはだめだ。見てみなさい。死体に蠅が群がろうとしている。この死んだ幼児のために、わしが少し寄付をしよう。あんた達、彼を埋めてくれ。さらばだ。あの土に塗れてるのは何だ。数珠か、お守りか。多分、赤ちゃんか母親の身体から落ちたもんだろう。それをわしに取ってくれないか。寄付した代わりに、わしが記念に残しておこう」

 スプルガの冴えた目が、人達の足下で土に埋もれてしまいそうになっている真っ黒なものを捕らえた。一人が身を屈めてそれを拾った。二人目、三人目も、それを手にして興味を示した。それは三角形で、黒い錦に包まれ、黒絹の紐で結ばれた普通のお守りだった。最後に、あの物語老人が手にした。あちこちを翻してしっかり見ると、スプルガに手渡した。スプルガは懐から何枚か金貨を取り出し、老人の掌に置いた。そして、別れを言い合うと、路を進んだ。

 スプルガは驢馬に鞭打ち、速く走らせて行った。

「つまりは、王子を追跡してた王宮の兵士達が王子の首を切り取って持って行った。この逃げた王子の首を取った彼ら兵士達に沢山褒美を取らせる。不思議なのは、あの女は何処に消えたんだろうか」と、スプルガは独りごちた。

 それで、スプルガはあの女が本当の妖怪であるのを確信した。でなければ、女は何人もの馬に乗った兵士達からどうやって逃げられようか。

 スプルガは驢馬を見ながら、

「最も可笑しなことは、わしはその妖怪と何日か一緒に食事をし、寝た。お前、たまにあいつを乗せて行ったろう。もし、女が夜、小屋から逃げなければどうなってただろうな。もしそうなら、王宮の兵士達は女達に気付かず大道を通って行ったかも知れなかったぞ。もし、女達を小屋の中で見つけたならどうだ。そうなれば、兵士達は王子に加えわしの首も切り取っただろう。大声で嘶いたならばだ、お前の首も無事ではなかったぞ。何故なら、わしらはあの女のように消えてしまえないからな。神よ、災いから守り給え」と、スプルガは身震いして言った。

「それでこの可笑しな運命はこれで終わりになるのか、それとも、まだ続きがあるのか。知ってるのはあなただ。血が流れた、彼の恨みがある。強大なものは弱くならないことはない。統治は誰にも永久ではない。何があろうとわしはこのお守りを残しておこう。そら、驢馬よ、歩みを速めろ。怖ろしいことが起こったこの地から離れるのが正解だ」

 

 

 第七章   街壁のない街

 

その後の道中は、諸国を行脚したスプルガ一人だった。今、彼の目の前は無限の砂漠で、彼の好きな胡楊林、既知の路が広がっていた。この地は人が稀で、考え事をするには時間も充分あった。生まれた街に近付くにつれ、スプルガはあの不思議な女と幼い王子を忘れてしまった。スプルガの旅人生で多くのものを見聞したが、女と王子のことは、彼の心のノートに簡単に数行だけ記録されたのみだ。

今、彼は故郷を、同郷人達と会う喜びを思った。彼は驢馬の上で斜めに座り歌を口遊んだ。彼の歌は農民娘の純愛、一日重労働を終え急ぎ家路を辿る労働者、羊を牧草地に放し考え耽る牧人、孤独な未亡人、遠い森の一本道、鄙びた泉に咲く野花、無限の宇宙、至福なる神、王様の怒り、大臣達の無知、不運な博打打ちの落胆、あの世この世、その他諸々の事象についてだった。

 スプルガが生まれ育った街は、他のどんな街にも似たところがなかった。その周りを取り巻いている高い街壁もなく、人達を脅している王様もいなかった。タクラマカン砂漠に近いこの古い街の位置は、今はどんな地図にも記載されてはいない。多分、大嵐の影響で砂山の下に埋もれてしまったのか、他の自然災害なのか、戦争のため壊滅して消滅したのかだろう。しかし、ある時期には、街の繁栄、人の勇敢さ、陽気さ、友好が多くの国々の商人達を引き寄せたのだ。夜は街のモスクの豪勢な高楼の上で、新月のシンボルの尖った先端が、星空を突き刺し凛と光っていた。礼拝堂の彫刻された柱は薄暗い所で不思議な感覚を与えていた。早朝、各モスクの高い礼拝呼び掛け台の上で、響きのある心地よい呼び掛け声と共に街が起き動き出すのだった。何処かの扉がぎぎーっと開き、老人が咳をしながら清めに使う薬缶を提げ外に出て行った。街の日雇い人夫達は街全体の土埃を埋め、通りを掃き、水を撒いた。街外れの高い崖の上に貧しい人達がい住していて、そこの簡素な土壁の家、塩害で低くなった古い塀、曲がりくねった狭い通り、小さな子供達が沢山出て来て折れ曲げている古い桑の木、また他所では見られない風景があった。夜が明けるや、崖から下の泉へ向かって下っている岨道で、娘達の極彩色のワンピースが目を眩くさせた。娘達は腰を屈め水瓶を地下から湧き出ている冷たい泉の水に入れると身体を戻した。水瓶を持ち、また上に向かって戻って行った。人達は朝の礼拝を終えると直ちに街へ急いだ。街中では調理人の肩から昇った濃い紫煙が曲がって上昇していた。茶店のの上にある土瓶が心地よく沸き立っていた。街の貧しい人達は普通、こんな茶店の簡素な筵を敷いた涼み台に座り、朝の涼しさを愉しみながら朝食を摂るのが好きだった。

 高い砂山を越えて、遠くからこの街に近付いて来ている隊商達の目には、高い街壁ではなく、大きなオアシスが見えていた。この時、砂漠路でひどく渇き疲れた旅人達に笑みが見え、駱駝達は思わず歩みを速めた。駱駝の首に掛けた鈴の音が違った響きをした。肥沃な田畑、水が満々と流れている小川、良い匂いのする果樹園などを通過してから、街の家並みや建物が見え始める。間もなく、この隊商達は駱駝や騾馬達を導き、街の通りを鐘や鈴の音を響かせながらやって来るのだった。経験豊富な旅籠の主人達は長い砂漠路を越えて来たこの人達の服に付着した土埃だけで、何処の国の人達なのか推測した。

 諸国を行脚したスプルガは、丁度、昼時に故郷へ帰って来た。街の広場は売買する人達の熱い喧騒で揺れていた。スプルガは驢馬を繋ぎ、人の群へ入り、知り合い達と熱心に挨拶し合って通過した。

「見ろよ、俺達の諸国を行脚したスプルガが帰って来よった。アッサラムアライクム。何処から帰って来たんだい」と、果物屋が叫んだ。

「おい、スプルガ。店に入ってくれよ。上着が色褪せてるな。うちの布を好きなだけ切ってくれ。それじゃ、どんな面白い人達を見たんだ。俺達にも教えてくれ」と、また、商人が声掛けた。

「スプルガさん。あんた、疲れただろう。店で肉饅五つ食って行ってくれ」と、腹の出た調理人が店を指差した。

「スプルガじゃないか。止まってくれ。驢馬の蹄鉄が磨り減ってしまってるだろう。おれが一番良い釘で取り付けて遣ろう」と、血管が浮き出た手で金槌をしっかり握った鍛冶屋が大声で呼んだ。

 スプルガはみんなと挨拶し合い、彼らに適したお詫びを言って通過した。彼はお客で溢れたある茶店の前で止まった。驢馬を店の前の止まり木に繋いだ。疲れ切った驢馬は、誰かの家畜が残したアルファルファを、厚い唇で集めて怠惰に大口開けていた。

「スプルガだ。諸国を行脚したスプルガが帰って来たぞ」と、茶店の連中が騒いだ。

 スプルガは上着の裾の土埃を叩き、挨拶と共に茶店へ足を踏み入れた。

「アッサラムアライクム。街の平和な皆さん」

「ワアライクムアッサラム。上座へ、スプルガ」

 人達は詰めてスプルガに席を空けた。ここは疲れを取り、歓談する場所で、故郷の人達のために開けた茶店だった。話の合間に、たまに商談が纏まっていた。今、みんな静かにして、上着の裾を揃えて狭そうに座っているスプルガに注目した。

「さあ、スプルガ。長く会わなかったな。旅はどの方面だった」

「諸国を行脚した」

「そうだ。お前に『諸国を行脚した』って言う渾名は無駄に付けられてないな。どの辺りにいたんだ」

「不可思議な街を、色んな人達を見聞した。だがな、世界に我が故郷の泉の水より甘い水は見つけられなかった。あんた方のように裕福で悲観の無い暮らしをしている民は見なかったぞ」

 茶店の連中はこのお世辞に喜んだ。すばしっこいお茶屋が、スプルガに一番美味しく入れたお茶と焼きたての小さなナンを運んで来た。人達はスプルガに休むことなく質問し続けた。

「さあ、話してくれ。今回の旅でどんな面白いことに出会ったんだ」

「太陽は何処も朝、東から昇り、夜、西に沈むのを見た」と言ったスプルガは、ナンの屑を食べながら、

「手を括られている力士達は絞首刑台の前にいる。政府の主達は牢獄で腐っている。知恵のない狡猾な奴らが世を統治している。一つのナンもない貧乏人を、自由をなくした奴隷を見た。高い街壁で囲まれた王宮で、愛と陽光を渇望している美人達の悲愴を聞いた」

「何、お前、ある王様の側にいたというじゃないか」と、一人が訊ねた。

「記憶にない」と、スプルガが前にある熱いお茶を啜りながら返事した。

「俺達、そんなふうに聞いた。お前、王様の側で偉く尊敬されたそうじゃないか。王様がお前に高官になるよう勧めたそうで、その上、王様はお前に娘もくれようとしたらしんだが」

「ほんとだ、そんなこともあった」と、スプルガは思い出して、

「遠いある所に、高い山々の中にある国を訪れた。そこは小さく、ある王国に属する土地だった。王様がわしに側に来るようにと呼んだ。とてもよく持てなししてくれた。王様はわしを何処か遠い国から来た名医か魔術師と思ったらしい。最後に、『苦しんでる一人娘がいるのだ。見てくれ』って言った。世話になったお返しにと同意した。王宮内のある特別な庭園に入った。娘はそこにいた。花園の中の部屋に住んでいた。娘の美しさはとても信じられないほどだ。しかし、気が確かでなかった。食事を上げれば食べる、でも、ある一点を見詰めたまま座ってるんだ。わしのどうしようがあるって言うんだ。王様に、『アッラーは最も近い敬虔な信者に、最も苦しい日々を課して試す。娘御の治療は私達の思わぬある日、創造主が色んな理由で治して下さる。我慢して下さい。王様』って、慰めを言った。王様は、『その通りだ。娘を見せなかった医者、やらなかった治療はない。敵味方は多い。娘の状態をこの土地の者達に見せて笑い者になるのを良しとしない。お前が望めばこの娘を娶れ。お前に充分な財産を遣る。お前、娘と一緒に遠い所へ行け』って言った」

「お前、何て返事したんだ」と、何人かが同時に訊いた。

「『私は旅人です』って言って、要らぬ負担を望まなかった」

「それじゃ、旅する生活をやめろ」と、スプルガと同じ歳の一人が言った。

「見ろ、お前と同じ歳のみんなは今、三、四人子供がいる。子供達に結婚式を挙げさせて孫を見るところだ。世の中で、女房、子供と一緒も結構面白いことを知れ。娘達が順次成長している。何処の国の娘達とも引けを取らないぞ」

「その通りだ。それで、望むなら、俺、お前に娘を遣るぞ」と、また一人が言った。

「心配してくれて有り難う。わしは娘と似合う歳は過ぎてしまった」と、スプルガが言った。

「呆れたのう。ほれ、わしらのスプルガはあんなに沢山諸国を行脚したが、わしはこの歳になるまで近くの田舎へも行ったことがないんじゃぞ」と、ある老人が言った。

「そんなら、スプルガが話したあの王国へ行って、王様の娘を貰って来るかい、じいさん」と、一人が冗談言った。

「そうだ。あんたその娘と王様がくれた財産を持って来て家に置いとけ。ある一点を見詰めたまま座ってるんだったら、そうさせておけ。あんたも財産を精一杯使って遊び惚けろ。飯を食わない女房なら尚更良いんだがな」

 それで、茶店の中は冗談と笑いで沸き立った。

 スプルガが故郷の人達と談笑し合いお茶を飲んでいたその頃、他所の国から来た奇妙な三、四人がバザール広場を巡っていた。『この街の領主は誰だ。この街は何処の王国に属している』などという疑問が彼らの頭を満たした。彼らが街外れのある宿に泊まり、馬などを宿主に預けて、そうやってこの街を巡り歩き二、三日過ぎていた。

 彼らはこの土地の如何なるなものにもきょろきょろしながら驚嘆し眺めていた。大きな太陽が陽光を街上に射すのと同時に、この街のバザールでは人達の喧騒が起こった。隊商達は宿で重い梱包を解き始めていた。彼らは直ぐさま荷物を街の中心のバザール広場へ持って行き、商いし始めていた。バザールは四方から歩みを止めることなく来る、職人、農民、日雇い人夫達の喧騒、商売人達のお客を呼ぶ叫び声で活気付いた。こっちでは、極東から陶器、真珠、絹製品などが目を眩しがらせれば、あっちでは、インド、チベットの商人達が色々な染料、香辛料の馥郁たる匂いで鼻孔を擽らせた。ある所では、カシュガルの布、クチャの羊毛皮、ホータンの絨毯、絣などが陽光で火のように輝いていれば、また別の所では、売り子が柳の枝で瓶を打ち鳴らし商品を褒めちぎっていた。上部が閉じた、涼しげなアーケードで綺麗な花模様を刺繍した花帽子を手に持った女達が、お客と激しい商談していれば、また何処かの通りでは銅細工屋、桶屋達ががんがん叩いている金槌の音が耳を劈いた。このバザールで果物は一つずつではなく籠ごと売っていた。薄い白帽子を斜めに被った果物屋達が声をあらん限りの声を張り上げて、

「食べろよ、男達。腹一杯、大した金じゃないぞ」と叫んでいた。 彼らの前の大きくて水気のある桃は、どう頬張ってみても十個より多くは食べられなかった。

 例の他所の国から来た人達は、生涯で初めて出会ったこの不思議な街について、泊まった宿の主人に彼らの疑問を訊いてみた。

「あなた方の街には何故、街壁がないんですか」

「何だって」と言った宿の主人は、彼らの質問の意味が分からなかった。

「あなた方のこの街は、どうして高い街壁で囲まれていないんですか」と、彼らはもう一度、訊いた。

「ああ、街壁のことかね。わしはこの街から他所には行ったことがない。他所に行って来た人達から、他所の街ではそんな高い街壁があるのを聞いたことがあるが」

「そうです。街とは頑丈な街壁と大きな門があるのが当然ですよ」

「何でそんなもんが必要なんだね」と、宿の主人は驚き、

「街壁で囲って大門を設置するのが街だというのは、一人の個人的な場所じゃないんだぞ」と言って、口を噤んだ。

「もしも、あなた方の街へ敵が攻めて来ようとしたら、どうするんです」

「敵が」と、尚更、宿の主人が驚き、

「何で、わしらの街へ敵が攻めて来るようなことがあるんだね。神に感謝。街の人達は、今まで誰とも問題は起こしてない。沢山の国々の人達がわしらの街へ行き来している。わしらの友好なのを褒めない者はいないがな」

