59.女子高生の被害者意識

2002.10.19


 女子が掃除をしなくなった。なかなか箒を持とうとしなくなった。途中でトイレによく逃げる。掃除中よくしゃべる。動きがのろい。言われたことしかしない。掃除の最後まで責任を持つのは男子である。女子はすでに雑談している。その後ろで男子たちがゴミをまとめてそれをちり取りで取ってゴミ箱に捨てている。掃除に対する責任意識がない。お客様気分である。

 女子生徒のほんの一部がこうなのではない。大半がこうなのである。
 勉学面で真面目な生徒は掃除もまじめにするというのは昔の話で、大半がこうなのである。女子にとって掃除は何か他人事のようである。
 彼女たちの様子を見ていると、掃除そのものに対する考え方が我々とは違っているような気がする。

 従来学校現場で、掃除などの身の回りのことは女子がする代わり、体育祭などの重たい用具運びは男子がする、という風に男女の役回りはだいたい決まっていた。

 今はどちらとも男子である。そして男子は概しておとなしい。以前のような反発はしない。いたとしても少数派である。
 それに対して女子は協力しない。冷ややかである。

 私は何故これほど女子が掃除に関して無関心なのかということが分からない。あえて無関心を装っているようにも見える。
 彼女たち一人一人にとっては「みんながしないから、私もしない」だけなのかも知れないが、それなら何故みんながしなくなったのかが私にはよくわからない。

 我々が高校生の時代にも、男が一生懸命掃除をすることはカッコイイことではなかった。それよりもうまい具合に「サボる」術を身につけているほうがスマートだという感覚はあった。そのことを今改めて考えてみると、「掃除は女が中心になってするものだ」という感覚はどこかにあったような気がする。そしてサボることは一種の学校への反抗として、自己主張の一種だったような気がする。

 今の女子の場合もそうなのだろうか。確かに今「女だから掃除をしなければならない」という理屈は通らない。しかしそれ以上に「男に先がけて掃除をするなんてみっともない」という意識があるのではなかろうか。

今手元にある高校家庭科の教科書を見てみると、次のような記述が盛りだくさんに並べてある。(実教出版「家庭一般」 平成11年度用より)

【1】 家族観が民主的なものへと変化するにつれて,平等な家族関係にかわってきた。しかし,日常生活の実態をみると,結婚や離婚,夫婦の家事・育児の分担や就業,子どものしつけ方や家族関係のなかに,現在でも「家」制度のなごりがみられる。

【2】 日本の社会では「夫は仕事,妻は家事・育児・介護」という性別役割分担の意識が根強くのこっている。このため,就労している妻にとっては,仕事と家庭の両方の責任が重くなって,過重な負担となりがちである。

【3】 「家庭責任は男女がともに負う」ということが世界的にいわれているが、このことは,ひろい意味では,経済責任も含め,家事・育児などの責任も,男女がともに負うということを含んでいる。

【4】 男性は家事・育児にいっそう積極的にかかわることで父性を実感し,その資質をのばしていく。

【5】 家庭では,とりわけ男性の母性に対する考え方と生活態度が重要になってくる。家事・育児責任が女性だけにあるとする旧来の考え方が現代でものこっているが,こうした考え方とそれにもとづく男性の生活態度は,職業と家庭の両立を妨げ、女性に過重負担をしいることになり,母性の健康保持に悪影響を及ぼす。


 このような記述を読んで、女子が掃除の大切さを自覚するとは思えない。まるで家事に関わることが悪いことのようである。掃除をすることが悪いことのような取り扱いである。掃除なんかをするより現代に生きる女性にはもっと大切なことがあるのだと言わんばかりの記述である。

 今の高校では、掃除は男のものである。

 そしてこの傾向は、どうも生徒の偏差値と比例関係にあるようである。偏差値の高い学校ほどこの傾向が強いように思われる。高いレベルの進学校ほど女子が掃除をしなくなっているのではなかろうか。もちろん校風によって様々なバリエーションはあるであろうが、私が見る限り、女子が高いレベルの大学を目指している学校ほど、急速にこの傾向は強まっているように思える。

 今の学校では女子に対する掃除教育ができにくい状況である。下手な指導をすると逆に言い返される。
 これだけ女子の掃除への意識を低下させる教育をしながら、その一方で教師が校内美化に努めることは至難の業である。それでも掃除を徹底しようとすれば女子に嫌われるのがオチである。勢いこちらもまだしも動きのよい男子生徒に頼ってしまうというのが実状である。

 しかしこんなことをいつまでも続けていては本当にどうしようもないことになってしまうのではなかろうか。

 確かに進学面では女子のがんばりはめざましい。一昔前のように「最後に頑張りの効くのはやはり男子だ」という言いかたは今では通用しない。女子のほうが勉強に対する努力度は上である。

 その一方で女子の掃除に対する取り組みかたは低下する一方である。男子だけが黙々と掃除をしているのを見かけても、その横でキャーキャー遊んでいる女子たちは罪悪感も感じないようである。自分もその区域の掃除担当でありながら、全く他人事のようである。
 男子もそれに対してさほど文句を言わないのは、上の家庭科教科書に書かれているような雰囲気を学校教育の至る所で感じるからではなかろうか。または社会全体から感じているからではなかろうか。

 だから男子は体育祭の重たい荷物運びもし、日常の清掃作業も黙々とやらざるを得ないと納得しているように思える。


 だとすれば女子の役割とは何なのか。学校生活のなかで女子は何に対して責任ある仕事を任せられるのであろうか。何もないか、非常に少なくなっているのである。その結果女子はますますお客さん的に学校生活を過ごすようになっている。

 私は時々自分の教室に花を持っていくが(それは以前のように女生徒が自ら進んで教室に花を飾るということをしなくなったからなのだが)、それまではずっと私が持っていった花はその日の気分で目について女子に渡していた。「花瓶にさしておいてね」。これで問題はなかったのである。

 しかし数年前からこういう女生徒が現れた。「先生、男子にもさせてください」。

 仕方なく私はある男子にその花を渡したが、「私がしてやるよ」という女生徒も現れないまま、恥ずかしそうにその男子生徒は花瓶と花を持って洗面所まで花をさしに行ったのである。

 私はその光景が好きではなかった。女子がいないクラスならまだしも、男子と女子が混じり合ったクラスで教室に花をさすのが男子であるという光景は、私には初めて見る光景であったのだ。他の男子からも笑われていた。

 今の教室に「花」はない。
 以前は生徒自ら持ってきていた。
 それが教師が持っていくようになった。
 持っていけば女生徒は快く花瓶に挿してくれた。
 そのうちにそれを嫌がる女生徒がでてきた。
 今ではそんなことは男子がすればいいではないかという雰囲気である。

 その結果今の教室では男子と女子が妙な壁を作るようになった。
 文化祭などで何か企画をやらせてもするにはするが、男子と女子で別々のことをするようになったのである。男子と女子がいい意味で混じり合わないのである。たぶんこれは男子と女子が混じり合っても、妙な我が衝突するだけで、いい意味での補完関係にならないことを男子も女子も知っているからだろう。

 クラスの席替えをしても男子同士、女子同士でかたまりたがる傾向がある。

 その一方で体育時の更衣などは、男子のいる目の前で、女子が堂々と着替えたりする。もちろん肌を見せないように巧妙にではあるが。それにしても羞恥心の欠如はおおうべくもない。

 男子の更衣中に女子が堂々と入っていくことなどは日常茶飯事である。それでも偏差値だけは高いのである。 



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