63.女生徒の「文理選択」の悩みから見るフェミニズム志向

2002.11.23
 

 多くの進学校では、高校1年生で文系か理系かの選択をする。11月の今ごろは、その最終の詰めの段階である。クラスの多くの生徒との面談もしながら、文系か理系か、大学のこと、そして将来のことなどを面談していく。明確な答えを出せる者はまだ少ない。自分の将来のイメージについて明確なものを持っている生徒はまだ少ない。しかし男子の場合には、どうにか文系か理系かの選択を決定できる者が多い。それに対して暗礁に乗り上げるのは女子の方である。

 「何をしたいのか、将来をどういうふうに考えてるのか」と尋ねても、
 「分からないんです」と答える女生徒が多い。
 「分からないなりにでも良いから、何かもう少し話せないのか」と私が聞いても、
 「でもやっぱり分からないんです」と言う。

 これでは、こちらもお手上げである。しかし私は、そのような自分の将来の展望に対する意識の低さを問題にしたいわけではない。

 男子に比べて、なぜ女子が自分の将来についてのイメージを持ち得ないでいるのかということが気にかかるのだ。そういう女生徒が多いということに気づき始めたからなのだ。

昔と違って女子は文学部というわけではない。女子の理系志望者も増えている。また文系の中でも社会科学系統への進学希望者も増えている。外国語系統や国際系統は今でも人気が高い。よく言われることであるが、「教養」としての大学よりも、「実学」としての大学が求められている。そのことの是非を言いたいわけではない。女生徒たちの大学進学の志望理由がそのように変化しているということ、そしてそれによって新たな別の問題が発生しているということを言いたいのである。

 その延長線上には男性に伍して実社会の中で経済的自立を目指すという方向が示されている。「理系」「法律」「語学」というのはそのような「資格」志向の現れだと見てよい。しかしそのような「実学」志向の女子ほどその実、将来像は意外と漠然とした夢の段階にとどまっていることが多い。途中で壁にぶつかり、何もやる気がしなくなっていくことも多い。

 男子の場合には、文系か理系かの二者択一について、「どちらか一方を選択するしかない」と考えることに迷いはなさそうである。しかし女子の場合には、文系か理系かという二者択一の問題では捉えられないものを含んでいるのではなかろうか。女子にとって文系か理系かという選択肢の中には、結婚した後の自分の姿という、人生のポイントがすっぽりと抜け落ちてしまっているのである。

 しかしそのことは、現在の学校教育の中で特に、進学校の中では第三の道を選択する道はない。そのことが女生徒たちの自分の将来に対する不安を大きくさせているのではないか。文系か理系かを選択すること自体が誤っていることではないが、それだけを考えただけでは割り切れないものが、彼女たちの心のなかには溜まっているような気がする。

 多分、今でも男子に比べて女性の方が、結婚に対する興味関心は高いのだと思う。そして出産や育児に関する興味も女子のほうが高いのは当然だと思う。しかし結婚の意味について教える場は学校教育の中にはない。その家庭生活に対する興味関心度に応じて、教えるレベルを変えるということは、平成6年からの「家庭」科の男女必修以来、こと「家庭」教育については機能していないように思われる。それは確かに男子生徒の「家庭」科への興味関心や親近度をいくらか高める方向には作用しているが、そのことは逆に女生徒の「家庭」教育への興味関心を低下させる結果に終わっているように思える。

 そのような意味で、結婚し、家庭を持ち、子供を育てていくという多くの女性が持つオーソドックスな生活の形を、現在の学校教育の中で、女性が生きていく人生の価値と結び付けていく教育は行われていない。しかしそのことを抜きにして、文系か理系かの選択のみを迫るのは、女子にとって非常に破壊的なものを含んでいる。

 これまでも書いてきたように、進学校の中でも生活の乱れが著しいのは、男子よりも女子の方なのであるが、そのことと自分の将来の人生設計に対する明確なイメージの不在とは相互に関係していると思う。本当は文系にするのか理系にするのかということよりも、彼女たちの関心の中心は、結婚した後どのような生活を歩むのか、またどのような子供を育てていきたいのか、ということの方に興味があるのではなかろうか。

 その本音を言えない部分は、意識化されずに心の奥に溜まっているのである。だからそのことを教師から聞かれても、「分からないのです」と答える以外にはないのであって、口に出してそのことを言えば、逆に馬鹿にされてしまうような雰囲気があるのではなかろうか。

 私自身そのことに対してどのようなアドバイスをしたらよいのか考えあぐねている。それへの疑問がこの文章を書かせているのであるが、多くの女子がそこで大きな壁にぶちあたってしまうのである。そして高校1年段階で、文系か理系かの選択をする際に、自分が漠然と抱いていた、結婚後の家庭生活に対するイメージというものを無意識のうちに排除してしまわざるをえなくなる。

 そこに何らかの人格の変更が強制的におこなわれていく危険性があるのであって、その人格の形成に失敗した場合に、彼女たちの多くは私生活を乱していくのである。自分の人格の統合ができなくなり、将来のイメージをますます持てなくなってしまう。そして文系か理系かの選択をした後も、それを実現しようという意欲は起こらないまま、それは生活の悪循環を生み出しつつ、生活自体の乱れに通じるのである。それは先を見通す能力のある生徒ほどそうなのである。まだ高校生の段階で彼女たちはそれを明確に言語化できないでいるが、直感的にそのことを感じ取っているようである。

 このような生活のバランスを欠いた女生徒を生み出していく構造が、現在の高校の中には潜んでいるのではないか。仮に文系か理系かの選択に成功した女生徒であっても、その選択は、結婚した後の自分の家庭生活のイメージを意識的に排除していくということの上に成り立っているものであるから、そのことによって家庭生活を無意識のうちに、無意味化していく精神的な作用が発生している。

 そしてその矛盾に中で一番安直な答えとして、それは多くの女生徒の心の中で、家庭生活を否定し、家族を否定し、さらに結婚そのものを否定していくような思想と結びついていく。そのような背景下で、大量のフェミニストが発生しているのではなかろうか。つまり女子教育の不在という矛盾の中で、それに表面的な解決を与えるその一番安直な答えとしてフェミニズムの考え方がでてきている。このようにして一つの矛盾を解決する方法として、さらに絶望的な矛盾が大量生産されるのである。

 その問題に対して、現在の学校は明確な答えを持ち得ないでいる。持ちえないまま、多くの女生徒に強制的に将来の選択を迫っている。しかしそれは学校だけの問題ではとどまりきれないものを含んでいる。この国全体が女子教育の不在のなかに漂っているのである。そして行く当てもなく漂流しているのである。

 そのことは多かれ少なかれ、すべての生徒にとっても言えることなのであるが、男子に比べて女性の抱える問題は大きい。彼女たちは自分の問題を抱えきれずに自滅していくのである。そこには女性固有の関心が働いているにもかかわらず、それを意識的に排除していこうとしている。

 自分が本当にしたいことは、別にあるにもかかわらず、それを言語化できないまま、人格のバランスを崩していっているのである。



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