「この街の王様は誰ですか」

「王様だって。今までわしらそんな人の必要はなかった。わしらの街には長老達や尊敬される人達がいる。王様がいなくても、あの人達が仕事を遣ってくれてるんだ」

「そうだったら、この街の誰か所有者がいても良いでしょう」

「所有者と言ったのかね。所有者はわしら自身で、この街の人達だ」

 例の人達は驚いて互いの顔を見合った。宿の主人の答えは、彼らにはよく満足し得なかった。二人目がまた質問し始めた。

「例えば、あなた方は誰に税金を納めるんですか」

「税金。わしら何で税金を納めるんだね。わしら誰にも借金しとらんよ。何であんたたちそれぞれ変な質問するんだね」と言った宿の主人は、少し怒ったようだった。

「我々の言った意味は...」と、別の一人が押さえながら説明した。

「例を上げると、社会に公共の利益がある道路や橋が壊れたなら、それをあなた方はどうするんです」

「今さっき、言ったでしょう。わしらに長老がいる。そんな時は彼らが進み出て、『おい、みんな、何処そこの道路、橋が壊れたんだ』とか、『何処そこの女が五人の子供を抱えて未亡人になった』とか、『何処そこの小川が決壊した、さあ、神の前に寄付を出してくれ』という。わしらみんな犠牲になるのを惜しまないから、稼いだ金を出す。ことはそういうふうにするんだ」

 宿の主人の話で、例の人達は更にこの街へ興味を持った。世界には、こんな王様もいない、一人の所有者のなり手もない街があるのが、彼らにはとても信じられなかった。彼らは街を巡り、質問した人達みんなが、宿の主人と同じことを答えた。彼らは遠いある国から来て、ここで商品を陳列し商売している商人に訊いた。

「あんた方の稼ぎからこの街へ幾ら税金を納めるんです」

 この商人は彼らを胡散臭そうに見て、

「お前ら、どういう人間達だ。ここへ何処から来たんだ。ここじゃな、商人から税金を取るような法律はない。余計なことをあいつらにごちゃごちゃ言わず口を噤め」と言って、激怒した。

 この奇妙な人達は、太陽王の都から来たのだった。太陽王が死んでから、長男が王宮にいる競争相手達を武力で従わせ、王位に就いた。一番小さい王子が王宮から消えたのに気付き、各方面へ密偵を送った。密偵達が逃げた王子を見つけ出すことなく、さもなければ何んの消息も得ることなく、王宮への帰還は許さないことを命じた。誰か王子を生きたまま捕まえるか、首を取って持ち帰れば、高級官職と多くの賞金を与えることを約束した。スプルガの故郷でうろうろしている奇妙な人達は、王子を探しに出た密偵達の一部だった。 彼らを最も驚かせたのは、街の郊外で毎日、催されている娯楽だった。毎日、陽が傾き影が長くなり始めると、遠近から街へ売買しに来た人達が売買し終わると、郊外の空気が新鮮な場所へ休息しに集まった。そこでは、歌舞、音楽が盛況だった。人達の中心に広い場所を空け、円形になって遊びを見ていた。楽隊は手太鼓、サタール(※弦楽器)、石、匙、盆、皿など、つまり、手に持ったどんなものでも調子良く音を出して、それぞれが伴奏していた。

何人かが水の入った桶を木の枝で叩き、細い音を出して参加していた。歌い手達はまるで気を失うかのように夢中になって歌っていた。彼らの声はまるで、嵐の音、鹿の雄叫び、狼の遠吠えのようであったり、小鳥の心地よい囀りや山の水の流れる音のようでもあった。この歌の歌詞は、砂漠で成長した人達の過去、現在、未来、恋、希望、夢、想いなどを詩にした。音楽のボルテージが上がり頂点に達すると、広場へ男女の踊り手達が出て来た。力強い若者達は手を鷲の翼のように広げ、羚羊のごとく跳躍した。奇麗な娘達は砂漠に落ちた胡楊の葉が風に飛ばされるごとく、静かな水面に細かな波が広がるように軽やかな足取りだった。楽隊は左右に揺れたり、前後に動いたり、全身で演奏していた。歌手達の声は喉からではなく、正に心臓の中から噴き出て来ていた。踊り手達の全ての関節が動きだし、まるでその音楽で彼らの骨が溶けて柔らかくなっているかのように見えた。音楽が最高潮に達すると、周辺で見ていた人達も一人一人、広場に出て来て沸いた。こんな時、空の雲、周りの山陵、砂漠、全地球でさえも、その人達と一緒に旋回しているかのようだった。人達の血が血管で沸いた。この世の死、生計、仕事・商売、眠気、食事というようなもの全てを忘れ、ただその幼稚な行動だけが残ったようだった。たまに、そんな何人かは暗くなってから夜が明けるまで踊り続けた。

 ある日、その音楽広場を彷徨く密偵達が、スプルガに目を留めた。広場の全員が彼に挨拶して行くのをみると、この人はこの街でかなり尊敬されている人物の一人であるのが知れた。

「アッサラムアライクム。スプルガ、何処から帰ったんだ」と、彼の側を通った人が訊ねた。

「どんな国々を回ったんだ」

「何か目新しいものと出会ったかい」

「きっと、俺達の街の愉しい音楽広場を懐かしんだことだろう」

「お前に言うが、こんな凄い音楽は王宮にもないぞ」

 この話を聞いた密偵達は互いに抓り合った。

「聞いたかい。彼は遠い国々を旅して来た人のようだな」

「服の色、連れてる驢馬を見ろよ。今、旅から帰って来たみたいだぞ」

「彼に王子に関する情報を訊くことはできないかな」

 密偵達はスプルガの後を遅れないように付けて行って、スプルガがポプラ並木のある静かな通りへ曲がると呼び止めた。

「ちょっと、先生、待ってくれ」

 スプルガが振り返って見れば、知らない人達が後ろから息せき切って向かって来ているので驚いた。

「わしを呼んでるのか」

「そうだ。あんたを」と、密偵達が追い付いて言った。

「あのう、先生。済まないが俺達、あんたに訊きたいことがあるんだが。見たところ、あんたは長旅から帰って来たようだな」

「そうだが。わしがこの街を出て一年ほどか、多分、それより長いだろう」

「色んな所を回ったんだろうな。きっと」

「そうだが。あんた達は誰なんだ」

「我々は遠いある王国から来た。あんた『太陽王』って聞いたことあるかい」

「どうして聞かないことがあるんだ。わしは多くの国々を回った。だから、この街の同郷人達はわしを『諸国を行脚したスプルガ』って敬い呼び合ってる。わしが見た王国の中で、『太陽王』は最も偉大だ」

 スプルガの話を聞いている人達は、彼の褒め言葉に喜んだ。

「多分、あんたは知らないだろうが」と、彼らの中の薄顎髭で年輩の人が話し始めた。

「その我々の王様『太陽王』が亡くなられた」

「この知らせには何も驚くことはない。王様も乞食もみんないつか死ぬんだ」

「その通り。みんな死ぬ。亡くなった王様の跡を長男が継いだ。字は『太陽より偉大』と付けられた。というのは名から分かることだが、彼の王権は父親よりも偉大なんだ。俺達はその新王の命令で御当地へ来たんだ。あんた、こちらへ来る時、路で子供を抱いて来てる女と出会わなかったかね」

「子供を抱えた女。世には子供を抱えてる女達は少ないのか。あんた達、どこで、どんな子供を抱いてる女のことを言ってるんだ」

 スプルガは彼らが誰を追跡しているのか分かった。『ああ、王子とあの女の事が続いてるんだな。そうだ。この世の出来事は流れる水のように一つずつ繋がってるんだ。ある事件の続きは次の事件の始まりになる』

「例えば、あんた、」と、薄顎髭密偵が説明した。

「行動が一風変わった背の高い奇麗な女性を見たか」

「この辺りには奇麗な女性は一杯いる。辺りを見ろ。ほら、あの子羊を抱えている女は、凄い力持ちじゃないか。道端で顔をベールで覆ったあの娘は何と美しい」

「あんた、よーく、思い出してみろ。狼狽えて素振りが可笑しいと思う若い女がいたかね」

「あんた達。一体、何を知りたいのかを何ではっきり言わないんだ。子供を抱えた女と新王の何の関係があるんだ」

「お前に言わなきゃならないようだな」と、密偵達はスプルガへ近寄った。

「あの畏れ多い新王様の小さい弟を彼の母親が女使用人一人を付けて逃げさせたんだ。我が王様は我々をその小さい王子を見つけて来るのに送ったんだ。道中、馬を疾走させた。多くの国々を探した。しかし、消息は掴めなかった。王子の消息を掴められなければ、我が王様は安心できないんだ」

「何故だ」

「第一に、王子はまだ赤ん坊だ。王様は自分の兄弟が無事に戻って来られるのを望んでおられる。第二に、王子が宮殿外にいるのは良き事の兆候ではない。後に悪人達が彼を利用し、王位を危うくするかも知れない」

「分かった」

「今、思い出した。ある日、わしはこの驢馬と話して、ある村を通っていた。わしはその時、驢馬に『もし、アッラーがお前に福を与えて、どこかの街の王様になったらどうだ』って訊いてたんだ。驢馬は笑って『もし、ほんとに俺にそんな福が来て王様になるならば、街を直して、驢馬達が遊ぶ沼田場を造る。田畑の全部にアルファルファと玉蜀黍を植えさせる』って言った。その時、村はずれの橋のたもとに群がっている人達の騒がしい声が、わしらの話の邪魔をした。何だろうかと行ってみると、幼児の死体が土に塗れてた。死体の頭を誰かが切り取って持って行ってた。あんた達が探している赤ん坊はそれじゃないんだろうか」

「あんた、それを、いつ、何処で見たんだ」と、密偵達の誰もが目を大きく見開いて、スプルガの口元を注視した。

「二週間前だろう。何処で見たか、はっきり覚えてない」

「もし、あんたが見た死体が王子のものならば、その側に女一人もいたはずだがな」

「女か。そうだ、その死体の周りに群がってた人達が女のことを話してたような気がするが」

「そいつらは何を話してたんだ」

「その人達の話では、赤ん坊を女一人が抱きかかえて来てその後から馬に乗った兵士達が追い付いた。橋の上で少しは争ったようだ。誰もそっちへ行く勇気がなかったらしい。兵士達が行ってしまった後、村の連中が行ってみると、そこには頭のない赤ん坊の死体があった。あの女が何処へ消えてしまったのか、彼らもはっきりしない」

 この話を聞いた密偵達は互いに見合った。『つまりは、王子の首を他の奴らが切り取って行ったということだ』と彼らは思った。それでも、スプルガが教えてくれたこの情報は、密偵達を少しは嬉しがらせた。何故なら、どうであろうとも彼らは王宮へ王子の死の知らせを知った上で帰ることができた。彼らはスプルガに礼を言うのも忘れて急ぎ戻って行った。

 

 

 第八章   不思議な知らせ

 

 諸国を行脚したスプルガと出会った密偵達は、王宮に幼い王子の首を持って来られなくても、遠い砂漠の中に非常に豊かで栄えた、しかし、何処の王国にも属していない憂いなき街についての不思議な報告をした。この知らせは、新王の『太陽より偉大な王』をも大きな興奮を呼び起こさせた。彼にはもう幼王子の首は必要ではなかった。彼はすでに王子の首を手に入れて安心していたのだった。他の王位継承者達を従わせて、王権を確かなものにした。本当にそんな富で満ちた守りのない国があるのなら、そこへ兵を送り制圧すれば、これが新王の栄光を増し、新王に対する周辺諸国の不満を緩和させられるはずだった。

 新王は例の主のいない街から帰還した兵士達を呼んだ。何重もの王宮門の微動だにしない警備兵達、王宮内のそれぞれのお世辞笑い、新王の特別室に到る折れ曲がった秘密の路とそこの静寂が、重苦しい雰囲気の官吏の後に付いて行く兵士達を驚かせ、また、動揺させた。やっと、王様の前に行くと一安心した。今日の王様の様子は和やかだった。その上、王様は一緒に朝食をと、兵士達を誘った。食卓には本当に凄く沢山用意された。兵士達は並べられた珍味の名前も知らなかった。蟻のジャムから虎の男根を炒めた料理まで、色んなものがあった。王様はこの兵卒達と一緒に食事を摂り、自分がどんなに控え目で民主的であるかを示すつもりだった。しかし、王様は自分と一緒に食事をしたこんな馬鹿者達が、王宮の富や凄い料理のことを一生言って聞かせるのを良く知っていた。

「わしはお前達に一つ訊ねたいことがあるのだ」と、食事の席で言った。

「陛下に何なりとお答え致します」と、兵士達は同時に返事した。

「お前達が見た例の街の話は事実なのか」

「偉大なる王様の前で嘘を言うことはありません」と、兵士達が答えた。

「我々はほんとに兵士も王様もいない不思議な街を見ました」と、兵士達の中の薄顎髭が返事した。

 彼はあの密偵達一行の頭であった。

「彼の街の人達はとても屈強なんですが、とても愉しく暮らしています。街の街壁がなく、そこで行われている交易、熱気あるバザールの不思議な商品、商人達の宿舎にあるもの凄い財貨、陛下、偽りなく申しますと、我々はまだこのような繁栄した国を見たことがないです」

「彼らのメロン、西瓜などの果物の甘いことと言ったら。値段もほんとに安くて、ただ同然と言っても良いくらいです」と、二人目の兵士が付け足した。

「ああ。あそこの音楽の響きは...」と、三人目の兵士が加わり、

「あそこの人達はほんとに自由なので、自由な時間を音楽で愉しんでいます。遠くから彼らを見た人は、彼らを気が狂ったと思うんです。近くに行って聞いた人は、楽器の心地よい音色につられて、思わず踊り出してしまうんです」

「女達のことはどうなんだ。お前達、女達については陛下に何にも言わなかったじゃないか」と、四人目が急いで唇を舐めながら、

「あそこの女達はそれほどまでに美しく、長い髪、真っ白い肌で、歩けば魚のように科を作って人を魅了させるんです」

 兵士達は見聞したことを王様に何のかのと説明して、王様の興味を更に増幅させた。

「お前達はそんな不思議な街を夢で見たのか、それとも、そんな幻覚するような何かを吸ったのか」と、王様は試すような目で兵士達に訊ねた。

「我々の言ったことが真実であることを天の名に誓います」

「その街の名は何と言うんだ」

「名ですか」と、兵士達は不意を打たれて吃驚し、互いに見合った。

「街の名は憂いなき街です。敬愛する王様」と、薄顎髭が出任せに答えた。

 何故なら、王様の前で言葉を濁すのは危険であった。それで、憂いなき街というのを彼が考えて言ったのか、それとも、その街の名は本当にそうなのか。憂いなき街というこの名は彼の脳裏にどのようにして入ったのか。これには彼自身もよく分からなかった。

『街壁もまともな大門もない、富で満ちた街とは一体どんなんだろう』と、王様は考え込んだ。

「多分、その街の人達は自分達を守る何かの手段があるんだろう。馬鹿なお前達にそんな秘密を教えるもんか。それとも、彼らはみんな魔法使いなんだろう」

「そういうことは我々は分かりません。王様、我々はあの街にたった数日間だけしかいませんでした。でも、その名からも分かるように、あの街の人達は、凄く安心している様子で、彼らが豊かに暮らしているのには興味を持ちます」

 その後、王様が次から次へと送った別の密偵達も行った先から、遠近の地に本当にそんな主のいない街があるのを報告した。それらの報告は、先の密偵達が話したことに付け加え、憂いなき街がとても美しいこと、肥沃な田畑、山のように積み重ねられた富、また、そんな諸々のことについて物語った。その他、この都から以前、憂いなき街へ行って商売した商人達も見つかった。この商人というのは、悪魔のような奇妙な人間で、儲けのためには彼らの行かない所、入らない穴は無かった。彼らも遠くのある所に、そんな殷賑を極めた裕福な街があるのを証言した。

 『太陽より偉大な王』は、この主のいない街へ出兵して制圧し、周辺諸国に統治をひけらかし、王位を争う者達に力を誇示してやろうと決心した。それについて話し合うため王宮会議を開いた。

