51.「ジェンダーフリー」は、「グローバリズム」による文化破壊

2002.11.2 加筆

 

 国によって男らしさ、女らしさというものには違いがある。男の役割や女の役割というものにも違いがある。そのような違いは、国ごとのあるいは地域ごとの長年の生活様式の結果として生じてきたものである。そのように男らしさや女らしさというものは、長年の文化の蓄積に裏打ちされたものである。

 しかし、今叫ばれている「グローバリズム」にとっては、このように地域や国によって男らしさや女らしさに違いがあることは不都合なことである。どうにかしてそれを統一する必要が出てくる。その最も有効な手段として猛威を振るいつつあるものが、ジェンダーフリー思想である。

 それは、世界に標準化された男らしさや女らしさというものを確立しようというような生やさしい代物ではなく、男らしさや女らしさというものを根底から崩していって消滅させ、男も女も同じような役割を持った平坦な一個人としての人間を作り出すことにある。

 どうしても越えられないものとして性差があるが、その性差の結果として文化の中で培われてきた男性の役割や女性の役割というものまで消滅させてしまおうというのがジェンダーフリー思想である。

 本来、男らしさや女らしさというものは、男と女の関係性の中でのみ生じるものであった。男らしさというものは女が存在してのみ成立するものであり、女らしさというものも男がいてこそ存在するものであった。女のいない中で男らしさをいくら主張したところで、それに一体どういう意味があるであろうか。

 男らしさというものは、本来、女が男らしさを必要とすることによって生まれたものであり、逆に女らしさというものは男が女らしさを必要とすることによって生まれてきたものである。そこにあるのは、「個人の自由」ではなく、個人相互の「期待の原則」であったと思う。

 一個人の自由を性差を含めて主張するジェンダーフリー思想は、ニヒリズムの坂道を必然的に転がり落ちていく。

 神の前の平等という思想は、キリスト教世界において神の前の「男女平等」という思想になった。しかし、神が消滅した現代社会において、男女の平等は際限のない、個人個人の自由追及の欲求を生んでいく。

 しかしすべての世の中のルールは、人間相互の関係性においてのみ成立するものである。男らしさや女らしさは、父親らしさや母親らしさに通じ、それは長年の経験によって培われた子供を養育する時に、最も適した男女の役割分担の要請でもあった。

 昔は生まない自由というものはなかった。子供を宿せば必ず産むものと決まっていた。その半面、性交の自由はかなり厳しく制限されていた。これが現代では逆転して、「性の自己決定」が主張され、さらには「生まない権利」も主張されるようになっている。私は堕胎が絶対に悪いとは言わない。しかし「堕胎」を仕方がないこととすることと、正当なことだとする思想の間には、決定的に大きな隔たりがある。

 「子供を産むも産まないも本人の自由、そういう考えが正当性を獲得したら、子供を産んだ責任はすべて親がかぶらなければならなくなる。また自分が産んだ子供だから子供を殺すもの親の自由になるし、子供を産むことがすべて親の責任だとしたら産まれた子供は自分で自分の人生に責任が持てなくなる。これでは子供の人生が成立しない。」6.「武士道」

 一つの権利が発生すれば、それに付随する責任が必ずどこかに発生する。子供を産まない権利が親に発生すれば、子供を産むという自己決定権には今以上の責任がかかることになる。そしてその責任が過重に親にかかった分は、子供の自分の人生に対する自己責任の消滅という形を取って現れてくるようになる。そうすれば世の中は無責任な子供だらけになってしまう。そして子供は親の責任を追及するようになる。

 その一方で親はどう考えるかというと、今度は「個人の自由」という同じ思想によって、子供を産んでも母親という役割よりも、個人の自由を尊重することがより重要な価値なのだと考えるようになる。つまり結婚し家庭を築いても、家庭を守ることよりも、個人の自己実現のために外で働くことを優先しようという思想が出てくる。

 ここに大きな矛盾が生じる。

 「産まない権利」を主張するフェミニズム運動は、「権利と責任は比例する」という社会の一般原則から言っても大きな矛盾を抱えていることになる。
 子供を産むも産まないも本人の自由という考えが正当性を獲得すれば、子供を産むことには今以上の「自己責任」がかかってくるはずであるが、そのような考えを持った人々が子供を産んだ後に主張することは、今度は「個人の自由」ということであって、自分の「自己決定」の結果として産んだ子供を責任を持って育てることより、つまり育児よりも、個人の自己実現のために家の外で働くことを優先するのである。
 「個人の自由」という思想は徹底的に「自己責任論」を追求した思想だと思うのであるが、このようなフェミニズム運動は果てしない親と子の「自己無責任論」に転落していくだけである。

 そのような思想を持つ多くの女性は、高学歴者が多いのであるが、個人個人の自由による幸福追求権は、果てしなく自分勝手な個人の細分化を生み出し、その結果バラバラに切り離されアトム化された孤独な個人を生み出していくだけである。

 そこには、従来の文化や伝統といったものに支えられた男らしさや女らしさというものを、なし崩しに崩していく思想が含まれている。伝統や文化というものが、地域や国によって様々に異なるものであってみれば、グローバリズムにとって、そのような個々の地域の違いを一切取り払って、全世界に共通する意味で、すべての人間に全く個人差のない(男女差もない)「個人の自由」を認めることが1番の近道になる。

 その結果として要請されたものが、社会的なあらゆる制度を切り崩して、社会の構成単位としてこれ以上細分化することのできない、アトム化された個人の誕生である。しかしその個人という概念には、すでに社会を成り立たせている関係性の視点が消え失せており、そのことは人生が死で消滅し、そのあとには何も残らないという虚無的人生観を生み出していくことになる。

 神の前の平等という考え方は、キリスト教の中から生まれた発想だが、その神自体が消失した今となっては、この平等性の中に、社会を維持させまた存続させていく視点までもが消え去ってしまっている。男らしさをなくし、女らしさをなくし、父親らしさをなくし、母親らしさをなくし、家族を解体させ、文化や伝統をも消滅させていくものが、現代のジェンダーフリー思想である。

 それはさらに、男に生まれて男と性交することや、女に生まれて女と性交するという同性愛の『正当性』を主張する人々を発生させている。(『正当』であるとするか、『障害』であるとするかは、決定的な違いである。これは人格上の是非ではなく、差別うんぬんという話とも全く違う話である。純粋に思想上の問題である。)これもまた死と切り離され、社会の永続性と切り離された「個人の自由」という思想によって論理的に導かれる『正当性』である。

 そのような「個人の自由」という思想の延長線上にあるものは社会の解体であるばかりか、人間を人工的にどこまでも作りかえていこうとする生命科学や遺伝子組み替え、さらにはクローン技術までをも人間に適用することを、正当化する思想に結びつく危険性をも帯びている。



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