49.「グローバリズム」は文化破壊、
   「インターナショナリズム」は文化尊重

2002.9.15

  世界が拡大していくことによって、異なった価値観を持つ国々との接触が多くなり、そのような異なった価値観を持つ国々の文化を尊重していく必要が生まれてきた。自分の持つ文化や習慣とは違った行動様式をとる人々がいる。それを理解するためには、その違った国々の文化や習慣を理解する必要がある。

 この考えは、人々の行動の前提になっているのは、その人が生まれ育った国々や地域での文化や習慣であるという考えの上に立脚している。つまり一個人を理解するためには、その人が生まれ育った国や地域での文化や習慣を理解しなければならない。そのような考え方が、異文化理解の基本であった。そういう国々や地域の持つ文化を理解したうえで、初めて国の違うもの同士の相互理解が生まれてくるという発想があった。

 そのような相互理解のもとに国際秩序が維持されていくという考え方が、国際化が叫ばれる理由であった。「国際化」とは、「インターナショナリズム」の訳である。インターナショナリズムとは、あくまでも個人ではなく、その個人を包むものとしての国があり、その国同士の間に橋渡しをすることにより、人々の相互理解を深めるという立場であった。あくまでも国の持つ文化や地域の持つ文化というものが前提になっている。そこにはまだ国とか地域とかという、個人を越えるものが残っていた。

 確かにそれは多くの困難を伴うものであり、国家同士の文化の違いというものは、絶えず国際関係の緊張をはらんできた。しかしそれを乗り越えて、国際理解を深めていこうという努力の姿勢が「インターナショナリズム」の精神であったのである。

 しかしその「インターナショナリズム」がいつの間にか、「グローバリズム」という言葉で置き換わるようになった。「グローブ」というのは地球のことである。「グローバリズム」をあえて日本語に訳すとすれば、それは「地球(一体)化」ということになってしまう。

 この「地球化」ということの前提になっているものは、もはや国ではない。地球の中には21世紀の現在において、様々な文化や風習の違いを持つ多くの国々があるのだが、そのことはこの「地球化」という言葉の中には含まれていない。

 均一化された世界の中で、人々は均一な均一な生活様式を営むべきだということが、前提になっているだけである。そこにあるのは、国民性ある地域性といったものではなく、あくまでも地球に生きるバラバラにアトム化された「一個人」が基礎になっている。そこには男も女もなく、大人も子供もない、すべて均等な「一個人」という思想が胚胎している。それが、異なった生活習慣のなかで、異なった文化や宗教や言語を持つ人々が、国の垣根を越えて、世界中どこに行っても均等な人間になる一番の近道だからである。

 生まれ育った文化や習俗を全く捨象することによって、つまり抽象的な一個人というものによって、全世界が成り立っているという発想がグローバリズムの中には含まれている。それは観念的には考えることができても、現実の世界はそのような均一な個人によって成り立っているのではない。

 仮にグローバリズムが可能だとしても、その「グローバリズム」とは何を基本にするかという時点で、どこの国の文化を基準にするのかということが問題になってくる。どの国も自分の持つ国の文化には誇りを持っている。その中でただ1つのものを選ぼうとすると、それは当然「力」の論理によって選ばれてくるはずである。そうなると21世紀の現在において最も政治的、経済的、軍事的に力を持つ国が選ばれてくるはずである。その国とは一体どこなのか。

 すでにご承知のことだと思う。ソビエト連邦が崩壊し、世界の覇権国家として他の追随を許さない国が存在する。アメリカである。

 このように考えてくると、「グローバリズム」というものは、実は「アメリカニズム」とほとんど変わらない性質のものになってくる。



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