 王様が開いた王宮会議に文官、武官のほぼ長達全員が出席した。この会議には、憂いなき街の情報を最初に王宮へ知らせたのを敬意を表して、あの薄顎髭も呼ばれた。王様はまだ会議場に来ず、官吏達はこの特別な話し合いの議題について小声で話し合っていた。

「戦をするようだな、戦を」と、目袋が垂れ下がっているある大臣が、側の官吏に低い声で囁き、

「また、どんな戦なんだ。王宮はやっと静かになったところなのに」

「遠くにとても富んだ国があるそうだ。わしらはそこへ派兵するようだ」

「彼らがわしらの方へ攻めて来たのか。それとも、わしらが彼らを攻めに行くのか」

「当然、わしらが彼らを攻めに行くんだろう」

 薄顎髭は少し頭が悪いが、実直な人だった。彼はグループの長職である低い官職を、狡猾なことをしたり偽ったりして得たのではなく、彼が王家の遠い親戚筋であるから印綬を帯びたのだった。彼は憂いなき街へ出兵するのが何故そんなに重要なのか理解できず、周りを見回して、

「我々はどうして他人の土地を攻めるんだ」と、呟いた。

「馬鹿野郎」と、側に座っていた将軍が彼の耳元で低く囁き、

「お前、どう言う訳で主のいない街についての話を持って来て、わしらの安らぎを妨げたんだ。また、何を今更、可笑しなことを言い出すんだ。王様の怒りを怖れないのか」

「でも、あそこは以前から我々に属してないし、それに、あそこの人達と我々は争い事がないじゃないか。我々は何を根拠に平和に暮らしてる人達へ剣を抜いて行くんだ」

 将軍は嘲笑って、

「お前、根拠と言ったな。よーく聞け。わしらは先ず、あそこを武力で制圧するんだ。その後、根拠にする証を沢山でっち上げればよい。例えばだ、あそこへわしらの者が商売に行って、そこで死んだ商人の墓とか。ある時期こちらからあそこへ迷って行った馬鹿者の忘れた古い上着とか。わしらの王国のもので、人の手から手へと渡って変色し、人のポケットに入ってあそこへ行った何枚かの割れた銅銭とか。誰かあそこへ行って来て書いた日記のようなくだらんものとかは当然、見つかるだろう。そんなようなものを根拠にしてやり、この王宮の屑文士が歴史を書くんだ。ほれ、お前が見てきた街の名は何て言った」

憂いなき街

「そうか、その憂いなき街はな、神がまだ土地を造る前からわしらに属していることを無言で証明している。そうなれば、王宮の詩人達が、王様の力や公平さを、蟻も殺せない慈悲深さを褒め称えて書いた賛歌を、お前は驚いて読むことだろう。その内容は、凄く甘美なので、糞をもハルワにしてみせられる」

(※ハルワ:羊油、小麦粉、砂糖で作った練り状の食品。①、氷砂糖又は砂糖にお湯を加える。②、フライパンに羊油を煮立て弱火にする。③、②に小麦粉を加え混ぜる。④、③に①を加え混ぜる)

 薄顎髭がまた何か言って将軍に不服を示そうとした時、王様がやって来る知らせを聞いた会議場の全員はがやがやと立ち上がった。王様が席に着くと、座ることを許された官吏達は、上着を軽く叩き無言で座った。

 話し合いは短時間で終わった。王様の魂胆を逸速く察知した大臣や将軍達は、憂いなき街へ出兵し制圧することを一も二もなく賛成した。

「わしらを当てにして待つ所が王様のいない街で、それが存在するのは良いことではない」と、王様が最後に決断した。

「その街が我が属国に悪い手本となるはずだ。そんなことになれば、『王様がいないのも良い生き方だ』と、国民達がつまらん考えを持つのだ。いつかわしらに刃向かう。将軍達よ、有能な兵士達を用意しろ。わしらはあの街を攻めて行き、世に主のいない街が存在しないのを見せてやろうではないか」

 会議場の一同は席を立ち、

「太陽より偉大な王様、万歳、千年万年生きられよ。偉大な王様の勇気に大声援を送ります」と言い合って歓声を上げた。

 それで、王様の命令一下、慌ただしく軍隊が組織された。隊長には憂いなき街へ最初に行って来た、あの薄顎髭が任命された。狡猾な将軍達は、遠い砂漠にあって、まだ秘密が解き明かされていないある街へ戦を仕掛ける冒険に尻込みした。官位が上がって喜びに浮かれた薄顎髭は、この事に関しての不満も忘れてしまった。何人かの商人達を道案内人に選んだ。騎兵隊、重い荷物を積んだ馬車が首都の通りを土煙を立ち上らせ、街の大門から威勢良く出発して故郷を後にした。一行は一ヶ月以上、艱難辛苦の旅をして憂いなき街の郊外へやって来た。砂漠路でこんな大部隊が砂漠の嵐や灼熱を避けることは至難の業だった。果てしなく伸びた砂漠路で兵士達のほとんどの馬が死に、徒歩で前進しなければならなかった。馬車が壊れ道端に遺棄された。彼らは憂いなき街郊外の空き地へ来て、天幕を張り一息入れると、一行の人員が辛うじて半分生き残ったのを確認した。生き残った者達も疲労困憊し、戦をするような余力はなかった。薄顎髭は憂いなき街というこの孤立した土地が、遠い砂漠の中に何故、今日まで何の武力の攻めに遭わず、無事生き延びてこられたのかの理由をやっと悟ったようだった。しかし、今は何の成果も得ず王宮に素手で帰還することは、彼の死を示唆するのだった。薄顎髭は一行を止め休息を命じた。憂いなき街の様子を探って来るように密偵を送った。

 

 

 第九章   憂いなき街で戦争

 

 そんな一行が攻めて来ている知らせは、憂いなき街へは既に伝わっていた。この知らせは初め、あの砂漠の盗人が横行する路上で悪魔のように動き回っている商人達が知らせたのだった。それで、人達は街の外に集まった。この人達は街の大長老の【駱駝草長老】が組織した。

「おい、鍛冶屋達よ、お前達は、ほらこっちの列へ。果物屋達よ、あっちへ。おい、機織りセリム、お前、何処向いてるんだ。戦はな、この後ろの場所であるんだぞ。ああ、神様。おい、女達、お前達はここで何の用があるんだ。ここではな、結婚式じゃなく、戦があるんだぞ、戦がな。ほら、何にも用がなけりゃ、後方に移動しなさい」と、長老は人達の中にいて叫び散らしていた。

「なあ、この学生達はどうするんだ。彼らを何処に加えようか」と、忙しくて、頭のターバンが一方に歪んでしまっている教師が言った。

 この人達の顔は、戦をするのではなく、まるで、行楽へ来たかのようで愉しそうに見えた。太鼓手は嬉しそうに枹で叩いていた。喇叭やチャルメラ吹きは、頬をあらん限り膨らませ、耳をくような音を出していた。小さい子供達が方々駆けずり回っていた。まるで、ここで何か祝い事をしているかのようで、飲食物を売る者達も群衆の隅っこにいて、露店を開いていた。この不測の事態に、どうのこうのと秩序を言うのは間違いだった。

 鍛冶屋の手には鉄槌、農民の手には鋤、大工の手には棒切れ。つまり、各自が身近にあるものを手にし、ここへ集まったのだった。彼らは互いに冗談し合った。

「おい、旅する若旦那」と、一人が跳ね回っている駿馬に乗った商人に声掛けた。

「良い馬に乗って来たのを見ると、あんたここで競馬があるとでも思ったんじゃないのか」

「見てろよ。戦が始まって暫くしたら、俺は馬を飛ばしてみんなより前に出るからな」

「おい、阿呆。儲けのためなら馬を敵に売って帰るんだろうが」と、もう一人が言った。

「おい、散髪屋さん」と、力の強い鍛冶屋が、髭剃りナイフを持って可笑しそうにしている、痩せた散髪屋(彼は憂いなき街で一番の腕利き理髪師の一人だった)を見ながら、

「お前さん、そのナイフでわしらに攻撃して来た奴らの髭を剃って手柄を立てるつもりなのかい」

「あんたは奴らを取っ捕まえて倒してくれ。俺は倒れた奴らの筋を一つずつ切り取って遣る。だから、奴らは二度と立ち上がれないぞ」と、散髪屋が嬉しそうにナイフをちらつかせながら言った。

「それよりか、お前さんのナイフ研ぎの革ベルトの方が良いぞ。革ベルトでどんなに手強い敵でも耳元をうまく一発当てて遣れば、ぶっ倒れるから、俺が保証するよ」

 そこへ、髭を色んな色に染めた染め職人がやって来た。

「何だ、それは」と、人達は染め職人が手に持っている袋を見て不思議そうに訊ねた。

「この中にはインドの石染料があるんだ」と、忙しそうに手の袋を示して言った。

「何だ、お前、敵の髭をお前のと同じように染めようって言うのか」

「これは染料だ。凄く毒があるんだ。俺はこれを攻めて来た敵達の目に撒くんだ。奴らは痛くて目を開けられないんだ。後のことはあんた達が巧く遣ってくれ」

「あーあ、どうしてわしは膠を忘れてしまったんだ」と残念がったのは膠屋だった。

 彼の全身からは膠の強烈な匂いがしていた。

「もし、膠を敵の顔に一つ付けたなら、目だけでなく口も開けられないのになあ」

「見ろよ、見てみろよ、あれは何だ」と、スイカを切る大きな包丁を持った果物屋が言った。

 人達は果物屋が指し示した方向を見た。そこには靴修理屋が一人、仕事に使うペンチと金槌を両手に持ち、木の靴型を腰にぶら下げて出て来ていた。靴修理屋の変な格好を見た一同は大笑いした。

 駱駝草長老は、スプルガを人達の群から苦労して見つけ出すと、隅っこへ連れて行き、

「敬愛するスプルガよ、お前、諸国を行脚して色んなものを見た人間だ。聞けば、兵士達がやって来て、天幕を張って留まってるらしい。お前、この街の人達のために使者になって行ってくれないか。奴らの隊長と会って、一体、何の意図で来たのかを探り出してくれないか」と言った。

 スプルガは、灰色の驢馬に跨ると、人達の群から離れて、兵士達がいる方へ向かって行った。後方から人達の笑い声が聞こえていた。

「おい、みんな見ろよ。わしらのスプルガがまた旅に出たのか、どうなんだ」

「おい、スプルガ。戻って来ーい。今は諸国を行脚する時じゃないぞ」

「見ろよ、俺達のスプルガが一番先に攻撃しに行くようだぞ」

 スプルガは偵察兵士達と出会った。兵士達はスプルガを宿営地へ案内した。そこには、車輪が折れた馬車、破れた鞍や驢馬の背当てが散らばっていた。天幕の側には鍋が吊されていて、そこでは調理人達が忙しく立ち働いていた。疲弊した馬達は、荒い息をしていた。兵士達は天幕の陰に倒れ昏睡していた。兵士達はスプルガを薄顎髭隊長の天幕の前へ連れて行った。その天幕の前で歩哨している兵士達が、スプルガのポケットを調べて、人を殺傷する武器が何もないのを確かめると、中へ入る許可をした。天幕の上座で横になって寝ていた薄顎髭が頭を擡げスプルガを一瞥した。古くなったコートを羽織り、粗末な靴を履き、腰に布帯をしっかりと巻き付けたスプルガは、一目見るとその時代の托鉢僧か奇術師、若しくは物乞いを生業としている乞食のようであった。

「お前は何者だ」と、薄顎髭が訊ねた。

憂いなき街の使者です」と、スプルガが返事した。

「使者か。使者ならここに座れ」と言った薄顎髭は居直った。

 スプルガは薄顎髭が示した場所へ来て座り、

「親愛なる隊長殿。間違いでなければ、わしら二人、以前何処かで出会ったんじゃないかな」

「いつ、何処で」と言って、薄顎髭は驚いた。

「あんた、いつだったかわしらの街の客人だった。連れの何人かとわしを呼び止めて、何故か赤ちゃんを一人抱いた女とその赤ちゃん王子について質問したじゃないか。親愛なる隊長殿、あんた、こんなに沢山兵士達を連れて来て、一体、何する気だね」

 薄顎髭は前に座っているスプルガを思い出したが、少し意外なようだった。

「お前は知ってるだろう。私は王様の命令を履行する者だ。お前達の方は太鼓を叩いて何を騒いでるんだ」

「街の人達は、あんたが軍隊を連れて来たのを知って街の外に集まったんだ。あんた、一体、何するつもりなんだ。目的をはっきり言ってくれ。あんたが知っての通り、あんたの目の前にあるのは不思議な街だ。この街の街壁も兵士もない。ここには世界中の色んな所からの商人が行き来する。街の人達は善良な人達が来ると食事に招待する。わしが思うには、こんな無防備な街を攻撃するのは、どんな王様にも栄光をもたらさない。路を選ぶんだ。街の人達はあんたが客人になって来るなら微笑んで歓迎するぞ。戦をするなら、死んでしまうまで命の限り戦うぞ」

 スプルガの言葉は薄顎髭を考えさせた。彼はスプルガを外に出し、側近達と話し合った。

「この街を戦で得たとしても、こんな遠い所で兵士達を長い期間残して置くのはどうだろうか」と、薄顎髭に相談役が話を持ちかけた。

「その通りだ。今、兵士達は疲れてる。力がない。もし、ここで棒を持った人達と戦って負けてしまえば、こんなひどい恥知らずはないぞ。一番大事なのは事を巧く解決するんだ」

 彼らは長く話し合った後、再びスプルガを天幕に呼び入れた。

「お前、街の要人達の所へ行って言え。戦を望まないんだったら、我々の条件はそんなに重くはない。この街は我々の太陽より偉大な王様に庇護される。我々はこの街を我々の街と同様に運営する。この街へ我々側から知事が派遣される。長老達はその知事の下で仕事をする。住民達は毎年、国王に税を納める。この条件に同意すれば、戦をせず帰って行く。同意しなければ、血戦となる」

 スプルガがもたらした知らせは、街の人達に一騒動起こさせた。戦というのは何なのか、見たことがない。戦についての話は、ただ戦争物語だけを聞き知っていた多くの人達は、興味があってちょっと戦してみたかった。

 街の長老達は少し入り組んだことをしようとして、街の金持ち達を集め、話し合いを開いた。商人達は、このことの損得勘定をし、戦をするのを反故にした。

「もし、ここで血戦となれば、街へ商売のために方々から行き来している隊商達が来なくなる。商売が上がったりになる」と、商人の一人が話を切り出した。

「そうなったら、お前が街の外に新しく建てた屋敷や造った庭園がおじゃんになるな」と、一人が言った。

「お前、三人目の女房の次に貰おうとしている四人目の女房のことも駄目になるな」と、また一人が言った。

「兵士達がやって来たら、先ず初めにお前の女房達に目を付けるぞ」

「ああ、わしの屋敷の財産はどうなるんだろう」と、一人が大きな溜息を吐いた。

 誰かが起きようとしている損を指で計算しながら、答えを出せずにいた。また、他の何人かは、一体どうしたら良いのかと思案投げ首していた。

「戦をしないのが良い」と、最後に商人達は結論し合った。

 駱駝草長老も考え、

「幼い子供達や女達に被害のないように。街に血が流れないように」と言った。

「税金とは、一体、何なんだい」と、一人が分からず訊ねた。

「税金とはな、奴らの王様に毎年、我々が仕事や商売の金を払うことのようだ」

「何というこった。そんな馬鹿な話があるか」

「戦しようものなら、損はもっと大きくなるぞ」

「戦はやめよう。奴らがわしらの街を奴らの街に組み込めるならそうすれば良い。どうってことないじゃないか」と、ある有力者が言った。

「そうしよう。ほんの少し税金遣って、王様が送ってきた長官と兵士達を養えば良い。それでなくても、毎日、街に往来している流れ者は少なくないじゃないか」と、他の商人達も言い合った。

 それで、憂いなき街の空に現れた黒雲は何の嵐も起こさず消え去ってしまったかのようだった。街の人達は疲れた兵士達を友好的に街へ案内して来た。薄顎髭をはじめ隊長達は、駱駝草長老の家に招待された。他の兵士達は普段街のバザール会場になる大きな空き地で、家々から持って来てくれたフェルトの敷物に座り腹を満たした。

 薄顎髭は道中、兵士達に憂いなき街のそこかしこに散らばっている富、女歌手達、美人踊り子達について話し、兵士達を勇気付けて来たのだった。兵士達は腹が満ち、疲れを癒してから、富と例の美人達の影さえ目に付かないのを知って苛立ち始めた。日が落ち、暗くなっていった。どの兵士達の頭には、『もう隊長達は何処かで綺麗な女達と愉しみ、懐を金銀で膨らませてるんだろう。明日にも俺達を手ぶらで帰らせる気なんだ。俺達、銘々の心配は自分自身で解決せねばならん』という歪んだ考えがあった。何よりも、女房の顔を何ヶ月も見ていない兵士達は、女達に近付きたい一心でひどく落ち着きがなかった。

 兵士達の中で身体が一回り大きい二人がひそひそ話をし、目配せし合った。辺りが暗くなると、ゆっくりと座を立ち、狭い通りの一つに入り消えてしまった。この兵士二人の内、痩せた方が思い切ってある家に入った。二階にある部屋の一つから明かりが漏れていた。部屋の中では女三人が談笑していた。女達は入って来た兵士を敬意を持って上座に通してやり、座布団を敷き、酒、水煙草を用意した。痩せた兵士はたらふく酒を飲み、水煙草を吸った。水煙草から立ち昇る紫煙が、壁の絨毯と花模様の天井に濃い雲となって漂っていた。兵士は薄目で部屋にいる綺麗な女達を一人ずつ眺めていた。一人が楽器を弾き、一人が艶めかしく踊り、もう一人が兵士に水煙草を用意し、酒を注いで上げていた。兵士は立ち上がり、この女達と愉しみたいと心底願った。しかし、何故か益々体が重くなっていき、地にくっついているかのようで座から立ち上がれなかった。兵士の目の前に、緑の樹木、夜を飾る星々、雲間から明るく見える月、土の路上に落ちた木の影が見えていた。彼は己が知らない街へ、何故、何の目的で来ているのか記憶になかった。少しずつ目の前の全てが暗くなって行った。終いに彼はこの世を捨て、ある奇妙な世界、想像感覚の世界に陥ったようだった。彼の目は閉じられた。女達はこの兵士に毒を盛ったのだった。

 兵士のもう一人は、凄く太っていて水瓶のような男だった。彼ははあはあ息を弾ませながら押し入った家で、痩せた友達と同じく熱烈に歓迎された。この家には美人が二人いて、女たちは遠くへ商売しに行ったある商人の女房達だった。気がむしゃくしゃしていた女房達は兵士を大歓迎して持てなした。酒に酔って薄目を開けた兵士は、商人の女房達と一緒に愉しむことを願って言った。

「あんたの良いように。あんたはお客よ。主人の務めはお客を愉しませ、和やかにすること。でも、一つ条件があるの。初めに、私達と相撲を取って、私達のどっちかを倒せれば、その人と存分に愉しむと良いわ」と、女達は言った。

 兵士の太った身体は、相撲を取るにはあまり適当ではなかった。しかし、彼は『女と相撲取るなんてなんでも無い』と思った。

「相撲なら取ろう」と、兵士はふらふらと座を立った。

 剣とベルトを解き放し、部屋の真ん中へ出た。最初に兵士と相撲を取ることになった女も服を脱いで半裸姿になった。彼らは互いに腰を掴み合い、前後に押し合った。女はデブの腰に腕が回らないので、首や肩を掴んで引っ張った。女の柔らかい胸が兵士に当たり、真っ白い太股が彼に絡みついた。兵士は女の腰を充分に掴んでいても、どうしても女を持ち上げられなかった。

「お前、足に石をぶら下げてるのか。それとも、何か呪いをかけてるのか」と、兵士がはあはあ息を吐きながら訊ねた。

 女は大笑いして兵士を馬鹿にした。終いに兵士は女の上に身を投げ出し、体重をかけて女を押し倒した。その時、もう一人の女が兵士の放り出していた剣の鞘を抜き、一振りで兵士の首を斬り落とした。

 例の兵士二人が何処かへ行ってしまい、帰って来ないのに気付いた他の兵士達は焦り始めた。終いに彼らは一人ずつ街の通りに入って行った。剣を抜き、目に留まった家々に押し入って強盗を働き始めた。犬達が次から次へと吠え立てて街中を騒がしくした。家々や通りから女達の慌てた声がした。男達は、この騒ぎの結末は一体どうなるのだろうかと心配顔で、兵士達を看視していた。一番目の家に押し入った兵士の頭を鍛冶屋が鉄槌で叩き、顔をスコップで扁平にしてしまった。二番目の家に押し入った兵士は、綿屋が綿打ちに使う木槌で叩かれ伸びてしまった。その後、街中で殺し合いが始まった。周辺に散って行った兵士達は完全に闘志をなくした。彼らは何処の街角、通りでも命乞いして泣いた。ある家の女達は、慌ててズボンのベルトを締めずに逃げ出した兵士達を追った。その兵士達はズボンのベルトを緩めながら、女達の声がした家々に押し入ったのだった。兵士達の死の知らせが駱駝草長老宅へ伝わるや、隊長達の顔から血の気が引いた。彼らは残った兵士達を掻き集めると、駱駝草長老と息子三人を人質に取り遁走した。

 

 

 第十章   悪党にドアを開くな

 

 何日も経ることなく街の日常は元に戻った。この街の人達は本当に全く憂いがなかった。彼らは仕事、商売に勤しみ、つい最近この地で起こった騒動や、姿を消した駱駝草長老をも忘れてしまった。街の広場は以前のように賑わっていた。毎日、娯楽を愉しむ人達の歌舞が途切れずに続いていた。踊り手達は音楽に乗り方々に動き回った。歌手達は我を忘れてしまうほど終わりのない歌に大声張り上げた。人を酔わせてしまうこの喧騒で、敵が何だ、戦が何だ、生が何だ、死が何だ。みんな忘れてしまうのだった。

 憂いなき街から命辛々逃げ出した兵士達は、駱駝草長老と息子三人を太陽より偉大な王の都へ引っ張って来た。薄顎髭隊長は、帰って来たその日に身支度すると、王宮へ出向いた。即刻、王様は面会を許した。薄顎髭は、憂いなき街で起こったことをどんな方法で王様に説明したのか。王様は彼に何と言ったのか。人達はこのことを知るすべがなかった。しかし、王宮では『王様の軍隊が犠牲を出し、遠くにある憂いなき街という不思議な街を手に入れたこと、勝利の成果として敗れた街の長老が都に引っ張られて来たこと』についての噂が広まった。

 二年目、王様は憂いなき街へ狡猾な笑い顔の消えない大人しい統治者を送った。新しい統治者は何人かの警備兵達を連れ、何の前触れもなく街へやって来ると、郊外のある旅館へ投宿した。二、三日後、彼は街の有力者達を集めて、彼らに王国からの詔書を見せた。また、この詔書には駱駝草長老の手紙一通も付け加えられていた。その手紙には、都で太陽より偉大な王の恩恵を受けてとても元気にしていること、長老が年老いたのを熟慮し、街を管理するため新しい統治者が任命されたこと、また、住民達の安全を保持するため警備兵達を送ったこと、住民達が新しい統治者達に従い、彼らの費用のため要求した税金を、滞りなく納める必要があることなどが綴ってあった。また、手紙の最後には街の有力者達が知っている印が捺印されてあった。この手紙にある駱駝草長老の印が、どう命令されて押されたかは明らかでなかった。いかに街の有力者達が色々と嫌疑を詮索しても、駱駝草長老への敬意のために、新しい統治者と兵士達を臨時にいる場所から移して、街の中心にある大きな屋敷にいを構えさせて遣った。

 街の住民達は、新統治者と兵士達にも、まるで、この街へ毎日往来する通行人達、異国から来て保護されている流れ者達と同様に接した。仕事が思うように捗らない兵士達は、毎日暇でバザールを歩き回り、面白そうなものを見て遊んでいた。この地では住民達を召集したり、何かの仕事に駆り立てたりする必要はなかった。兵士達はそんな軍隊のいない、統治者のいない暮らしに慣れてきたのだ。誰も自己の仕事をしていた。ある住民達は通りで出会う兵士達を指差して囁き合った。

「この何もしないで遊び呆けてる奴らは誰なんだ」

「誰かって言うのかい。ある大きな国の兵士達らしいぞ」

「奴らはここで何するんだ」

「好い加減に日を過ごし、腹を満たすんだ。乞食と同じさ」

「たまげたな。俺は生涯でこんな剣をぶら下げた乞食は見たことないぞ」

 住民達は何となく、この兵士達が昨年ここへ来て街を奪い取ろうとした悪党達と同じ仲間であるのを知った。住民達はこれら兵士達に優しく声掛け合った。

「おい兄弟、あんたはあの時来た兵士達を、どうやってわしらが騙したか知ってないだろうなあ」と言って、鍛冶屋が出会った兵士の肩を叩いた。

「あの怖ろしいことをあんた聞いてたら、ここには足を踏み入れなかったろう。隊長達はズボンがずり落ちたのも構わず逃げ出したんだからな」と、食用油瓶の側にいる油屋が言った。

「おい、流れ者。お前の王様は何が不足でお前のような可愛い奴をこんな遠い所に送るんだ。お前、故郷には家族や家があるんだろうに」

 街の金持ち達は新しい統治者を敬い、度々招待し、贈り物していた。この新しい統治者は笑顔を絶やさず世情を窺いながら行動することを知っていた。彼は憂いなき街は王様の統治領である旨を知らせるため、ここでは一官吏としていれば良しと理解していた。それで、彼は他人のすることに敢えて邪魔せず、堅実に私服を肥やす暮らしを選んだのだった。彼は度々王様へ報告していた。次に送る報告書には、

『私はこの街をモスクで満たし、街の不用な住民達を偉大で栄光ある王様とアッラーより他には誰をも考えることのないようにさせました。イマーム達は毎礼拝で、彼らに柔らかいナンを食べる便宜を下された、太陽より偉大な王様を天に擬して敬うようになりました。現在、当地のモスクの墓地では熱狂的にお参りする信者でごった返しております。毎金曜日には、どんなに好き合った二人でも感情を失い、真っ直ぐ礼拝用敷物に到ります。モスクでは人達がコーランの真理上の論争をして互いの襟首を掴み合っております。彼らは王様のお仕事に吝を付ける暇もないほどです。彼らの心は悪魔の誘惑から完全に遠退いております』と書いた。

 この統治者が憂いなき街から帰る時、馬車十何台に金銀、高価な品物を満載し、憂いなき街に敬意を表して去った。代わって来た二代目統治者は、一風変わった人物だった。彼は憂いなき街でなされている慣行、自主行為などに決して我慢ならなかった。

「この貿易が盛んなこんな大きな街なのに、王国へ税金を納めない、王様を知らないなんてことはひどく可笑しいじゃないか」と怒った。

 新統治者は街の有力者達を呼んだ。

「この街は期限通りに王国へ税金を納めねばならない。つまりだな、農民一人に収穫の三分の一、肉屋は収入の半分、...」と、統治者が言い出すと、

「お前、何を言ってるんだ。肉屋が収入の半分をお前に遣ったら何を食うんだ」と、一人が抗議した。

「残った半分で食べるんだ。他所の街ではまだこれより多く納めてるんだぞ。商人は毎日の商いの七分の四を、...」と、統治者が話しを続けた。

 話しがここまでくると、座っていた有力者達全員が騒ぎ出した。何故なら、彼らは商売している連中だったのだ。

「この話しだと、商人は得た収入の半分よりも多く納める必要があるのか」

「また、踊り子達、楽士達、博打打ち達、盗人達と言った者達もある。彼らは得たもの全部を納めればよい」

「イスラム教師、未亡人、孤児、乞食もあるぞ」と、一人が嘲笑って言った。

「そうだ、王国の金庫へ税を納めない者が一人もいないようにすることが必要だ。あんた達は税金を納める義務がある」

 街の有力者達は驚き合って互いに相手を見合った。彼らは今までに誰からもこんな嵩に掛かった命令口調の言葉を聞いたことがなかったのだ。

「敬愛なる統治者。わしらはそれぞれ自分の生活、仕事がある。税金が必要ならあんた自分が出して納めれば良いだろう」と、有力者の一人が文句を言った。

「そうだ、そうだ」と、他の有力者達も相槌を打って要求を突っぱねると、一斉に席を立ち出て行った。

 統治者は激怒し、地団駄踏んで屋敷中を彷徨いた。最後に彼は兵士達を出動させて、強制的に税金を徴収させようとした。バザールでは膏血を絞りに来た兵士達に人達が色々と質問を投げ掛けた。

「税金って何だい」と、一人が訊ねた。

「分かった。お前、これを誰のために集めるんだ」と、二人目が訊ねた。

「王様のためだ」と、兵士が答えた。

「何となあ。王様なのに、また、わしらのような普通の商売人から何か集めるのか。じゃ、王様はひどい貧乏人なのかね」

「家族が沢山いるのかい」

「もう何年も仕事しない怠け者だろうよ」

「吸うのか」

「そんなら、秀でた博打打ちのようだな。こんな人間に金を集めて遣ろうなんて煩うことはないぞ。また、お前達を通りに放り出すんだからな」

「帰れ、王様の所に帰って言え。何か欲しいものがあったら自分で来いと言え」と、何人かが口を揃えて言った。

 兵士達は偉大な王様の人格を侮辱するこんな罵声を聞き、怖ろしさで震えた。

 ある日、兵士が、

「我々の王様には無数の城がある。その城にいる何百人もの美人妻達がいる。それら全てを養うには金が要るんだ」と説明した。

 この話しはバザールの連中の更なる笑いを誘った。

「お前の王様は、その城の全部に一人で泊まるのか」と、一人が訊ねた。

「彼は一回にどのくらい食べるんだ」と、二人目が訊ねた。

「妻達全員に王様一人が間に合うのか。それとも、親友達が助け合うのか」と、三人目が訊ねた。

 バザールは大笑いの渦に巻き込まれた。その場にいた兵士達も加わって笑った。兵士達の情けない姿を見た商人達は少し気晴らしになった。

「ほら、取れよ。わしの店に入って好きなだけ商品を取れ。王様にも、お前にも取れ。王様に言ってくれ。当然、わしの家族はこの世だ。先祖はあの世だから、祈ってくれよ。お前、驚いてるじゃないか。わしらのこの土地ではな、ただで何かを貰った人はくれた人のために必ず祈らねばならないんだ」と、商店主が言った。

 統治者は兵士達が集めてきた金品のほんの一部だけを王様に送って、残ったものは私財にした。それでも、彼は余りの怒りで苦痛が治まらなかった。何故なら、この地では誰も彼を気に掛けなかったからだ。住民達の目には、彼は通りに出て喜捨を取り立てる人達の長でしかなかった。『ああ、敬愛なる王様』と、統治者は報告書に記し、続けて、『生涯に私はこんな気の狂った者達が溢れた街を見たことがありません。この地の住民達はまるで野生動物そのものです。この街の豊かなことが住民達をどれほど甘やかせているとは。彼らは礼節を知らないんです。王様も統治者も分からない。気の狂った連中の中にいて私も気が狂いそうです。まるで、全てのものに悪魔が入り込んでくすぐっているように、出会った者を馬鹿にして大笑いするんです。私は彼らの税金を倍にしました。何百人の間者を彼らの中に送りました』

憂いなき街の一方に広い空き地があった。空き地の端まで一杯に水が流れる用水路が通っていた。泥混じりの流水は木の橋の下を通ると狭まり、水飛沫が飛び散って轟々と力強く流れていた。用水路の岸には、いつの時代か、誰が植えたのか、古

い柳が辺りに深い陰を落としていた。午後四、五時を過ぎると、バザールの喧騒と暑さから逃げ出した人達が、疲れた歩みでここを目指して来ると、用水路近くの柔らかい砂地へ身を投げ出した。頭陀袋を枕にして横になり、目を閉じて疲れを癒した。柳の涼しい陰や用水路から吹く涼風が、彼らに安らぎを与えてくれた。ここの砂はそれほど柔らかく、また綺麗なので誰の服にも汚れが付着しなかった。用水路を向いて建てられた食堂の竃では火が激しく燃えていた。そこでは、焼き上がった熱いナン、肉パンの香料の匂いが充満して鼻孔を擽っていた。店の軒先に吊した鳥籠の中では、綺麗な鳥が囀っていた。カワップ(※羊串焼き肉)と色々な炒め物の美味しそうな匂いが用水路の涼しい空気に混じって人達の食欲をそそっていた。真っ黒い煙が壁や天井に満ちた食堂で、すし詰めになって座って食事した人達は、また用水路側に戻って来て、氷のように冷たい水で顔や手を洗った。たまに、ある大きな柳の陰に人集りしていた。鼻を突く汗の匂いがしている群衆を突き抜けて前に出た人は、ここで楽隊が奏でているのを、そうでなければ、インドの奇術師か東方の曲芸師の芸を見物していた。曲芸師達は細縄の上で後ろ歩きした。真っ直ぐな竿に猿のように素早くよじ登って宙返りした。奇術師達は口から一方で水を、一方で火を噴射した。人の首を切り箱に入れると、瞬時に蘇生させて出し、見物人達を幻惑させた。

 人達を何よりも凄く惹き付けたのは講談小屋だった。その時代、学者達が輩出し学問について素晴らしい本を上梓しても、それらを読んで理解する人達が僅かなので、依然、この世の神話的思考で着色してみせる不思議な伝説や奇妙奇天烈な事件についての集成が最も人気があった。世紀末の魔物、七つ頭の鬼、四十一変化する魔法使い、秘密の魔窟、悪魔についての話で、講談師達は人達の知恵を奪い呆けさせた。

 今日もこの広場は人達で満ちていた。驢馬を引いている諸国を行脚したスプルガは、奇術師達、楽士達の側を通り過ぎ、一人の講談師を取り囲んでいる群衆の側に来ると立ち止まった。講談師の話している物語が彼の注意を引いたのだった。彼はゆっくりと講談師の側に近付いた。

「...そうやって、あの王様は逃げられた鷹を追って、一緒に狩りに出た友達と遠く離れてしまった...」と、講談師は物語を続けていた。

「空に飛んでいる鷹は、一瞬、ゆっくりゆっくりと低くなったかと思うと、ある果樹園の高く伸びた梨の枝に止まった。王様は生涯にこんな豪勢で大きな果樹園を見たことがなかった。四囲は砂漠、無限に広がる荒野。『この果樹園は、ここにどうやって出現したのだろうか。何故、私は今日までこの果樹園を見なかったのか』と、王様は思い驚いた。この果樹園の周りの塀さえなかった。王様は果樹園を巡り、果樹園の真ん中にある家の前に来て馬から降りた。『おい、この果樹園の主は誰だ』と叫ぶと、王様の前に美人の娘が出て来て言った。『アッサラムアライクム。神がよこしたお客様。何かご用ですか』。王様は王宮に何十人の妻、何百人の宮女を所有していても、生涯にこの娘のような美人を見たことがなかった。王様の驚きは更に増した。『私は砂漠へ狩りに来た狩人です。私の鷹を逃がしてしまったんです。それを追ってここに来たんです。鷹はほらあそこの梨の枝に止まっています。許可下さるなら、行って鷹を捕まえたいんですが』と王様が言った。『父に聞いてみます』と言った娘は戻って行った。娘の父親は来た人を家の窓から見ていた。真っ白い髭の園丁は、その人の服装や乗って来た馬を見て、ただ者ではないことを察知した。そして、その人の前に出て行き挨拶した。『さあ、娘よ。お客に果樹園を案内しろ。鷹を捕まえさせるように』と、園丁が言った。王様は高い梨の木に大層難儀して登り、鷹を捕まえて降りた。客が汗塗れになっているのを見た園丁は、『娘よ。お客は疲れてしまってる。石榴ジュースをご馳走しなさい』と言った。娘は果樹園に入り、石榴を一つもぎ取って搾った。大碗に満々とジュースが入った。王様はジュースを飲んで、更に喜んだ。そして、

『何と、王様であるのに私の所有するこんな大きな果樹園はない。私の所有する果樹園の石榴もこんなに美味しくはない』と思った。

 王宮へ帰った王様は、このことを考える度に悲嘆にくれた。終いに兵士達を引き連れ果樹園に行き、あの老人を再び呼び出した。園丁の老人が出て来て見ると、先日、果樹園に来て石榴ジュースを飲んだ狩人が、王冠を被り馬に跨っていた。顔つきも怖ろし気だった。

『さあ、王様。わしが何か罪を犯しましたか』と言って、園丁が跪いた。『お前が王国の土地を好き勝手に所有し、こんな大きな果樹園を造ったのは大罪である。ただ今より、この果樹園は私が所有する』と王様が答えた。そうやって、王様は園丁老人の先祖から正当な労働で成し得た果樹園を奪ってしまった。園丁老人の娘を妻にし、園丁を使用人にして果樹園を守らせた。ある日、王様はまた狩りに出てうろうろし、あの果樹園に行った。園丁老人を呼び、石榴ジュースを持ってくるように命じた。老人は十数個の石榴を摘み取り搾った。ジュースを大碗一杯も満たせなかった。王様はジュースをひどく不味く味わった。『何だ、これは。前は石榴一個で大碗に満々とジュースが出たし、それに、味がとても美味しかった。今度は十数個の石榴から大碗一碗もジュースが出ないし、このジュースは何で苦いんだ』と、王様は驚いて言った。『前回はな、お前の心が公正だった。だから、石榴からもジュースが沢山出たのだ。味もお前の口に合った。あの時、お前はジュースを飲んで心変わりした。だから、今度はジュースが少ししか出なかった。味も、お前を満足させなかったのだ。全ての物事は心を見るのだ』と、園丁老人が答えた。この話を聞いて怒った王様は、『この無礼な年寄りの首を斬れ』と叫んだ。兵士達は老人の首を刎ねた。真っ赤な血が大碗から零れた石榴ジュースと混ざって地面に染みた」

 講談師の話がそこまでくると、

「おい、お前、何者だ。話をやめろ」と、誰かが叫んだ。

 講談師の話を聞いていた人達が後ろを振り返って見た。群衆の後ろには、新しい統治者がいた。彼の吊り上げた目が張り裂けそうになっていた。彼は兵士達を引き連れ、人達の群衆を掻き分けて通り講談師の前に来た。

「わしはお前を何者かと訊いているのだ」と、新統治者が講談師に詰め寄って、喉を鷲掴みにした。

 背が低い講談師は、驚いた様子で、助けを求めるように周りを見回した。

「兄弟。彼の喉をこんなに強く絞めるな。お前は誰なんだ」と、スプルガが統治者の手を掴んだ。

「お前は誰かと言ったのか」と、統治者は講談師の喉から手を離し、スプルガを怒りの目で見ながら、

「わしが誰なのかまだ知らないのか。わしは、わしは王国から指示されたこの街の統治者だ。お前は誰だ」

「わしは、祖先からここで生まれ成長した、諸国を行脚したスプルガだ。統治者閣下、あんた、統治者なのにどうして人の喉を荒っぽく絞めるんだ」

「お前、奴がどうやって煽動してるのか聞かなかったのか」

「煽動じゃない。統治者閣下、彼は人達に遠い出来事を物語にして聞かせてるんだ。わしらのこの広場でこんな不思議な物語を毎日幾つか話すんだ」

「物語だと。奴が何を言いたいか、わしが知らないとでもいうのか」と苦笑した。

「わしが人の気に障るような何を話すというんだ」と、講談師が話しを挟んだ。

「お前、ここでどんな神話を作って...」

「神話じゃないぞ、統治者の旦那。ほら、沢山ものを見たスプルガが言ったろう。これは古い事件の物語なんだ」

「そうか。その物語もよかろう。その物語の意味は何だ」

「意味って」と、講談師は何て説明したら良いのか分からず口を噤んだ。

「意味はだな、『悪党達に扉を開くな』だ」

「ふん、ほーら、口ごもったじゃないか。そのでたらめな物語で、お前、憂いなき街は塀のない果樹園だった。この果樹園を知らないある国が飲み込もうとしてると、お前、言いたいんだろう。縛ってしまえ、このいかさま講談師を。それに、あの諸国を行脚したとか言う浮浪者も一緒に縛れ」

 騒動を聞きつけたこの広場にいる全ての人達がここへ集まった。兵士達は講談師とスプルガを縛ろうとして歩みかけると人達が動揺した。

「おい、手をどけろ。俺達のスプルガを何で縛るんだ。講談師に何の罪があるんだ」

「奴らはあんた達を錯乱させようとする者達なんだ。あんた達を王様に反抗させるよう煽動するつもりなんだ。捕まえて縛るんだ。講談師の頭陀袋を没収しろ。あいつの驢馬をわしに渡せ」と、統治者が叫んだ。

「殴れ」と、何人かが同時に叫んだ。

「こいつらは何処から来てるんだ」

「この統治者というのは誰なんだ」

「殴れ。ろくでなし達を」

 それで、大混乱が始まった。兵士達が剣を抜くまでに礫の下になった。瞬く間に統治者の頭が裂けた。周辺の食堂から調理人達が杓子、肉切り包丁などを持って出て、群衆に向かって走った。幼い子供達は面白いものを見るため、用水路側の柳に登った。近くに繋いでいる驢馬達が喚き、駱駝達は鼻を鳴らし、騒動は更に広まっていった。兵士達は人達の靴の下から這い出て這々の体で真っ直ぐ来た方へ向かって逃げた。

 

 

 第十一章   さあ、誰が王様になる

 

 新しい統治者、兵士達と住民達の間で起きた騒ぎを聞き付けた住民達は用水路側の広場へ方々から集まっていた。コートの上に花のベルトを結わえた商人達、たった今、竃の上から降りたので身体の汗と熱いナンの匂いがしているナン屋達、服が脂光りしている肉屋達、手が黒く、また糊が付着している靴修理屋達、商いのため外出した女達は、何が起きたのかと群衆の中へ押し掛け身体を伸ばした。統治者や兵士達は、既に命辛々逃げ出していても、彼らと争った住民達はまだ血気盛んでいた。

「おい、みんな」と、スプルガは誰かが放って置いた荷車へ上がって叫んだ。

「どうして他所者が送ってきた統治者がわしらを管理するんだ。わしらの長老は何処なんだ」

「ほんとにそうだ」と、人達が一斉に言った。

「奴らは駱駝草長老を何処へ連れて行ったんだ。俺達を長老達に管理させよう」

「国の長になる者が必要だな。でなければ、知らない者達が来て、今日のようにわしらの喉を絞めるようなことになる。駱駝草長老が帰って来るまで、代わりにわしらの中から長老を選び出そう」と、スプルガが話しを続けた。

「俺達住民が難儀してる時、逃げ出すようなそんな長老の何が必要なんだ。俺達も他の国のように王様が必要だ。ほら、街の全住民がこの広場にいる。俺達、王様そのものを選び出そうじゃないか」と、声変わりした若い青年がスプルガの側に跳び上がって言った。

「何を言い出すんだ。この人は」と驚いたのは、あの背の低い講談師で、さっき統治者に絞められた喉を摩っていた。

「わしが読んだ軍記物語からみたところでは、王様達というのは相応の王宮が必要なんだがな」

「お前、先ず誰が王様になるかを言ってくれ。俺達はその人に他の誰よりも大きな屋敷を建てて上げよう。さあ、誰が王様になるんだ」

「スプルガがなれば良い。奴は諸国を行脚して沢山ものを見知ってる」と、一人が叫んだ。

「だめだ、だめだ」と、スプルガが直ぐさま拒否した。

「わしは、国のこんな大事を担当するようなことはできないよ」

「あいつはほんとのことを言ったぞ。スプルガを王宮の中に閉じこめて座らせておくのは、彼には苦痛だ。彼は近隣諸国を訪問する大使になれば良い」と、老人が言った。

「あのトルディー両替屋はどうだ」と、群衆の中から一人が叫んだ。

「彼はこの街の大金持ちの一人だ。見てみろ、彼のカイゼル髭や見事な体格も王様に似合うじゃないか」

「だめだ」と、何人かが同意しなかった。

「彼は四人目の妻の上に五人目も貰うつもりだ。これもムスリムのすることなのか」

「商売しに行った街毎に遊んで捨てた内縁の妻達もいるんだぞ」

「良心が必要だな。ほら、あのスプルガには今まで一人も嫁さんがいないんだぞ」

 人達の後ろで得意気にしていたトルディー両替屋は、この話を聞いて頭を垂れて小さくなり、見えなくなってしまった。

「おい、みんな。このタシャホン先生はどうだ。彼はどんな人の病気も見つけられるがな」

「わしらは診療所を開くんじゃないんだぞ」と、一人が噛み付いた。

「適当じゃない」と、他の人達が騒いだ。

「奴が診察するからと、夫が不在の女達の家へ行ってどんなことをしたのか。誰か知らない者がいるのか」

「正直な話をしてくれないか。ムスリム達よ、私を選ばなければ選ばなくても良いが、私の名誉を傷つけるこんな不適切な話はしないでおくれ」と、タシャホン医師がぶつぶつ言った。

「このサディク左官屋はどうだ」

「彼もダメだ。去年、隣の人を手に持ってたレンガを削る鉈で殴り殺してしまうところだったんだ」

「おい、イミール肉屋、お前はどうだ。バザールで喚いているじゃないか。王様にして遣れば巧く遣ってくれるかい」

「この肉屋はやめてくれ。天秤は公平じゃない。大盗人だ」

「このトゥラック割礼屋はどうだ」

「冗談じゃない。人を探せなくて、割礼屋を王様にすれば他人は何て言うんだ」

「何という侮辱なんだ。あんた達に俺を王様に選べと言ったかい。割礼屋商売はそんなに悪いことなのかい。俺が割礼して遣らなかったならば、お前達のあれはどうなってたんだ」と、割礼屋は怒りで口からとんでも無い話を吐き出し、下がかってしまった。

「トホティ旦那はどうだ。商品を安く一度に沢山売ってくれる、とても良い人だぞ。王様になるには打ってつけなんだがな」

「トホティ旦那はな、良い人だ。でも、一度、モスクでズボンを膝まですべり落として人達の前で見苦しかったぞ」

 広場の人達は大笑いした。人達は益々、好い加減になり秩序が乱れ始めた。誰かが互いに王様候補について論争し合った。何人かは声を出さずに笑い、この大事なことを冗談に変えてしまった。恥ずかしがり屋達は、名指しされないようにと身を隠した。王位を期待する者達は、他人の目に留まるように自己アピールして故意に大声を出して喋り、首を伸ばして辺りを見回した。もし、自分ではなく他人が名指しされるようならば、直ぐにもその人の欠点を持ち出した。

 世に欠点の無い誰がいるというのだ。神は憂いなき街へ天上から天使を王様にするために送ってはくれないのだ。

「おい、みんな。静まってくれ」と、スプルガが叫んだ。

「欠点のない人を探すんなら、ほら、あの奥さんの腕の中にいる子供を選ぼうじゃないか」と言って、群衆の中のある女に抱かれている赤ちゃんを指差した。

 子供の母親は、誰について話しているのか良く飲み込めず、誰かが話しをすればその人の口を見詰めているのだった。

「王位のことを言ってるのかい。まだ赤ちゃんじゃないか」と、人達は驚いた。

「そうだ。その赤ちゃんのことを言ってるんだ。さあ、誰か自分をあの赤ちゃんより清いと言えるんなら出てくれ」

 広場は一瞬の内に静寂が訪れて、誰もが己の品格について考え込んだ。清廉さはまだ母乳を吸っている乳児には誰も並び得なかった。

「全くその通りだ。あの赤ん坊より他に良い人物はいらん。さあ、ねえさん、子供をわしに渡せ」と、一人があらん限り声を出した。

 母親が躊躇している間に人達が、女の腕から包まれている赤ちゃんを取り合ったのだ。大騒ぎの中で担ぎ上げられた。

「ねぇー。待ってー」と、女が人達の間を走って来た。

「私の赤ちゃんをどうするつもりなんですか。何処へ連れて行くんですか。お乳を飲ませて大きくしないといけないんだからね。それに、お父さんが何て言うかしら...」

 スプルガは眼前の出来事に呆気にとられていたら、荷車の上で一人になっていた。彼は譬え話をしたのだった。もし、欠点のない人を探すのなら、あの赤ちゃんを王様にすれば良いと、そういう意味で言ったのが、こんな結果になってしまうとは全く思いも寄らなかった。

「何ということになったんだ。わしはどうして時間を掛けるのを間違ったんだろう。これは年取った証拠なのかな。どうして、あの赤ちゃんに王様になれと言ったのかな。あの赤ちゃんはわしの目にどうして入ったんだろう。赤ちゃんを抱いた女は群衆の中に何処から現れたんだ。おお、神様。これは、あの太陽王の街から出ようとしていた時、わしと出交した魔女じゃないのか。何てこった、あんなに多くの国々を旅していても、今日のような可笑しな選挙は見たことがなかった」と独りごちた。

 

 

 第十二章   王宮の会談

 

 王宮は永久の沈黙に浸っている高い街壁、何重もの大門、色彩豊かに彫刻された柱などで人に尚更、不思議さと威厳を見せ付けている。実際には、全てが流言飛語、苦痛、恐怖に満ちた場所であった。王宮の煉瓦を敷いた広い路々に年中青々とした樹木が影を落としていた。陽光で宝石のように輝いている緑の芝、馥郁たる花々の側を宮女達が優雅に足を運び通っていた。暗くなっている王宮の庭園では鳥達が囀っていた。噴水がある池の真ん中の東屋、彫刻してある欄干や眼鏡橋などが、池の水面から立ち上る薄い霧の中で固く無言でいた。しかし、ここでは自然美を喜ぶような気は起こらなかった。緑の葉の上で陽光が強い彩りを放っていても、官吏達の心は、土埃を踏んだ時のように薄暗くなっていた。鳥達は喜びの中で囀り、彩り豊かな花々の辺りでは一組の蝶が恋人達のように愛し合っていても、宮女達の心は愉しく激しい愛情からはほど遠かった。

 王宮の各階段、各扉の前で警備兵達が重い武器をがたがたさせ沈黙状態でいた。闇の部分では目に涙を溜た歴史家達が、王様の気品、並びない力、慈悲深さ、公平さなど、賛辞で満たされた厚い本を記述していた。使用人達は王様が座る特別室の前を注意と憂慮で軽く歩みあちこちを通った。彼らの様子は、眠っている虎の側から爪先歩きで用心しながら戦々恐々と足を運ぶのが必至の状態と同じであった。怖ろしいことには、彼らは歩む度に不気味な汗を掻いていた。官吏達は密やかに囁き合っていた。ここでは王宮の複雑な規則に則り、一歩毎に気を使って歩き、一声毎に用心して話すことになっていた。王様の前に出た時の尽きない遠慮と腰を曲げているのは、大臣達を疲れさせ、可笑しくなりそうにさせた。彼らの状態は金の籠の中の可哀想な鳥達を連想させた。官吏達に比べれば、土の田舎道を往来する通行人達は自由そうで、煙が立ち込める茶店で座り、苦いお茶を飲んでいる日雇い人夫達は暢気であった。ここでは心底からの大笑い、純粋な良心の呵責から生まれる僅かな恥ずかしさ、人の真摯な言葉と微笑みが欠けていた。王様の側にいる大臣達は、他所の街の統治者達にひどく嫉妬していた。何故なら、それらの街は王様の目から遠くて、自由に暮らせたからだった。住民達を好きなだけ騙して、私財を集められたからだった。『ああ、彼らは金持ちになって富に富み、わしらはここで痩せこけて苦しんでいる』と、悲痛に輾々反則していた。

 平穏でない大臣達は機会が来ると、王様の前でどの街の統治者達をも容赦なく悪口雑言の数々を吐いた。それで、今日、太陽より偉大な王様の前で、憂いなき街についてもそんな糾弾をした。

「何で、遠い国々から来ている隊商達の全部がその街へ向かっているんだ」と、一人が非難した。

「何故ならば、彼の街では誰も、どんな商売でも税金を納めないとのことです」と、一人が答えた。

「その通り。彼の街の商い事は相当儲かっているにも拘わらず、我が王国の金庫へ何も寄越さない。我々は彼の地へひどく無能な統治者を送ったようだ」と、もう一人が言った。

「ほら、我々、尊敬される大臣達が話題にしている憂いなき街から、今朝、重要な報告を得た。あそこでは王様に税金を納めるのを拒絶し、我が兵士達を殴って追っ払ったらしい」と、もう一人が興奮して席から立ち上がった。

「我々の人間があの街で辱めを受けて逃げ出すのはこれで二度目だ」と、もう一人が述べた。

「最も危険なのは、」と、誰よりも年老いた大臣が、更に毒気を含んで、

「あの街の人間どもは我が王様のおめでたき名を口にしないとのことだ。もし、全ての街の住民達が強大な王様の名をいつも記憶し怯えておらぬのであれば、王位を危惧することとなるであろう」と、述べた。

 話しがそこまでくると、太陽より偉大な王は、

「ふん、わしが誰であるのかあいつらに見せて遣る」と息荒くした。

 僅かな内に破壊と贅沢をするこの新しい支配者の顔をも衰弱させた。

 創造主は王様達に全てのことを与えたようであっても、それでも彼らには多くのものが足りなかった。彼らには鍛冶屋の一日の重労働の後、何も気付かず眠り込んでしまう甘い眠りがなかった。王様は何重もの布団、羽毛枕の上で寝ていても、不快で寝返りを打った。方々の住民達が今現在起こしている反乱、地元の領主達の増加、大臣達の背信行為、将軍達の独断行為は彼に安堵を与えなかった。彼に比べれば、日向の田舎道を行く流れ者達、折れた鋤より他に何もない農民達は憂いがなかった。王様の寝室では何百人の侍女達が待っていた。しかし、女達には、普通の農民の夫が帰って来るのを渇望して待っている妻達の如く、忠誠心を見出せなかった。

「何故、世界の全ての土地がわしに属しないのだ」と、王様は夜中、悲嘆に暮れた。

 これは、世の全ての王様達の悲嘆でもあった。しかし、この願望は過去、及び現在の王様達の誰もが叶えられていない。もし、彼らの中の誰かが、世界の主になる目的を達したとしても、また、彼の悲嘆は終わらない。その時は彼自身が神になってみたくなるであろう。

 王座に鎮座している王様は目を開け、視線を二つ目の方へ、つまり、学者達の方へ向けた。学者達に不気味さが襲った。この賢者達は王様の目には、ただ知識だけを利用すれば良く、実際は最も危険な人間達であった。『この馬鹿者達が、寸暇を惜しんで頭も上げずに分厚い本を読むのは、多分、わしの政権を転覆させるためなんだろう。何事にも気を付けねばならん』と、王様は懐疑した。

 それで、この学者達の一人ずつの背後には数人の間者が、間者一人ずつの後には、また数人の見張りがいた。

 太って息ができず、ぜーぜー言って、油を入れる甕のように背が低くて真ん丸いこの人は、一生涯読書し、蛇の角を持っていればどんな訴えにも打ち勝つことを証明した著名な学者だった。鷹の脳味噌に仏法僧の鶏冠を混ぜて、王様を思わない者達のために媚薬を作った。古い壁土に、まだ声の出ない雄鶏の幼鳥の糞を加えて乾燥させて粉にし、その後、それを鹿の血でこねて団子にし、王様の閨中でのことが巧くいくようにと強壮剤を準備した。

 痩せた梯子のような背が高い人は、星占いで栄誉の全てを手に入れた人だ。今、彼は年のせいで十歩先の人が分からなくても、昼間でも星の位置が何処にあるのか間違いなく示すことができた。彼は天地の位置を見て、人の運命がどうなのか判断できた。

 痘痕で瘡蓋の人は寝室係だった。王様は妻達を管理するのにそんな醜い可哀想な一人を選んだのだ。彼も何故か大鴉の爪、ヤクの毛、鼠の糞などである種の団子薬を作った。この薬で男の一物を切らないで去勢することができた。しかし、彼自身は薬を沢山飲んだと誓ったのにも拘わらず、王様は強制的に切って去勢してしまった。王様はこの奇妙な生き物をかなり用心したが、食事にあの薬を混ぜて女達の役に立たせなくするのを怖れた。

 山羊髭王宮医は、病人の脈を看ず、爪と舌の色を見ただけで痛みが何処なのかを見つけられた。治療には主に下剤を使った。彼は最近、不思議な本を上梓した。その本では、気違いを男気違い、女気違い、官吏気違い、栄誉気違い、...と七十二種類に分け、また、気違い達の中で治療が最も難しいのは、世界気違いだと表した。

「よーし、お前、今日、わしらに有用な何か意見を言えるか」と、王様が学者達の中で顎髭が誰よりも長い一人に訴えた。

 それで、王様の残忍な視線で大汗掻いていた他の学者達は軽い息を吐いた。

「お前の作っていた例の薬はいつ出来上がるのだ」

 顎髭学者は無言で更に前屈みになった。彼の顎髭は絨毯についた膝よりも長く床に伸びていた。彼は精神と物質、生と死、勝利者達と敗者達という複雑な問題について生涯探究した人であった。彼が生涯に上梓した著作を並べると、彼の顎髭よりも多かった。

「わしがお前に蜂について考えさせたのをまだ覚えてるだろうな」と、王様は話しを続けた。

「聞けば、わしにも告げず何千もの蜜蜂を一生懸命、集めて飼ってるようだな。働き蜂達は努力して仕事するより他に、愉しむことや子孫を残すことなどの無益な考えは永久にできないようだ。お前、どんな薬を作るんだ。呪って住民達をその蜜蜂達のように大人しく従順にして遣れないんだ。住民達には贅沢な飲食、笑い・冗談、抵抗、反乱などつまらんものは必要ない。それか、お前、奴らの知恵を小さな子供のようにしろ、住民達に余計な知恵など何で要るんだ。奴らは大きくなって仕事ができるようにして、だが、知恵は子供のままにな。奴らは甘えることと服従することより他は分からないようにしろ。そうなれば、わしらはいつでも手を伸ばしさえすれば奴らを痛めつけてやれる。たまには甘えさせ、たまには枝鞭で追い出して仕事をさせ、飴と鞭を巧く使い分けて遣ろう」

「偉大な王様のお知恵に喝采」と、顎髭学者は顔を王様に向けた。

「人類の身体を授けた主は九百九十九の血管、九百九十九の関節、九百九十九の筋を作りました。人間のこの身体は子供から大人へ、弱さから強さへ、最後には戻ってまた弱くなり滅亡に向かうんです。それを永久に子供の状態にすることは不可能です。しかし、...」と、顎髭学者は王様の怒りの視線を避けて話しを続けた。

「太陽より偉大で無限の才知ある我が王様が仰ったように、つまり、人類の精神を幼い状態にしておくのは可能でありましょう。多分、敬愛なる大臣達を騒動に巻き込んだ憂いなき街の住民達を服従させるのは、彼らの精神を彼らの意向に置くことと、この意向の限度を超えさせることが必要です。何でも限度を超えると自ら滅亡します。慈愛の神は、世の全ての精神と物質運動が限度を超えると滅亡するようにさせ制限しました。この限度を超えるということは死という意味です。そうならなかったなら、全てが限度を超えて、この世は世ではなかったんです」

「お前、話を分かるように言え」と、王様は顎髭学者が一体何を言っているのかがよく分からず焦って言った。

「私が言いたいのは、」と、長い顎髭学者は喉を震わせた。

憂いなき街の住民達は、先祖から歌や楽器、遊興が非常に好きらしんです。彼らの精神をその方面に向けさせ、さらに折れ曲げることが必要です。反対になれば、折れるものは折れて曲がりはしません。ほれ、わしは彼らが大麻と言われる植物から作るものを喫煙するのが好きなのを推量しました。これは、その葉と葉に着いた土で人を酔い心地にさせる不思議な良い香りのする植物です。それから作るハッシッシと言われるものは人の精神波を下げさせ、高揚を覚まさせるんです。彼らに歌や楽器を更に好きにさせるんです。我々は彼らの精神のこの傾向性を利用し、そのようなところまで持っていく必要があり、最後には彼らは前を行くどんな人をも嘲笑い、いつも踊っているようになります。反抗や反乱には力が足りません。その時は、国王陛下、彼の地に幾らでも統治者や兵士達を送ってもかまいません。彼らは空想感覚で甘い夢の霧の中で生きるので抑圧や苦痛を感じません」

「お前の言ったことの結果を見るには、どのくらい時間がかかるんだ」と、王様が訊ねた。

「十年か、二十年か、多分、三十年ぐらい掛かるでしょう」と、顎髭学者は言葉を濁した。

「わしはその時まで耐えて待っているのか、えっ」と、王様は彼の言葉を遮った。

 顎髭学者の提案が価値を得られなかったことは他の学者達を喜ばせた。それで、彼らは何か適当な提案を献上し、王様の恩恵を得るために思案し始めた。

「顎髭学者の話の幾らかは道理があります」と、さっきから目に留まる機会を待って声を出さず座っていた一人が話し始めた。

「彼の言葉から、虎の毛を眠っているとき撫ぜられる、という意味が取れます。しかし、飽食から喜びが出る、という、また別の言葉もあります。憂いなき街を住民達の自由に任せるのは、彼の地の飽食は裕福より来たもんです。我が学者達にサル調教師の方法を教えて遣りたくなりました。彼らはサルの腹を減らせて色んな行為を強制して学習させます。私が考えるに、我々は隊商達が憂いなき街へ行く路を妨害せねばなりません。彼の地の商売事が壊滅したら国は貧しくなる。その後、彼らは貧困、閑、嫌気で、顎髭学者が言った例の知覚を無くすものを更に吸うことになるんです。喜びを想像の世界に探すので、心は役立たなくなります。その後、我々は全てを何処かの外れに追い遣り、街を我が領土にして商売を始めるんです」

「お前のこの考えが実現するにはどのくらい時間が掛かるのだ」と、王様は彼の言葉を遮った。

「十年か、二十年か、多分、三十年、...」

 王様にひどく醜い顔で睨み付けられたこの学者は、怖ろしさの余り縮み上がってしまった。

「お前達、みんな何もしない能無しのろくでなしだ。犬の糞を食って、驢馬の小便を飲んだ馬鹿者どもだ」と、王様が怒鳴りつけた。

「わしは明日にも彼の地へ大軍を派兵する。奴らはわしの人間どもを二度、街から追い出したんだ。分かってるのか、二度だぞ。兵も街壁もないつまらん街の住民達なんだぞ。ここに隊長達だけ残れ。他の者達はわしの目の前から消え失せろ」

 

 

 第十三章  盗人は夜来る

 

 王様は学者達を追い出し、大臣達と将軍達だけを残した。

「ほら、わしは今朝、憂いなき街から凄い秘密の報告を得た。街の住民達は彼らの王様を決めたというのだ。彼らの王様は赤ちゃんだそうだ。わしらがこれに耐えられると思うのか。お前達、憂いなき街はすでに我が領土になったと言ったのじゃなかったのか」

 王様は目を吊り上げて前にいる将軍達を睥睨した。彼らは息をする勇気もなく沈黙していた。

「お前、一番小さい王子の首を持って来る時、仕事に手を抜いたな」と、王様は若い将軍を指差した。

 その将軍は咄嗟に席を立ち上がると、どたっと王様の足元へ身を投げた。

「お前、持って来た首は一体、王子の首なのか、それとも、別の赤ちゃんのなのか。憂いなき街で王様になったのは一体、何処の赤ちゃんだ」

「太陽より偉大な力強い王様」と言って、若い将軍は頭を上げた。 彼の美しい口髭が一方に曲がり、怖ろしさの余り顔色が瞬く間に醜くなった。

「陛下を騙すなど畏れ多いことです。あの時、私達が持って来た首に王子の印の玉を縫い込んだ帽子があったのを、ご自分でご覧になったのを覚えてはいらっしゃいませんか」

「王子と彼の乳母も一緒のはずだったろう」

「そうです。私達が逃げている王子に追い付いた時、乳母が王子を抱いていました。この女罪人は王子を私達の前に捨て遣り、全速力で逃走し、風のように飛び去りました。私達も驚いてしまいました。あの時、私達は王宮に王子の首を一刻も速く届けて、陛下を早めに安心させることだけを考えたのでした。首を切られた王子に何故、乳母が必要なのだと、軽率なことを致しました」

「もし、それが王子自身であれば、首のお守りは何処だ。何故わしは今までそのお守りを見られずにいるのだ」

「お守りですか」

 若い将軍は周章狼狽した。辺りにいる者達は、悪意に満ちた含み笑いをしながら成り行きを見守っていた。彼らは、王子の首を持って来ただけで、官位が昇級し将軍に並んだこの成り上がりの青二才が、最近、得意になっていたのが我慢ならなかったのだ。

「お守りについては私達の誰もが注意致しませんでした」

「わしはお前達に全てを事細かに注意して遣らねばならんのか。お前、わしが言ったことより言わなかったことの意味を分からねばならなかったんだぞ。死刑手、わしと言い争ったこの身の程知らずの喉に熱い油を流し込め」

 扉の前で仏像のように固くなっていた二人の死刑手は、直ぐさま行動した。若い将軍を縛って、常時、油がぐつぐつ煮立っている鍋が吊してある拷問室へ引っ立てて行った。実は、若い将軍は王様を叱りつけて、顔に唾を吐きたかった。しかし、王様の赦しがあるだろうと期待して、命乞いをし、

「私は無実です。公平な王様」と、赦しを請いながら、主人に忠実な犬のように引かれて出て行った。

「災いの元はその都度、絶たねばならん」と、王様は残った将軍達と話し合いながら、

「今回、わしは強い軍を送ろうと思う。我々は奴らをまだ王宮を建設したり、兵を組織しない内に消してしまおう。王様を赤ちゃんの内に始末させよう」

 長い話し合いの後、憂いなき街を攻略する完璧な計画を立てた。その後、一ヶ月過ぎた夜、完全武装した何千もの兵士達が街の大門から静かに出て行った。今では隊長達が憂いなき街へ行く大小の路をかなり知り得ていた。

 今回、憂いなき街の住民達は身に降りかかる災難の情報を全く知らなかった。兵士達は昼間、隠れて休み、夜、前進した。こうすれば砂漠の猛暑から守られ、また、路を往来する隊商達の目に映らず密かに前進できた。

 憂いなき街では、毎日のごとくバザールは賑わっていた。人達の喧騒、お互いに押し合い圧し合いしてバザールを沸かせていた。農民達は土地を耕し畑仕事していた。園丁達は果物を摘み、バザールに搬送した。小川の側の広場では、また、毎日、講談師達が戦記を語っていた。踊り子達は蝶のように旋回し、楽士達は全身で演奏していた。彼らは自分達の七十二曲、三百六十調子、九十九旋律の全てを知り尽くし自慢し合っていた。子供の王様と建設される王宮に関することは彼らの記憶にもなかった。

 太陽より偉大な王の軍隊は、憂いなき街に近い鬱蒼とした胡楊林の中で留まり充分休憩した後、憂いなき街へ夜討ちをかけた。

 スプルガはその夜、屋根で寝ていた。夏の日、彼は普段、屋根で寝るのが好きだった。そうすると辺りから大自然の息吹が聞こえて来ていた。上には無数の星々が瞬いていた。涼しい風が頬に口付けし、両耳に何かしら呟き去った。ここでは人は自身も偉大な自然の一部分であるのを深く感じられた。

 当夜、スプルガは長らく眠気が来なかった。彼は星々を見て寝ながら、駱駝草長老のことを考えていた。駱駝草長老は色白で身体が大きく、白みを帯びた髭が似合っている男前であった。長老職は彼の先祖から引き継がれてきたものだった。毎回、スプルガが遠い旅から帰って来ると、スプルガを自宅へ招待し、スプルガが旅で見聞した諸々を熱心に聞いていた。スプルガは知らない土地で見た面白い事、その土地の街々の高い街壁、無数の兵士達、豪華な宮殿に住む王様達などの土産話をした。

 また、スプルガはたまに

「長老、どうですか。あんたも我が街を街壁の中にする必要がある。ここに兵士を置き、王様を住まわせる必要があると思わないかいね」と質問した。

「お前が言ったことも一理ある」と返事した長老は考えて、

「だが、こんな大きなのを取り巻いて街壁の中に置くのに、住民達にどのくらい多く労役をさせることになるかな。彼らに無償で働かせるのを誰が強制できるんだ」

「だから、先ず初めに、王様を住まわせるのが先決だ。住民達を、ただ王様だけが強制できる」と、スプルガが言うと、

「王様のためにわしらは金の王冠、玉座を作る、宮殿を建てる必要がある。それに彼に何百の兵士達も無くてはならない。やめろ。住民達に強制してそんなに多くのことをさせる何の必要があるんだ。見ろ、わしらの街の住民達はそんなものが無くても充分暮らしているじゃないか」と、長老は笑った。

「分からないが、いつか、ある強い王様か腹黒い奴が美味しいものに目を留めて、...」と、スプルガが不満を示した。

「あんたが何を言いたいのか分かってる。神の土地は広い。誰にも割り当たって余る。この砂漠をわしらの他に誰が争うというんだ」と、長老がスプルガの話しを遮った。

 長老はそんな素朴な意見をした。

「とても遠い時代、この憂いなき街がある場所は湿地の一部だったという。ここではたった幾つかの泉がぼこぼこ湧き出していて、泉の周辺は深い葦原だったそうだ。祖先達は神の奇跡でその泉の側を開墾して土地にし、食糧を栽培した。樹木を植え、砂嵐を防いだ。世界の四方に続く路を開いた。少しずつここに人達が増え、街が出現したそうだ。わしが思うに、スプルガよ、この砂漠でオアシスを造ったことを誰もが褒め称えるだろう。誰もがわしらと敵対する気は起こらないはずだ」

 犬達の不安な吠え声がスプルガの思考を妨げた。彼は何か怖ろしげな予感がして、床から起き上がった。

 『おお、神よ』。手に手に松明を持った無数の兵士達が街の広場から、通りから通りへ散っていた。塀の下でどたどたと通る誰かの靴音が聞こえた。何処かの通りで騒ぎが起こった。スプルガは直ちに気付いて、軒繋がりの屋根の上を走りながら大声掛けた。

「おい、みんな。目を覚ましてくれ。憂いなき街の憂いなき住民達よ。敵が攻めて来たぞ」

 何が起こったのか良く分からず、大門から眠気が覚めないまま走り出て来た人達は、敵兵達の剣と出くわした。瞬く間に街全体を阿鼻叫喚が襲った。全ての人達は、死が訪れたことを悟った。誰かが手にした棒で抵抗して見せた。通りでは白兵戦が始まった。多くの勇気ある者達や力の強い若者達が敵と交戦し真っ赤な鮮血に染まり絶命した。兵士達が何処かの家で見つけ出した梯子を、金持ち達の屋敷の高い塀へ掛けてよじ登った。解き放された家畜が通りで暴れていた。スプルガは、いつ、どうやって屋根から地上に降りたのか覚えがなかった。彼の手には鋭い短剣が光っていた。彼は今さっき屋根から兵士一人の頭に石を滑り落とし、また、後ろに跳び降りて頭を殴って殺した。また、短剣を抜くと、暗闇で猫のように隠れてきょろきょろ覗き見している兵士の後ろから振り下ろし斬殺した。

 その夜、殺戮されたり討ち死にして住民の半分ほどが死亡した。生き残った人達のほとんどは、暗闇に紛れて街の郊外の胡楊林へ逃げ込んだ。敵も棒の下で多くの兵士達を失った。生き残った兵士達も傷つき、無事だった兵士達は少なかった。夜が明けると、街中では激しい略奪が始まった。商店の扉を壊し、商品が床に散らばった。何処かの大商人の蔵がもうもうと燃えていた。兵士達は何処にでも押し入り、持ち出せる目に留まった金銀や高価な品物を盗んだ。また、兵士達は押し入ったどの家からも、果樹園に盗みに入った子供達のように懐やポケットを膨らませ、身体を揺すって笑いながらやっとのことで出て来た。彼らの何人かは家主がいなくなった家から家畜を引っ張り、それらの背に高価な絨毯、背袋の両方へ盗品を一杯詰めて載せた。そんな状態の彼らは、勝った博打打ちか主のいない倉庫に入った盗人達そのものだった。

 隊長達は静まるように命令を下すつもりで、助かった住民達を一箇所に集めるように命じた。彼らは住民達に、憂いなき街は太陽より偉大な王の統治権に入ったことを、住民達は統治に従い静かに行動すれば良いことを布告しようとした。

 兵士達は周辺から少しだけ集めて街の広場へ連行して来た。彼らのほとんどは逃げるのが無理だった子供達と母親達、それに戦の夜、街の郊外の広場で音楽とハッシッシに酔い痴れていたので、街で何事が起こったのか知らなかった人達だった。

 今回の攻撃の長となった大将軍は、広場で後ろ手を組み、ひどく怒ってあっちこっち歩き回っていた。彼は街を手に入れても、ここでは王宮も赤ちゃん王様も見つけ出せなかった。彼は八方塞がりなので、住民達の喉を締め叫んでいた。

「おい、お前、一体、お前の王様を知らないのか。誰なんだ。何処なんだ」

 彼の詰問には誰も答えられなかった。それで、兵士達は女達の腕に抱かれている子供達を奪い斬首した。幼児達の悲痛な叫び、母親達の号泣が大空に響き渡っていた。剣の下にいる住民達はなす術がなく打ち震えているだけだった。

 

 

 第十四章  敵討ち

 

 スプルガは命辛々、裏道から街の外へ逃げ延びた。驢馬に声掛けて後ろ脚を叩き急がせながら、

「お前、あの呪われた夜、わしにどんな迷惑を掛けたか知ってるのか」と、スプルガは驢馬に叫び、

「街の人達が殺戮されてても、お前、この能なしが、糞を臭わせて驢馬小屋から驢馬小屋へ走り回って、親戚訪問していやがったな。憂いなき街の驢馬なんだから、何もなくても一、二の敵でも噛んで蹴って倒せねばならないんだぞ。わしはお前を探して見つけるまで何人もの兵士達と喉を絞め合った。何人かから殴られて死ぬところだったんだぞ。お前、ろくでなし、わしが死んでしまったら、これで自由に駆け回るようになったと喜んだろうよきっと。そうなったら、兵士達がお前を捕まえて、背中に盗んだ戦利品を一杯積んで、その上に人も乗せ、腹を弓のように曲げていたろうよ。お前は、して遣った良いことを忘れ、わしが苦しくなったら、お前、敵にわしを一人放ったらかしにしたんだぞ。今、全身が怠くて痛いんだ。覚えてろ、そんなことしたんだから、目的地に着くまで背中から降りないからな。ちょっと待て、お前、何処を向いて行ってるんだ。去年行ったメロン畑か。お前は食った皮を不思議にも忘れないんだな。顔をこっちの方へ向けるんだ。太陽より偉大と言われる例の吸血鬼王の都に向いて行け。わしらその災難を生む者達の巣である、冷淡な顔をした街へまたもう一度行くんだ。去年、兵士達が縄を掛け連れて行った駱駝草長老を探そう。壊滅した故郷に再び足を踏み入れるには、適当な国の長が必要なんだ。国の長になるのはほんとに難しいようだな。見ろ、わしら赤ちゃん一人を王様に推挙した。敵達が攻めて来て何百の幼児の首を切り捨てたんだ。この運命はどうやって回ってるんだろう。そうだ、わしら自身が王様を推挙しなければならんな。なおさら駱駝草長老を探すのが正解のようだぞ。彼は街の憂いある住民達の性格を十分知ってる。彼も色んなことを経験してるから、今、帰って来れば、街の周りを高い街壁で囲んで、真の王様になれる人を、多分、推挙してくれるだろう。分からんが、多分、死刑手達は、彼の首を斬って、街壁の上の木に突き刺しただろう。驢馬よ、歩みを惜しまず行け。遅れることは機会を失うのと同じだ。さもなければ、わしら駱駝草長老の子供達とでも会える」

 兵士達の目に留まらないようにと、スプルガは驢馬と最も秘密の田舎道を選んで行った。スプルガは故郷が破壊に遭ったあの夜、一夜にして年を取ったように腰が曲がり、額の皺がさらに深くなったようだった。彼は休まず驢馬に話し掛けていた。

「うわーっ」と言ってスプルガは、懐から牛角鞘の短剣を取り出すと、あちこち見回し、

「この短剣はいつ、どうやってわしの手に入ったんだろう。お前、知ってるかい。お前が縄を切って親戚訪問してる時、わしはこの短剣で兵士達の内蔵を割いて遣った。いやいや、わしは多分、誰も殺しはしなかったのかも知れん。故郷でも何も破壊などなかったんだろう。茶店の竃では薬缶がぐつぐつ煮立ってるんだろう。街の広場ではまた、商人達がバザールで頭がぼーっとする喧騒を立ててるんだろう。じゃ、わしは何でこの砂漠で彷徨ってるんだ。お前、わしを何処へ連れて行こうとしてるんだ」

 スプルガは何日路を進んだか、どんな旅籠で泊まったのか記憶に無かった。遂に驢馬はスプルガを無事に太陽より偉大な王の都へ運んで来た。スプルガは今度、街の大門にいる兵士達にかなりの額を支払った。街の街壁は更に高く、王宮や庭園が何倍にも広くなっていて、以前よりも豪華な様子だった。スプルガは街の裏道を通った。この狭い通りの一つを通過しつつ、片足を引き摺って来る老人を呼び止めた。

「おじいさん、あんたにあることを訊ねたいと思ってるんだが」

「いいよ、兄さん。何だね」と、老人が返事した。

「数年前、わしはここでタムテシャール(※壁穴開け)という渾名の人と知り合いになったんだ。彼は今、何処にいるか知ってるかい」

「しーっ、声を立てるな」と、老人は辺りを怖ろしげに見て、

「お前、何処から来た人間なんだ」

「わしは遠い砂漠から来た。彼を訪ねて見ようと思ってるんだ」

 老人はスプルガの驢馬近くにやって来ると、爪先立ててスプルガの耳元で囁いた。

「辺りには王の間者が蠅より多くいるんだ。タムテシャールは隠れている。奴の名を出すと災難に遭うぞ」

「じゃ、わしは彼とどうすれば会えるかな」

「この路を行けば広い畑に出る。農道を飽きずに行けば目の前に一本大きな楡の木の根本に汚い小屋が見える。そこへ行って、小屋の髭面の人に訊ねろ。奴が望めばタムテシャールが何処だかお前に言ってくれる。でなきゃ、言ってはくれない。そしたら、お前、タムテシャールを探すのはやめろ」

 スプルガは老人が教えてくれた小屋を見つけた。そこは昼下がりの静けさが漂っていた。小屋の側に小川が流れていた。辺りは太陽熱で火のように熱くなっていても、小川の側に生えている大きな楡の木陰は涼しかった。茂った楡の枝では、鴉の巣がかかっていた。スプルガは驢馬をその涼しい所に連れて行き止めた。小屋の戸を押した。戸は悲惨な音を立てて開くと同時にスプルガの鼻を突く鋭い匂いが漂っていた。小屋の中は暗かった。

「お前は誰だ」と、暗闇の中で一人が言った。

「わしは諸国を行脚したスプルガだ」と、スプルガが答えた。

 彼の目は暗闇に慣れて、小屋の隅っこで破れた汚い布団の上で、水煙草を吸って横になっている髭面の一人を見た。

「誰を探してる。お前、何処から来た」

「わしは砂漠の人間だ。タムテシャールを探してる」

「タムテシャールをか。奴に何の用がある」

「ある時、わしは兵士達に金を払って奴の命を救って遣ったんだ。奴がわしに礼を言って、何か用があったらわしを探せ、って言ったんだ」

「ああ、覚えてる。覚えてる」と、髭面男が動いた。

「あの時、お前はわしの命を金貨一枚で救おうとしたな。奴らはお前に金貨二枚を要求した。わしは驚いた。お前が金貨一枚を地面に投げると二枚になって、それぞれ転がって行った。わしはお前を奇術師なんだろうと思ったんだ」

 スプルガは笑った。目の前にいる人がタムテシャールであることを認めた。

「アッラーがお前を救ってくれたんだ。あの時、金貨一枚が地面に落ちて二枚になったのを、わしも今でも驚いてるよ」

「そうなのかい。不思議なもんだな」と、タムテシャールが手の水煙草を放し、

「それで、何の用があるんだ言え。わしはお前に借りがあるからな」

憂いなき街はわしの故郷だ」と、スプルガが話し始めた。

「わしの街の駱駝草長老が息子三人と一緒に牢屋にいるんだ」

「知ってる」と、タムテシャールが言った。

「そうか。彼は今、何処にいるんだ」

「この街に、鴉公園と言われてる、ある荒れ果てた公園がある。その塀は凄く高くて、周りを兵士達が取り囲んでる。長老はその公園の中で軟禁されてるぞ」

「その人に憂いなき街の伝言を伝えて、ほら、この袋を渡してくれれば良い。憂いなき街を太陽より偉大な王の兵士達が破壊した。街の住民達は今、指導者が必要なんだ。彼が何かの方法で逃げれるように、助けてくれないか」

 スプルガはタムテシャールの手に皮袋一つを握らせた。

「あそこの塀は凄く高い。守りが堅い」と、タムテシャールは袋を手にして言った。

「お前、どんな塀も越えられるんだろう」と、スプルガがタムテシャールを力づけた。

「年取った」と、タムテシャールが頭を振って言った。

「街を間者達が覆ってる。王がわしを捕まえれば、皮を反対に削いで、生首を街壁の一番高い所に吊すつもりだ。ほら、こんな奇妙な顎髭を生やして近くに隠れてるんだがな。若い頃は凄くすばしっこかった。ほんとに王の所から金銀を悪魔のように知られずに持ち出した。今は気分が優れない。ほら、このろくでもないものを吸って少し気を紛らわせてる。王宮を混乱させたあの頃を思い出すよ。安心しろ。預かったものは必ず長老に届けるから」

「有り難う」と、スプルガが言った。

 タムテシャールはスプルガを小屋の外へ見送った。

「あばよ。それで、お前、何処へ行こうとしてるんだ」と、タムテシャールが訊ねた。

「王宮へ行く」と、スプルガは答えるなり、驢馬に声掛け、腹をつつき、急ぎ去って行った。

 驢馬の蹄から立ち上る土煙が静かな農道を長い間、舞っていた。タムテシャールの側を離れたスプルガは、真っ直ぐ乞食王の方向へ路を選んだ。乞食部落へ着いたスプルガは驚いた。ここでは嘗て、彼の周りを蠅のように取り巻いて、彼を驢馬から引きずり降ろし、真っ裸にしようとした乞食達の一人も散見されなかった。歪んだ家家、襤褸布などが山になっている中庭が放置され、尚更、廃れたようになって、乾いた木材の上では飢えた鴉達が羽を広げて止まっていた。狭い通りでは、腹が肋にくっついた野良犬達が彷徨いていた。

「ここで何があったんだ。乞食達の身に何か災難が降りかかったか、それとも、奴らは部落を別の所に移したのかな」と、スプルガは独りごちた。

 スプルガは乞食王のいた汚い家の前に来て驢馬から降りた。枠が外れて倒れてしまいそう戸を腰を曲げて入った。乞食王は以前のままで黒く変色した茣蓙の上に正座して座っていた。彼は痩せ細り、干涸らびて骨皮に変わっていた。彼の周りをぶんぶん飛んでいた蠅は、飛ぶ力がなくなって、壁に真っ黒く群がり止まっていた。壁や天井の蜘蛛の巣がぶら下がり、乞食王の頭に着こうとしていた。

「誰だお前は」と、乞食王が言った。

「覚えていられるかな。わしは去年、あんたを訪ねて来た遠い国の乞食です。あんたはあの時、乞食道について凄い説教してわしに大きな影響を与えてくれた。ここで何事があったんだ。あんたの乞食達はどうした」

「お前、聞いたか。遠くに憂いなき街というある街があるらしい。その街の人達はとても豊かで何の心配もなく暮らしているらしい。王の兵士達がその街を手に入れたそうだ。街の広場には金銀などが山のように積み重なってるらしい。誰でも行って自由に懐を満たせられるらしい。この話を聞いて乞食達はあそこへ洪水のように流れて行った。わしはお前に言うが、富それ自体は人を惑わす鬼だ。ほれ、わしは生涯に二十七人妻を持った。その妻達から百人以上の子供達がいたが、みんな行ってしまった。ここでわし一人になった。王と言われる者の志はそうでなくてはならんのだ。わしはこの志の上に座り死を待っておる。よし、お前、ここに何で来たのだ」

「あんたに頼みがあってな」と、スプルガが返事した。

「神に感謝」と、乞食王が言って、

「わしはもう人達の記憶から完全に忘れ去られる必要があると思っていたが、お前のことでも頼みがあるなら、さあ、言ってみろ」

「あんた、世の全ての乞食達から尊敬されてる乞食王だ。遠くからあんたを思い出して来た、わしと同じ放浪の乞食の願いに背かないと思う。わしにあの太陽より偉大な王の王宮に自由に出入りできる銅板証を一日、いや、たった一時間だけ貸してくれないか」

「お前、それで何をするんだ。王より大きな官位を望むというのか」

「いいや」

「それとも、お前、王宮の中に入って乞食して一変に金持ちになろうって言うのか」

「いいや、わしは王に一言、言いたいことがあるんだ」

「わしは寿命の入り口へ来た。わしにはもうこの銅の入門許可証は必要ない。必要ならお前にこれを、一日、一時間じゃなく、永久にやろう。ほら、取れ」

 乞食王は銅板を首から取ってスプルガの前に投げた。スプルガはある旅籠に泊まり、充分疲れを癒すと、翌日の朝、驢馬を家畜バザールへ連れて行った。そこで、ある貧しい人を隅っこへ引っ張って行き、驢馬を安く売った。彼は驢馬をあのつぎはぎ上着の農夫にただでやろうとした。しかし、農夫が何か疑いを持たないようにと思い、少しだけお金を貰い、数えて懐に入れた。普通、スプルガは驢馬を売る時、絶対に鞍を加えては売らなかった。今日、彼は鞍を加えて遣った。

「おい、忠実な生き物よ」と、スプルガは驢馬の頭を撫ぜながら、

「これでお前、わしを探すことのないようにな。分かるか。今からわしは真っ直ぐ王に会いに行く。あの世では驢馬も鞍も要らんからな」

 スプルガは家畜バザールから後ろも振り向かないで引き返して来て、上着の埃を叩くと、真っ直ぐ王宮へ向かって進んだ。王宮へ行く広い並木道、官吏達を乗せている綺麗な幌馬車、重い武器を音立ててあちこち往来している兵士達の全ては彼の目には映らなかった。彼はまるで、空気に漂っているかのように、上の空で前進していた。スプルガの精神状態は生涯こんなに高揚したことがなかった。今、彼はまるで王と話し合うつもりで行く使者のようで、勝利の旗を届けに行く将軍のように自信に満ちて進んだ。

「創造主よ、今日、わしを助けてくれ」と囁き、

「わしは弱い者達の仇を打つため危険を冒した。あなたは弱い者達の支持者だ。あの世へ行ったら、全ての人間は、自分がしたことの善悪をあなたに報告する。悪事が限度を超えたのを、あなたはこの世でも叱ってくれる」

 王宮の豪華な大門が見えた。そこでは夜警達が木のように固くなっていた。スプルガは、まるで王宮にいつも出入りしている使用人のように歩き、第一関門、第二関門と夜警達の側を通り過ぎた。門番達は、使い走り達が憂いなき街から持って来た勝利の知らせを一人ずつに伝えるのに忙しかった。王宮内では、その関係で兵士達に二ヶ月分の小遣いを加えて遣るそうだ。官吏全員の官位を一階級昇級させるらしい、という噂が広まった。

 スプルガが第三関門の夜警達の前を通過しようとすると、兵士達が呼び止めた。

「おい、お前、誰なんだ。死にたいのか。何でぶつかったまま通り過ぎて行くんだ」

「わたしは王宮官吏と話し合いに行くんです」と、スプルガは銅の許可証を見せながら言った。

「何の用があるんだ」

「用事をあんたに言うことはできない」

 兵士達はスプルガをある官吏の所へ連れて行った。

「私は王様自身と会います」と、スプルガは官吏に言った。

 兵士達は驚いて互いに見合った。官吏は疑いの目でスプルガの頭から爪先まで見て、

「何の用があるのか」と訊ねた。

「あんたに言うことはできない。王様と会うのを遅らせれば、あんたの首が飛ぶぞ。直ぐに王様に知らせろ」と言ったスプルガは、驢馬を売った金をゆっくり官吏のポケットに滑り込ませた。

 官吏は急いでこの事を王宮内へ知らせた。そこからもう一人の官吏が飛んで出て来て、

「お前、誰だ」と、スプルガに訊ねた。

「私は諸国を行脚したスプルガです。遠い国から来ました。王様自身に納める重要なあるものがあります。お守りだと言えば偉大な王様はそのことが分かります」

  王様に知らされた。お守りという言葉を聞いた王様は考え込んだ。彼の父の太陽王が亡くなる前にお守りを一つ作り、子供達を呼び付け、

「わしが死んでから王位争いで傷つかないように、わしがこのお守りを誰かの首にかけて遣るから、わしが死ねば王座をその者が継承する」と、遺言したのだった。

 太陽より偉大な王は父親が死んでから、全ての王位継承者達を消し王位に就いたのだが、このお守りを誰の首からも見つけられなかった。王宮から逃げ出した小さい王子を探すのはそういう理由からだった。死刑手達は王子の首を持って来た。しかし、お守りはなくなっていた。

「その者を連れて来い」と、王様が命じた。

 兵士達はスプルガを王様の前に連れて行く前に、スプルガの身体を調べようとした。スプルガは許さなかった。

「わしにはただ王様だけが見られる秘密のものがある。誰もわしに近寄るのは許さん」

 王様はこの報告を聞き、その者を調べずに連れて来るよう命令した。兵士達はスプルガを噴水のある庭園内で、幾つかの東屋の側を通り過ぎ、曲がりくねった路を進んで王様がいる特別室に連れて来た。スプルガは王様を見た。目の前に、贅沢三昧、放蕩で顔に血の気のない生き物がいた。王座を飾っている金銀、輝いている高価な石、上に着ている王様用のガウンを数に入れなければ、彼はいつも街の通りで毎日出会う狡猾な占い師かぼーっとしているぐうたら学生達と同じだった。

「敬愛なる王様」と、スプルガは王様の前に跪いた。

「わたしは国も家も土地もない、街から街へ旅する流れ者です。神の路で全てを公正に仕事する者、全ての王様達を等しく敬愛する者、一人旅する者、...」

「話しを短くしろ」と、王様がスプルガの話の腰を折った。

「陛下、ご自身だけに、ただご自身だけに言えるある秘密があるんです。ほら、こんなに苦労して、あんなに遠い所からこの事のために陛下の前に来て座っております」

「言え、言わないか」

「しかし、...」と、スプルガは周りを見回した。

「お前達、出て行きなさい」と、王様は室内にいる全員を追い出してしまった。

 室内には王様とスプルガだけが残った。

「あれからどのくらい時間が経ったか分かりません」と、スプルガが話し始めた。

「ある日、知らないある田舎の近くを驢馬に乗って通り過ぎようとしてました。村の上方にある橋のたもとに一群の人達が集っているのが見えたんです。わしのように諸国を行脚する者達は何処かに人集りしていれば、そこへ行って面白いものを見るのが好きなんです。直ぐに驢馬の頭をそこへ向けました。行って見れば、一群の真ん中に幼児の死体が横たわっていたんです。死体の頭は誰かが切り取って持って行ったようでした。人達は驚き合って、この事件の訳を議論し合ってました。その時、地面に土にまみれた真っ黒いものに目が留まりました。手に取って見るとお守りでした。そのお守りを懐に入れてその場を立ち去りました。静かな所へ行き、これはどんな凄いことが書かれているお守りだろうか、と興味を持ち、開けて読んだんです。それに書かれた言葉の意味を悪い頭を精一杯使い長いこと考えました。それで、最後にこのお守りは陛下のものであるのを信じて、遠い道程を陛下の元へやって来たんです」

「お守りは何処だ」と、王様が耐えきれずに言った。

「お守りはこれです」

 スプルガは懐からお守りを取り、両手で王様に手渡そうとした。王様がお守りを取ろうとして前のめりになった瞬間、スプルガが王様を力一杯引っ張り、王座から引き落とした。短兵急に王様の喉へ短剣を突き刺した。

「ほらこれは、憂いなき街で罪なく殺された住民達の仇だ」と、スプルガが言った。

 二度目は王様の丁度、心臓に突き刺した。

「ほらこれは、男達と死別した女達の仇だ」

 三度目は王様の腹を割いた。

「ほらこれは、罪なく死んだ幼児達の仇だ」

王様の頭は一方に曲がり、目はスプルガを見据えたままだった。

《第一部了》

 

 

第二部    三兄弟

第十五章   鴉公園

 第十六章   死の知らせ

 第十七章   金貨九十九枚

 第十八章   神がくれた相棒

 第十九章   知らない街

 第二十章   腹が空いていた

 第二十一章  アイム

 第二十二章  私の愛する子羊

 第二十三章  商人の妻

 第二十四章  不思議な屋敷

 第二十五章  愛すべき賊

 

第三部    チョルオグリ

第二十六章  三本の胡楊

 第二十七章  憂いなき街についての新しい伝説

 第二十八章  化け物

 第二十九章  金貨一枚

 第三十章   幸せを探すのだ

 第三十一章  オマール旦那とバラット旦那

 第三十二章  話されなかった話

 第三十三章  不思議な木碗

第三十四章  砂に埋もれた街